toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/ゲント編


【画像の解説】


一枚目は、ファン・アイク兄弟(兄Hubert van Eyck(ca1370-1426)、弟Jan van Eyck(ca1390-1441)/油彩画技法と近世ネーデルラント絵画の完成者とされる)の大作、ヘントの『聖バーフ大聖堂の大祭壇画、神秘の子羊』(門外不出扱いとされている)です。二枚目は、その祭壇画・下段中央の「神秘の子羊」をクローズアップしたものであり、三枚目は、この祭壇画の展示風景です。この絵の写実的で驚くほど繊細な描写力には目を見張らせるものがあります(なお、一枚目の画像はブログ用に縮小したため解像度が落ちていますので、下記URLでこの絵の全体像をご覧ください)。
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/e/eyck_van/jan/09ghent/index.html


潅木、針葉樹などが生い茂り、“あらゆる季節の花”が美しく咲き乱れる緑の絨毯の上で、厳粛な神秘の子羊への礼拝が今まさに行われているところを天上の神(上部中央/キリストとの説もある)とマリア(左上部)、そして洗礼者ヨハネ(右上部)が見守っています。神の子羊の頭上には精霊の鳩が出現し、そこから幾筋もの金色の光が四方に放射して、輝かしい世界(天のエルサレム)を照らしています。


四枚目は『聖バーフ大聖堂』の修復中の周廊部分の景観で、五枚目はその前にあるファン・アイク兄弟の銅像です。六〜九枚目は、ゲント市内で撮った街角の風景・・・観光馬車、通りの美しい景観、そしてゲントの花嫁(左)です。十枚目は、ゲントに張りめぐらされた運河沿いの船着場の景観です。この運河沿いには凡そ12世紀から17世紀に建てられた美しいギルド・ハウスが建ち並んでいます。


十一枚目は、12世紀末頃にフランデレン伯フィリップ・ダルザスが建てたグラーフェンステイン城です。この城の建築様式は十字軍がシリアで建造した城塞プランに発想の源があるとされています。十二枚目は、13〜18世紀の長い時間をかけて建てられた、ゴシック建築の傑作とされる『聖ニコラス教会』です。聖ニコラスは漁師と船乗りの守護神であり、海に近いゲントの市民たちは航海の安全を祈願するために、この寺院を建てたとされています。


・・・ここから記事の開始・・・


人口約25万人のゲント(参照/ゲントの地図、http://www.trabel.com/gent-plan.htm)はスヘルデとレイエの二つの川が合流する場所に位置します。このような地の利に恵まれた中世のゲントは、ブリュージュ及びイーペルと並ぶ毛織物の生産地として栄えました。また、その時代はフランドル伯領の首都としても大いに繁栄しました。その後、ブルゴーニュ公国の時代を経て、1500年にはハプスブルグ家のカール5世がこの地で誕生しており、彼の庇護の下に黄金時代を迎えたゲントは、ブルージュと並ぶ北方ルネサンス発祥の地でもあります。また、オランダ独立戦争(1569-1609)中には、スペインとの間で一時的な休戦条約「ヘントの和約(1576)」がこの地で結ばれています。


第二次世界大戦後は、北部郊外のゲント・テルネーゼン運河に沿って大臨海工業地帯が造成されて製鉄・石油化学・自動車などの外国系企業が進出しています。現在のゲントは、このテルネーゼン運河によって約7万トン級の船が入港できるため、アントワープに次ぐベルギー第二の港湾都市となっています。


ゲントはフラマン語圏の学術・文化的な中心都市であり、国立ゲント大学(オランダ国王ウイレム1世が1817年に創立)、ゲント美術館(Museum voor Schone Kunsten Gent/14世紀から20世紀前半のヨーロッパの巨匠たちの作品(ヒエロニムス・ボスからマグリットまで)、ゲント市立現代美術館 (S.M.A.K. Stedelijk Museum voor Actuele Kunst )、考古学博物館 (Oudheidkundig Museum van de Bijloke /14世紀に建てられたベイローク修道院内にあり、さまざまな時代のガラス、陶器、装飾品、武器、衣装などを収蔵)、フランドル文芸アカデミーなどがあります。


ゲントの黄金時代(中世)の生き証人とも言える遺構が『聖バーフ大聖堂』と、そこに収蔵される大祭壇画、ファン・アイク兄弟作の『神秘の子羊』(一枚目の画像)です。この時代のゲントは商業・貿易と毛織物工業の中心地であり、ファン・アイク兄弟が活躍した時(北方ルネサンス発祥の頃)は、善良公(ル・ボン/Le Bon)と呼ばれたブルゴーニュ公フィリップ3世の治世の時代でした。当時の繁栄の雰囲気をつかむため、ピーター・シュミット著『神秘の子羊ゲント』(ゲントの出版社、Ludion版)の中(p6〜7)から、「ファン・アイクの時代のフランドル地方」の個所を以下に転載(『・・・・・〜 〜 〜 ・・・・・』の部分)します。


