toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オランダ編2

【画像の解説】


一枚目は、デン・ハーグに近いスフェンニンフェン海岸(Scheveningen)の風景です。ここは北海沿いのリゾート地で漁港でもあり、デン・ハーグの中心部から約6km北西に位置します。夏には、オランダのみならずドイツ、北欧方面などから多くの人が集まってきます。しかし、北海の水は夏でも冷たく泳げないので専ら日光浴をする人々で海岸が埋め尽くされます。ここから、直線距離で約400kmの対岸(内陸部)はイギリスのロンドンです。



二枚目は、デン・ハーグ(Den Haag)市街で見かけた“名物ニシンの立ち食い”の屋台です。ここで立ちながら食べた、刻み玉葱添えの生ニシンは本当に美味でした。ところで、デン・ハーグの正式な呼称は's-Gravenhage (スフラーヘンハーゲ)で“伯爵の生け垣”という意味です。それは、13世紀にホラント伯であったウイレム2世が、この場所に生垣で囲まれた狩猟用の館を建てたことに由来するとされます。そして、16世紀に連邦議会が置かれてから、デンハーグはオランダの政治の中心地となります。


三枚目から六枚目は、日本で言えば霞ヶ関に相当するGovernment Districtとなるビネンホフ(Binnenhof)の風景です。ビネンホフは内庭という意味で13世紀にフロリス伯の城があったところですが、今は総理府宮内省・外務省などの中央官庁が集まっています。ビネンホフの前の堀割(Hofvijver)には噴水があり、また横の広場にはオランダ独立の功労者、オラニエ公ウィレム1世(Willem I/1553-1584)の銅像があります。このビネンホフ一帯の景観には、今も中世から近世にわたるハーグの優雅な宮廷文化の薫りが漂っています。


この官庁街の特徴は、Government Districtとしては不思議なことですが、なぜか暖かみと開放的な雰囲気があることです。恐らく、その主な原因は警察官の厳めしい制服姿が殆んど見られないことです。これは、威圧的な政治権力の誇示を嫌うというオランダ政治の伝統によるものです。この一帯の周囲に堀を巡らせた建物群は凡そ13〜17世紀に建てられた中世の城郭建築です。六枚目は、これら建物群の中心となる国会議事堂(騎士の館と呼ばれる)です。この大広間では、毎年9月の第三火曜日にベアトリクス女王が出席されて国会の開会式が行われます。


七枚目は、宮内省の執務室の窓の前で偶然に撮ったスナップですが、窓際の右端でこちらへ手を振ってくれているお姉さん(日本で言えば宮内省の女性キャリア官僚?)が、実はこの数十秒前にはチャーミングな“ヘソ出しルック”でこちら向きに立っていたのです。一瞬、オドロキましたが、これは日本の官庁街では絶対に見ることができない光景です。


翻って、一瞬、脳裏に浮かんだのは我が日本国の“総理大臣が、まるでカルトに嵌ったように見えた靖国参拝”を巡る一連の『国家の神話にかかわるスパゲッティ問題』です。未だに「狭隘なナショナリズムの扇動」と「政治とマスコミの商売道具」として弄ばれる“皇室と国民”の間の不幸せな関係を思うにつけ、心底から暗澹たる気持ちになります。日本国民の多くが、民主国家における歴史の知恵としての国王の役割を理解できるのは何時のことでしょうか? 言い換えれば、“国家の神話を国民のもの”として取り戻し、民主主義国家に相応しい“歴史の知恵の証(あかし)”として「王室と国民の間における寛容で幸せな関係」を築くことができるのは何時のことでしょうか?


