toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/Appendix3

●その後の、当シリーズ記事へのコメント&レスをまとめて「Appendix3」としてUPしておきます。

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【画像の解説】


一枚目は、アムステルダムで最も古くからの伝統を誇るレストラン、『五匹の蝿』(De Vijff Vlieghen、http://www.thefiveflies.com/nl/index.asp?)の看板です。ここは、アムステルダムの中心部で17世紀(オランダの黄金時代=レンブラントの時代)の古い建物群が残る一角にあるレストランです。二枚目は、その入り口付近の風景で、この入り口は地味な裏の小路にあります。


このレストランがある家の最初の持ち主の名が、ヤン・ヤンスゾーン・ファイフ=フライエン(Jan Jansz. Vijff =Vlieghen)であったことから名づけられたとされており、別に“衛生上の問題”がある訳ではありません。レストランの中は9つの部屋に分かれていて、それぞれ趣の異なった17世紀の趣を残した豪奢なインテリアで飾られています。高級なオランダ料理と本場のオランダビールが楽しめます。なお、日本のビール会社であるキリン・ビール(麒麟麦酒)が最初に技術指導を受けたのはオランダビールのマイスターからです。


三枚目(再掲載)は、偶然に撮ることができたブルージュの夕景です。四枚目(再掲載)は、今まで雲がかかっていた空が一気に晴れ上がった時のブラッセルの風景です。


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pfaelzerwein 『―極右政党「NPD(ドイツ国家民主党)」が議席を獲得―について一言。


十年前などの状況に比べると世間の反応は著しく落ち着いています。全体のムードとしてよりも地域問題として捉えることが出来るからでしょう。これはまた人口統計学型の問題で、バイオポリテックと呼ばれています。同様な問題は、高齢化社会のなかで地域的に起きる問題とされます。NPD禁止に影響するだろう選挙結果ですが、ドイツ全体の社会問題とは異なるというのが一般的見解です。』


# toxandoria 『Pfaelzerweinさま、


NPDの問題がドイツ全体の社会問題とは異なるという空気を知ることができて安心しました。


他方、バイオポリテックの問題には、人口統計学型の問題の他に、政治権力側が “社会的なコミュニケーション能力”そのものを意図的に抑圧し毀損するという側面もあるようです。


この観点からすると、日本で誕生する安倍・新政権には小泉政権以上に「メディア規制の意図」が露骨に見られるという分析も出ているため心配しております。これからは特に、NHKに対する風当りが一層強くなると思っています。(下記、東京新聞の記事●をご参照ください)


●2006.09.23、特報「安倍新政権にメディア戦々恐々?」、▼http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060923/mng_____tokuho__000.shtml


・・・以下の『〜 〜 〜』の部分は、この『東京新聞・特報』記事の部分転載です。記事の全文は、表記URL(▼)でご覧ください。


『安倍新政権にメディア戦々恐々?


(これ以前は省略)


今春には、世界基督教統一神霊協会統一教会)系の団体の集会に安倍氏が祝電を寄せたと報じられた。


この件で、安倍氏はことし六月、「私人の立場で地元事務所から『官房長官』の肩書で祝電を送ったとの報告を受けている。誤解を招きかねない対応であるので、担当者によく注意した」とコメントを発表した。


だが、この祝電を問題視した「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の公開質問状へは返答していない。

祝電問題と一連の対応について「こちら特報部」も安倍氏の事務所に問い合わせたが「政治部を通して。番記者を通してください」と繰り返すのみ。経緯の確認もできなかった。


靖国参拝問題なお明言せず)


政治姿勢に絡んでも、開放的とは言い難い。代表的な例は、ことし四月の靖国神社参拝が判明した件だ。国内の政治問題として焦点化していたにもかかわらず「参拝したかしないかについて申し上げるつもりはない」と繰り返してきた。


首相就任後も参拝するか否かについても「外交問題、政治問題化する中で、あえて宣言するつもりはない」と明言を避けている。


さらに先月、加藤紘一自民党元幹事長の実家が放火された件では、小泉首相同様、事件から約二週間たって初めて「仮に加藤氏の言論を弾圧し、影響を与える行為だとするなら許されない」とコメントした。事件当日の午後から夏休みだったが「緊急を要する案件」とはみなさなかった。


不気味なのは安倍氏当人とは無縁でも、その批判者に暴力的な攻撃が加えられている点だ。先の加藤氏のみならず、この間、安倍氏を激しく批判している田中真紀子元外相の自宅にも最近、脅迫電話や表札に生卵などが投げつけられた。


