toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「履修漏れ問題」と「教育改革タウンミーティング・やらせ質問」が醸す妖しい空気

バベル



【画像】今日の疑問犬(ギモンケン)???   美しい国のシンボル・タワー? →


本日付の報道によると、政府・与党は高校必修科目の履修漏れ問題を巡って卒業を認める補習の上限を70回に定め、校長の判断で50回程度まで短縮を認める(2/3以上出席の場合)救済策で合意したそうです。しかし、この「一連の大騒動」には“何か異常で不自然な感じが付き纏っている”と思うのは考えすぎでしょうか? それに、メディアのオーバーヒートぶりにも何やら不自然なキナ臭さが漂っています。

以下に、素人の目から見た率直な疑問点を並べてみます。

●何故に、年度の1/2以上を過ぎた“この時期”に至って、この「履修漏れ問題」が急浮上したのか? 

●それは富山県から始まったようだが、何故に、どのような訳で富山県なのか? 具体的な切欠は何だったのか?

●それは実際に“どのようにして表面化した”のか? ・・・内部告発か、匿名のタレこみか、それとも誰か正直者の自主申告なのか?

●聞くところによると、この「履修漏れ問題」は急に今始まったことではないらしい。つまり、過年度で時間がかなり経過したことらしい・・・とすれば、今年度の卒業生まで過年度分と同じ扱い(過去の卒業生と同じ扱い)ということにして補習は無しで済ませることが何故できなかったのか?

●もし、このような判断が可能であるとすれば“真に悲惨な犠牲者”(校長先生の自殺)まで出さずに済んだのではないか? また、教育現場での無用の混乱も避け得たのではないのか? 何の罪もない生徒たちに余計な負担をかけなくても済んだことではないのか? だから、これは政府・与党あるいは文部科学省の考え方一つの問題ではなかったのか?

●具体的に教育現場のことは知らないが、そもそも履修内容不足について補習の方針を決めるようなことは、元来は各学校の教務レベルの現場の仕事ではないのか? それが、どうして政府・与党の判断になるのか? 素人なので、どうも、この点が理解できない。結局は、「指導要領の不備の問題」の論点外しではなかったのか?

●もし、そうであれば、これは核心的な責任問題を回避するための文部科学省による意図的な大騒ぎではなかったのか?

一方、今度は『教育改革タウンミーティング・やらせ質問、内閣府作成』の問題が明るみに出て大騒ぎになっています(参照、→ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061101-00000112-yom-pol /読売ネット記事)。このネット記事によると、それは“この9月2日に八戸市で開かれた政府の<教育改革タウンミーティング>で、内閣府などが、教育基本法改正案に賛成の立場で質問するよう、ミーティングへの参加者に依頼していたことが1日の衆院教育基本法特別委員会で明らかになった”ということのようです。

これが事実だとするなら真に怪しからぬことですが、それよりも、これも何故に“このタイミング”(9月)のタウン・ミーティングだったのでしょうか? そして、本日付・中日新聞のネット記事(参照、→ http://www.chunichi.co.jp/00/sei/20061102/mng_____sei_____006.shtml)は、『教育基本法が今国会で成立の見通しとなった』と報じています。

結局、「教育改革タウンミーティング・やらせ質問」と「履修漏れ問題」は初めから、ほぼ“この時期に同期させる”シナリオだったのではないか、と疑われても仕方がないと思います。ともかくも、この点について、どこまでも妖しい空気が漂っています。つまり、「教育基本法改正法案」を成立させるための外堀作戦ではなかったのか? 

もしそうであるならば、今回は、殆んど全てのメディアが上記の疑問点(●)についての調査報道に取り組むどころか、いそいそと、率先して政府・与党の世論誘導に加担したことになります。恐るべきことです。

・・・中身は関係ありませんが、以下に「当日記への直近のコメント&レス」を転載しておきます。

[2006.10.23付toxandoriaの日記/『低投票率』と『民主主義の品位の放棄』を看過するメディアの異常]へのコメント&レス

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sophiologist

『toxandoria様

北海道の写真に魅かれて、コメントします。

札幌には、冬2月頃?と五月の中旬頃?に入ったことがありますが、秋の札幌等には、行ったことがないので、紅葉の写真等を楽しんでいます。自宅のeMacは、画面が暗くくすんで見えますが、今、職場のVaioで見ると、とても華麗に見えます。