八枚目は、アメリカの鉄鋼王カーネギーhttp://www.enjyuku.com/k/kp14.htm)が建物を寄付して造られた「平和宮」(1913年に完成した国際司法裁判所/International Court of Justice、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8F%B8%E6%B3%95%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80)の入り口です。


九枚目は、「マウリッツハイス王立美術館」(Mauritshuis、http://www.mauritshuis.nl/)の一階部分の入り口付近です。この美術館の正式名称はMauritshuis(マウリッツ邸)で「美術館」というコトバは入りませんが、日本では通称で「マウリッツハイス美術館」と表記されています。この建物は小ぶりで、その入り口は半地下となっており、とても狭いのですが、階段を上り広間に入った時には不思議な開放感を味わいます。この建物の外観は、六枚目の画像の騎士の館の右手で一番奥の方に映っています。


マウリッツハイスの建物は、17世紀半ば、オランダの高名な建築家ヤーコプ・ファン・カンペン(Jacob van Campen/1595−1657)の設計で建てられたもので、オランダ古典様式建築の代表作とされています。この美術館の由来は、ブラジル総督を務めたヨハン・マウリッツ(Johan Maurit/1604-1675)の私邸として1640年代に建てられたのが始まりです。しかし、絵画のコレクションは、19世紀初頭から国王ウイレム1世によって始められました。この美術館は、フェルメールの有名な三つの作品を所蔵しています。それは、十枚目『ダイアナとニンフたち』(Diana and Her Companions. c.1655-1656. Oil on canvas 98.5ラ105cm)、十一枚目『真珠の耳飾の少女』(Girl with a Pearl Earring. c.1665. Oil on canvas 44.5ラ39cm)、十二枚目『デルフトの風景』(View of Delfi. c.1660-1661. Oil on canvas 94.5ラ115.7cm)の三点です。



近年の世界的なフェルメール・ブームの原因を作ったものの一つがイギリス映画『真珠の耳飾の少女』(http://www.girlwithapearlearringmovie.com/)です。つまり、イギリス在住のアメリカ人・作家トレイシー・シュバリエ原作の映画化である『真珠の耳飾の少女』が、その火付け役を担った節があるのです。この映画の主人公である少女フリート(女優スカーレット・ヨハンソン)の特別の輝きは、彼女がフェルメールに抱いていた恋愛感情の現れだったというストーリーです。無論、これはフィクションですが、この「トローニー絵画」(tronie/風俗画のジャンルに入るもので、肖像画を装った半身の人物像、http://de.wikipedia.org/wiki/Tronie)にモデルが存在したことは確かなようです。


『ダイアナとニンフたち』は、フェルメールが21歳くらいの時に描いたと推定されており、フェルメールが歴史画の画家としてスタートしたことが分かります。ただ、この絵がフェルメールの作と認められるようになったのは比較的新しいことで、現在でもこの説を否定する専門家は多いようです。この絵にはキリスト教的な意味を示す様々な象徴的図像(attributes)が描き込まれています。例えば、地面に置かれている水盤には純潔の意味があり、ニンフの一人が俯いてダイアナ(月の女神)の足を拭くパフォーマンスは、マグダラのマリアがキリストの足に涙を流した逸話を想起させます。しかし、この絵の最大の魅力は、このような歴史画であるにもかかわらず、『真珠の耳飾の少女』とは異質なものですが、我われ鑑賞者との間に何か親密な空気が漂よっていることです。


『デルフトの風景』はフェルメールの名を有名にする契機となった重要な絵画です。フェルメールを再発見したのはフランスの美術評論家トレ=ビュルガー(T. Thore Burger or William Burger/1807-69)です。1866年に、このトレ=ビュルガーが美術雑誌の上で『デルフトの風景』を絶賛したことがきっかけとなり、フェルメールの名前が広く知られることになります。この絵は、スヒー運河の対岸にある家の二階からカメラ・オブスキュラを使って描かれたとされていますが、フェルメールカメラ・オブスキュラへ投影された映像をそのままなぞって描いた訳ではないようです。フェルメールの天才的な視覚は、素早く流れるネーデルラントの雲が紡ぎ出す光と影のシンフォニーと鉛色の水面に揺らぐように映る家並みの反映を見事に溶け合わせながら、我われの眼をその「オランダの光」(参照、映画『オランダの光』、http://www.icnet.ne.jp/~take/vermeerhollandslight.html)の中へ引き込みます。


