toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

安倍政権内における“皇道派と統制派の暗闘”を許す「メディアと民度」の劣化

映画『上海の伯爵夫人』、Bunkamuraル・シネマ他にて全国拡大ロードショー
公式ホームページ、http://www.wisepolicy.com/thewhitecountess/


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【2006.11.1、関連情報の追記】
 2006.11.01付・東京新聞中日新聞)、記事より
 「9条、時代にそぐわぬ」安倍首相が在任中の改憲意欲
 http://www.chunichi.co.jp/00/sei/20061101/mng_____sei_____000.shtml


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まるで萎えきったような風情の主要メディアを尻目に、東京新聞中日新聞)の2006.10.29付・社説『週のはじめに考える/バーチャルな改憲論』(http://www.chunichi.co.jp/00/sha/20061029/col_____sha_____000.shtml)は、戦争をしなかった国が、いつの間にか戦争ができる仕組みを持つようになる様を描いた絵本『戦争のつくりかた』の制作に協力した翻訳家・池田香代子氏の“戦争は戦争の顔をしてこない”というコトバで印象深く結んでいます。それは、政権就任後の安倍首相が、現実的には靖国神社参拝問題を封印する一方で、相変わらず“教育基本法改正、日本国憲法改正及び共謀罪制定などへの強い意思”を明らかにしていることから、我われにとって安倍政権の実像がますます見えにくくなっていることを鋭く分析し指摘しています。


ところで、このようにつかみ所がない「戦争と平和を巡る異様な社会的雰囲気の広がり」を近代史の中で探ってみると、我が国を取り巻く諸条件や環境が当時とは全く異なるとはいいながらも、それは我が国でファシズム思想が強まりつつあった1930年代の空気に非常に良く似ていることに驚かされます。そして、この二つの時代に共通する現象の一つは新聞等の主要メディアが時の権力へまるで傅(かしず)くかのように、殆んど取り込まれ統制を受けていることです。特に、最も影響力が大きい現代のメディアであるテレビは傅くどころか率先し、嬉々として時の権力の広告塔の役目を担っているようです。その結果、ごく少数の人々の“冷静な眼”を除けば、一般の人々にとってはとても理解しがたい異様な空気が日本国中に充満しつつあります。


別に言えば、今や主要なメディアが萎えたように精気を失っているため「今、我われ一般国民が認識できるものは『北朝鮮の暴走』(地下核実験やミサイルによる脅迫)と安倍政権の中枢から度重ねて力強く発信される『日本核武装論』だけが極東における唯一のリアリティであるかのように」思い込まされ始めています。しかし、我われ一般国民は、実はこのような状況が、どこか異常であることに少しでも早く気づくべきです。果たして、我われの選択肢は、もはや『日本核武装論』しかあり得ないのでしょうか? 我が日本が、人類史上で初めて内外の莫大な人命の犠牲の累積の上で漸く到達し得た、民主主義の最高地点である『平和憲法』を、それほど気前よくアッサリと捨て去って本当に良いのでしょうか?


まさに、これは「民主主義国家・日本」(=日本の一般国民)が自分自身で自らの運命の矢を放つべき「自己責任の問題」であり、その決め手となるのは他ならぬ「我われ一般市民の主体的な意志」であることを忘れるべきではないでしょう。つまり、現代の成熟した民主主義国家においては「一般市民の意志の総体」としての「民度の高さ」が重要な役割を演じるべきなのです。そして、この「民度」の担い手である一般市民層へ「中庸で良質なインテリジェンス情報」を公正かつ客観的な立場で提供するのが新聞等のメディア(ジャーナリズム)の本来の役割であったはずです。


これに先立ち、同じ東京新聞の特集記事(2006.09.23付・特報)『安倍新政権にメディア戦々恐々?』は、安倍政権があからさまにメディア規制を強化しつつあることを分析しています。その要点を下に抽出しておきます(http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060923/mng_____tokuho__000.shtml)。一方、たまたま発表されたばかりの「国境なき記者団」(http://www.rsf.org/article.php3?id_article=19388)による「各国別、ジャーナリズムの自由度の順位」が(参照、下記のデータ&引用記述)、この特集記事の分析を傍証しているようで不気味です。このデータを見ると、「2001.9.11同時多発テロ」以降の日米同盟の絆の深まりが日本の右傾化を後押ししてきたことが分かります。特に、日本独特の閉鎖的な記者クラブ制度(一種の官製談合組織)と右翼によるジャーナリズムへの圧力が一向に改善されないことが、日本のジャーナリズムの自由度についての評価を著しく下げたようです。


