toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/ブルージュ・総集編


ブルージュ(Bruges)という響きがよい言葉はフランス語であり、英語の表記は同じ綴りでブリュージュ、フランデレン語(オランダ語)ではブルッヘ(Brugge)となります。言語交流に関してもマルチリンガルな歴史を持つベルギーの都市名は使い慣れた呼び方が許されており、しかも耳障りの良い言葉が使われているようです。そして、このブルージュという呼び名は海との深い因縁を物語っています。凡そ8世紀頃から南下してきたノルマン人たちの一派が、彼らが乗ってきた“船を係留する場所”(Bryggya)をここに定めたことに始まるようです。そして、現在のフランス北端部〜ベルギー北西部〜オランダ南端部に至る凡そ約70kmの海岸線に沿う一帯がフランドルと呼ばれてきた地域です。


それは北海、スヘルデ川、アルトワ丘陵に囲まれた地域であると自然地理的に表現することもできます。現在のベルギー・フランドル州は面積2,981k㎡、人口約140万人で州都はゲント(人口約25万人)、同じく西フランドル州は面積3,132k㎡、人口約110万人で州都はブルージュ(人口約12万人)です。これら両フランドル州を合わせても精々で日本の山口県ぐらいの広さしかありません。しかし、古来、この地域はフランス・イギリス・ドイツ・スペイン・オーストリアなどの大きな政治勢力圏によって侵食されることで様々な異文化の洗礼を受け続けてきました。見方を変えれば、これはフランドルが異国・異文化間におけるグローバルな交易の中心地であったということに他なりません。このことから、フランドルがヨーロッパの政治・経済・文化の歴史的な十字路という特別の土地柄であることがわかります。


この地域を含め、中世においてフランス東部〜ドイツ西部を領有していたのが「ブルゴーニュ公国」(9世紀末〜1477)です。因みに、上の画像の中で4枚目はブルゴーニュ公の紋章の一つです(具体的にどの公のものかは確認していません/これはブルージュのレストラン、Duc de Bourgogne(ブルゴーニュ公)で偶然に撮ったものです/参照、http://www.ducdebourgogne.be/)。ブルゴーニュ公国の前期(1031-1361)はフランス・カペー系が支配し、後期(1363-1477)は同じくヴァロワ系がこの地を支配しますが、ブルゴーニュ公国の最盛期は後期のヴァロワ系ブルゴーニュの時代です。なお、この両期に跨る117年もの長い間にわたり英仏で行われたのが「百年戦争」(1337-1453)であり、この間、フランドル地方は苛烈な戦場と化しています。しかし、既にこの古い時代から更に遡る9世紀に、ブルージュにはフランドル伯の居城が築かれており、そこへ商人や手工業者たちが集まり始めていました。やがて、1127年に領主支配権を免れる市民中心の自治都市としての権利(自治権)を獲得しますが、同時にブルージュは中世を通してフランドル伯領の中心地でもあり続けます。


上の一枚目の俯瞰的な画像はブルージュの遠景、二枚目は「ブルフ広場」ですが、この広場の右端に立つ銅像は、14世紀初頭の古い自治都市時代のブルージュの英雄たちです。それは、1302年にフランス(カペー朝、フィリップ4世)の暴政に反旗を翻した(「ブルージュの朝」と呼ばれる一揆を起こした)勇敢なブルージュ市民の英雄二人、ヤン・ブレーデル(肉屋組合の代表)とピーター・ド・コニング(職工組合の代表)の像です。やがて、この一揆はフランドル諸都市の市民連合軍とフランス軍の戦争である「黄金拍車の戦い」へ発展し、ブルージュ市民軍が大勝します。しかし、1329年にブルージュ市民軍はフランス軍に敗れます。一方、フランスと敵対するイギリスは、戦略的に羊毛の輸出を全面的に停止してフランスの勢力をフランドルでもフランス本国でも衰退させるべく長期戦を挑んできます。やがて、英仏両国の関係は「百年戦争(1337〜1453年)」の時代に入りますが、その間にもフランダースでは諸都市が自主権を求めて度々蜂起しています。漸く、諸侯乱立のフランドルを統一したのはブルゴーニュ公国のフィリップ豪胆公(Philippe le Hardi/位1363-1404)です。彼はブルゴーニュとイギリスの同盟を利用して、1384年にフランドルの領主となります。


