toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オランダ・総集編2


【画像の解説】


一枚前目は、EUの旗(European Flag)です。12個の金色の星の意味はEUに加盟する国の数ではなく、「完璧・充実・調和・寛容」の価値観を象徴するとされています。二枚目は、ブラッセルのEU Dictrictにある欧州委員会ビルの風景(2006年8月中旬、早朝、六時半頃)です。なお、欧州連合欧州委員会欧州議会などの本部機能はベルギーのブラッセルに集中しますが、EUの出発点となったマーストリヒト条約(Maastricht Treaty)は1992年にオランダのマーストリヒトで調印されています。


三枚目は、オランダ王国(Kingdom of the Netherlands/ナポレオン戦争後の1815年にベルギーも含む形で成立した/オランダ総督ウイレム6世が国王ウイレム1世と称したことに始まる立憲議会制王国)の国旗です。スペインから独立(独立戦争=1568〜1609)するとき(1581年にオランダ独立宣言でネーデルラント連邦共和国を樹立したが、それが国際的承認を受けるのは1648年のウエストファリア条約(三十年戦争講和条約=近代国際会議の始まり)による)の象徴として使われた三色旗の伝統を引き継いだ旗です。


四枚目は、デンハーグ(オランダ)にある「国際司法裁判所」(平和宮/この建物自体は1913年に完成)の遠景です。よく知られているとおり、「国際司法裁判所」は平和と自由を愛し、その永久の継続のためにこそ「国際法」が必要であることを説いたため“国際法の父”と呼ばれる、グロティウス(デルフトの有力市民の子であった)の理念が結実(1899(明治32)年、グロティウス“没後約250年”に第1回ハーグ平和会議で“国際紛争の処理に関する条約”成立したことに始まる)したものです。最初にできたのが「常設仲裁裁判所」であり、これを引き継ぐ形で第一次世界大戦後の1922(大正11)年に国際平和維持機構として常設の「国際司法裁判所」が開設され、同時に「国際連盟」が創設されました。


五枚目は、「アムステルダム国立美術館」(Rijksmuseum Amsterdam)の遠景です。今年は“レンブラント生誕400年”でオランダ国内では様々な記念行事が行われていますが「アムステルダム国立美術館」はその中心機能を担っており、ここにはオランダの国宝とされるレンブラントの『夜警』、それにフェルメールの『手紙を読む女』などの傑作が所蔵されています。レンブラントフェルメールも直接的には平和を語りませんでした。しかし、この二人は、平和の理念につながる「美意識」はどのようなものであるかを、あるいは「平和で美しい国」がどのようにあるべきかを私たちに無言で語りかけています。


六枚目は、ベルギー王国(Kingdom  of  Belgium/スペイン領、オーストリア領、革命フランス軍とナポレオンによる支配、そしてオランダ王国による支配の時代を経て、ベルギー国民議会(革命派が中心の)は1830(天保1)年に民主的・自由主義的な憲法を制定/その後、国民議会がザクセン・コーブルグ・ゴータ公レオポルトを国王レオポルト1世(中部ドイツの小領邦国家ザクセン・コーブルグ・ゴータ家出身のいわば“頼まれ国王”)として迎えKingdom  of  Belgiumが成立)の国旗です。


ベルギー政府の説明では“ベルギーの国旗は昔の領邦国家ブラーバント公国(現在のベルギーの凡そ中心に位置する)の紋章に由来しており、黄色の獅子、黒の背景、獅子の爪と牙(赤)”ということになっています。しかし、ベルギー国旗の三色には諸説があるようです。いわく“黒はブラーバント地域で通用した貨幣の色、黄色はフランドル地方で使われた武具の色調、赤はエノー地方の領主の紋章”、いわく“フランス革命軍の三色旗を手本とした”、いわく“ブラーバント公の紋章の色(黒地に赤い舌を出した黄色いライオン)を継承した”等々です。いずれにせよ、ベルギー王国の複雑な「成立事情と民族・言語」を「寛容」の共通価値観で纏め上げたような国旗です。


七枚目はブラッセル(フランドル)の風景、八枚目はブルージュ(フランドル)の風景です。既に見てきたとおり、オランダとベルギーはフランドルを中心として歴史のプロセスの過半を共有  しています(狭義では凡そ16世紀末ころまで、広義ではベルギー王国が成立する19世紀始めころまで)が、近・現代における両国の重要な役割を一つ言えば、「法の支配の原則」による「人類文明のコントロールの可能性」を先見的な国家統治の形として実現してみせたということです。このことについては、現在の両国が文字通りの小国であるため(国土面積と人口規模が小さいという意味/両国の面積は、二つ合わせても日本の“九州プラス四国”より少し広い程度/ただ、殆どが平地なので利用可能な土地の面積は“九州プラス四国”より広い)見過ごされがちです。しかし、この事実は、人類の歴史にとって、あるいはこれからも人類の未来を左右する可能性があるという意味で特筆すべきほど重要(★)です。


<注>この意味(★)については、当稿の最後の章「世界におけるヨーロッパ文化の優越を確立したオランダ・ベルギー思想」で詳述します


しかし、今やアメリカ型のグローバリズム(経済原理主義に偏重したグローバリズム)の時代に入り、この人類史上で最も先見的な「寛容の価値観」(“法の支配の原則”の時代)の土台が揺るぎ始めています。つまり、ミシェル・フーコーによれば今や世界は“バイオポリティクス”(生政治)の時代に入ったようです。そこでは、国家の統治力が法制度という外的な強制力に止まらず、恣意的な政治権力が各個人の内奥にある倫理・宗教・美的感性、イデオロギー及び生命観などを左右する無意識レベルまで浸透し、個々の市民・国民の内部の精神環境へ作用するのです。


例えば、北部オランダ語圏(フランドル)の過激な政党VBフラームス・ブラング/“フランドルの利益”を名乗る極右政党)などによる自治要求の強化を求める声が大きくなりつつあり、新しい言語紛争の兆し(ブラッセル近郊の町メルヒテムにおけるフランス語禁止の公立学校の出現)すら見られます。しかしながら、中長期的に見れば、ベルギーでは「正しい歴史観」と「寛容の精神」に裏付けられた新たな解決への道が必ず模索されることになると思います。


このような観点からすると、EU統合の中心地であるブラッセルと「第2期フランデレン運動」(1840年代〜1900年代のフランデレン語(オランダ語)とフランス語の言語平等化運動)のリーダーであったヒド・ヘゼレ(Guido Gezelle/参照、当シリーズ「ブルージュ編3」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060911)の足跡(ヒド・ヘゼレ博物館)が残る美しい古都ブルージュの象徴的な役割が重要になると思われます。従って、ベルギーにおける、これら二つの歴史的な都市の役割は、単に観光地的なスーベニールに止まるものではないのです。


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[現代民主主義社会を形成するための中核となったオランダ・ベルギー思想]


(オランダ・ベルギー思想の特徴)


スペイン帝国に対する「オランダ独立戦争」(1568〜1609)を主導し、大航海時代に植民地を獲得したカルヴァン主義者たちの姿があまりにも大きく見えるため、一般にはオランダ精神の特徴はカルヴァン主義的なもの(=アメリカ合衆国・建国の精神的な支柱ともなったカルヴィニズム・プロテスタントの精神)だと見なされる傾向が強いようです。しかし、ごく大雑把に言うと、オランダ独立戦争時代までのベルギー・オランダ両国の思想は殆ど同じ都市市民的な基盤を共有していたのですが、16世紀末にフェリペ2世の娘イサベラがベルギー(ネーデルラント南部)を与えられ、ベルギー総督として、その夫アルブレヒトと共同統治を始めたころからベルギーはオランダから離れてカトリック圏に入ったという現実があります。しかしながら、それにもかかわらず12世紀頃から16世紀末までの間にオランダ・ベルギー地方の都市市民たちが共有していた価値観の大きさも見過ごすことはできないのです。
<注>カルヴァン主義(カルヴィニズム)については下記URLを参照。
http://epedia.blog360.jp/%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A1%A6%A5%AB%A5%EB%A5%F4%A5%A1%A5%F3 