日  本:2002年(26位)→ 途中略 → 2005年(37位)→ 2006年(51位)
アメリカ:2002年(17位)→ 途中略 → 2005年(44位)→ 2006年(53位)


(日本の順位が著しく下がった背景/Reporters without Bordersの分析記事から一部引用)


Rising nationalism and the system of exclusive press clubs (kishas) threatened democratic gains in Japan, which fell 14 places to 51st. The newspaper Nihon Keizai was firebombed and several journalists phsyically attacked by far-right activists (uyoku).


●首相になる前から、安倍首相のメディアに対する“開放度の低さ”と“強硬な統制的姿勢”が目立っていた


安倍氏のそのような姿勢が特に目立ち始めたのは、2003年9月に自民党幹事長へ就任した時に一致している


(toxandoria注記:現在、自民党の幹事長の地位にあるのは、現・安倍政権のプロデューサーとされる中川秀直氏/同氏は元・日本経済新聞の政治部記者、つまり現政権の黒幕が新聞ジャーナリズム界の出身であることになる/ここには「自民党→新聞各社、総務省→テレビ各局」の見事な恫喝システムの構築が見られる)。


・・・衆議院選の直前(2003年11月)に、テレビ朝日が番組の中で民主党の閣僚構想を長く報じたことに抗議し、開票当日に同局への党幹部の出演を拒否した。この時は、BRC(放送と人権等権利に関する委員会/報道被害者の救済機関であるBPO放送倫理・番組向上機構)内の組織)に安倍幹事長の名で審理が申し立てられた。


・・・TBSとテレビ朝日年金問題の放送(2004年7月の参院選の時)について、“政治的な公平・公正を強く疑われる番組がありました”という内容の文書を報道各社あてに200〜300通も送りつけた。


・・・同選挙戦の最中に「みどりの会議」の中村敦夫代表のHPに掲載されたマッド・アマノ氏(パロディスト)の作品に対して「安倍幹事長名での厳重な削除要請」を通告した。


・・・2005年8月、自民党は「NHK番組改編問題」で朝日新聞の資料が外部へ流出したとして、同紙による記者会見以外での党役員に対する取材を事実上拒否し、同年9月の衆院選でも造反議員への対立候補を敢て“刺客”と呼ばないようにとの文書を報道各社へ送った。その後はテレビ局を監督する総務省からのチェックと厳しい要求も増え始めた。


●不気味なのは、これら一連の動き(メディアを通して反論せず、BRCや司法へ直ぐに訴える傾向/脅しや脅迫に近い圧力をかける手法)と併行して、これらと直接の関係はないとしながらも、例えば靖国参拝問題に批判的であった加藤・自民党元幹事長の実家が放火されたように、政権中枢へ批判的な立場の人々に対する暴力的な攻撃事件が目立ち始めたことである。


●このような傾向に対してはメディア論の専門家からも警鐘の声が出始めている。例えば、上智大学の田島泰彦・教授は、安倍政権が“反対も根強い改憲共謀罪制定への意思”を明らかにしていることに関連して「小泉政権はメディアを利用しようとしたが、安倍政権は意に沿わないメディアへ直接介入してくる恐れがある」と懸念を示している。


●また、同氏は「取材からの排除や訴えられることが度重なると、疑念や真実を問う内容を報じる記者が社内で疎んじられかねない。NHK番組改編問題でも、取材した朝日新聞の記者や告発したNHK職員は、その後に異動になった」と、既にメディア側での萎縮が始まっていることを指摘している。


周知のとおり、1930年代の日本では、軍部が中心となってファシズム思想が強まり、彼らは「昭和維新」(=昭和の改革)を合言葉にファシズム的な国家改造を夢見ていました。そこで、彼らはワシントン体制(1921年ワシントン会議と四カ国条約を前提として日本の独占的な中国進出が抑えられた/1930年代の東アジアを巡る国際協調体制)を前提としつつ英米と協調しながら日本の国際外交の展開を構想する政治勢力を「現状維持派」として蔑み、自らを「改革派・革新派」と位置づけたのです。そして、対外的には軍事力強化による東アジアでの覇権を目指し、国内的には神格化された天皇を前面に押し出して政党政治(議会制民主主義)を押さえ込もうとしたのです。ここで見られるのは、異分子的な考えや一切の批判を許さぬという、国家ぐるみの「強圧的なイジメの構造」です。


