toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

カルト教団『摂理』に通底する『小泉&安倍劇場』の妖しく、胡散臭く、いかがわしい雰囲気


●この記事は、下記二つの記事(→)とTB(http://tomkari.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_20f2.html)へのコメント&レスを「妖しさ、いかがわしさ」のキーワードで纏めなおし再掲したものです。


→ 2006-07-20付toxandoriaの日記、「トリウム熔融塩核エネルギー協働システム」に関する発展的なコレポン
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060720


→ 2006-07-29付toxandoriaの日記、 貧困を煽り、人命を軽視する米国型「市場原理主義」の傲慢(副題:「WTO・ド−ハラウンド挫折」の根本はアメリカ富裕・支配層のエゴにある)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060729


●表記記事[「WTO・ド−ハラウンド挫折」の根本はアメリカ富裕・支配層のエゴにある]では、<アメリカ富裕・支配層のエゴの問題>をクローズアップするため、WTO推進の前提となる「マネタリズム」(monetarism)、「潜在成長率」などを想定することの是非の問題(=ワシントンコンセンサスの問題/参照、toxandoriaの日記『シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(1/4)』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060307)は、一応棚上げして論じましたが、やはり、これらワシントンコンセンサス(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060307)の柱となっている「マネタリズム」(monetarism)と「潜在成長率」(参照、http://allabout.co.jp/glossary/g_politics/w007661.htm)及びグローバル市場原理主義を前提として世界経済を発展させるという考え方には、十分に妖しさがつきまとっています。


●見方を変えれば、「有限な自然と有限な資源」という地球上の環境条件を度外視したまま、「潜在成長率」なる妖しげな経済仮説を前提としつつ、結果的に各国中央銀行の紙幣印刷能力を煽り立てるだけという罠に嵌る「マネタリズム」(参照、http://www.1gaitame.com/archives/2005/09/post_813.html)のイデオロギーは、どう考えてもカルト的で“胡散臭い”発想です。本来であれば、センシティブ農産物と自国民の健康維持の関連性、人間社会で必ず発生する病人・身体障害者・高齢者などの存在を確実に視野に入れた弱者保護と資源配分の問題、あるいは労働条件にかかわる中庸な条件整備の問題などに十分目配りをしながら国家としての経済競争力も強化するという「人間性への洞察に満ちた“したたかなバランス”力」をこそ充実させるべきです。


●然るに、『小泉劇場』→『安倍劇場』への“禅譲電気紙芝居”(テレビをフルに活用した禅譲劇仕立ての政治ショー)では、相変わらず政治ショーの主人公たちが、非情な小泉改革による「福祉・医療の理念なき一律カットの問題」の放置(20006.7.28、朝日新聞)など、肝心・肝要なことはオトボケで誤魔化し“外見上の見栄えとパフォーマンスだけ”で視聴者(多くの善男善女)を誑かすという低劣なマインドコントロールの仕事だけに相も変わらず没頭しており、嘆かわしいかぎりです。一方では、農水省が「農業の経営規模拡大策の本格検討」(及び弱小農家の切り捨て策の検討)に入り(2006.731、日本経済新聞)、労働政策審議会は「ホワイトカラー・エグゼンプション制度(ホワイトカラーの残業カットの合法化)導入の本格検討」(同、日本経済新聞)に入るという具合で、非情で冷酷な政策へ傾斜したままの政治状況が継続されようとしています。


(参照、関連記事) 


→ 2006-06-15付toxandoriaの日記、「総括・小泉改革」、それは冷酷な「日本のハイリスク・ハイリターン社会化」
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060615


・・・以下は、冒頭で示した「妖しさ、いかがわしさ」のキーワードで纏めた「コメント&レス」の再掲です・・・


[コメントを書く]


イオン 『Toxandoria様、その他の常連の皆様、御無沙汰しております。イオンです。


さて現在の日本の惨状を見て「こちらこそ沈み行く日本と発狂したような小泉首相を目撃しながら、マーラーの「第五番・アダージェット」を聴くような想いです。」とのお言葉ですが、小生は小泉氏のお好きなヴァーグナーの「神々の黄昏」から冒頭の運命の三人の女神(ノルン)の重唱を聴く思いです。「神々の黄昏」がその最終夜となる「ニーベルングの指輪」では小人族のアルベリヒがラインの黄金を掠めとり世界支配への鍵を秘めた指輪へと作り替えますが(=自然のレイプと権力への利用)、それをめぐり神々、人間、小人族、巨人族(全ての知的生物?)が血みどろの争いを繰り広げます。


この「神々の黄昏」序幕では、運命の糸を紡ぎ、女神たちがそれを読もうとしますが、努力虚しく、人間や神々の欲望があまりにも複雑に絡んだためか運命の糸が切れてしまいます。今二世、三世議員たちの失政や首相御自身の馬鹿な振る舞い、しかししっかり権力闘争のみには滅法強いという有様で全く先が見えない様子は、運命の女神たちが「女神の永遠の知恵のおわり」と言って、もはや運命は制御不可能と宣言した状態を思わせます。まさに(首相も含めて)二世、三世議員たちが演ずる(北朝鮮のミサイル発射という効果音、照明付きの)「神々の黄昏」に日本全体が巻き込まれているようです。かつて効いた政治勢力、政治家間のバランス感覚も福田康夫氏の総裁選立候補辞退を見てもわかるように、全く機能せず、多くの事が制御不可能、予測不可能になりつつあるようです。


また昨今のレバノンなど中東情勢を見ると、世界中が新自由主義者シオニスト・諸宗教の過激主義者たち、これらの背後にいるアメリカその他のエリートたちが演ずる「神々の黄昏」に引きづり込まれかねないようにと願わすにはおられません。