ベルギー王国成立後(1830年〜)のベルギーの思想状況を概観すると、南部フランス語圏(ワロニー地方)では19世紀において自由主義思想が浸透し、20世紀においては社会主義思想の浸透が目立ちます。一方、フランドル(フランデレン)地方は保守的なカトリック主義とフランデレン(オランダ文化)的な民族主義が優勢であったと考えられます。しかしながら、上で見たとおりオランダ・ベルギー両国の思想の基盤には、中世以来の伝統を引き継ぐ、殆ど同じ都市市民的な価値観を共有してきたという歴史があります。そして、この共有基盤の根底には、オランダ精神の祖と見なされるべき、17世紀の思想家エラスムスの思想が深くしっかりと根を降ろしています。


このため、エラスムスとその影響を受けた近世のオランダ・ベルギーにおける、世界中の思想に大きな影響を及ぼしたと見なされる偉大な思想家・哲学者・歴史家の一部を概観しておきます。なお、オランダ・ベルギー思想の伝統を支えてきた基盤として見逃せないのが、現在もベルギーとオランダに存在する「高度な出版文化の伝統」です。その金字塔はルネッサンスおよびバロック時代まで遡るアントワープの「プランタン・モレトウス印刷博物館」(Plantin-Moretus Museum)で、これこそがベルギー・オランダ両国にとっての共通の偉大な文化遺産です(この詳細については下記記事を参照)。


『toxandoriaの日記、2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/アントワープ編』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060902


エラスムス(Desiderius Erasmus/ca1466〜1536)
ロッテルダムの市民家庭に生まれたエラスムスは、18歳で入った修道院の生活を経てソルボンヌ大学(パリ)に入り、そこで北イタリア・ルーツの人文主義ルネサンス)思想に触れ、その後、イギリスを訪ねてトマス・モア(Thomas More/1478〜1525/著書『ユートピア』で名高い思想家で、カトリックの立場からヘンリー8世の離婚に反対し投獄・処刑された)などと交友を持ちます。


一時期イギリスを離れ、ヨーロッパ中(ルーヴェン・パリ・ヴェネツィア・ローマ)を遍歴したエラスムスは、1509年にイギリスに戻り、モア宅に滞在しながら名著『愚神礼賛』を著し、この著書でエラスムス宗教改革が起こる直前の深刻な社会的矛盾を優れた風刺的手法で抉り出します。この時、エラスムスは“穏健な手段”によってカソリックの内部から教会を改革する意図(=中庸の感覚による社会改革の意図)を持っていたのです。このため、ドイツの宗教改革者マルチン・ルター(Martin Luther/1483〜1546)が書簡で、過激な改革への支持を求めたとき、エラスムスはこれを拒絶しています。


ところで、エラスムスが思想家として先見的であったのは、その頃に発明されたばかりのグーテンベルグの印刷術(=出版物)を率先して活用したことです。このため、彼の著作はヨーロッパ中の知識人たちへ計り知れぬほど大きな影響を及ぼすことになり、その光は混迷を深めるばかりの現代世界の頭上でも燦然と輝いています。このような意味で、エラスムスは人知の頂点に到達したともいえる“中庸の感覚”(=人類へ平和をもたらす唯一の手段としての“寛容”の精神)の偉大な発見者です。別に言えば、“寛容”が人類の未来へどれほど大きな影響を及ぼすことになるかということの発見者であったのです。


つまり、エラスムスは、人類史上で初めて、戦争・迫害・差別・虐待などの原因となる「不寛容の愚かしさ」を様々な角度から抉り出してみせた上で、ヨーロッパ中の知識人たちに対し、「宗教・党派・民族・イデオロギーなどの枠を超えて寛容と平和を愛することの意義」(=人間性の善き部分、つまり優しさ、親切心、潔癖を好む傾向、ホスピタリティなどの部分を直視し、積極的に評価し活用すること)について積極的に自覚を促したと言う意味で、きわめて独創的かつ行動的な思想家であったのです。


そして、驚くべきことは、このようなエラスムスの高度な感覚・精神・思想が今もオランダ人とベルギー人の社会の中で息づいているという現実があることです。このため、近年の北部オランダ語圏(フランドル)における過激な右派政党VBVlaams Belang/フラームス・ブラング)の台頭(過激なフランデレン民族主義の台頭)、あるいは深刻な「移民問題」などグローバリズム時代の不安と混迷の到来が予見されるにもかかわらず、欧州連合EU)の中心地としてのネーデルラントは、今や再び「人類の未来のための新たな知の発見と実践」が期待される場所として注目すべき所なのです。


■グロティウス(Hugo Grotius/1583〜1645)
デルフトの有力市民(市長や参事会員を輩出した家系)の子として生を受けたグロティウスは、14歳でライデン大学を卒業し、15歳でオランダ連邦共和国使節団の一人としてフランス国王アンリ4世(1553〜1610/ブルボン王朝フランスの始祖/新教徒(ユグノー)と和解するため1598年の“ナントの勅令”で一部の信仰の自由を認め、フランスの宗教戦争を終らせた)に謁見する機会を与えられたという天才です。やがてグロティウスは弁護士となりますが、法律実務よりも文芸・文学に興味が引かれ、悲劇『アダムの追放』(1601)を書いています。


21歳のグロティウスは、マラッカ海峡におけるポルトガル船拿捕の事件に際し、オランダ東インド会社から委嘱を受けて『捕獲論』を書き、東インド会社の立場を擁護します。更に、グロティウスはその一部を『海洋自由論』として出版(1609)し、いかなる国の国民でも「自然法」の原則によって海洋を自由に航行して他国民と自由に交易をする権利があることを説きました。18世紀に入ってから、この海洋自由論は広く世界的に承認されるようになり、現在の「公海」と「領海」の概念が成立したのです。


グロティウスは議会派の偉大な指導者(政治家)ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt/1547〜1619)との交流が災いし、総督派によって逮捕・幽閉されてしまいます。しかし、夫人の機転による奇跡的な脱獄に成功したグロティウスはパリに逃れますが、やがて彼は、その亡命生活中の1625年に代表的著書『戦争と平和の法』を出版します。この本は、「近代自然法」と「国際法の基礎」を確立したという意味で極めて重要な著作です。


グロティウスが生きた時代は、まさに17世紀オランダの黄金時代です。しかし、一方でこの時代は延べ80年間にも及ぶ長い過酷な戦乱(オランダ独立戦争(1568〜1609)、三十年戦争(1618〜1648/ドイツを主戦場とした宗教戦争))によってヨーロッパ中の人々が塗炭の苦しみを味わった時代でもありました。このような激しい戦乱の時代(精神史・美術文化史的に見ればバロックの時代)であったからこそ、人類に与えられた永遠の課題ともいえる「戦争と平和」の問題に関し、天才グロティウスは、人知を尽くす限りの激しい闘いを自らに課し、それに命がけで挑むことができたのです。


グロティウスは原理主義的に正統であること主張する立場(独善的な正統主義)を批判する一方で、広汎で豊かな歴史観と論理的な証明によって「自由・平和・寛容・融和・調和」の価値観が人類の未来にとって絶対的に必要なものであることを論証しました。このような、グロティウスの「人間の理性に対する無限の信頼」の基層にエラスムスの“中庸の感覚”が根付いていることは明らかです。そして、このグロティウスの理念は、国際平和維持機構としての「常設・国際司法裁判所」の開設と「国際連盟」(→現代の国際連合へ継承)の創設(1922)として結実します。