一方、このファシズム体制の中核となった日本陸軍の内部では「皇道派」(天皇に直結した昭和維新を実現しようとする、やや観念的・直情的な青年将校らが中心の勢力)と「統制派」(観念的な皇道派に対し、現実的でファシズムへの論理的なプログラムを持つ一派/その中心は東条英機、片倉衷、永田鉄山らで、謂わばこちらが本家・本命の確信犯的な「日本伝統の追憶のカルト」であった)の対立が深刻化していましたが、遂に1936年2月26日(昭和11年)、右翼(北一輝西田税ら)と結び皇道派の軍事政権の樹立を目指した青年将校たちが、歩兵第1・第3連連隊及び近衛歩兵第3連隊ら千数百名の兵士を率いて、クーデタ「二・二六事件」を引き起こします。彼らは、内大臣・斉藤実、大蔵大臣・高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害し、首相官邸・東京朝日新聞社などを占拠しました。


結局、これら青年将校らの反乱は鎮圧されますが、クーデタの勃発当初に反乱を容認するかのような態度と措置を取った陸軍首脳部は、自らの失態を隠蔽し、事件に対する国民からの非難を逸らすために青年将校らを速やかに極刑に処す決定をします。このため、クーデタにかかわった青年将校らは“一審制・非公開・弁護人なし”の「特設軍法会議」で死刑の判決を受け処刑されます。また、一連の粛清人事によって皇道派系の分子は悉く排除され、寺内寿一・陸相らの「統制派」が実権を掌握し、次いで成立した広田弘毅・内閣のときには「軍部大臣現役武官制」(1900年(明治33)に山県有朋・内閣で制定されたが、1913年(大正2)の山本権兵衛・内閣で廃止されていた)が復活し、これ以降、軍部は内閣の死命をその一存で制することになります。その後、広田弘毅・内閣は「国策の基準」(北方進出と南方進出の基本構想)を決定し、そのための大規模な軍事拡張政策を推進することになります。


この「二・二六事件」の経緯から透けて見えるのは、一枚上手であった「統制派」が観念的・直情的な「皇道派」のクーデタを狡猾に利用して“殆んど批判を浴びることなくカウンター・クーデタ”を首尾よく“合法的に成し遂げた”ということです。この辺りは、ヒトラーが一般国民の圧倒的な支持の下で“合法的にナチス政権を樹立した”プロセスと酷似しています。彼らは、これによって「皇道派」を抹殺・粛清するとともに英米と協調する形での日本の国際外交の展開を構想するリベラルな政治勢力であった「現状維持派」に対して圧倒的に優位な地位を獲得するとともに、国民一般から大きな支持を得ることにも成功したのです。


このことは、本物の「追憶のカルト」(日本の歴史の中で培養されてきた武断的・国家主義的・ファシズム的な思想の系譜)が非常に強(したた)かであることを示唆しています。また、これら「追憶のカルト一派」には一定時間内での結果を急ぐという傾向、及び一種のエリート主義・貴族主義的な特異な意識(=大半の一般国民を蔑視するという特異な意識)を持つという傾向が見られます。喩えれば、これは「イラク戦争への突入」を急ぎ過ぎたアメリカのネオコン一派の先制攻撃論的な傾向と共通するものです。


なお、このネオコン一派の多くが、少数のエリートによる「永続革命」を夢見たトロッキスト(極左)の転向組であることは周知のとおりです。そして、今の日本において、このような意味での倒錯的なアリストクラシー(寄生的職業の世襲によって、脳内環境が歪んでしまった視野狭窄的な貴族・選良階層意識)を身に帯びているのが、小泉・安倍・麻生・中川(昭一)ら二・三世の国会議員たちです。従って、特に留意すべきは、彼ら世襲議員たちが決して「一般国民のリアリズム」(=一般国民の現実生活)を見て(理解して)いないということです。つまり、彼らが見ているものは「世襲的な寄生的職業の眼を通して構築された、まるで「劇画や漫画」(麻生外相が嵌っている!)か「ゲームソフト」のようなヴァーチャルリアリティ」に過ぎないのです。