北海道に行って、本州とは異なる、「地霊」を感じます。それは、イギリスのような感じとちょっと似ていると思います。とまれ、北大のキャンパスの風景はなつかしいですし、ポプラの木立は、私のお気に入りです(勝手ですが)。また、魚貝類がおいしくていいですね。

知り合いで、小樽出身の人がいて、しみじみと小樽生活が頂点であったことを語っていたことを想起します。東京や大都会は、確かに、味わって生活する場ではありませんね。

さて、今日は、政治のことは言いませんが、オランダのことが言及されているので、思いついたのですが、オランダ、フランドルは、西欧ではないですね。イギリス、フランス、ドイツが西欧で、オランダは、イタリア、スペイン、ギリシア、スイス、北欧、東欧、と関係するのではと思いました。中欧という呼び方がありますが、それに少し近いのかもしれないと、思ったりします。(でも、違いますね。)イギリスならば、ケルト文化になるような基層文化がオランダにはあるように思われます。東洋的欧州?とでも言うのでしょうか。アジア的欧州でしょうか? 日本なら、沖縄、平泉、等でしょうか。

とまれ、私の直観では、オランダは、差異的知性の社会・文化つまり、プラトニック・シナジー知性のある国です。多元的な差異、他者のもまれることで、差異共立共生する叡知が生まれたのだと思います。もう少し考えてみます。』

# toxandoria

『sophiologistさま、コメントありがとうございます。

もう十数年前になりますが、かなり長く札幌に住んでおりましたので「toxandoriaの1/3位の成分」は“ドサンコ”(=道産子)です。

いま思うと、その風土と気候はヨーロッパに似ています。北大キャンパスの雪景色も”忘れがたいものです。

そして、北海道のなかの“フランドル”は小樽と函館だと思っていますが、この二都には札幌にない“exoticな空気”があります。

フランドルはイギリスとの結びつきも強いようですが、その他との決定的違いは“市民たちが自らの力で国土そのものを創り上げてきた”ことだと思います。

ところで、札幌のサッカー・チーム『コンサドーレ札幌』の“コンサドーレ”の意味はご存知でしたか? 

これは外来語ではなく、“道産子”を逆さ読みにしたものだと聞いております。』

[2006.10.26付toxandoriaの日記/フォト・ギャラリー「風景、晩秋の北海道」/大型画像版のご案内]へのコメント&レス

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# 尾池千代子

『何時も配信の記事に 感歎しています。オランダ ベルギー レンブラント ブリュ−ゲルが大好きで このサイトに 巡り合わし 驚きと 感謝で 何時も愛読しています。 

美術のみならず 世界の歴史 文化全般に精通され 鋭い政治 批判に 共鳴 し 溜飲してます。

今日は 北海道の 写真 大きいし 沢山で 有難う御座いました。オランダツアーで バスの 窓から 西の空と大気に 衝撃を受け 脳裏に深くプリントされ 帰宅してから 「オランダの光」が 撮影 された事知り これは特筆される 事で有ったのだと 納得 満足しました。 

北海道は まだ訪れていませんが お写真で 「オランダの光」の 疑似が 偲ばれるように思い 行ってみたくなりました。』

# toxandoria

『尾池千代子さま、懇切なコメントありがとうございます。toxandoriaの記事が少しでもお役に立てたことを知り嬉しく存じます。

フランドルへの関心はレンブラントから始まり、オランダ・ベルギー史、フェルメールブリューゲルらの絵画、エラスムス・グロティウス・スピノザらの思想を経て、漸く今回の「オランダ・ベルギーの旅」まで辿り着きました。

そこで分かり実感したのは、「オランダの光」(フランドルの光)が思っていた以上に欧米諸国の民主主義社会の奥深いところで重要な役割を担ってきたということです。

そして、その光は“江戸末期〜幕末〜維新期”の日本へも届いていたはずです。しかし、残念ながらそれは当時の政治権力者やアカデミズムの主流により無視され、あるいは捻じ曲げられてしまったようです。

従って、日本独特の、別に言えば、ある意味で宿痾のごとく脅迫観念化したナショナリズム(=寄生政治家らが踏襲する追憶のカルト)は、必ずしも“太平洋戦争直前の時代”の産物ではなかったようです。少し視野を広げ日本近代史の流れ全体の上から見ると、それは極めて根が深いものであることが分かります。