スピノザ(Baruch de Sponoza/1632〜1677)
迫害を逃れるためポルトガルからオランダのアムステルダム(当時のアムステルダムはヨーロッパで有数の国際商業貿易港で、自由と寛容の空気が流れていた)へ亡命した裕福なユダヤ商人の家に生まれたスピノザは、自由思想を信奉したという廉でユダヤ教団から破門(24歳のとき)されます。このため、スピノザユダヤ的で温厚な神秘主義の精神とルネサンス以降の合理精神(スコラ哲学的論理学、デカルト哲学、数学、自然科学など)を統一して、独創的な哲学体系(寛容の哲学体系)を築くことになります。そして、スピノザプロテスタントの中のアルミニウス派に共鳴していました。


その頃のオランダでは、「厳格な聖書主義と予定説」を説く聖書原理主義的なカルヴァン派キリスト教徒と、「寛容と中庸の感覚」の重要性を説くアルミニウス派(カルヴァンが説く予定説に疑念を持つ立場)が対立していました。カルヴァンの予定説によれば、人間の未来は全てを見とおしている神の意志どおりとなり(神の予定したとおりとなるので)、このような神を信じない一般の人間には自由が一切ないことになります。しかし、一方で神を聖書原理主義的(聖書に書いてあることを文字どおり)に信じさえすれば、そのような意味で神を信ずる人間は神から一切の自由が与えられることになります。この考え方は見方によってかなり利己的で危険なもの(=これが神権的な性格の国家の場合には一国主義(ユニラテラリズム)になる/現在のブッシュ政権アメリカがその典型)であり、敬虔で穏やかなキリスト教的愛とエラスムス的な寛容に共鳴していたスピノザには馴染めないものでした。


また、スピノザは、当時の議会派の実権を握りながら「二度にわたる対英戦争」(英蘭戦争/1652〜1654、1665〜1667/植民地支配を巡り制海権を争った戦争)を指揮してオランダ連邦共和国に黄金時代の最盛期をもたらした政治家ヨハン・デ・ウイット(Johan de Witt/1625〜1672/法学・哲学・数学・文学に通暁したルネッサンス的な万能の巨人で、寛容なアルミニウス派を信奉)に共鳴していました。ともかくも、このような時代の空気の中で、スピノザの哲学的な思索は深められて行ったのです。


1663年、スピノザは生前に出した唯一の著作『デカルトの哲学原理』を発表します。いわゆる「スピノザの汎神論的一元論」のデヴューです。スピノザは、この著書でデカルト(Rene Descartes/1596〜1650/物心二元論を展開し近世哲学の父とされるフランスの哲学者)解決できなかった二元論を止揚し、デカルトがそれぞれ独立していると見なした精神と物質という二つの実態が実は一つであり、それこそが「あらゆる属性を含む唯一の神と呼ばれるものの実体」であると論証したのです。  
     

スピノザは、カルヴァン派の人々から無神論者と疑われ、あるいは危険思想の持ち主と見なされ(誤解され)ました。このため主著『エチカ』(1675年ころ完成)の出版は断念され、それはスピノザの死後になってから、彼の友人たちの手により『遺稿』として出版されます。また、スピノザは匿名で出版した『神学政治論』で聖書の歴史批判的な解釈を行い、死後に出版された『国家論』ではカルヴィニズムによる神権政治の危険性を批判しました。このデカルトの慧眼は、現代におけるアメリカ型のキリスト教原理主義市場原理主義の弊害(過剰にマネタリズムへ傾斜した現代資本主義の負の部分)を予見していたと見なすこともできます。


このようなスピノザは、カルヴィニストから無神論者と疑われただけでなくローマ・カソリック教会側からも危険思想と見なされ、その著作はヴァチカンの禁書目録に記載され、長い間にわたり「非難と無視の罰」を受けることになります。が、やがて19世紀のドイツ観念論哲学(カント、フィヒテシェリングヘーゲルらの)によって再評価が与えられます。そして、21世紀に入りミシェル・フーコーが予見した通り、再び「追憶のカルト」(主に世襲の寄生権力者らの精神の奥深くに巣食う、父権的支配意志に関する一種のトラウマ)が幅を利かせ(暴走す)る「生政治」(バイオポリテクス)の時代に入り、人類世界は向かうべき方向性を見失いつつあります。このような混迷の時代にこそ、スピノザの哲学は重要な意味を帯びてくるのです。


<注>「追憶のカルト」については後(オランダ総集編4)で詳述します。


ホイジンガ(Johan Huizinga/1873〜1945)
20世紀前半に精神史・文化史の新しい視点を提唱した歴史家として名高いヨハン・ホイジンガは、1872年にオランダ東北部の都市フローニンゲンで、大学教授の子として生まれました。フローニンゲン大学で比較言語学を学んだホイジンガは、古代インド学の学位(比較言語学)を得たあとで生涯の研究テーマを「西欧中世文化」に定めます。


1905年にフローニンゲン大学の教授となったホイジンガは、歴史的思考における美的直感の重要性を説いて、文化史家としての立場を宣言します。ただ、“ホイジンガが言う美的直感”は「追憶のカルト」のような世襲的・家産的・個人的な権力維持の妄想に囚われることとは無縁だということを忘れるべきでありません。無論のことながら、歴史にかこつけて何を語り何を主張しようが個人の自由だなどということも彼は言ってはおりません。ホイジンガが主張したのは、特に文化史に取り組む歴史家は“美的感性と論理を冴えわたらせながら、歴史を繰り返し検証する往還の精神のプロセスから人類の未来のための新たな知恵を発見し、絶えず謙虚な態度でそれに学ぶべきだ”ということです。


ともかくも、ホイジンガは10数年に及ぶ研究期間を費やした上で、1919年に名著『中世の秋』を著します。この著書は14〜15世紀のブルゴーニュ公国の歴史を美しく表情豊かな味わい深い文章で記述したものです。それは、かつてバーゼル大学のブルクハルト(Jakob Burckhardt/1818〜1897/スイスの歴史家・文化史家/ルネサンス文化の研究で近代美術史学の基礎を創った)が、イタリア・ルネサンスにおける写実主義自然主義の萌芽は中世キリスト教精神を否定した近代的自我の萌芽の兆しであると説いたことに対するアンチテーゼでした。


ブルクハルトは、例えばファン・アイクの絵画『神秘の子羊』に見られるような過剰なほどに詳細極まりない写実主義(参照、『toxandoriaの日記、2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/ゲント編』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060829)は北方ルネサンス精神の合理的精神の先駆けだと認識しますが、ホイジンガは、このようなブルゴーニュ美術の手法は、むしろ歴史の流れの中で過ぎ去ろうとする“中世文化の秋の実り”だと捉えたのです。つまり、このホイジンガの名著は、中世末期〜ルネサンス期の文化に関する、当時のアカデミズムが支配していたパラダイムを大きく転換させることになったのです。


もう一つの名著『ホモ・ルーデンス』(1938)を完成させ、ライデン大学学長と王立科学アカデミー会長に推されたホイジンガの名声は、オランダを超えた「ヨーロッパの知性」として不動のものとなります。しかし、この時代のヨーロッパにはナチス・ドイツヒトラーファシズム政権)が影を落とし始めていました。この頃、既にホイジンガは、ファシズムを生んだ(ファシズムに熱烈な支持を与えた)大衆社会の歪んだ(ネジレた)精神環境の病理を抉った名著『明日の影の中で』(1935)を出版していたため、ナチス・ドイツは対独強力を拒んだことを口実にホイジンガ強制収容所へ送り込みます。やがて、ホイジンガは数ヶ月後に軟禁状態へ移されますが、それにもめげず著書『汚された世界』(1945)を著し、人類文化の未来を驚異的な意志力で探る、殆ど絶望的で孤独な闘いを続けますが、遂に力が尽きる形で1945年2月に永眠しています。