ともかくも、このように見てくると、“魑魅魍魎の人材を数多く抱えながら、美しい国という飾り言葉の下で、いい加減な曖昧さを前面へ押し出した安倍政権の異様で分かりにくい政治スタンス”には非常に危(あやう)い臭いが立ち込めています。その内心は、上で見たように露骨な形でメディアへの統制を強める一方で、一般国民の顔色(=支持率調査と投票行動の動向)を狡猾に窺うというところでしょうが、その舞台裏では“現代版の皇道派と統制派の暗闘”が行われている節があります。


そして、日本国民(日本の一般市民層)のために民主政治の充実を図ることなどはそっちのけにした上で、日本の真の国益にとって無関係な彼らの仲間内での暗闘を許しているのが「メディアと民度」の底なしの劣化傾向です。因みに、現代における皇道派と統制派の「暗闘の舞台」を提供するマグマ(=「追憶のカルト」の揺籃を提供する黒幕的な活動)を具体的に垣間見ておくと、次のようになります。


・・・歴史検討委員会、日本会議国会議員懇談会神道政治連盟国会議員懇談会、旧・終戦50周年国会議員連盟、(日本の前途と歴史教育を考える)若手議員の会超党派議連・歴史教科書問題を考える会教育基本法検討特命委員会、etc


日本の民主主義の根本を巡る問題が深刻なのは、このようなメディアの劣化傾向に加えて「民度の劣化」を象徴するようなカネ絡みの醜悪な事件が後を絶たないことです。そして、あの耐震擬装事件では上層部への捜査がウヤムヤのまま幕引が行われたことからも分かるように、近年は国会議員レベルのガードがより固くなったこともあって、特に地方自治体の官製談合事件絡みで「民度劣化の証拠となるリアルな醜態」が露呈しています。


例えば、福島県発注工事(今も捜査が続行中)の「官製談合を巡る一連の汚職事件」では、逮捕された佐藤栄佐久容疑者(前知事)の元秘書が、東京地検特捜部の事情聴取に対して「2004年の前回知事選挙で、県議に約2億円の裏金を渡した」と供述しています。また、この前知事の各選対支部には500万円前後(総額で数千万円)の現金が配布されており、更に、この他に各市町村ごとに開設された選挙事務所などにも選対支部とは別ルートで現金が蒔かれています。しかも、この前知事が権勢を誇った18年間の各選挙のたびに1億5千万円〜2億円の裏ガネが県内でバラ蒔かれてきたことが、関係者の証言で明らかになっています(2006.10.29付・河北新報)。


これは、日本の選挙の吐き気を催すほど醜悪きわまりない実像です。しかしながら、それは決して福島県だけの特殊事情ではなく、全国の自治体選挙と国政選挙にかかわり蔓延している「日本の民度の劣化」の実に情けない現実なのです。しかも、26日に公示された、新しい福島県知事を選ぶための知事選挙では、古い保守地盤の奪い合いを巡って、自民党民主党の間で“醜悪きわまりない仁義なき暗闘”が繰り広げられているようです(2006.10.27付・日本経済新聞)。同記事は“選挙の幅を広げた有権者の無名のカンパが実現して法定費用内で選挙が収まるようになれば日本の選挙の風景は名実ともに一新するだろうが、今のように清潔やクリーンのスローガンが叫ばれるだけでは、ヤミ献金や贈収賄はなくならないだろう”と分析しています。


まさに、“日本の真の民主主義実現”への道程は遠いようです。これは前にも書いたことです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061026)が、「このようにダーティな選挙の現実」と「余りにも低過ぎる投票率」(これもhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061026で書いたことですが、投票率が60%未満の選挙結果は統計学的に見れば殆んど無意味に近い)を勘案すると、“2006.10.23付の各紙朝刊が伝えた「衆院2補選=自民完勝!」の大きな活字の内実”はひどく怪しげなものに見えてきます。



