toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

“小泉譲りのカラクリ”で「美しく面妖な国づくり」をめざす“安倍・ヤラセ内閣”



【画像解説】 アンブロジオ・ロレンツェッティ(Ambrogio Lorenzetti/ ? -ca1348) 『Allegoria del Gattivo Gererno(particolare)/善政の寓意』ca1338-1340  affresco、Palazzo Pubblico 、Siena

アンブロジオ・ロレンツェッティは、シエーナ派(シエーナを中心に13世紀末頃〜14世紀にかけて栄えた絵画の一派)で最も重要な画家の一人で、同じくシエナ派を代表するピエトロ・ロレンツェッティ(Pietro Lorenzetti/ca1280-1348)の弟です。ジョット(Giotto di Bondone/ca1266-1337)などの影響を受けたとされ、その正確な空間表現、微妙な人物の描写、優雅な情緒性が特色とされています。その代表作が、このシエナ市庁舎の壁画です。

この絵の全体はシエーナ市庁舎の壁画で、この部分画像は「暴政」(暴君が支配する政治)の寓意を描いたものです。ここでクローズアップした部分は、「悪政のアレゴリー」の中心に居座る「暴君」の図像です。
「暴君」の周辺には、御用学者、強欲な聖職者、令色で巧みに高給を食む官僚、隠微で慇懃無礼な徴税官など小心のクセに悪魔的で自己中心的な魂胆の人物図像が配置されています。

「暴君」の足元には「平和の擬人像」が拘束・抑圧された姿で寝転がされています。布と紐でグルグル巻きにされた憐れな「平和の擬人像」(弾圧・抑圧された都市市民たちの象徴でもある)を繋ぐ長い紐を手にした、強欲そうに見える悪人面の人物像は、イラク戦争で捕虜の虐待を黙認したブッシュ大統領らのイメージを、あるいはまるでヒトラーを真似たような「小泉カラクリ&安倍ヤラセ」の政治に騙されて“平和と健全な民主主義のための公共空間”を奪われつつある現代日本の姿を連想させます。

つまり、ここで描かれているテーマは「平和を望む意志と生存権を奪われつつある“擬装平和国家ニッポン”の市民たちの痛みと苦しみ」(=“第二の東条英機内閣”が目指す“美しい国”へのプロセス)と読み換えることができます。

・・・・・以下、本論・・・・・

(“健在ぶり”が実証された“アメリカ流・草の根民主主義”の底力)

《 映画『上海の伯爵夫人』のマツダは日本軍のスパイですが、彼自身の心中には国を想う心と自分のミッションに対する強い誇りがあります。一方でマツダは、祖国・日本のためとはいえ自分の目の前にある美しい上海の街を焼いたり、友情を交わすアメリカ人の元外交官ジャクソンと伯爵夫人ソフィアを裏切るようなことに酷く心を傷め悩み抜きます。この映画でもそうですが、ジェームズ・アイヴォリーの映画の主人公たちにはある共通した特徴があります。彼らは、たとえどのような星の下にあるとしても、常にひた向きに、そして誠実に自分の目前のリアリティーを凝視し、いつでも相手や周囲に対して十分過ぎるほどの思いやりを持つことができる強い人間として生き続けるのです。

例えば、『日の名残』のスティーブンス(アンソニー・ホプキンス)は斜陽貴族である主人ダーリントン卿に仕える執事ですが、彼は自分の残された人生を徹底的にプロフェッショナルに、そして不器用なほど誠実にプロとしての自分が見える現実に向き合って生き抜こうとします。これらの映画には、いわばジェームズ・アイヴォリー監督の人生観のようなものが投影されており、それが英国の良き伝統を象徴する個性的で華麗な映像美を通し鑑賞者の胸中に迫ります。それがアイヴォリーの映画ファンにとって堪らないほどの魅力になる訳です。そして、敢て一つのコトバで言い表すならば、それは、人間なら誰でもが自分なりの「diginity」(誇り、品位、気品、尊厳)を大切にするべきだということです。それこそが、普通の人々にとってのリアリズムであり、そのような意味を理解して生きることが人間の本当の幸せなのだとアイヴォリー監督は主張しているように思われます。

