toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/アントワープ編

【画像の解説】

一枚目は、フランドル(フランデレン)・バロック様式の代表的な天才画家であるルーべンス(Peter Paul Rubens(1577-1640))がイタリアから帰国して最初に制作した『キリスト上架』(The Raising of the Cross、1610/ノートルダム大聖堂、Onze Lieve Vroux Kathedraal/より大きい画像はこちらへ→http://www.wga.hu/index1.html)です。イタリア留学中のルーベンスは主にマントヴァのゴンツァーガ公の宮廷に使え、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロらイタリア・ルネサンスの大家たちの作品を模写するとともにティツイアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼらヴェネツィア派の画家たち、及びイタリア・バロック絵画の創始者たるカラヴァッジオなどから大きな影響を受けました。母親の訃報で急遽イタリアから帰国したばかりの頃に制作されたこの絵の主題は、十字架に架けられたキリストが無理やり引きずり上げられる痛々しいシーンです。しかし、このため、この絵のキリストはイタリアのミケランジェロ風に筋骨たくましい躍動的な姿で力強く描かれています。

二枚目もルーベンスの作品『聖母被昇天(Assumption of the Virgin 1626/同寺院所有/より大きい画像はこちらへ→http://www.abcgallery.com/R/rubens/rubens2.html)です。こちらはルーベンスの円熟期(40台半ば〜50代前半/前妻イザベラ・ブラントが1626年に病死したため、54歳のルーベンスは16歳のエレーヌ・フルーマンと二度目の結婚をした)に描かれたものです。頭脳明晰・容姿端麗で健康・円満な性格でもあったため、1620年代のルーベンスはスペイン総督(この頃、フェリペ2世の娘イザベラが南ネーデルラント(ベルギー・フランデレン地方=南フランドル)総督を務めていた)・宮廷の宮廷画家及び優秀な外交官として活躍しました。しかも、この頃の南ネーデルラントは、ローマ・カトリック教会が主に北ネーデルラント(オランダ)からのプロテスタント勢力の侵入を防ぐため芸術を通した民衆の教化に力を注いでいたこともあり、天才画家ルーベンスの仕事はいくらでもある状態でした。このため、この作品には1622〜1625年頃にフランスのアンリ4世の依頼でパリのリュクサンブール宮を飾るために制作された『ルーベンスのマリー・ド・メディシスの生涯シリーズ、24枚の連作大画』(http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Peter_Paul_Rubens_035.jpgルーブル美術館)に似た、一種の覇気に満ちたような雰囲気があります。因みに、この頃のルーベンスはイギリス王チャールズ1世とスペイン王フェリペ4世から騎士に叙せられるという栄誉も受けていたのです。

三枚目は、この円熟期にあたる1630年頃のルーベンスの『自画像』(所蔵、ルーベンスの家)です。この自画像には、宗教的な至高の高揚感と権力者の栄光のクライマックスを最高の芸術家の能力で支えてきた偉大な画家という自負心が感じられます。なお、英国の作家ウイーダ(Ouida/Marie Louise de la Ramee/1839‐1908)原作のテレビ・アニメで有名になった『フランダースの犬』(A Dog of Flanders)のラストは、愛犬パトラッシュに語りかける主人公ネロ少年が“ねえパトラッシュ、見てごらん、あれがあんなに見たかったルーベンスの絵だよ・・・そうだね、僕らはずーっと一緒だよね・・・パトラッシュ、疲れたろう、もう僕も疲れた・・・なんだかとても眠いんだ・・・”という言葉を残すなか、薄倖の二人(一人と一匹の犬?)が一緒に天に召されるという涙抜きには語れぬ感動のシーンで終わりますが、・・・あのあまりにも有名な場面は、このアントワープノートルダム大聖堂の二つのルーベンスの絵の前を想定したとされています。しかし、このお話は、肝心の地元では日本ほど知られていないそうです。