しかも、その少数(対有権者総数で30〜50%程度)の投票者のうち約1〜2割ほどがカネで(直接的な利害関係を含めた買収的行為に釣られて)投票行動を決めている可能性があるとすれば、一体、この日本は本当に民主主義の国だと言えるのでしょうか? このため、全てが今のままであるならば、今後の日本にとって相応しい飾り言葉は安倍総理が好きな「美しい国」でも「クリーンな民主主義国家」でもなく、精々のところ「プレタポルテ型民主主義の国・ニッポン」です。それは、殆んどの国民が「カネだけで行動を決めるプロ政治家とプロ選挙民」の言い成りになる国家です。それは一般国民が主権を放棄した「お任せ民主主義の国」に他なりません。


二・二六事件」が起こった翌年の1937年7月7日(昭和12)に、日本軍は北京郊外(「北清事変」(1900年)後の1901年に締結した北京議定書で日本軍は北京郊外での駐屯権を得ていた)で中国軍の発砲を受けたことを口実に軍事行動を開始し、それは日中両国軍の本格的な軍事衝突である「盧溝橋事件」に発展します。この時、近衛文麿内閣は現地での停戦協定を無視して大軍の派遣を決定したため日本は全面的な侵略戦争へ突入します。これが宣戦布告のない戦争と呼ばれた「日中戦争」の始まりです。一方、中国側では、この戦争が始まった直後の1937年9月に蒋介石毛沢東の率いる中国共産党の合法的地位を承認して「第二次国共合作」(対日民族統一戦線)が成立します。その後、日本軍は1937年12月に国民政府の首都・南京を占領しますが、この時、日本軍は略奪・放火・暴行を行い一般住民と捕虜の大量虐殺事件である「南京事件」を引き起こしました。


ところで、丁度この1936〜1937年あたりの時代を舞台にした映画『上海の伯爵夫人』(監督:ジェームズ・アイヴォリー、出演:レイフ・ファインズナターシャ・リチャードソン真田広之(注1))が10月28日から公開(bunkamura・シネマ他にて全国拡大ロードショー)されています。この映画は英国人作家カズオ・イシグロ(日本人だが英国に帰化した作家/これも同じ監督で映画化された名作『日の名残(なごり)』で英国最高の文学賞であるブッカー賞を受賞/注2)が脚本を書き下ろした、名匠ジェームズ・アイヴォリー監督(注3)の最新作です。1936年、上海の租界地区のクラブ(レイフ・ファインズ(注4)が演ずる盲目の米国人元外交官が経営)に集う謎めいた人々、共産党員、国民党員そして日本人・・・。この時代のエキゾチックな雰囲気の大都会・上海の風景をアイヴォリー監督はノスタルジーに満ちた映像美で再現します。ストーリーは、このように極東全体に暗雲が漂い始めた頃の上海を舞台にした盲目の米国人元外交官と伯爵夫人(ナターシャ・リチャードソン、注5)の深い愛の物語ですが、ラストシーンでは戦争の悲惨さ、愚かしさがリアルに痛々しく描かれます。


この主人公たちに絡む謎の人物・マツダを演じる真田広之は、彼が主演した映画『亡国のイージス』(注6)での先任伍長イージス艦の現場と全ての機能を熟知したプロフェッショナルの役柄)や『たそがれ清兵衛』(注7)の役柄、つまり彼がプロであるからこそ誰よりも人間的な目で現実と向き合って生き抜くという役柄を再び好演しています。ジェームズ・アイヴォリー監督はアメリカ人ですが英国のロンドンを拠点に活動しており、ハリウッド的な映画文法に距離を置く人物です。彼は非常に個性的な多くの傑作を手がけていますが、中でも『眺めのいい部屋』(1986年作品、出演: ヘレナ・ボナム・カータージュリアン・サンズ、ダニエル・ディ・ルイス(注8))、『ハワーズ・エンド』(1992年作品、出演:アンソニー・ホプキンス、ヴァネッサ・レッドグレーブ(ナターシャ・リチャードソンの母/注9)、『日の名残』(1993年作品、出演:アンソニー・ホプキンスエマ・トンプソン(注10))などの人間存在を重厚に、そしてしっとりと描いたリアルで稠密な映像美が忘れられません。