今や、我が国では「追憶のカルト」に囚われ美しく勇ましい飾り言葉の影にファシスト的情念を滲ませた世襲政治家たちが政界の中枢を跋扈しています。また、安倍政権内における“皇道派と統制派の暗闘”を許すほど「メディアと民度」の劣化が進む中で「日本核武装論」が実しやかに囁かれるようになっています。だからこそ、ここで再び我われは『戦争における人殺しの心理学』(ちくま学芸文庫)の著者、デーヴ・グロスマン氏(米陸軍に現役軍人として奉職後にアーカンソー州立大学の軍事教授などを歴任した人物)の下の言葉(『〜 〜 〜』の部分)を思い出すべきです。

『兵士たち・・・その証言が本書の根幹をなしているのだが・・・は戦争の本質を見抜いている。かれらは「イーリアス」に登場するどんな人物にも劣らぬ偉大な英雄だが、にもかかわらず、本書で語られることば、かれら自身のことばは、戦士と戦争が英雄的なものだということを打ち砕く。ほかのあらゆる手段が失敗し、こちらにその“つけがまわって”くるときがあること、“政治家の誤りを正す”ため、そして“人民の意志”を遂行するために、自分たちが戦い、苦しみ、死なねばならぬときがあることを、兵士たちは理解しているのだ。』(上掲書、p35)

ここでは、『“戦争遂行の責任”が政治権力者たちと、彼らを選挙で選ぶ一般国民の双方にある』ことが明確に書かれています。このような観点からすれば、政治権力者たちと一般国民の双方が“リアリズム感覚”を決定的に失いつつある今の日本は、まさに、そのような意味で重大な危機の最中にあるのです。“人間としての誇りと現実を見る目”を失った「追憶のカルトに囚われた世襲の政治家たちと、彼らと利害関係を結ぶごく一部の国民」だけが、もっぱら「カネの力」を頼りに『選挙と民主主義』の舵を取り続ける今の日本の姿は余りにも異常です。》

以上《〜 〜》の部分は[2006-10-31、安倍政権内における“皇道派と統制派の暗闘”を許す「メディアと民度」の劣化、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061031]の部分転載ですが、ここで書いた“日本の異常な政治の姿”(=メディアと民度の劣化)と相反するかのように、今回のアメリカの中間選挙では選挙民(アメリカ市民層)の多くが見事に“アメリカの民主主義の健全さ”を見せてくれました。それは、アメリカの民主党が実に十二年ぶりに議会の上下両院で過半数を制したことです。

当然ながら、このアメリカの中間選挙結果によって世界全体の問題が一気に好転する訳ではありませんが、少なくともアメリカでは「選挙民による政権批判力」が機能することが証明された意味は大きいと思います。特に、今回の中間選挙の流れを決定する原動力となったのは「無党派層」です。2006.11.10付・日本経済新聞(ワシントン特派員発)の分析記事によると、関連して次のような動向も目立ったようです。

●1994年に共和党に投票した中堅所得層(ミドルクラス)の殆んどが、今回は民主党に投票した。
キリスト教右派でも共和党に投票したのは69%で、2004年(前回選挙)の73%を下回った。
●最後まで民主党新人と共和党現職の激戦になった上院モンタナ州での最も重要な争点は“政治倫理”との答えが40%に達した。
●これらの背景には、ブッシュ政権下の政治腐敗と経済問題への不満が窺われる。

なお、このようなアメリカにおける“草の根民主主義”の復活傾向(少数意見や多様な意見を反映して、選挙民の投票行動の流動化を図りつつ健全な批判力を活性化すること)には「新しいインターネット機能の利用の仕方」が影響した可能性もあると思われます。つまり、アマゾン・ドットコム、Kinokuniya・BookWebなど(ネット書店・各社)の成功をもたらしたと同じ“ロングテール現象”の大きな効果です。『Google、既存のビジネスを破壊する』(文春新書)の著者・佐々木俊尚氏によれば、これらのネット書店では“約230万点にも及ぶ膨大な量の書籍が描く「高さ1ミリ以下で10km近くも続くグラフ上のロングテール(超長い尻尾)を積分すると、店頭での売れ筋の本の販売量を凌駕するという(奇跡的な?)現象が起こっている”(同書、p131〜132より引用)ようです。このような意味で、我が国のブログについても、その利用方法の工夫・改善次第では、日本の選挙民の投票行動の流動化を図りつつ、彼らの健全な批判力を活性化することに貢献する可能性があります。従って、日本でも、このように「ヤラセ、カラクリ」とは無関係なネット活用の健全な方向性の研究を急ぐべきだと思います。