■ピレンヌ(Henri Pirenne/1862〜1935)
まさに“21世紀の現代にこそ相応しいと思われる歴史の再評価に取り組んだ”のがベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌです。ピレンヌは、民族の大移動が古代と中世を分けたとする伝統的な歴史観に対して、イスラムが地中海の制海権を押さえた8世紀半ば以降にヨーロッパの中世が始まったとする、いわゆるヨーロッパ中・近世史に関する「ピレンヌ・テーゼ」を提起しました。


ピレンヌは1862年にマース川沿いにある都市ヴェルヴィエのブルジョアの家(織物工場を経営)に生まれ、リエージュ大学で歴史学を学びます。その後はパリ、ライプツィヒ、ベルリンなどを遊学し、リエージュ大学での教職を経て、最終的にはゲント大学(中世史担当)の教壇に立ちます。そして、ピレンヌが畢生の大著『ベルギー史』に着手した頃のベルギー王国は、その誕生(1830)から未だ1世紀足らずを経たばかりでした。


この仕事に取りかかったピレンヌの目的は、ローマ帝国ブルゴーニュ公国、ハプスブルグ神聖ローマ帝国(オーストリア、スペイン)、フランス、オランダなど様々な国の支配下にあったベルギーが、如何にして必然的に一つの国民国家へ纏まってきたかを明らかにすることでした。しかし、皮肉にもピレンヌが生きた時代はフランデレンとワロニーの対立(第2・第3期言語紛争の時代)が激化する時でした。漸く、第二次世界大戦後になって“連邦化”の王国となるベルギーはピレンヌの意図とは裏腹にきわめて人工的に構築された国家であったのです。しかしながら、多様で異質な民族と言語を結びつけたものがフランドルに根付く「寛容の価値観」であったことも現実です。そして、それは今まさに進捗しつつあるEU欧州連合)統合のための強力な求心力でもあるのです。


また、ピレンヌは、フランデレンにおいて毛織物工業が都市へ集中した意義を論ずるため“商人定住説”を前提とする「中世都市起源論」を提唱し、フランデレン地方と北イタリアをヨーロッパにおける“(ローマ時代の)商業復活の二大基地”とみなすとともに、近代資本主義の萌芽(資本家の勃興)がベルギー地方の中世経済の発展史の中にあることを明らかにしました。


第一次世界大戦中にプロイセンドイツ帝国軍はベルギーを占領します。この時、ピレンヌは強硬にドイツ軍へ反抗したゲント大学への見せしめのため逮捕され、各地の収容所を転々とする生活を3年間も強制されることになります。しかし、ピレンヌは、この悲惨な体験の中で自らの省察を更に深め新しい歴史観を展開し、そこから冒頭で述べた「ピレンヌ・テーゼ」を着想したのです。しかし、ピレンヌは名著『マホメットシャルルマーニュ』の原稿を残して1935年に没します。


この名著『マホメットシャルルマーニュ』でピレンヌが明らかにしたのは、各国の国民史の枠を越えた“一定の価値観を共有するヨーロッパ社会”が如何に成立し得たのかという問題です。今でこそ周知とされていますが、従来の歴史観が全く気付いていない視点でした。つまり、それは、イスラムの地中海進出こそが中世の「一定の価値観を共有するヨーロッパ社会」を形成する誘引であったということです。ここには、「グローバリズムと個性的な地域文化の交流のあり方」、「戦争や紛争を乗り越える寛容の意義」などについてのピレンヌの豊かな知見が垣間見えます。そして、ピレンヌが明らかにした、このような“中世ヨーロッパ社会の古層”こそが現代ヨーロッパにおける「EU統合の鋳型」となったのです。ここから言えるのは、やはりピレンヌも「エラスムスの寛容の光」を継受していたということです。


(世界におけるヨーロッパ文化の優越を決定づけたオランダ・ベルギー思想)


人間の歴史は「主権」(領土・経済・資源などを利己的に占有する欲望と支配権力)を巡る弱肉強食の闘争(戦争・殺戮・虐待・残虐行為)の囲い込み競争の歴史であり、この強烈なマグマの本性(生物の生命力の本源的性質)は人類が生存する限り未来永劫にわたり変わることはないと考えられます。まず、我われ人間は、生命にかかわるこの過酷な現実(リアリズム)を直視することから全てを始めなければなりません。ここで君主による統治の絶対性を前提とするマキャベリズムを持ち出すのは適切でないと思いますが、仮に戦争・殺戮・虐殺・テロリズムなど「人間の本性にまつわる蛮行」を重篤な病に喩えるならば、人間の歴史を冷静に眺めて「この種の病気」に容易に罹らぬ工夫、そのような意味で免疫力を高める工夫に自覚的に取り組む時が人間の知恵の出しどころです。


つまり、それが「主権者」たる一般市民のマキャベリズムということです。一方、プロの「政治権力者」は、このような市民(国民)サイドのマキャベリスティックな眼に容易に見抜かれぬよう絶えず気を配りながら、それに対抗する、したたかなマキャベリズムを発揮します。例えば、2006..10.14付の朝日新聞は「『安倍答弁』持論使い分け」という記事で、“安倍首相は13日までの衆参議両院予算委員会で、歴史認識や安全保障などでの持論をめぐり「封印」するものとしないものを丁寧に分けて発言した”と分析しています。


具体的には、「過去に文書化された政府見解」、「世論一般の批判的な雰囲気」、「持論を堅持し更に発展させ得る可能性」、「持論の展開にとって有利な世論の風の吹き具合」(マスメディアの支持率調査の結果など)という四つの要因を天秤にかけながら、不利な言質を取られぬよう巧みに振舞っています。それが「戦争責任を巡る見解や核武装論→変節」、「A級戦犯への解釈→堅持」、「靖国神社への首相参拝→内外への無言戦術の宣言」(当然ながら、この問題にかんしては主に中国サイドの政治的な事情も絡んでいると思われます)の選択となって表れた訳です。


そして、このような政治権力者サイドのマキャベリズムにとって有利な雰囲気づくりに利用されるのがテレビなどの大方のマスメディア(むしろ、日本の現況は嬉々として利用して頂く政府御用達マスメディア?)です。なお、「過去に文書化された政府見解」は「アーカイブの役割」(政治権力の暴走に対する一種の歯止めの役割)に関連することです。この論点の詳細は下記のブログ記事★を参照してください。


★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(1)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050306
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(2)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050307
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(3)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050308
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(4)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050309
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(5)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050310


このような訳で、ごく一部のモラル・ハイグラウンドな市民たちが、ただお題目のように「平和」を唱え続けるだけで世界の平和を継続することは困難です。民主主義社会の「主権者」である我われ一般市民が、「人間の本性にまつわる蛮行の種」を蒔き散らそうとする邪悪な政治権力者(=“追憶のカルト”という名の亡霊)が出現せぬように、「憲法の政治権力者に対する授権規範性」(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519)を盾にして彼らの言動を厳密にモニターすべきなのです。不幸にして、もしも、そのような権力者が選ばれてしまった暁には、彼らが絶対に暴政へ走らぬように民主主義国家の「主権者」である我われ一般市民は、常に自覚を持って個々人の精神環境レベルでの闘いを続行すべきなのです。現在、我われが享受している「平和と民主主義」は、エラスムス、グロティウスらの慧眼と彼らが生命を賭した闘った努力の賜物であることを思い起こすべきです。そして、ここで重要なキーワードとなるのが「公正」の概念です。これは、ブッシュ大統領が好む言葉であるジャスティス、つまり「正義」と置き換えてもよいと思います。