こうした状況について、メディア訴訟に詳しい喜田村洋一弁護士は「米国では一九六四年にニューヨーク・タイムズを勝たせた最高裁判決以降、メディアが記事内容が虚偽であることを知っているか、真実性に関心を持たずに報じた場合を除けば、政治家のような公人はメディアに賠償を求められない」と紹介する。


上智大学の田島泰彦教授(メディア法)も警鐘を鳴らす一人だ。田島氏は安倍氏の対メディア姿勢が顕著に表れた例として、NHK番組改変問題を挙げる。

安倍氏には、メディアの役割が権力を監視することだという認識がないのでは? )


安倍氏本人は圧力を加えたつもりはなくても、放映前にNHK幹部に番組内容について何か言えば、客観的には圧力以外のものではなくなる。そこに思いが至らない。彼にはジャーナリズムが権力から独立し、権力を監視するという認識がないのではないか」


新政権は反対も根強い改憲共謀罪制定への意思を明らかにしている。田島氏は「現政権はメディアを利用しようとしたが、新政権は意に沿わないメディアに直接的に介入してくる恐れがある」と懸念する。同時にメディア側の「現状」にも危機感をにじませる。


「取材からの排除や訴えられることが度重なると、報じる記者が社内で疎んじられかねない。NHK番組改変問題でも、取材した朝日新聞の記者や告発したNHK職員はその後、異動になった。メディア側の委縮はすでに始まっている」


(以下は省略)』


# toxandoria


『Pfaelzerweinさま、政治権力側が “社会的なコミュニケーション能力”そのものを意図的に抑圧し毀損するというバイオポリティクの側面に関連して、些か気になることがあり、ご質問させていただきます。


現在、(1)European University(本部、フィレンツェ) 、(2)Central European University(本部、ブダペスト)という二つの国際大学がヨーロッパに存在します(参照、下記のintroduction)が、この二つの国際大学に関する情報(評価情報)は日本の一般社会レベルでは殆んど得られないようです。


各HPのintroductionを見るかぎり、(1)はほぼEUの発展史(EC→EU→拡大EU)と併行して構想が練り上げられてきたように理解できますが、(2)はアメリカ型のビジネススクールの延長のように見えます。なお、(2)の本部は、ジュルチャーニ首相の“経済改革を巡るウソの発言”で、今(9/23)、数万人規模の抗議デモが国会議事堂前で行われているようです(2006.9.25付・日本経済新聞、記事)。


ヨーロッパにおける、この二つの国際大学についての現実的な評価はどうなのでしょうか? 何かご教示を頂ければ幸いと存じます。


(1)European University(本部、フィレンツェ
About the EUI� 、http://www.iue.it/About/


The European University Institute was created in 1972 by the Member States of the founding European Communities. Its main objective is to provide advanced academic training to Ph.D students and to promote research at the highest level.


It carries out research in a European perspective (fundamental research, comparative research and Community research) in history, law, economics, political and social science. Its full-time teaching staff, fellows and research students are recruited from all countries of the European Union and from further afield. It welcomes research students for periods of one to four years who wish to study for the Institute’s doctorate (normally four years) or take the LL.M. (one year Masters programme) in comparative, European and international law, as well as post-doctoral fellows.


To learn more about the genesis and creation of the European University Institute of Florence click here.


[the European University Institute of Florence]Genesis and creation of the European University Institute of Florence 、http://www.iue.it/About/CreationOfEUI.shtml


The idea of a European Institution complementing the construction of Europe in the field of higher education appeared early on in the philosophies of the ”founding fathers”. It was already put forward in the programmes of the pro-European movements Congress of the Hague (May 1948) and during the European Cultural Conference (December 1949). The project however only took shape at governmental level on the occasion of the ”relaunch” of Europe initiated by the Messina Conference (1955).


Walter Hallstein, German Secretary of State for External Affairs, was then the promoter of a full-scale European University , to be inserted in the future Euratom treaty. In his initial conception, the University was to offer a training center for nuclear sciences and was to be a direct emanation of the Community Conceived as a fundamental instrument of integration, it would educate the elite of the up and coming generations in a spirit remote from nationalist views.(以下は省略)


(2)Central European University(本部、ブダペスト
Introductory Remarks by Yehuda Elkana, CEU President and Rector、http://www.ceu.hu/index.jsp


CEU is a US-style graduate university with a focus on the social sciences and the humanities, accredited both in the United States and in Hungary, and located in Budapest, in the heart of Europe. The university is oriented to interdisciplinary research on, and the study of, social change and the policy implications of transition to open societies. In addition, emphasis is placed on European Union affairs, as well as on the special features of non-Western democracies.