四枚目はピーテル・ブリューゲル(Pieter d. A. Brueghel/ca1528-1569)の『狂女フリート』(Dull Griet=Mad Meg c. 1562、アントワープ・マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館/ Museum Mayer van den Bergh /より大きい画像はこちらへ→http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/bruegel/mad-meg.jpg)です。ピーテル・ブリューゲルは、ルーベンスより約半世紀前の時代のアントワープとブラッセルで活躍した画家です。ルーベンスと同様に、当時流行りのイタリア旅行まではしましたが、ブリューゲルは宗教的な高揚感と政治権力者の栄光を至高の美まで高めたルーベンスとは異なり、ルネサンス・イタリア絵画の影響は殆んど受けませんでした。むしろ、彼は、ロベール・カンパン(Robert Campin/ca1375-1444)に始まったと考えられる対象物を非常に精緻に描き込むフランドル・リアリズム絵画の伝統を一足飛びに「現代のリアリズムの視点」まで届かせてしまったのかも知れません。それは、時間をシンクロナイズさせて同時にすべての現実世界の諸相(格差構造・矛盾構造のすべて)を見渡し、見通すことが可能な「リアリズムの手法」ということです。ともかくも、彼が生きた16世紀前半の時代は宗教改革と反宗教改革の嵐が吹き荒ぶなかで、カール5世のハプスブルグ帝国を支えていたため「スペイン帝国の財宝」とまで絶賛された「アントワープを中心とするネーデルラント一帯」が、スペインとフランスが血で血を洗う地獄絵図のような戦場と化した時代であり、いたるところで戦火に巻き込まれた民衆の悲惨が目撃される時代であったのです。

五枚目は「ルーベンスの家」(Rebenshuis)です。この家にルーベンスはイザベラ・ブラントと結婚してから住み始め、1640年に彼はここで64歳で亡くなっています。館内の各部屋は当時の生活のままに再現されており、ルーベンスが王侯貴族のように豪奢かつ豊かで非常に恵まれた生活を送っていたことが分かります。六枚目は、その「ルーベンスの家」の中庭に咲いていた季節の花々です。七枚目は、ベルギーで最大規模を誇る教会建築とされる「アントワープノートルダム大聖堂」のほぼ全景で、名高い47の鐘を持つカリヨンを備えた塔の高さは約123メートルあります。八枚目・九枚目は、同寺院内部の色鮮やかなステンドグラスと壮麗な内陣の景観です。十枚目は、アントワープの美しい「市庁舎」(16世紀に建造)です。当日は、あいにくの曇り空でしたが、一歩この市庁舎前の広場(マルクト広場)に足を踏み入れた時の印象は、やはりブラッセルのグランプラスと同じで、周囲の建築物が華麗なシンフォニーを奏でるような雰囲気がありました(時系列的な意味では、ブラッセルよりアントワープを先に訪れましたが・・・)。この市庁舎の前にある噴水は、アントワープの語源になったとされる巨人退治の伝説(ジュリアス・シーザーの一族とされるブラボーという名の青年が、スヘルデ川を行き来する船舶を襲っていたアンチノゴスと呼ばれる巨人を退治し、その手を切り落とし川へ投げ込んだ場所がアントウエルペン、アントワープ・・・すなわち“hand werpen”(=オランダ語で“手を投げる”意味)が、アントウエルペンとなった?)を表現した「ブラボーの泉」です。

<注>ブリューゲルの『狂女フリート』の画像解説については、過去のものとなりますが下記の記事(◆)も併読ください。
◆“好感度”抜群の寄生政治家が創る好戦的な「妖術国家・日本」
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060612

・・・ここから記事の開始・・・

アントワープ(蘭アントウエルペン、仏アンヴェルス or アンヴァース、英アントワープ)は、ブラッセルの北方約50kmに位置する、人口が約50万人のベルギー第二の都市です。この都市の特徴は、先ず北海に注ぐスヘルデ川の東岸に発達した世界規模の貿易港(周辺に大工業地帯を形成)として発達してきたことであり、同時にアントワープは中世以降の繁栄に支えられた豊かな伝統文化都市でもあります。13世紀頃から始まる繁栄の頂点は、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)が統治した16世紀です。その間、15世紀にはブリュージュやゲントとの間で経済的な繁栄を競いました。凡そ、この頃が初期北方ルネッサンス絵画(初期ネーデルラント絵画、初期フランドル絵画)の時代でロベール・カンパン、ファン・アイク兄弟、クリストウス、ロヒール・ヴァン・デル・ヴァイデン、メムリンクらの画家たちが活躍しました。