つまらぬ喩えになりますが、あらゆる接客業の世界で認識されている厳格な基本ルールに「先着順の公正」というものがあります。つまり、一時にタッチの差で来客が殺到した場合でも、瞬時に来客の順番を見分けて先着順に丁寧に、しかも買上げ金額の多少とは無関係に公平に接客しなければならないというルールです。これが実行できなければ、いずれは、どんなビジネスでも上がったりとなります。現在、民主主義社会の根本的なルールとして理解されている「法の支配の原則」も、ごく大雑把に言ってしまえば「先着順の公正」に類する素朴な概念です。これを一部の政治家や政治学者は「モラル・ハイグラウンドな精神の高み」と表現する場合があるようですが、素朴な真理を余り高踏に持ち上げて美辞麗句で飾り立てると分かりにくくなってしまうようです。このため、社会人の基本マナーもろくすっぽ身についていないような、そして歴史の勉強なんかには無関心で無頓着な若者たちが「法の支配の原則」や「平和憲法の理念」を邪魔者扱いにするような社会(=暗愚な憲法改正論者が増殖する社会)になったと言えるかもしれません。


ともかくも、考え方しだいでは、我われ人間は、このように素朴な「法の支配の原則」(=戦争や殺し合いを避けて、我われの平和な社会生活・経済生活を持続・発展させて行くためには、国益や個人益に関して、一歩先を譲り合う精神を大切にすべきだという厳格な基本ルール=議会制民主主義と国際法の根本)を人類共通の公正・正義を実現し、戦争の多発を防ぎ、平和を実現し継続するために必須の法理として高く掲げるべきであることを学び取るために、おぞましくも数え切れぬほど夥しい数の殺人・戦争・虐待・拷問・テロなどを飽きることなく繰り返してきたことになる訳です。


今、我が国では「日本国憲法」を改正しようとする動きが大勢を占めつつありますが、仮に改正へ踏み切るとしても、先人らの血みどろの戦争の歴史の中で、我が国が漸く獲得し得た「平和原理主義的な理念」を捨て去ることについては慎重になるべきです。見かけ上のパワー・ポリティクスのみに目を奪われることなく、歴史から得た知恵に従って国家と人間の分を守ることを恥ずべきではないと思います。更に言えば、先に述べたような意味で、マキャベリズムは「君主」のためだけにあるのではない、ということです。恐らく、後述するオランダ・ベルギー思想の巨人たち、エラスムスもグロティウスらも、この辺りの機微は見ぬいていたはずです。


また、ここでは、「皇帝権・王権・領主権」のみならず「市民権」といえども、それは「生命力の本源的性質」のマグマに支配されるものであるから、もしも一切のコントロールなしで自由放任のまま捨て置かれた場合は、この「市民権」すらも暴走する可能性が大きいと考える立場を取ります。従って、人間の存在を単純な「性善論」で論ずることの限界はここにあることになります。しかしながら、人間は古代ギリシャの古典的「民主主義思想」(これは男女差別や奴隷制を当然とする未成熟な民主主義ではあったが…)によって、この「主権」(支配権力)を巡る闘争が、ある程度は制御可能だという知恵を手に入れることができました。


ベルギーの歴史家ピレンヌの「中世都市起源論」及び「商人定住説」によれば、12〜13世紀ころの「フランデレン(フランドル)地方と北イタリア」(ヨーロッパにおけるローマ時代の商業復活の二大基地)で近代資本主義の萌芽(資本家の勃興)が見られます。特に、フランデレン地方では毛織物工業で巨額の利益を得た商人たちが都市へ集中してブルジョア階層が逸早く生まれました。やがて、彼らは自らの勇気・才覚・努力で得た自立的な経済力を武器に領主に対して「市民権」と「自治都市の権利」を要求するようになります。これが、今に繋がる、グローバルな交易経済を背景とした「民主主義意識」の誕生です。


一般に現代の民主主義の根本とされる「法の支配の原則」は、絶対的な権力を持った国王に対しても慣習法(コモン・ロー)を遵守させようとする厳しい原則で、これは主に英国で発達したと理解されており、その契機となったのは「マグナ・カルタ(大憲章)」(1215)です。それは、英国王ジョンが領土問題や戦争に関する暴走で国益を害したことに対する、大商人と封建貴族たちの異議申立てです。大筋は、このような理解で良いと思います。しかし、それはフランデレンの経済的自立を自覚したブルジョア市民たちのグローバルな交易経済を背景とした要求とは少し意味合いが異なっていたようです。


ともかくも、このようにして芽生えた「法の支配の原則」を「主権者」たる王に対しても遵守させようとする被支配者側の意識(フランデレンの場合は「市民意識」)は、権利請願(英国、1628)、ピューリタン革命(英国、1642〜1649)、名誉革命(英国、1688〜1689)、権利章典(英国、1689)、ヴァージニア権利章典(米国、1776)、アメリカ独立宣言(1776)、フランス人権宣言(1789)、ワイマール憲法(独ワイマール共和国、1919)などの歴史を経ることで世界中の国民国家における市民レベルで共有されるようになった、というのが教科書的な説明です。


しかし、「法の支配の原則」と「自立的な市民意識」の関係について、一つの重要な出来事が見落とされています。それは、1477年にネーデルラントブルジョア市民たちがブルゴーニュの女伯爵マリーに『大特権』の要求を突きつけたという歴史的事実です。これは、イギリスの特権的な階級の人々(国王の家臣の中で特権を持つ人々)がジョン王に突きつけた「マグナ・カルタ」(大憲章/1215)や「ピューリタン革命」(1642〜1649)に劣らず、現代民主主義の基礎となった重要な出来事です。


その内容は、1215年に英国ジョン王が突きつけられた「マグナ・カルタ」に匹敵するどころか、それを遥かに飛び越えて現代の民主主義国家のフレームにも近い内容だったのです。シャルル・ル・テメレール(突進公)が「ナンシーの戦い」で急死すると、ブルゴーニュ公国の重い頚木から開放されたネーデルラント市民の代表たち(大商人ら)が以下のような内容の市民の特権(●)をマリーに認めさせました。


この「大特権」の要点をまとめると「ネーデルラント各州の完全な自治、市民主権(主権在民)の承認、可能な限りの中央政府の権限の制限」ということになります。そして、英国の「マグナ・カルタ」との根本的な違いは、「マグナ・カルタ」では「立法=市民、予算=議会、軍事=国王」の形で主権を分担しますが、このネーデルラントの『大特権』では、これら三つの権限がすべて君主(マリー)から剥奪され市民側(大商人たち)へ与えられたということです(この出来事の前後の歴史的経緯については、下記のブログ記事★を参照)。


★『toxandoriの日記、2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オランダ・総集編1
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060928


●代表権なくして課税なしの原則を徹底
●各州の承諾なしの新税は認めない
●マリーは各州の承諾なしに戦争を行わない(行った場合、各州はその戦争経費を負担しない)
●マリーは各州の承諾なしに結婚できない 
●重要な各州・行政府の役職は地元の人間に与える 
公用語オランダ語とする 
最高裁判所を設置し、裁判の控訴を認めて市民の人権を擁護する


ともかくも、このようなネーデルラントの「市民意識」の土壌があったからこそ「オランダ独立戦争」(1568〜1609)を遂行するという強烈な意志の結束が生まれ、それから時代を下ってからのことですが、“国際法の父”グロティウスの理念が結実(1899年、グロティウス“没後約250年”に第1回ハーグ平和会議で“国際紛争の処理に関する条約”成立したことによる)して「常設・仲裁裁判所」ができ、これを引き継ぐ形で第一次世界大戦後の1922年に国際平和維持機構として、常設の「国際司法裁判所」が開設され、同時に「国際連盟」(現在の国際連合は、この精神を継承している)が創設されたのです。