<参考>

toxandoriaの日記/ 「オランダの光」の伝説(1/6) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050705
toxandoriaの日記/「オランダの光」の伝説(2/6) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050711
toxandoriaの日記/ 「オランダの光」の伝説(3/6) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050321
(ピーター・リム・デ・クローン監督の映画『オランダの光』について)
toxandoriaの日記/ 「オランダの光」の伝説(4/6) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050322
toxandoriaの日記/ 「オランダの光」の伝説(5/6) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050323
toxandoriaの日記/「ランダの光」の伝説(6/6)(1) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050324
toxandoriaの日記/ 「オランダの光」の伝説(6/6)(2) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050325


ハーグから東南の方へ約10㎞ほどの距離には画家フェルメールが生まれた町、デルフトがあります。現在におけるデルフト(Delft)市の人口は約96,000人で、デルフトはオランダの南ホラント州に属してロッテルダムデン・ハーグの真中あたりに位置します。中世から続く古都デルフトの見所は、先ず「プリンセンホフ博物館」(Stedelijk Museum Het Prinsenhof、http://www.prinsenhof-delft.nl/gmd21012005/home.aspx?m=Prinsenhof)ですが、この建物は、1572年から1584年までオラニエ公ウイレム(Willem van Oranje/1533-1584/オランダ独立の功労者)が住んでいたところです。また、ここで忘れることができないのが「デルフト焼き」と呼ばれる「デルフト陶器」(Delft Fience)です。


17世紀オランダの黄金時代にデルフト港は「オランダ東インド会社」(VOC)の重要な寄港地でした。この町のビール工場の跡地に建てられた陶器工場の陶工らが、VOCの商船が持ってきた中国陶器に学んで繊細な陶器を作り始めます。これがデルフト焼きの起こりですが、やがてデルフト焼きは日本の伊万里なども真似るようになり、今や。細やかな表現技術は日本の陶器に引けを取らぬものとなっています。十三枚目と十四枚目は、デルフト焼きの「王立フレス工場(Porceleyne Fles)」の仕事場と展示室です。十五枚目は、この工場内で展示されていた『レンブラントの夜警』のタイル版の作品です。十六枚目、十七枚目は同工場の中庭の光景です。


十八枚目〜二十二枚目は、キンデルデイク(Kinderdijk/ロッテルダムの南東紬15km程の川沿いにある風車の村)の風景です。あいにく雨天でしたが、美しい空気が感じられると思います。ここには1740年頃に灌漑設備用につくられた風車群が残っており、地名をとって「キンデルデイクの風車」と呼ばれています。現在、オランダ国内で約1,000基残っている風車のなかで19基が広々とした湿原で、その独特の姿を見せてくれます。


なお、先に挙げた<参考>「toxandoriaの日記/ 「オランダの光」の伝説(3/6) 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050321」の中で“オランダの特殊な自然環境とキンデルデイクの景観”について述べた個所がありますので、下に転載(◆)しておきます。


◆初めにみたとおり、一般的な意味でヨーロッパ人はルネサンス以前に「風景」を意識することは殆どなかったようです。ヨーロッパ中世の人々はキリスト教の教えに従って城壁に囲まれた都市(町)の外に広がる鬱蒼たる森には悪魔が住んでいると信じていました。そのような暗黒の森に「光」を与えるため森林を伐採し、畑地を開墾し、牧場を広げながら人口の増加に合わせて都市(町)の領域を拡大していったのです。12〜13世紀のヨーロッパは大開墾の時代であったため、例えばイギリスでは15〜16世紀頃には原生林の約9割が失われてしまっており、現在の美しいイギリスの自然(景観)は、その後の時代に人工的に創られ(再生され)たものです。


◆つまり、ルネサンス以前のヨーロッパでは「恐ろしい悪魔が住む環境としての森林や山」はありましたが、その存在を「美しい景観」と見なす意識が存在しなかったのです。このため、ヨーロッパ中世では絵画の背景の一部の要素として木々や山などが描かれることはあっても、独立した「風景画」は存在しなかったのです。また、これも先に述べたことですが、ドイツ語のLandschaft(陸地、ある地域の住民、国家などの意味/オランダ語でLandschap)という言葉を、初めて“風景”という意味の絵画用語として使ったのは15〜16世紀頃のネーデルラントの画家たちであったとされています。