(注1)http://www.walkerplus.com/movie/report/report4522.html
(注2)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B0%E3%83%AD
(注3)http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/typs/id10237/
(注4)http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail?ty=ps&id=41237
(注5)http://csx.jp/~piki/richardson-p.html
(注6)http://aegis.goo.ne.jp/story.html
(注7)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000083YBU
(注8)http://coda21.net/eiga3mai/text_review/A_ROOM_WITH_A_VIEW.htm
(注9)http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005L95F
(注10)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000CEGVV6


映画『上海の伯爵夫人』のマツダは日本軍のスパイですが、彼自身の心中には国を想う心と自分のミッションに対する強い誇りがあります。一方でマツダは、祖国・日本のためとはいえ自分の目の前にある美しい上海の街を焼いたり、友情を交わすアメリカ人の元外交官ジャクソンと伯爵夫人ソフィアを裏切るようなことに酷く心を傷め悩み抜きます。この映画でもそうですが、ジェームズ・アイヴォリーの映画の主人公たちにはある共通した特徴があります。彼らは、たとえどのような星の下にあるとしても、常にひた向きに、そして誠実に自分の目前のリアリティーを凝視し、いつでも相手や周囲に対して十分過ぎるほどの思いやりを持つことができる強い人間として生き続けるのです。


例えば、『日の名残』のスティーブンス(アンソニー・ホプキンス)は斜陽貴族である主人ダーリントン卿に仕える執事ですが、彼は自分の残された人生を徹底的にプロフェッショナルに、そして不器用なほど誠実にプロとしての自分が見える現実に向き合って生き抜こうとします。これらの映画には、いわばジェームズ・アイヴォリー監督の人生観のようなものが投影されており、それが英国の良き伝統を象徴する個性的で華麗な映像美を通し鑑賞者の胸中に迫ります。それがアイヴォリーの映画ファンにとって堪らないほどの魅力になる訳です。そして、敢て一つのコトバで言い表すならば、それは、人間なら誰でもが自分なりの「diginity」(誇り、品位、気品、尊厳)を大切にするべきだということです。それこそが、普通の人々にとってのリアリズムであり、そのような意味を理解して生きることが人間の本当の幸せなのだとアイヴォリー監督は主張しているように思われます。


今や、我が国では「追憶のカルト」に囚われ美しく勇ましい飾り言葉の影にファシスト的情念を滲ませた世襲政治家たちが政界の中枢を跋扈しています。また、安倍政権内における“皇道派と統制派の暗闘”を許すほど「メディアと民度」の劣化が進む中で「日本核武装論」が実しやかに囁かれるようになっています。だからこそ、ここで再び我われは『戦争における人殺しの心理学』(ちくま学芸文庫)の著者、デーヴ・グロスマン氏(米陸軍に現役軍人として奉職後にアーカンソー州立大学の軍事教授などを歴任した人物)の下の言葉(『〜 〜 〜』の部分)を思い出すべきです。


『兵士たち・・・その証言が本書の根幹をなしているのだが・・・は戦争の本質を見抜いている。かれらは「イーリアス」に登場するどんな人物にも劣らぬ偉大な英雄だが、にもかかわらず、本書で語られることば、かれら自身のことばは、戦士と戦争が英雄的なものだということを打ち砕く。ほかのあらゆる手段が失敗し、こちらにその“つけがまわって”くるときがあること、“政治家の誤りを正す”ため、そして“人民の意志”を遂行するために、自分たちが戦い、苦しみ、死なねばならぬときがあることを、兵士たちは理解しているのだ。』(上掲書、p35)


ここでは、『“戦争遂行の責任”が政治権力者たちと、彼らを選挙で選ぶ一般国民の双方にある』ことが明確に書かれています。このような観点からすれば、政治権力者たちと一般国民の双方が“リアリズム感覚”を決定的に失いつつある今の日本は、まさに、そのような意味で重大な危機の最中にあるのです。“人間としての誇りと現実を見る目”を失った「追憶のカルトに囚われた世襲の政治家たちと、彼らと利害関係を結ぶごく一部の国民」だけが、もっぱら「カネの力」を頼りに『選挙と民主主義』の舵を取り続ける今の日本の姿は余りにも異常です。


・・・・・以下は気分転換のつもりです。


【ギャラリー、自宅周辺の秋の風景】


“犬権意識”(or 主犬意識?)に目覚めた「参政犬」デス

新興住宅地(仙台市・北部郊外)なので人工的な自然風景ですが、秋の色が濃くなりつつあります