上の画像の三枚目は「聖母マリア教会」(Onze Lieve Vrouwekerk)ですが、この教会の内陣にはヴァロワ系ブルゴーニュ公国の4代目にあたるシャルル突進公(Charles le Temeraire/位1467-1477)と、その娘マリー・ド・ブルゴ−ニュ(Marie de Bourgogne/1457-1482)が埋葬されています。領土拡大の野心に燃えたシャルル突進公は、娘マリー(ブルゴーニュ公女マリア)とハプスブルグ家のマクシミリアン(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)の結婚を承諾した後にナンシー郊外の戦いで戦死(1477)します。シャルルの戦死で男系が絶えたブルゴーニュ公国そのものはフランス領へ編入されてしまいますが、フランドルはマリーとマクシミリアンの共同統治を経て、スペイン・ハプスブルグ家へ継承されることになります。なお、上の画像の五枚目はルーベンスが描いたシャルル突進公の肖像画(当然ながら死後肖像画/by http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_the_Bold)です。


一方、4代(フィリップ豪胆公、ジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公)のヴァロワ系ブルゴーニュ公国が、この時代の経済的先進地フランドル一帯を支配し続ける間に、ブルージュ、ゲントなどフランドルの諸都市では当時のヨーロッパで第一級の華やかな宮廷文化と騎士文化が咲き誇ります。特に、15世紀フランドルの絵画と音楽(ギョーム・デユファイのブルゴーニュ楽派/参照、http://2style.net/misa/kogaku/early007.html)の水準は、イタリアルネッサンスをさえ凌駕していました。また、フランドルの油彩画の技法がイタリアへ伝わったのも凡そこの時代であると思われます。恐らく、ヴェネツイアやミラノなどで活躍したアントネルロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina/ca1430-1479)がフランドルへ旅行した時に、ヤン・ファン・アイクなどから何らかの影響を受けたのではないかと考えられています。


ともかくも、このようにフランドルの中でも地理的・経済的・政治的に有利な立場を手にした12世紀のブルージュは経済的・文化的に繁栄をきわめ、ゲントやイーペルと並ぶフランドル毛織物工業の中心地となっており、13世紀にはハンザ同盟都市の一員となっています。しかし、羊毛輸出に関するイギリスの対フランス政策の煽りやアントワープの勃興など国際関係の諸条件が変わり始め、ブルージュの繁栄は13世紀の終わり頃から次第に下火となってきます。しかも、15世紀に入ると運河の沈泥が進んで外海からの船の出入りができなくなり、外航船を迎え入れる港湾としての機能を失ってしまいます。このため、15世紀以降にはまったく沈滞した都市となり、18〜19世紀のベルギー近代化の流れにも乗り遅れてしまい、漸く19世紀末にその存在意義が再発見されるのを待つこととなります。しかし、14〜15世紀のブルージュは、ブルゴーニュ公の居住地でもあったことからヤン・ファン・アイク(Jan van Eyck/ca1390-1441)、ハンス・メムリンク(Hans Memling/ca1430-1494)、ペトラス・クリストス(Petrus Christus/ca1400-ca1473)らが活躍する「初期フランドル派絵画」の第一級の中心地でもあったのです。


<参考>これらブルージュの「初期フランドル派絵画」の代表者たちのギャラリーは下記URLでご覧ください。

Jan van Eyck、http://www.abcgallery.com/E/eyck/eyck.html
Hans Memling、http://www.abcgallery.com/M/memling/memling.html
Petrus Christus、http://www.abcgallery.com/C/christus/christus.html 


19世紀の後半になり、ブルージュの長い眠りを覚ます契機となったのが世紀末のベルギー出身のジョルジュ・ロデンバック(Georges Rodenbach/1855-1898/パリで活躍しユゴー、ドーデ、マラルメゴンクールらと交友を持った詩人・小説家)が発表した小説『死都ブルージュ』(Brouges-La-Morte/フランスの高級紙フィガロに連載)であり、それに触発されて、同じくベルギーの世紀末の画家クノップフ(Fernand Khnopf/1858-1921)が描いた絵画作品『死都』(A Dead City)です(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060909Pastelの画像)。そして、オフェリア・コンプレックスに囚われて憂愁に満ちた内面世界と長い眠りから目覚めたばかりの古都の建物などが水面に美しく反映するイメージを結びつけたロデンバックの詩的な文章が描くブルージュの景観は、多くの人々の心をたちまち魅了することとなります。それに、丁度、この頃から始まった旅行ブームも重なってブルージュの名が広く知られるようになります。