現代のアントワープ港は、ヨーロッパ有数の港湾施設であり、ベルギーの経済を支える中枢機能の役割を担っています。その施設の広がりは北部のオランダ国境へ伸びており、スヘルデ川の周辺に広がる入り組んだ運河地帯には、ロイヤル・ダッチシェル、エッソ・スタンダード、GM、BASF(Germany. Multi-national chemicals manufacturing corporation)、ユニオン・カーバイトなどの多国籍企業が進出しています。また、クラレ(樹脂製造)、日本碍子(ガイシ)(絶縁体、送電設備関係)、日本触媒(医療用、精密機器用エチレン系素材製造)、ダイハツ自動車、東京化成(研究開発実験用試薬、半導体材料等の特殊化学品製造/欧州事業統括の現地法人)、山武(製造装置メーカー)、トヨタ自動車(製造統括会社と販売統括会社の持ち株会社トヨタモーターヨーロッパ)などの日本企業が進出しています。

15〜16世紀頃のアントワープには「イングランドの毛織物、南ドイツの銀と銅、ポルトガル人伝来のアジアの香辛料」などが集積し、商取引とともに金融業が発達し、この時代のアントワープの人口は約10万人(パリに次ぐヨーロッパ第二の都市)まで膨れ上がり、約1,000にも及ぶ各国の商館が軒を競っていました。そして、この頃からフランドル絵画の中心はブリュージュやブラッセルからアントワープに移り、ピーテル・ブリューゲルルーベンスらの大画家が輩出したのです。なお、このフランドル地方の絵画の伝統は、オランダ独立戦争(1568-1609)の渦中にアントワープがスペイン軍によって破壊(1585)されて世界的な貿易港の地位がアムステルダムへ移る16世紀末〜17世紀初頭頃、つまり凡そルーベンスが活躍した時代頃からフランドル美術(南ネーデルラント美術)とオランダ美術(北ネーデルラント美術)に区別して論ずることが可能となります。そして、17世紀オランダの美術と経済は「レンブラントの時代」(現代オランダの歴史家ホイジンガーの命名)と称される黄金期を迎えることになります。

これに先立ち、16世紀中頃に経済的繁栄の頂点を迎えたアントワープには17世紀前半にイタリアで起こったバロック様式の美術が他に先駆けて流れ込み、ルーベンス、ファンダイク、ブラウエル、ヨルダーンスなどのフランデレン・バロック絵画を生み出します。現代のアントワープにも、これらの遺産の大部分がマルクト広場から「アントワープノートルダム大聖堂」(1352年に着工し、約170年をかけて完成)周辺の旧市街地一帯及び「王立美術館」(KMSK/Koninklijk Museum voor Schone)及び「マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館」(Mayer Van den Bergh Museum)に残されています。アントワープにおける、その他の観光的な資源としては「アントワープ現代美術館」(Museum van Hedendaasgse Kunst Antwerpen)、「アントワープ・ダイヤモンド博物館」(Provinciaal Diamantmuseum)、「国立海洋博物館」(ステーン城/Steen National Scheepvaartmuseum)などがあります。

もう一つ、文化的価値という意味で忘れてならないのは「プランタン・モレトウス印刷博物館」(Plantin-Moretus Museum)です。「プランタン=モレトウス印刷博物館」はルネサンスおよびバロック時代にまで遡る印刷出版工房です。これは、当時パリ、ヴェネチアと並び世界の印刷術の先端をいく都市であったアントワープで、1549年にアントワープへ移り住んだクリストフ・プランタンによって創業されたものです。この印刷所は、16世紀以降のヨーロッパで最も名声を馳せた出版社でした。しかも、この博物館の建物は1867年まで実際に印刷業務に使用されており、世界一古い印刷機やその他の印刷機、莫大な書籍や文書、芸術作品などがソックリ保存されており、その中にはモレトウスと親交があったルーベンスの絵画も含まれています。