さて「神々の黄昏」終幕では最後に地上では大洪水、天上では大火が起こり、神々と人間たちの世界を滅ぼします。まさにレイプされた自然の復讐、または傲慢な神々と人間たちへの罰とも解釈出来ます。ヴァーグナー自身は効果のみを狙う大興行業者の側面を持ち、反ユダヤ主義者でもあり、パーソナリティはあまり感心出来ませんが、彼が楽劇に込めたメッセージは現在でも古びておらず、再解釈に耐えるものと言えます。小泉氏もしっかりメッセージを読み取るが宜しいのですが、無理でしょう。ヴァーグナー好きの権力者には「ヴァーグナーファンのヴァーグナー知らず」が多いようです。


さて現在、アメリカのエリート層の我が儘など人間の勝手な行為による自然破壊(=自然のレイプ)が進んでいますが、「神々の黄昏」にもある自然の復讐がいつ始まるか不安です。(この日本の長雨やヨーロッパの猛暑を見ると既に始まっている?)トリウムが救済のモティーフを奏でるとは言わずとも、我々の置かれたスパイラルからの脱出の手口となるよう祈らずにはおられません。長文で失礼しました。草々』


# toxandoria 『イオンさま、コメントありがとうございます。そうですね、「ヴァーグナーファンのヴァーグナー知らず」は稀代のトリックスターである小泉純一郎氏にこそピッタシの言葉です。


そもそも、世界の様々な神話には共通した複数のアーキタイプarchetype/原型)があり、それは人間が永遠に忘れるべきでない大切な知恵を未来の人々へ伝える役目を果たしてきたのだ、というよう話をどこかで読んだことがあります(松岡正剛氏だったと思います・・・)。


おそらく、小泉純一郎氏のようなタイプの人物は、このようなことには全く気がづかず、ひたすら表層的なドラマツルギーに“感動して見せている”だけなのでしょう。


今、再び“<小泉劇場>の二番煎じ”である「安倍劇場」の開演を告げる“グロテスクなプロローグの音と映像”が放送メディアを通して連日のように日本中で流れ始めています。そして、最近たまたま見た民放のテレビ番組で、あの竹村健一氏が“数日前に安倍晋三氏と一緒にメシを食って色々な話をしたが、彼ほど立派な哲学と立派な考えを持つ政治家には出会ったことがない、彼が国民的人気を集めるのは当然だよ”と話していたので仰天しました。


かの田原総一郎氏には「テレビ芸者」という立派な称号が付いているそうですが、これでは竹村健一氏も立派な「テレビ芸者」です。マア、思い返せば、彼にも昔からそのような雰囲気はあったようです。しかし、バロックバロックした風貌の竹村氏の場合は「テレビ芸者」よりも「テレビ花魁(おいらん)」か「テレビ太夫(たゆう)」の方が似つかわしいかも知れません。


<注>花魁は高級売春婦、太夫は芸妓という違いがあるそうです。
→参照、『京の太夫さん』、
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/story/story_9_2_1


ともかくも、テレビの視聴者のすべてが冷静な観客ばかりではないことを考えると、「安倍劇場」の開演とともにこれら「テレビ芸者」「テレビ花魁」「テレビ太夫」及び常連の「太鼓もち」(コメンテータ)たちが喧しくなるのは困ったことだと思います。理解に苦しむような陰惨な事件が日本中で多発することには、日本のワーキング・プア社会化のような問題だけでなく、特に、民放テレビが「これらの腹黒くグロテスクな人々が登場する番組」を、まるで人間社会の不条理を面白可笑しく囃したてるかのような不用意な態度で垂れ流すことの責任が関係あるかも知れません。


そして「小泉劇場→安倍劇場」のバトンタッチの姿は、ここ数日で急にメディアでクローズアップされ始めた「カルト宗教・摂理」の問題を連想させます。各種の報道によると「カルト宗教・摂理」(レイプ教団?)は「統一教会のコピー」(教祖は統一教会から脱会した人物)らしいですが、日本社会がここ5年間の「小泉劇場」で一種のカルト化へ向かい洗脳されてきたのだと仮説すれば、本命としてそれを引き継ぐ「安倍劇場」は、まさに「カルト宗教・摂理」の立場にピタリと収まると言う訳です。


いやな連想ですが、「アメリカ富裕・支配層のエゴ」(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060729)→「小泉劇場」→「安倍劇場」という流れで、イオンさまがおっしゃる『自然と人間に対する理不尽なレイプの暴力』がコピー・拡大され続けて行くような気がします。』


(“とむ丸”さまの記事(http://tomkari.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_20f2.html#comments)でのレス to toxandoria)


toxandoriaさん、ありがとうございました。


>世界の様々な神話には共通した複数のアーキタイプarchetype/原型)があり、それは人間が永遠に忘れるべきでない大切な知恵を未来の人々へ伝える役目を果たしてきた、と同じようなことですが、私は、哲学の存在しない時代には、神話が哲学の代わりをした、というようなことをどこかで読んだ記憶があります(エリアーデあたりだと思いますが――いまエリアーデで検索すると、松岡正剛氏のものが1番にヒットしますから、松岡氏の念頭にエリアーデのあった可能性があります)。


おっしゃるとおり、小泉氏にも、アベ氏にも、その哲学が感じられません。あるとすれば、人間存在に対する深い洞察などとは何の関係もない、ただただ、権力・金銭哲学と自己陶酔だけですよね。


竹村氏の通俗性・低俗性がもしかしたら「分かりやすい」ということになるのでしょうか。


なんだか、この「分かりやすさ」というものが1番の判断基準になってしまいました。分かりやすさはもちろん大切ですが、それだけでは片手落ちのような気がします。「いかがわしさ」や「やましさ」を感じる感受性はどこに行ってしまったのでしょうか。