しかしながら、ロデンバックの小説やクノップフの絵画「死都ブルージュ」のイメージは美しいながらも一種の貴族趣味的な滅びの美学と頽廃のムードを漂わせていることもあり、ブルージュに対してあまり良い印象を持たないというよりも、むしろマイナーなイメージを持つ人々が存在することも確かです。それは現代でも同じことで、一部の歴史家などの中には、ブルージュの歴史そのものの意味をあまり高く評価しない向きがあります。更に、近年はブルージュに観光客が過剰に集まり過ぎることで、訪れる時期によってはブルージュがイタリアのヴェネチアフィレンツェよりも遥かに劣る“中世に造られた、人工的でミーハー的な安っぽいテーマパーク都市”だと中傷する人々さえいるようです。しかし、これは大いなる誤解か、又は大きな錯誤に他ならないと思います。


やや次元の異なる話題となりますが、考えてみれば人間の精巧な視覚そのものは「瞳というレンズ」を使ったカメラ・オブスキュラ(参照、http://homepage2.nifty.com/photocell/camera.html)と見做すことができます。人間は、このカメラ・オブスキュラ(瞳というレンズが付いた眼球)の助けがあってこそ、漸く外の世界のモノの様子や風景、つまり様々なイメージ表象を把握することができると理解することができます。言い換えれば、これは外の世界で乱舞する無限の包囲光を、「瞳」を通る放射光だけに絞り込む作業であり、外界から我われの脳の中へ必要な表象(アフォーダンス表象/参照、http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/kaken/3/affodance.html)だけを取り込んでいることになります。


従って、そもそも人間は、この精巧なカメラ・オブスキュラ(瞳というレンズが付いた眼球)の助けがなければ、現代の我われが目にするように豊かな文化・文明を創造することはできなかった筈です。このように考えると、人間の文化・文明そのものが、まるで「胡蝶の夢」(参照、http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/LaoChuang/DreamOfButterfly.html)のようにつかみ所がなく、きわめてフラジャイルなものでもあることが理解できます。というよりも、人間の見事で美しい文化・文明は真に奇跡的なほど偶然に、かつ極めて低い稀少な確率の下で生まれるものであることが理解できます。しかも、それは時間的・絶対的に「不可逆な歴史プロセス」で得た経験知の重層的な積み重ねでもあるのです。


ところで、17世紀オランダ・ベルギーの静物画に「ヴァニタス静物画」(Vanitas/生のはかなさ)というジャンルがあります。これは、中世以来の良く知られた格言“メメント・モリ”(Memento mori=死を忘れるな)のアレゴリカル(寓意的)な表現です。このジャンルでは、頭蓋骨・時計・灰皿・燃え尽きそうな蝋燭などが描かれ、人間である限り避けることができない死と対比して、人間の欲望に繋がる所業や金銭や物的財貨の蓄積などに執着することの虚しさが表現されています。このジャンルのモチーフでは、上に挙げたものの他に“美しい花が枯れかかったり、虫に食われつつあったり、あるいはそれが腐りかけていたりする”などの表現で、さりげなく示唆することがあります。上の画像の六枚目は、このような意味で“花の寓意”をよく描いたため“花のブリューゲル”と呼ばれたベルギーの画家ヤン・ブリューゲル(Jan Bruegel the Elder/1568-1625/ピーテル・ブリューゲルの次男)の作品『Flowers in a Wooden Vessel 』(ca.1606-07 c. 1606/07 oil on wood panel 98 × 73 cm Kunsthistorisches Museum)です。


この“花のブリューゲル”の作品は、非常にリアルで精緻な細密描写とともに現実にはあり得ない四季の花が一斉に描かれていること、及び“枯れかかった花”と“朽ち果てた花”までが一緒に、しかも類稀なほどの美しい構図で見事に纏め上げられていることで有名な作品です。このように精緻極まりない17世紀ネーデルラント絵画のルーツには間違いなく、あの「初期フランドル派絵画」(ゲント聖バーフ教会の祭壇画『神秘の子羊』でヤン・ファン・アイクが見せる卓越した細密描写)の伝統が息づいています。ともかくも、この「ヴァニタス静物画」は、経済的・物的に豊かな生活を謳歌した17世紀ネーデルラントの市民たちに対して生の虚しさを視覚的に分かり易く呈示し、彼らがひたすら物質的な快楽追及へ向かうことを戒めるとともに、彼らの内面的な倫理観への回帰を促す役割が期待されていた訳です。


