toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

[参考情報]秋の色、京都の紅葉/京都の紅葉情報

【画像の解説】

真如堂の紅葉です。この画像はtoxandoriaの友人、Mr.Kamataのご提供によるものです。

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今年の京都の紅葉はほぼ例年並のようで、早いところでは今月下旬から始まるとの予想が出ています。詳しくは、下記のURL(★紅葉情報、ブログ)をフォローしてください。

★そうだ京都、行こう/京都、紅葉情報
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/doc/momiji

toxandoriaの勝手な思い込みですが、京都の紅葉のお勧めスポットをご案内します。以前に作成したものを手直ししたページがあります。

下記のURL(◆)をご参照ください。特に、清水寺のライトアップは感動ものです。

◆秋の色、京都の紅葉
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/tokubetu.htm

(参考)各お勧めスポットの概要(縁起・事跡など)

清水寺

京都市東山区にある寺で、山号音羽山。1885年まで法相・真言兼修の寺であったが、太平洋戦争後は北法相宗の総本山となっている。798年(延暦17)に、坂上田村麻呂が延鎮を開山として建立させたと伝えられる。805年(延暦24)桓武天皇御願寺となってから維新まで、朝廷や幕府の厚い保護が続いた。征夷大将軍として蝦夷討伐に向かった坂上田村麻呂(伝、中国からの帰化人)は、恭順の意を示したアテルイ平安時代初期に東北地方一帯を支配していた蝦夷軍の領袖)を京都まで連れてきたが、朝廷側はこの田村麻呂とアテルイの和平交渉の意図を裏切って、アテルイを騙まし討ちし、鴨の河原で斬首の刑に処した。このアテルイの鎮魂のため田村麻呂が清水寺の開山に尽力したと伝えられる。

真如堂

京都市左京区浄土寺真如町にある真如堂は、永観2年(984年)に戒真上人(一条天皇の母・東三条院藤原詮子の依頼で)が比叡山阿弥陀如来像を移して創建した天台宗の真正極楽寺)で、応仁の乱(1467〜1477)では東軍の陣となったため諸堂が全焼し、現在の堂宇は江戸時代中期の再建によるもの。

永観堂

京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山で、山号を聖衆来迎山、院号無量寿院といい一般には永観堂の名で親しまれる。空海の弟子真紹が、仁明天皇の厚遇に報いるため、855年(斉衡2)、一宇を建立して五仏を安置し鎮護国家の道場としたのが初めで禅林寺と称した。承暦年中(1077‐81)に永観(深観の弟子)が入寺し、一角にある東南院に幽居して『往生拾因』などを著し念仏宗を唱え往生講を勤修した。このため、禅林寺真言浄土の寺となった。1082年(永保2)永観は念仏行道のときに弥陀顧命(みかえり=見返り観音像)の相を感得して本尊としたと伝えられる。やがて、禅林寺は、この中興の祖である永観の名をとり永観堂と呼ばれるようになった。

南禅寺

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の総本山で、竜安山禅林禅寺と号したが正式には太平興国南禅禅寺である。1264年(文永1)に亀山天皇は現寺地の東山山麓離宮を営んで禅林寺殿と称し、後に禅宗に帰依した。1291年(正応4)に東福寺から無関普門(大明国師)を開山に招いて、この離宮を寺に改めた。その後、普門の後を継いだ規庵祖円(南院国師)が勅を受けて伽藍造営に着手した。1293年(永仁1)に仏殿が、1295(永仁3)年に僧堂が、そして三門や法堂相次ぎ完成して、14世紀初頭には七堂伽藍が完備した。

東福寺

京都市東山区にある臨済宗東福寺派の本山で、山号は恵日山。開基は九条道家で開山は円爾弁円(聖一国師)で京都五山の一つとされる。1236年(嘉禎2)に関白九条道家は法性)寺の近隣の「月輪の山荘」に一寺の建立を発願して、1239年(延応1)に仏殿建立に着手した。道家は、この寺を東大寺興福寺に擬して両寺から1字ずつをとり東福寺命名した。1255年(建長7)、道家の発願以来20年を経てようやく落慶開堂が行われた。諸堂が完成したのは道家の没後の1271年(文永8)であるが、この寺の建立は当時の藤原氏の総力をあげての事業であった。

泉湧寺

東山三十六嶺の「月の輪山」の麓にひっそりと佇む泉湧寺は、天長年間に弘法大師空海(774〜835)がこの地に庵を結んだことに由来するとされる。初めは法輪寺と名付けられ、一時、「仙遊寺」と改称されたが、建保1206年(1218)に月輪大師俊?が、中国・南宋の方式を取り入れてこの地に大伽藍を営んだ。やがて、寺地の一角から清水が湧き出たことで寺号を泉湧寺と改めたが、この泉は今も枯れることなく湧き続けている。仁治3年(1242)に四条天皇が葬られてから、歴代天皇がこの地に御陵を営むようになり、その後、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めてきた。

常寂光寺

安土桃山時代の1596年(慶長元年)に本圀寺(ほんこくじ)第十六世の日蘅上人が、この地に隠棲した庵が由来とされる。元和年間(1615〜1624年)に堂舎が建立されて、日蘅上人の隠退所が寺院となった。眼下に嵯峨野を見おろす景観が比類なく美しい感動を誘う。このため、その閑静な小倉山の地が“まさに常寂光土のように美しい趣きをもつ”と見做されたことに由来して「常寂光寺」と称された。常寂光寺は百人一首の選者藤原定家の時雨亭があった場所ともされている。なお、常寂光土とは、仏心に帰依することで目前に体感できる“今ここにある浄土”のことであり、この考えは天台大師(智邈)の説とされており、娑婆即寂光土とも表現される。

今熊野観音寺

今熊野観音寺の起源は、大同2年(807)、弘法大師空海(774−835)が熊野権現の霊示を受けて東山三十六峰今熊野山の地に庵を結んだこととされる。それは、空海が中国・唐で真言密教を学んで帰国した翌年であったとされる。 弘仁3年(812)に、空海嵯峨天皇から官財を賜わり、勅旨を奉じて諸堂を造営したが、更に左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られた。その造営事業は、緒嗣の没後も続けられることになり、亡父緒嗣の菩提のための事業として藤原春津に受け継がれ、斉衡2年(855)に漸く完成した。