漸くここで、我われ人類は、革命的・抵抗的戦争という暴力的な手段に代わりに「主権」の暴走をコントロールしようとする世界市民の意志を実現するフレーム、つまり「法の支配の原則」(=法の下の平等/国家体制の次元で言えば、法の支配の原則に従う議会民主主義型の国家ガバナンス)を全世界的に実現する形と仕組みを手に入れることができたのです。


そして、このようなネーデルラント市民意識のなかに深く沁み込みつつ「法の支配の原則」と「国際法」を「国際司法裁判所」と「国際連盟」(国際連合)の形で具体化するための触媒的な役割を果たしたものこそがエラスムスの説いた「中庸の感覚」(=寛容の精神)です。従って、もし、ネーデルラントにおけるエラスムスの「中庸の感覚」(=寛容の精神)の伝統精神が存在しなければ、グロティウスの「国際法」も、あるいは「法の支配の原則」の意義も世界中の人々に理解されることはなかったかも知れません。


他方、ポルトガル王国、ハプスブルグ時代のスペイン、イギリス、フランスなどが世界の海を股にかけた大航海時代、及び近世オランダの黄金時代(16世紀末〜17世紀/前半は、ほぼオランダ独立戦争の時代と重なる)、レオポルド2世(在位1865-1909/アフリカ・コンゴ植民地での過酷な非人道的搾取が国の内外から激しい批判を受けた)時代のベルギー王国などが、過酷な植民地政策で行った残虐な殺戮と蛮行の歴史を想起すると、同じ彼ら欧米人の歴史プロセスの中から「法の支配の原則」と「国際法」という現代民主主義社会の重要な根本概念が同時並行的に生まれ出たことが奇異に感じられることがあるかも知れません。


しかし、まことに残念なことですが古代中国・インドや日本を含めたアジアの哲学・法思想など、いわゆる法制史が取り扱うべき分野の中から、この「法の支配の原則」に代わって権力者サイドの「主権」(領土・経済・資源などを利己的に占有する欲望と支配権力)の暴走を適切に制御するための知見(オルタナティブな概念)が生まれていないこと、あるいはそれを可能とするような歴史の積み重ねが存在しなかったことが現実です。


ただ、日本の歴史を概観すると室町〜戦国期の自治都市・堺におけるグローバルな交易文化(自立した市民意識の萌芽)、室町期の茶道・華道・歌道などの数奇文化、あるいは江戸期の実践哲学というべき陽明学・心学・経世論などの中に、あるいは明治期以降の岡倉天心鈴木大拙らの傑出した視野と慧眼の中には、今や行き詰まりを見せつつあるアメリカ型グローバリズムの中で苦悶する「法の支配の原則」(=西欧の精神文化における最高度の到達点)を補完し得る知見が、いくつか垣間見得えるように思われますが、この検討は先に譲ります。


ところで、中国古代の春秋〜戦国期に排出した諸子百家の中の法家・儒家などの流れを受け継いだと考えられる江戸期の朱子学にしても、結局は、アジア的(=アジアの頂点に君臨した中華帝国を中心とする柵封体制を補完するシステムという意味)な「有司専制国家」(=官僚専制国家)の一つであったと見なすことができる江戸幕府の政治権力を支える道具としての枠組みを超えて、全世界に通用する普遍的な法理・法哲学となることはできませんでした。


そして、古来から(神話時代いらい)の日本伝統のものと思われている天皇制が、実は中華帝国(中国)・皇帝の権威をライバル的に意識して対置した専制国家主義的な「正統性の創作」であったことは周知のとおりです(だからと言って、現在の平和的な民主国家・日本の象徴としての天皇の役割が否定されるべきものではありません)。その上、江戸幕府鎖国政策によって、日本は世界の近・現代への流れ(=自然法思想から導かれる“法の支配の原則”によって世界の諸地域が近代民主主義体制へ移行して行く時代の流れ)に乗り遅れることになった訳です。


<注>江戸幕府鎖国政策
江戸幕府は慶長8年(1603)の開府から慶応3年(1868)の大政奉還まで265年続いた。その間、鎖国政策は寛永16年(1639)からペリー来航(1853)までの将軍15代の間、約215年にわたり行われた。


別に言えば、心情的に(ホンネの部分ではという意味)中華帝国の正統性に頼り切っていた江戸幕府が、世界のリアリズムを敢えて無視して自己弁護的な一人よがりのリアリズムを創作した(でっち上げた)のが江戸幕府鎖国体制(一種の自閉的ナショナリズム)であったと見なすことができます。ただ、忘れてならないのは「古事記伝」を著した本居宣長が注目していた「もののあはれ」や「やまとだましひ」の本来の意味は、そのままでも掛け替えがないほど豊かな日本の風土の中から、自然発生的に麗しい国の形や倫理感、そして奥ゆかしく愛すべき国民の心性が生まれてくるという、いわゆる日本文化の根底にある「うつろひ」にまつわる芳醇な美的感覚であったということです。


ところで、この日本独特の「うつろひ」の感覚は、日本人のアナログ的(非デジタル)な感性を最大限に引き出した、非常に卓越した情報処理作業(伝達&プレゼンテーション能力)だと見なすことができそうです。そして、その典型的な表出の形は、例えば和歌、連歌、短歌、俳句、茶道などであり、これらの文芸作法が持つ大容量の情報発信力、瞬発的な情報発信力、高品質の相互情報伝達能力(高度の融和力を秘めたコミュニケーション能力)は、現在の最先端を走るIT・デジタル技術による情報伝達能力の比ではありません。


恐らく、これは、人間の脳内表象の利用についての全く異なった発想がもたらす、欧米文化と日本文化の質的な差異ではないかと思われます。オランダ人が、江戸時代の初め以来およそ400年にわたり長らく日本文化に対して並々ならぬ関心を持ち続けてきた理由の一つは、単なるエキゾシズムへの憬れということに止まらず、彼らには、このような意味できわめてユニークな日本文化の真髄をありのままに(=日本語をとおして)理解できる感性があるのかも知れません。なお、400年にわたる日蘭交流史については、別途、「オランダ・総集編4」で詳述する予定です。


しかしながら、このような日本古来のクオリア(参照、http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html)的な感覚(融和的な相互情報伝達能力)が、明治維新〜太平洋戦争期の「有司専制国家」を支えた政治家・官僚・軍人・御用学者らによって、それとは全く異質な偏狭でナルシスティックなナショナリズム感覚に作り変えられてしまったことは良く知られているとおりです。このような訳で、まことに惜しむべきことながら、日本を含めたアジアから西欧の自然法思想に代わり得る、全人類にとって普遍的な政治哲学や法思想あるいは法哲学などが生まれることはなかったのです。


なお、この稿で取り上げるべきものではない全くの蛇足の議論となりますが、日本古来のクオリア的な感覚(融和的な相互情報伝達能力)が、日本の歴史上のどの時点で決定的に偏狭なナショナリズムの道具へ書き変えられたかを検証することは重要な課題だと思います。それは、必ずしも、常識的に考えられているように明治維新期以降の「富国強兵策→日本軍国主義化→太平洋戦争突入」の悲劇的な流れの渦中で特異的に生まれたものではなく、もっと古い日本史の中で、しかもある程度長いプロセスの中で仕込まれたものと考えるべきかも知れません。