同博物館は建物自体にも建築的価値があり、当時のヨーロッパで最大・最高水準の印刷出版所の職人らの生活と仕事の完全なる例証であることから、2005年7月に世界文化遺産に登録・認定されました。また、同博物館所蔵の古文書類は2001年にユネスコの「世界の記憶」として認定を受けています。その所蔵内容の主なものを見ると、書籍・写本類が約3万点、銅板画が約3千点、インキュナブラ(incunabula/15世紀後半に印刷された初期の活字印刷本/グーテンベルグ聖書など)が約150点、その他の絵画・デッサンなどとなっています。

このような出版文化の伝統があるため、現代におけるベルギー及びオランダの出版文化の水準は世界のトップレベルにあります(1830年以降、ベルギーはフランス及びオランダの支配圏を離れて王国(立憲君主国)として独立しますが、そのオランダとの特異な歴史的関係の経緯から「プランタン・モレトウス印刷博物館」はオランダ・ベルギー両国にとって共通の文化遺産であり文化基盤であるともいえます)。例えば、それはユネスコが、2001年から毎年選んできた「World Book Capital」(世界における今年の本の首都)に、早速、アントワープ(ベルギー/2004年)とアムステルダム(オランダ/2008年)が選ばれたことが実証しています(参照、http://portal.unesco.org/ci/en/ev.php-URL_ID=22376&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html)。

この「World Book Capital」を選ぶ基準として重視されるのが、先ず“その国の出版活動が、どれほど「その国の歴史・文化」と「その国の子供や若者たち」を結びつけることに努力したか”ということであり、かつ“その国の出版活動にかかわる投資が、いかに多様な価値の理解のため効率的にバランスよく投資できたか”という点であることに注目すべきです。つまり、出版活動に関する、このような二つの厳しいハードルをクリアできるということは、出版についての余程の国家としての見識が存在しなければならないということです。

とろで、「ベルギー憲法」は国民の基本的な権利として「信仰の自由、教育の自由、結社の自由」とともに「出版の自由」(第25条)を掲げています。因みに、「ベルギー憲法」の第30条は“ベルギー国で用いられている言語の使用は任意である”(つまり、ベルギー国民が何語を使うかは自由である)ことも定めています。フランデレン語(オランダ語)とフランス語の間での“言語闘争”という特殊な歴史経験を持つとはいえ、このようにユニークな憲法上での「寛容性の宣言」には驚かされます(参照、「ベルギー憲法http://members.aol.com/Naoto1000/Loilinguistique/archives/ConstitutionBelge_jp.html#2)。

また、近年の学術出版における「電子ジャーナル」に関する先見的な動きがオランダで見られます。電子ジャーナルとは、インターネットの普及とともに1994年頃から学術雑誌の世界で見られるようになった新しい出版傾向のことです。それは学会機関であるか民間出版社であるかの別を問わず、従来の冊子体の学術雑誌が電子化され、インターネットを介したオンラインサービスの形で読者へ提供されるものです。その提供サービスの形は(1)出版社のサーバから直接提供されるタイプ、(2)統合サービス提供者から提供されるタイプ(出版元が弱小のとき)の二つに大別されます。出版社や学会から提供される多くの電子ジャーナルは有料ですが、電子化の費用によって購読価格が上昇し小規模大学などで購読困難などの事態が発生したこともあり、オープンアクセス運動(電子ジャーナルの無料化運動)が起こっています。

このような電子ジャーナルは、価格問題もさることながら、より新しい重要な問題を提示しています。それは電子ジャーナルによって「アカデミズムの研究環境」が様変わりしつつあるということです。具体的には次のような点を列挙することができます。
●研究者は、あまり図書館へ行く必要がなくなった
●研究者が読む文献数が増加しつつある
●アラートサービス(新論文のメール通知)の普及で、研究者は迅速に新しい論文にアクセスできるようになった
●予算上の都合で購読契約をキャンセルすると、図書館に何も痕跡が残らない