<参考>During his lifetime Jan Bruegel had become famous for his brilliantly painted floral still lifes, which were prized as collectors pieces all over Europe. Like a microcosm reflecting the splendour and diversity of Creation in the humblest things, they brought the beauty of nature into the secluded world of the Kunstkammer (art collection). Painted in colours whose luminosity in Bruegels own words "almost rivals that of nature is a bouquet of wild and cultivated, domestic and exotic plants, spring and summer flowers, "so many rare and diverse things that no one has yet painted with such diligence. These he combines into huge, subtly composed arrangements in whose glorious abundance artistic ingenuity and the miracle of nature are felicitously married. (by http://www.khm.at/system2E.html?/staticE/page168.html


なお、「余りにも分かり易く心地よい一見合理的な絵画技法(線遠近法)によって、複雑で目に見えない内面世界を説明することの危うさ」を鑑賞者たちへ知らしめるための描写を工夫した画家(近代を“過剰に先取り”した合理的なヴィジョンに対し疑いの目を持ち続けた炯眼の芸術家たち、すなわちフラ・アンジェリコ(Fra Angelico/1387-1455)、フラ・フィリッピーノ・リッピ(Fra Filippino Lippi/1457-1504)、フランチェスコ・デル・コッサ(Francesco del Cossa/ca1435-1477)ら)が15世紀イタリアにも存在したことは興味深いことです(当記事と関連する内容なので、下記のブログ記事◆も、参照下さい)。


◆“見栄え政治”が破壊する日本人の“精神環境の自由”(愛国心政教分離など)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060516


ともかくも、このようなネーデルラントの伝統的な美術ジャンルを想起すると、まことにフラジャイルな「古都ブルージュ」こそが、現代文明に対して「ヴァニタス静物画的な役割」を持つ都市であることが理解できると思われます。そして、だからこそブルージュ世界遺産の都市でもある訳です。想起すれば、12〜13世紀頃のフランドルは、すでにヨーロッパの政治・経済・文化の歴史的な十字路という特別の土地柄でした。それは、今風に言えば既にグローバリズムの時代でした。そのブルージュ海上交易によって得たものは、経済的・物質的な富だけではありません。


すなわち、ここブルージュに生きた「初期フランドル派絵画」の画家たちは、この特別な都市の個性的な生き方によって世界を相対的に見ることができる“現代的な眼”を他のヨーロッパの何処の都市よりも早く発見していたのです。彼らの眼は、異文化とのグローバルな交易活動の中で物質としての商品を見分ける能力のみならず、本物に触れる能力、良質なモノを嗅ぎ分ける能力をも限りなく高めていました。しかも、初めから、彼らの原点には自治権と経済力を手に入れた都市市民としての「主権と自由」に関わる明快な自意識が存在しており、そこには領主階級や高位聖職者らにひたすら媚び諂う魂胆はありませんでした。これこそが、中世フランドル都市ブルージュの市民たちが誇りを持って意識した“自由な都市の空気”でした。


この“自由な都市の空気”と初期フランドル派絵画の“現代的な眼の伝統”は、やがて15〜16世紀におけるアントワープの黄金時代、それに続き活躍・発展の場所をやや北へ移した17世紀オランダの黄金時代(歴史家ホイジンガーの命名によれば“レンブラントの時代”)、本物の寛容の意味を模索したベルギーにおけるフランデレン運動(ベルギー言語紛争の苦闘の歴史/その革新的な「寛容(トレランス)の意義」は、今もブルージュのヒド・ヘゼレ博物館とフランドル民族博物館で歴史の証人として静かに息づいており、或いはベルギー憲法第30条に唄われる「言語使用の自由」(ベルギー国民は国語として何語を使ってもよいと書かれている)という他に類例が見られない高い精神性に結実している)の時代につながります。また、この流れは、今や新生ヨーロッパ(拡大EU)のハブ拠点として脚光を浴びつつあるベルギーのアントワープ、ゲント、ブラッセル(EU首都)及びオランダのアムステルダムロッテルダム港、スキポール空港)などの未来への可能性に繋がっています。そして、かのヤン・ファン・アイクに始まる、このような初期フランドル派絵画の“現代的な眼の伝統”こそブルージュの歴史的な水面の光の反映としての「フランドルの光」または「オランダの光」と名づけられるべきかも知れません。