そして、仮にそれを日本史の中に仕込まれた、既述の「追憶のカルト」だと仮定すれば、実は、約60年前の日本の悲劇は、それが明確に息を吹き返したということであり、現在の日本の政治が急速に奇妙に捻れた形で「生政治」の時代へ突入しつつあるように感じられるのも、あるいは若年層の間で“慎太郎的な右寄りのアジテーション”が熱狂的に歓迎されるのも、再び、それが息を吹き返しつつある兆しなのかも知れません。いわば、過去5年間の小泉政権の中で培養された、そのような「追憶のカルトのクローン生殖細胞」が“安倍政権の子宮に着床した段階”かも知れません。


考えてみれば、このような「悪しきクローン細胞」は日本のみならず現代世界のあらゆる体制の国家(それが民主的国家であるか非民主的国家であるかの違いを超えて)の中で、それぞれの国の事情に応じた形で抱え込んでいます。時折、それは過激な右派活動の姿で間歇的に目覚め、各国の社会で波紋を広げることを繰り返してきました。そして、それが極端にグロテスクな一国型の姿で噴出したのが現在の北朝鮮問題だと思われます。


当然ながら、今は「法の支配の原則」(国際連合)の枠組みの中で人知を尽くしたギリギリの解決策への取り組みが行われていますが、唯一の外科手術的な緊急処置として、この「悪しきクローン細胞」を意図的に蘇生させ“有志連合化する”という「イラク戦争」で使われた「悪魔のシナリオ」が、今度は秘密裏に「法の支配の原則」を全く無視する形で起動する可能性が小さいとは言い切れません。この問題では、北朝鮮へ自らの政権の命運を賭けて公的援助を拡大しつつ多くの自国企業へ積極的な対朝投資を奨励してきたため抜き差しならぬジレンマに嵌ってしまった中国政府(現政権)の微妙な立場が気がかりです。恐らく、ロシアにもこれに似た事情が隠れていると思われます。従って、この問題への対応は、北朝鮮のみならず中国自身の現政権の土台を揺さぶる悩ましい問題へ発展する可能性があります。もしそうであるなら、それは日本との“靖国問題”以上の危機的要素という訳です。


恐らく、今の中国は北朝鮮というヴァンパイア(吸血鬼、あるいは業病を背負った疫病神)に取り憑かれ現政権の体制が北朝鮮の病巣と一部癒着しつつあるような立場であり、しかも陸続きで国境を接するという、その地政学的にも極めて接近した繋がりを考えれば、中国の軍事パワーによる電撃的な粛清作戦すら視野に入れざるを得ないかも知れません。しかし、そうなれば、周辺各国への飛び火による被害も拡大する恐れがあり、更にイランなどへ紛争が拡大すれば、恐らく世界は19世紀以前の際限なく戦争・紛争が連鎖した時代への後戻りを覚悟しなければなりません。しかし、だからこそ我われ一般市民の一人ひとりが、この危機的な状況は、日本の政治状況のあり方も含めて、それはまさに自分自身に直結する問題なのだというリアルな感覚を取り戻す必要があるのです。


ともかくも、今まで見てきとおり、このような世界各国の「追憶のカルト」が仕掛ける「悪夢のシナリオ」の出現を永久に封じ込めるためにこそ、16世紀ネーデルラントエラスムスが着想した“善玉のコレステロール”ならぬ「善玉のクローン細胞」が、中世〜ルネサンス〜近世〜現代というヨーロッパ史の流れの中でエラスムス、グロティウス、スピノザホイジンガ、ピレンヌらのオランダ・ベルギー思想界の巨人たちが息長く命がけで練り上げきた共通概念として、つまりネーデルラントの「寛容の精神」として、ヨーロッパの「文化と法制の中枢部分」にきわめて意識的に組み込まれたことが歴然と理解できるはずです。従って、現代世界におけるヨーロッパ文化の優越を決定づけたのはオランダ・ベルギー(ネーデルラント)の思想であると見なすことができる訳です。


(補足)現代社会の「生政治」的な現象の広がりについて


これまで見てきたことから、我われは、現代の世界が権力者サイドの「主権」(領土・経済・資源などを利己的に占有する欲望と支配権力)の暴走を適切に制御するための知見を具体化するために「法の支配の原則」に従うべきであること、そして国際関係と国際紛争の抑制・調停・解決のために「国際法」が存在すべきであることを一日たりとも忘れるべきではないことが理解できる筈です。別に言えば、現代社会において「主権の暴走」を制御できるのは「法の支配の原則」以外にあり得ないということを市民社会のメンバー一人ひとりが持続的に自覚する必要があるのです。


つまり、このような意味で現代の民主主義社会は、市民一人ひとりが精神的な意味での自覚的な闘いの中で掴み取らねばならないものです。本来、エラスムスが「オランダ独立戦争」の悲惨な現実(=戦争・戦闘・殺戮・虐殺・虐待)の推移の中で「寛容の精神の重要性」を自覚できた理由は、この点にあるはずです。エラスムスの壮絶な思考の精華(=最も美しく優れた部分)だけを安易に掠め取るような態度は許されないのです。このため、我われ一般市民が法の存在意義とその役割を忘れ去ったり、法を無視したりできないように、法学者・弁護士などの法律家は「法の支配の原則」を積極的に市民社会へ普及させるよう絶えず努力すべき大きな義務と役割を担っている筈なのです。


ところが、実際には、そのような確固たる理念を保持し続けている法律家は少なくなっています。それどころか、米国流ロー・ファーム(Law−Farm)の影響を受けたビジネス偏重のリーガル・マインドが流入するとともに、真実と正義判断の所在は二の次として、アグレッシブに裁判(攻撃的な裁判)での勝敗だけ、つまりファイトマネーのために競うことだけが全て(=最高善)であるかのような、いわば市場原理主義的な風潮が法曹界(特に弁護士の世界)でも広がっています。従って、これは「法の支配の原則」の危機的な状況と理解することができます。我々は、ここから現代社会では法そのものが溶解するかのような一種の眩暈感に襲われることさえあります。多重債務者などの弱者を餌食にする悪徳弁護士の跋扈が目立つのも気になるところです。


また、現代社会では「法の支配の原則」が機能する法社会(規範社会)で生き抜くための基本要件である「人間どおしの社会的コミュニケーション能力」と「ある程度の長さの言説の理解能力」及び「ある程度の長さの文章の読解能力」が劣化しつつあるような気配が感じられます。この一種の日本社会の幼稚化とも言える傾向は、年代層の違いなどを問わず広がりつつある一種の社会的な病理現象です。この現象の背景は、恐らくテレビ・新聞・雑誌などマスメディアの劣化・幼稚化と強い相関を持っているように思われます。


終ったばかりの「小泉政治なるもの」がワンフレーズ・ポリティクスとして国民一般から大いにもて囃されたことは記憶に新しいところです。今、それは安倍政権へのバトンタッチで再び幼稚な言説を代表するような、何事につけ、どっちつかずの曖昧なスタンスの「美しい国づくり」というワンフレーズに代わったようです。そして、大方の日本国民は実用的(プラグマティック)な意味での“政府の継続性”だけが民主主義国家における唯一で最高の価値だと思い込まされているようです。ともかくも、法とコミュニケーションを巡る、このような一種の関係性の揺らぎ現象が引き続いて見られる背景には、現代社会が“目の眩むような生政治(バイオポリテクス)の世界”へ入ったという現実があるようです。それは、日本国民の多くが一種の「空間識失調」の状態に嵌ったと言うことです。


「生政治」(バイオポリティクス/Biopolitics)は、ミシェル・フーコーMichel Foucault/1926〜1984http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC)が、著書『監獄の誕生』(1975)の中で言及する主要な概念の一つです。近・現代の国民国家の支配方法は、法制度という「外的」な基準の適用だけではなく、法制度や恣意的な政治権力の作用を「倫理面」のみならず各個人の深奥にある「内的」な無意識レベルまで巧みに浸透させるようになってきたと、フーコーは説明します。