『・・・・・ブルゴーニュ公国のフィリップ3世が1419年に即位した時は、領地は経済的にも文化的にも繁栄の絶頂期にあり、フランシェ=コンテからフリースランドまでを占めていた。フィリップ公がル・ボン(善良公)というあだ名を頂戴しても驚くにはあたらない。1419年から1467年までの長期にわたる統治期間に、彼はイギリスとフランスの間に起こった百年戦争に関与した。この戦争は1453年まで続いたが、オスマントルコに対して艦隊を配備し続け、心底から十字軍戦士然としていた。


 一方、国内では久しく平和を維持したが、明らかにこのことは領地の経済発展に拍車をかけた。最も裕福な地域は世襲の領地であるブルゴーニュ及びフランドル地方であった。ブルージュ、ゲント、イープルなど輝かしい貿易都市を抱えたフランドル地方は、ヨーロッパ経済の中心として主要な役割を果たした。即位から6年後の1425年にフィリップ公は、領地における未来の学問のメッカとなるべきルーヴェン大学(ベルギー最古の総合大学/参照、http://homepage2.nifty.com/norigen/belg/lv.html)の設立(1425)に関わった。


 敏腕の政治家・外交家であることはさておき、フィリップ公は文学・芸術の寛容な後援者でもあった。1431年に金羊毛騎士団を創設し、首都ディジョンやその他多くの地域を美しく装飾するなどして、国中の無数の職人・芸術家・音楽家に仕事をもたらした。中にはフィリップ公あるいは彼の宮廷のために仕事をした巨匠たちもいる。ヤン・ファン・アイクが1385年頃から1441年まで生きていたこと、ロヒール・ファン・デル・ウエイデンやディルク・バウツのそれぞれが1464年と1475年に没していることを鑑みると、「初期フランドル派」の芸術が最初の最盛期を迎えた時期はフィリップ公の統治時代と一致することが明らかである。


 大都市の中産階級層はフィリップ善良公の黄金期の恩恵を十二分に受けた。貧困が蔓延して(ヨーロッパ中で)いたにも関わらず、ブルゴーニュ公国の大都市における生活水準が相対的に高かったことは驚嘆に値する。ブルージュやゲントの中産階級者たちは、貿易で富を築き優雅な生活を送った。ゲントでは織物貿易が栄え、中世からフランドルの首都の主要な収入源となった。市民の地位の高さや裕福さは、世俗や教会の統治者に加えて、市民が重要な芸術作品を委託するようになったという事実に現れている。『神秘の子羊』の起源を見ると、まさにこのような事情を背景としている。本祭壇画は王家からの寄贈でも委託でもなく、有力な市民(寄進者は裕福な市民夫婦、ユドースク・フェイトと、その妻リスベット・ボルルートであり、彼らの肖像は、この祭壇画の両翼を閉じた時に現れる表面画・下段の左右に描かれている/参照、http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/e/eyck_van/jan/09ghent/index.html)の後援のおかげで制作されたのである。・・・・』


『聖バーフ大聖堂』の中に入り、ファン・アイク兄弟の作品とされる『神秘の子羊』を初めて自分の眼でみた瞬間の感動を書き記す能力がtoxandoriaにはありません。ただ、たまたま今回のフランドル旅行に携帯した中野孝次著『人生の実りの言葉』(文春文庫)の中(p36〜40)で紹介されていた、13世紀ドイツの哲学者アンゲルス・シレジウス(Angelus Silegius/1624-1677)の言葉(下記◆)が脳裏に浮かびました。相も変わらず、連日のように陰惨な事件が起こり続け、肝心の政治権力者たちはといえば、そのように社会が劣化しつつある空気には無関心で、その場かぎりの自己本位で無責任な言葉遊びと無意味なパフォーマンスに明け暮れるばかりです。このように殺伐として爛れきった日本の社会から最も縁遠いヒューマニズムの光と色彩が、紛れもなく現代のフランドルには存在していました。


◆アンゲルス・シレジウス『薔薇は理由なく咲く』


薔薇はなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも問題にしない(ドイツ語からの直訳文=薔薇は何故(なぜ)なしに有る。それは咲くが故に咲いている)。


また、中野氏は、アンゲルス・シレジウスのこの言葉について、宗教哲学者の上田閑照氏(京都大学名誉教授)が解説している次のような文章(●)を紹介しています(上田閑照著『禅仏教』より)。


●「薔薇」は通常の意識にとっては一つの自然物であり、キリスト教的にいえば被造界に属し、近代的にいえば対照的自然界に属している。しかし「薔薇は何故なしに有る」と歌われているこの薔薇は、いわゆる自然物ではない。アンゲルス・シレジウスはまた「ここに汝の肉眼が見る薔薇、それは永遠に神の内でこのように咲いていたのだ」歌っている。ここでは、薔薇が咲くという事が、神の内の出来事、従って神の出来事として見られているわけである。この時、「薔薇は何故なしに有る」。すなわち、薔薇の何故なき有」は比喩的ないし類比的にいわれたことではなく、神の有(存在)そのもであり、神の有として「何故なしに有る」。この時、薔薇は被造物的自然界をつき抜けて、神の内で咲いていることになる。