しかも、その「追憶のカルト」は、様々な内外の条件が重なったこともあり、ここ5〜6年の小泉政権下で急速に息を吹き返してきました。たまたま発表されたばかりの「国境なき記者団」(http://www.rsf.org/rubrique.php3?id_rubrique=20 )による「各国別、ジャーナリズムの自由度の順位」も(下記のデータ&引用記述をご参照ください)、そのことを傍証しているようで不気味です。皮肉なことに、「2001.9.11同時多発テロ」以降の日米同盟の絆の深まりが日本の右傾化を後押ししてきたことになります。

日  本:2002年(26位)→ 途中略 → 2005年(37位)→ 2006年(51位)
アメリカ:2002年(17位)→ 途中略 → 2005年(44位)→ 2006年(53位)

(日本の順位が著しく下がった背景/Reporters without Bordersの分析記事から一部引用)

Rising nationalism and the system of exclusive press clubs (kishas) threatened democratic gains in Japan, which fell 14 places to 51st. The newspaper Nihon Keizai was firebombed and several journalists phsyically attacked by far-right activists (uyoku).

ともかくも、このような遍歴の過程でピーター-リム・デ・クローン監督の映画『オランダの光』に出会えたことは、とてもラッキーな偶然でした。

尾池さまも感じられたと思いますが、それはフランドルへ行けば必ず実感できるようです(今はDVDも手に入りますが、この映画の詳細については、http://www.icnet.ne.jp/~take/vermeerhollandslight.htmをご参照ください)。

参考まで、この映画のスチール写真が見られるURLを下に書いておきます。
http://www.hollandslicht.nl/www/html/eng/multimed/desktops.htm

是非とも北海道は訪ねてみてください。自然風土がヨーロッパと似ていることもあり四季折々に魅力的な“オランダの光”が体験できるはずです。

今後とも、どうぞよろしくお願いします。』

[2006.10.31付toxandoriaの日記/安倍政権内における“皇道派と統制派の暗闘”を許す「メディアと民度」の劣化]へのコメント&レス

[コメントを書く]  to http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061031

# toxandoria

『ヤメ記者弁護士さま、TB(http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/f81c8b4537b37f22bbbf0430e36310e6)ありがとうございます。

2006年9月、4年ぶりで行われたスウエーデンの総選挙では社会民主党を中心とするこれまでの左派連合が敗れて保守党を中心とする右派連合が政権を取っています。このような直近のスウエーデンの政治環境の変化が、ご指摘の原子力事故の隠蔽に影響したのかどうか?

しかし、必ずしもスウエーデンの社会が右傾化したとは言えないようです。それは、敗れた左派連合の中で閣外協力をしてきた「緑の党」(環境政党)への支持が逆に4.6%→5.2%へ支持率を伸ばし、議席も増やしたからです。同じような傾向は、これからのイギリスでも起こる可能性があると思います。

これらの国々での現象は、単なる右傾化ではなく“多様化の中でのバランス回復”だと思います。これに比べて、一部の利害関係者だけが、相も変わらず、“ゲンナマ爆弾(買収行為)あるいは仕事絡みの恫喝”を受けて“熱心”(?)に“投票に行かされる”一方で、過半の選挙民は政治のあり方に無関心という、今の「日本の民主主義」は異常だと思います。

日本のメディアの現在のあり方について、自己規制論の立場から肯定する“良識派の方々”もおられるようですが、どう割り引いても、耐震擬装、政治と貸金業界の癒着などにかかわる詐欺まがいの政治・行政に対する日本のメディアの自己規制はバランスを欠いており、臆病すぎる(自己規制のし過ぎ?)と思います。

これらの問題への切り込みについて、日本のメディアは何故に過剰な自己規制をやっているのでしょうか? メディアのパパラッチ化を過剰に心配するのではなく、市民の立場へ理解と健全な民主主義を助長するという観点から、メディアはこれらの問題にもっと真剣に取り組むべきだと思います。

また、支持率調査、選挙の投票率などについても、過半のメディアと法曹関係の方々は、あまりにも「データリテラシー」について無頓着・無関心すぎると思っています。だから、多くの国民が“先ず結論ありき”の「ワンフレーズ・ポリティクス」(自論への誘導政策)に騙されることになるのだと思います。』