彼は、これを「生政治」と名付けたのです。後になって、フーコーは政治権力による支配が各個人の倫理レベルまで及ぶとともに、その支配に対する「抵抗」もまた人それぞれであるとします。やがて、この議論は、これまでの社会集団的、マルクス主義的な社会運動とは異なる手法として、個々の人々の意識をより尊重することを主張する新しい社会運動であるゲイ・レズビアン運動、マイノリティ(社会的少数者)の権利の主張などと結びつくことになります。


ところで、この「倫理」が作用する人間の内面活動(意識主体が住まう精神環境)とは何であるかを現実的に見るならば、それは「人間の社会的なコミュニケーション能力」(コミュニケーション活動で表れる意識の変化・変容)の問題ということになります。更に、その場面を個別に見れば「芸術・文化の創作活動の現場、家庭内や教育の現場、地域社会の現場、少子高齢化・移民増加等人口動態などが変化する局面、ITユビキタスグローバリズム化が加速的に深化する局面、メディア(特にテレビ番組)における政治と芸能の癒着・融合現象の局面」などの様々な場面におけるコミュニケーションの変化・変質であり、そこでは、新たな、あるいは未知の形に変容したコミュニケーションの姿が出現します。そして、この「生政治」が先鋭化した場合、それは監視、脅迫、武力(軍事・警察・軍事)型弾圧、先制攻撃など様々な暴力の形となって、本来は「倫理」が差配すべき、これらの人間の内面活動の場面に強制的に作用することとなります。


いずれにしても、ポストモダン社会の大きな特徴の一つは、フーコーの「生政治」が予見していたとおり、本来であれば個々の人々の個性が立ち現れるべき「人間のコミュニケーション能力」(意識の変化・変容)が作用するデリケートな内部の精神環境へ、言いかえるなら、私的な「人間の精神環境の奥深く」へ暗喩的にひっそりと、又は明示的に、あるいは傍若無人に政治権力が介入するということです。そして、このような傾向の深化はIT・ユビキタス社会化や米国型グローバリズム社会の進展と無関係ではありません。仮に、このような傾向を「市民意識の溶解現象」と名付けるならば、マスメディアは、本来のあるべき役割(政治権力が暴走せぬよう客観的な立場から監視すること)を半ば放棄しています。それどころか、そのような社会の溶解現象を更に促進してゆくため、自らの触媒的な役割を積極的に担おうとする誘惑にも負けているのが現代のマスメディアです。


参考まで、現在、このような観点から斬新な論考に旺盛に取り組んでいる美学・美術史学の専門家、岡田温司氏(京都大学・総合人間学部教授)の新刊書『芸術と生政治』(2006年7月刊、平凡社)のプロローグから、関連する部分を一部引用(同書、p5〜6より)しておきます。


『1976年のコレージュ・ド・フランスでの講義「社会は防衛されなければならない」の最後を締めくくる第11稿の冒頭、ミシェル・フーコーは以下のように総括する。いわく、「19世紀の最も根本的な現象の一つは、権力の側からの生の負担とでも呼びうるものであったように思われる。お望みとあればそれは、生き物としての人間に対する権力の掌握、生物学の一種の国有化、あるいは少なくとも、生物学の国有化とよびうるものへと向かう一定の傾向であるといってもいだろう」と。…途中、略…同じく1976年に刊行が始まった未完の大著「性の歴史」の序論「知への意志」のなかでもすでに、フーコーは、簡潔にこう喝破していたのである。「近代の人間とは、己が政治の内部で、彼の生きて存在する生そのもが問題とされているような、そういう動物なのである」。30年前にフーコーが提起した問題は、今日、乗り越えられるどころか、ますますその真価を発揮しつつある。より大きな自由を獲得するという名目のもと、セキュリティの戦略が作動し、より大きなコントロールが介入しているというのが、いつわらざる現状であろう。一方でいたるところに張り巡らされた監視カメラが、他方で大量に消費される医薬品が、私たちの生の様態を規制し管理し、共通の幸福(福祉)というアイギスの盾(Aigis/ギリシア神話で大神ゼウスが娘アテナに与えた防具/すべての邪悪を払うとされ、楯であるとも、肩当てまたは胸当てのようなものであるとも伝えられる/アイギスギリシア語の読みで、英語読みではイージス/米海軍が開発した対ミサイル迎撃システムを装備したイージス艦の語源)のもとで徴収されたコンセンサスが、自由と抑圧との境目をますます見分けにくいものにしている。フーコーがいち早く見ぬいていたパラドクスを、私たちは今も生きている。…後、略…』


今、北朝鮮の核実験という暴挙がもたらした危機意識の波紋が日本全体へ広がる中で、日本の一部の政治家と国民層の一部(特に、現実の戦争を知らぬが故に、恰もそれは他人事であるかのようなゲーム感覚的なノリで理解する若い世代層)から彼らの恐るべきほど単純なホンネが聞こえてきます。いわく“北の核実験は発足したばかりの安倍政権の追い風になった”、いわく“日本も「先制攻撃体制を構築するため」のインテリジェント・システムを装備すべきだ”、いわく“日本政府がイラク戦争大義を支持したのは現実的に見て正しい(この見解を示すのは当事者であるブッシュ政権を除けば、恐らく世界中で日本政府だけとなっている)”、いわく“日本も、本気で核武装を検討すべきだ”(この主張は、変節する以前の現・安倍首相の持論でもあった)、いわく“もっとフレキシブルに軍事力の行使ができるよう日本国憲法を改正すべきだ”云々…。


ここで見られる現象は、明らかに日本の政治権力者たちと大方の日本国民の知的・精神的な退行現象または一種の痴呆化(太平洋戦争時代より以前への先祖帰り)です。これこそが、日本の「生政治化」(バイオポリティクス化)がもたらす最大の害毒です。このため、我われは、再び真摯に「法の支配の原則」が導かれた歴史のプロセスを原初(その概念が人類共通の宝であることが漸く理解され始めた頃の出発点)から光を当て直して学ぶ必要があるのです。繰り返しになりますが、歴史から得た冷静な知見に従い、政治権力者がマキャベリスティックに操作する見かけ上のパワー・ポリティクスの背後を見据えながら国民一人ひとりが自らの分を地道に守るのは民主主義国家・日本にとって恥ずべきことではありません。


「美しい」だけの厚化粧で飾り立てられ天空に飛翔するヌエ(鵺)の如き「追憶のカルト」に忠誠を誓うばかりが愛国心ではなく、日本国民の一人ひとりが冷静に分をわきまえつつ、自ら闘い取った「民主主義と平和」の中で生産活動に励みながら、日本の「主権者」として、しぶとく生き抜くのも立派な「愛国心」の形です。マキャベリズムは「君主」のためだけにあるのではないのです。恐らく、エラスムスもグロティウスも、この辺りの機微は見ぬいていたはずです。


[予告] 「オランダ・総集編」は、未だ[総集編3]と[総集編4]があります。そのスケルトン(予定)は下記のとおりです。これは急がずゆっくり取り組み、早くても年内での完成をめざすつもりです。


[参考情報]2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オランダ・総集編3


[ドイツの反省とEUにおけるユーロコーポラティズムの可能性]


(ドイツによる「追憶のカルト」の克服=「理想」の復活による「対カルト免疫力」の強化)


EU理念の誕生=ドイツの反省とオランダ・ベルギー思想の融合)


(ユーロコーポラティズムの実験)


[参考情報]2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オランダ・総集編4


[日本に巣食う「追憶のカルト」の系譜]


(「追憶のカルト」の淵源)


(日欄400年交流史の概観=オランダ・ベルギー思想の核心を無視し続けた400年)


(「美しい国=曖昧な偽装の美学」による「追憶のカルト復権」の危機)