◆しかも、既に1400年代のネーデルラント(オランダ、フランドル/ブルゴーニュ公国)のミニアチュア絵画(写本装飾画)には風景描写がしばしば現れています。その理由として考えられるのは、ネーデルラントには、そもそも鬱蒼たる暗黒の森があるわけがなく、存在するのはウオーター・フロントという環境がもたらす大きな「水面」だけでした。無論、この水面、つまり内海、河川、湖沼、湿地などは暗黒の森林に劣らず恐ろしい存在であったので、ネーデルラントの人々は、この恐ろしい「海水面を始めとする多様な水面の脅威」と700年以上にわたって闘い続けてきたことになります。


◆従って、14〜15世紀には干拓地が創られるようになっており、そのわずかな土地に植林された木々を中心とする新しい自然環境は、自らが創り出した客観的な「景観」として他のヨーロッパの人々に先駆けて“合理的に意識”されるようになっていたのかもしれません。やがて、このような「景観」に、ネーデルラントには存在するはずがない山や丘陵地が画家たちの想像力で付け加えられるようになったのです。


◆ところで、オランダの干拓の歴史は同時に排水技術と灌漑技術の長い歴史でもあります。当然ながら、いったん干拓で造成された土地は排水しなければ再び水没するし、灌漑で清潔な水を導かなければ生活も農作物も牧畜も成り立たないわけです。また、生活廃水や屎尿などの汚水処理についても意識的な取り組みが必要であったはずです。現在、オランダ南西部に位置するロッテルダム郊外のキンデルデイクはオランダ国内で最も多くの水車が見られる場所として名高い所です。ユネスコは、1997年、このキンデルデイクらエルスハウトに連なる風車ネットワーク地帯を「世界遺産」に認定しています。


◆この地域にある風車は、中世以来、農地や牧草地に水を導く灌漑や余分の水を排水するための灌漑・排水設備として建設されてきたものであり、現在までに開発されたあらゆる関連技術が保存・活用されています。それは、まさに水と共存してきたオランダの人々の悠久の歴史の積み重ねです。地下水道や下水道の歴史は古いものではメソポタミアのウル、バビロン遺跡やインダス文明モヘンジョダロ遺跡あたりまで遡るようですが、これら古代の下水道は、その末端が都市の外部の遠くまでは伸びておらず、途中の沈殿池から地下へ自然浸透させたものであったようです。


◆しかし、ネーデルラントでは、現代のような完全に科(化)学的な汚・排水処理システムではない(つまり、海や河川へ流すものであった)にしても、既に中世の頃から汚水排水用の排水溝が作られていました。このため、15、16世紀頃のパリやロンドンの街で糞尿まみれの汚水が垂れ流されていた時代に、オランダの各都市は泥まみれであっても糞尿まみれにはならなかったようです。ただ、低地であるため絶えず浸水と汚泥には悩まされており、ヤン・ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年/テンペラ画/ロンドン・ナショナルギャラリー/HP「レンブラントの眼」INDEX-Ⅰ、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/の画像、参照)の画中に描いてあるような木靴(靴の上からサンダルのように重ねて履き、道路を歩くときに汚泥を防ぐ)が利用されていたようです。


◆このような訳で、オランダはヨーロッパで最も排水施設が発達していたため、20世紀になってからも真空式集落排水システムや酸化溝構造などの近代的で科(化)学的な排水処理を備えた下水道が世界で最も早く整備されています。また、日本の明治政府がオランダの技術者を招聘して港湾・下水道整備などの近代的な土木技術を学んだことは周知のとおりです。また、現在でも世界の下水道普及率はオランダ98%、イギリス96%、スエーデン93%、ドイツ92%、カナダ91%、アメリカ71%、日本64%となっており、オランダの普及率がトップです。