もう一つ、我われ現代人がこのようにグローバルな歴史の光源としてあり続けた「古都ブルージュ」から学ぶべきことは「人間は無駄に歴史的時間を過ごしてきた存在ではないのだということ・・・、地政的・自然地理的・気象的なハンディは“本物の国力や国民の幸福度”とは無関係であること・・・、グローバリズムと多様性は、その方法論と努力次第で十分に共存が可能であること・・・、歴史経験と文化の積み重ねから学んだ寛容性(トレランス)のモデルがフランドルには確かに存在すること・・・、マルチリンガル社会と地域の個性は共存できること・・・、民主主義とは、ひたすら“テロとの戦い”などの派手なお題目を唱えたり派手なパフォーマンスを繰り広げることではなく、確固たる主権意識を持った市民による誠意と意欲に満ちた地道な実践の積み重ねだということ・・・、超国家主義(偏狭なナショナリズム)や宗教原理主義歴史認識的な知恵による克服が可能であること・・・云々」という重層的で広汎に及ぶ経験的・実践的な知見です。これは、今回のフランドル(ベルギー)旅行で見聞した様々な出来事、及び収集した関連資料の中から半ば体験的に知り得たことでもあります。


このようにブルージュの歴史の意義を概観すると、一見とても儚げでフラジャイルな「ブルージュの美しさ」の中に隠れる秘密が、実は歴史的で重層的なグローバリズム交流の積み重ねと真摯に寛容を求め続けた苦闘の歴史が齎したものであることが理解できます。しかも、その歴史は絶対的に不可逆なものです。だからこそ、正義も悪も溶け込んだ文化の証としてのブルージュという都市の存在は殆んど奇跡に近いものと言えるのです。これを見据える眼は歴史から学び取る知見によってしか磨かれないのです。決してこれは、今の日本の「ポスト小泉を自負する、歴史の意味が理解できない人々」が掲げるような「表面だけ美しく着飾り、人工的に繕った国」や「人工的に造った張りぼての美しいテーマパーク」ではあり得ないのです。この意味で言えば、歴史に“もしも”というコトバはなく、同じことの繰り返しもないのです。それこそが人間の文化・文明に関わる厳格な条件です。だから、今の日本のような有様では、日本全体が精々「テーマパーク・オランダ村」あるいは「テーマパーク・イタリア村」化するだけの話です。


つまり、これからのブルージュブルゴーニュやハプスブルグの栄光の時代が、かりそめにも再来することはあり得ません。昔年の部族社会的・家産制的原理と擬似宗教観による呪縛的・錯誤的な使命感で大量虐殺の残忍な歴史を刻印した「絶対王制時代の権力者や近・現代におけるファシスト」たちの“錯誤による英霊”のリバイバルも、栄光に輝いた専制君主ファシストの二世・三世の再来などもあり得ないのです(下記の関連ブログ記事◆も参照下さい)。だからこそ現代のブルージュという奇跡的なほど「美しい都市」の存在意義を理解することが重要なのです。このような意味でこそ、美しい世界遺産としての「古都ブルージュ」は未来のヨーロッパ、言い換えれば大欧州(拡大EU)発展への希望の光となり得るのです。このような意味でフラジャイルで掛け替えのないブルージュの存在は永遠に「ヨーロッパ文化の象徴的空間」なのです。今こそ、我われは、人間の見事で美しい文化・文明は真に奇跡的なほど偶然に、かつ極めて低い稀少な確率の下で不可逆的に生まれたものであることを理解すべきです。これを恰も美容整形を施すかのように「人工的に美しく造り上げる」などということはでき得ないのです。一方で、主権者意識に目ざめた市民層が、平和主義と寛容(トレランス)の理念の下で歴史の知恵に学びつつ内発的な意味での美しい国を地道に創り上げて行くことは出来るのです。


◆“好感度”抜群の寄生政治家が創る好戦的な「妖術国家・日本」
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060612


最後に、ロデンバックとクノップフが残した「死都ブルージュ」に代わり、水の謡蕩いの内で静かに息づく「生」のイメージをつかむために、ドイツの詩人リルケが書いた「ブルージュの風景」の詩の一部を引用しておきます(出典:饗庭孝男著『幻想の都市』(講談社学術文庫)、p15〜16)。


街筋の歩みはゆるやかで


(人間もよく回復期にはこんな風に歩く、前にはここに何があったか、など考えながら)


広場へ寄り合う道は、ながい間


もう一つの道を待っている、


それは


夕方の澄んだ水を一またぎしてやってくる。


あたりの物の姿が柔らかになって行くにつけ、


その水に映ったさかさまの世界が


本当のものらの一度もまだ持たなかった真実味を帯びてくる。


この町は死の都と呼ばれたのではなかったか?


それが今(何かわからぬ一つの法則に従って)この倒影の世界でめざめ、さわやかな姿を

とってくる、
そこでの生の営みもまれではないかのように(以下略)