Through their international experience at CEU, and exposure to a multitude of different-and sometimes opposing-points of view, students at this university develop a deep understanding of the intellectual and practical challenges arising along the shifting boundary between the local and the universal. They leave CEU with the knowledge and skills that enable them to pursue careers in academia, government and the non-governmental sector, international organizations and research institutes, missions of the United Nations, as well as business at the national and the international level. (以下は省略)』


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# kaisetsu


『日本の下水・上水・浄水技術は、太平洋戦争前と後で、断絶があります。前はオランダ等のヨーロッパのもの、後は米国の手法です。』


# toxandoria


『kaisetsuさま、コメントありがとうございます。


宮城県には、下記のような明治期にオランダから指導を受けた記録が残されています。


<注>この内容は「toxandoriaの日記/『オランダの光』の伝説(revised、3/6)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050321」 から転載したものです。


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明治維新期の土木技術史の1ページには、次のようなオランダの最先端の港湾土木技術を導入した事跡が記されています。


(以下はHP「産業技術遺跡探訪」http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/nobiru/nobiru.htmより、一部転載)


  東北地方の開発のために、明治政府は宮城県桃生郡野蒜村(現在の宮城県桃生郡鳴瀬町)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画しました。石巻湾に注ぐ鳴瀬川の河口に内港をつくり小型船舶の繋留地とし、野蒜と宮戸島の間の入江を外港とする大型船舶の停泊地を設ける計画でした。また、北上川から内港へ通じる運河と、内港から松島湾へ通じる運河をつくり、阿武隈川とも結ぶことによって、野蒜港を拠点とした東北地方の岩手県宮城県福島県山形県を経済圏としてまとめようとする構想でした。


  この築港計画のために、1876(明治9)年9月、お雇い外国人技術者(内務省雇長工師)オランダ人、ファン・ドールン(C.J.van Doorn)によって調査が開始されました。1877(明治10)年2月 ファン・ドールンは、野蒜が港湾に適地であることを内務省へ報告し、1878(明治11)年5月に野蒜築港第一期工事の関連として「北上運河」建設が決定し、蛇田村高屋敷(現在の石巻市)に「土木局出張所」が開設されました。この「北上運河」は、鳴瀬川河口の内港と北上川(現在の旧北上川)を結ぶ運河で、1878(明治11)年6月に開削工事が始まりました。1878(明治11)年10月には、北上川分疎(閘門)の起工式が行われ、土木局長の石井省一郎にちなんで「石井閘門」と命名されました。


  1879(明治12)年7月、野蒜内港が着工し、突堤工事がオランダ式工法(粗朶沈床工)によって着手されました。海底に敷いた「粗朶沈床」に石を積み上げていくオランダ式工法による突堤工事は急深な海底の地形と荒波のために非常に難航し、初期の計画を縮小して3年以上かかり1882(明治15)年10月に竣工しました。内港に鳴瀬川からの土砂が堆積するのを防ぐため、1879(明治12)年11月に新鳴瀬川の開削工事を着工し、鳴瀬川、新鳴瀬川、北上運河に囲まれた湿地は埋め立てられて市街地(現在の鳴瀬町浜市桶場)として造成されました。1881(明治14)年10月「北上運河」12.8kmが完成し、1882(明治15)年8月には小蒸気船「米沢丸」が石巻−野蒜−塩釜間に就航しました。


  1883(明治16)年3月には内港と松島湾を結ぶ「東名運河」の開削工事が着工し、1884(明治17)年2月に「東名運河」3.6kmが竣工しました。 第一期工事が落成してまもない1884(明治17)年9月、台風の襲来で東突堤の1/3が崩壊し内港が閉鎖されてしまいました。1884(明治17)年11月、野蒜内港の被害を調査した雇工師ムルデル(A.T.L.R.Mulder)らは、外港の築港がなければ内港は使えず、さらに外港の建設には数百万円(当時)の予算が必要であることを報告し、この報告をもとにして第二期工事の予算も計上されることなく野蒜築港計画は中止が決定しました。


  こうして野蒜港を拠点とした近代的な築港計画は挫折せざるを得ない結果になりましたが、日本初の近代港湾計画や現在も使われている運河・閘門など当時の近代的な土木技術を示す貴重な土木遺産がほぼ当時の状態をとどめて保存されています。』