これらは殆んどが研究上の生産性向上に結びつくので歓迎すべきことなのですが、唯一懸念されるのは“四番目の問題”です。それは、明治以降、すでに140年も時間を経たというにもかかわらず、未だに日本のアカデミズムの殆んどが「欧米からの学術文献輸入型」のパターンを脱していないという問題点に繋がります。学術雑誌の講読を予算上の都合でキャンセルした途端に特定のアカデミズム分野の先端情報がデフォルトされ何も痕跡がなくなるというのは国家的リスク管理の観点からすると、大いに由々しきことです。この点、人口規模等に関するかぎり、我が国よりも遥かに小国であるオランダ・ベルギー両国は、伝統的に出版に関する国家的戦略を明確化してきたこともあって、世界を視野に入れた学術出版の蓄積は膨大なものを持っており(参照、http://www.cyndislist.com/nether.htm)、電子ジャーナルの提供者の立場についても同じ優越的な立場を保持しています。

例えば、オランダの出版社エルゼビア社(Elsevier/参照、http://www.elsevier.com/wps/find/)は、早々と「TULIP PROJECT」(参照http://www.clir.org/PUBS/reports/mcclung/app1/096.html)という実験プロジェクトを既に1990年に開始して電子ジャーナルのサーバとしての出版社の優越的な立場を確保しました。現在、電子ジャーナルのサーバを担う通常の出版社としては、エルゼビア社の他にシュプリンガー社(独)、Wiley社(米)、米国化学会など殆んどが欧米の出版社と学会機関です。

これらの懸念は主に科学技術分野の問題ですが、最近、オランダ伝統の日本学研究者(プロテスタントカソリック両系統の神学者などが神道靖国・英霊などの研究に取り組んでいる)らの中から、靖国神社や英霊の問題に関する日本国内における最近の閉鎖的な研究傾向(「ethnocentrism/自民族中心主義」の傾向)に対する批判の観点が提言されています。彼らの研究の恐るべきところは、徹底的に日本語の歴史的文書類を読みこなすという文献学的研究に徹していることです。彼らのホンネの部分では、日本は未だ「開国以前の状態」なのかもしれません。いずれにせよ、我が国のアカデミズム・出版・情報分野に関する国家戦略とリスク管理意識の欠如には悲しむべき点が多すぎます。

ショービニズム信奉者(chauvinism/狂信的愛国主義、盲目的国粋主義=ナポレオン1世を理由なしに熱狂的に崇拝した兵士ニコラ・ショーバンの名前からの造語)や日本国中枢のタカ派が望む「軍事力強化」以前の段階で、既に日本は21世紀の敗戦国ではないのか、と思われてきます。その上、先に述べたUNESCOが「World Book Capital」を選ぶ基準となる“自国の子供たちと自国の歴史を結びつけることについて自国の出版が努力し続ける”という点についても、今や日本の社会全体が根無し草のように右へ流される昨今の風潮を見るにつけ、残念ながら、それは今の日本とは無縁であることのように思われます。

今、次のような、ごく最近どこかの新聞で“垣間読んだ驚くべきドキュメンタリー”記事(●)がtoxandoriaの脳裏をかすめています。

●最近、ある心理学者が東京都内の一定数(統計的に有意なだけの数)の小中高校生を無作為抽出してアンケート調査を行った結果

《質問項目》『あなたは、虫・動物・人間などが一度殺されても、又それが生き返ると本当に思いますか?』

→→→ 《本当に生き返ると思うと答えた子供たちの割合》=約70%!

これは、とても、子供たちが“真面目に答えた数字”だとは思いたくありません。恐らく、このようなことをマトモに質問する大人を“おちょくる”少し大人びた気持ちが働いたに違いありません。しかし、少なくともその約50%以上の数字の部分は信頼できるのではないかと思われます。と、すれば約半数以上の今の日本の子供たちは人間の死(=命の大切さ、生命の愛(いと)おしさ)について直視できないでいることになります。このような目前の危うい現実(リアリズム)を軽視して、テレビ好みで好感度な「美しい国、日本」という見栄えだけのポピュリズム(衆愚)政治が今の日本で果てしなく蔓延ることの空恐ろしさを感じるのはマトモでないのでしょうか? それは、マイナーな感覚なのでしょうか? 今、我われ日本の大人たちは、ルーベンスの偉大な天才を称えることも大切ですが、それよりもむしろブリューゲルの芸術のポスト・モダン的な内実の意味をこそ想起すべきではないのでしょうか?