他方、特に小泉政権時代に話題となったメールマガジンの利用については疑問符がつきます。今、安倍政権下ではタウンミーティング関連の「ヤラセ問題」にかかわる不始末の露顕が際限なく拡大しており、まことに驚くべきことに、その裾野は小泉政権時代へ遡りつつ先がが見えない状態となっています。例えば、11月11日付・読売新聞(ネット記事)によると、今年の5月(小泉政権時代)に札幌市で「再チャレンジ」をテーマに行われたタウンミーティングでも、内閣府北海道庁を通じて参加者に質問を依頼していたことが明らかになりました。この記事は“教育改革以外の分野で質問依頼が判明したのは初めてで問題は拡大の様相を見せてきた”と報じています(詳細は下記URL★を参照)。このあり様では、小泉政権時代に行われた郵政改革、道路公団改革等の基礎資料とデータの悉くが疑われても仕方がないと思われます。例えば、一時、「小泉メールマガジン」の配信登録数が400万件以上にも達したとされ大変な話題となり、それとともに小泉政権支持の熱狂が湧き立ちましたが、今になって思えば、このような数字も眉につばをつける必要があるようです。このようなネット絡みの巨大な数字は、いわば一種の“囲い込み効果”を狙ったものと思われますが、この種のネット絡みのゲタ履き操作も、ヤラセ的ネットアンケート調査やリンクファーム立ち上げ(擬装HPの開設、サクラ読者の総動員)などの手法を使えば不可能ではないと思われます(参照/関連記事、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061108)。

★『“再チャレンジ”でも質問依頼、内閣府北海道庁通じ』(読売新聞、ネット)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061110-00000116-yom-pol

また、11月11日付・朝日新聞によると、安倍首相は10日の夜に“教育基本法と、このタウンミーティングのヤラセ問題は「別問題」だ”と発言しており、他方、二階・自民党国会対策委員長は“教育基本法を60年ぶりに改革しようとしている時に、タウンミーティングでヤラセがあったなんて、やる方もやる方だが、誠につまらん。いつまでも慎重審議に引きづられていては、政治の生産性があがらない”と話しています。いずれも、まるで「自らが関わってきたヤラセ問題」をまるで他人事のように捉えており、責任ある立場の者としては誠に無責任な発言です。

(劣化しつつある、日本の“民主主義”と“公共”についての理解)

《 小泉政権でヌーッと亡霊の如く姿を現した「追憶のカルト」(小泉首相靖国参拝問題が象徴する)は、今、再び“日本の庶民層の人々が古来から守ってきた直向で正直な美徳、いわば普通の人間としての最低限度の感受性である他人を思い遣り助け合うという心のあり方”(=平和についての寛容で強靭な心のあり方)を、「軍国主義」という究極の暴政の責め道具をふりかざして踏みにじろうとしています。そして、無視できないのは“殆んどのメディアが、この「軍国主義」の本性を剥き出しにした「追憶のカルト」一派が見せびらかす「権力と金力(カネ)」の前にひれ伏し、追従して提灯報道を垂れ流すという現実です。

更に、無視できないのは“小泉首相靖国参拝に対する批判を繰り返した与党内のリベラル派の代表、加藤紘一・元自民党幹事長のご自宅(鶴岡市/映画『蝉しぐれ』の撮影が行われた松ヶ岡から比較的近い地域にある)が放火され全焼した事件”です。もう5年前(2002)になりますが、特別会計絡みの調査に熱心に取り組んでいた石井紘基民主党衆議院議員が殺害される事件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E7%B4%98%E5%9F%BA)もありました。今の日本では権力中枢の奥深いところで「熾烈な暗闘」が行われている節があります(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061104)。

その“闘争の余波”は国会、法曹界、検察、警察、行政官庁、自衛隊、教育界、マスメディアなどのあらゆる場面へ波及しているはずです。そして、特に「共謀罪」の強引な導入を図る「追憶のカルト一派の強固な意志」に関するヤラセの動向を注視すべきです。「共謀罪」の強引な導入の理由づけがデッチあげであることも既に明らかになっています(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061020)。“一事が万事”の教訓からすれば、今回の「教育改革タウンミーティング・やらせ質問」事件を見逃すべきではありません。“安倍首相が、これに関して内閣府を厳しく叱りつけた!”という子供騙しのような提灯報道に誑かされてはなりません。 》 

以上《〜 〜》の部分は[2006-11-06、映画『蝉しぐれ』には「安倍・カルト世襲政治」の暴政のルーツが“垣間見えるでがんす、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061106]の部分転載です。

小泉政権と安倍政権に共通する「根本的な特徴」は、両人ともに「公共」の意味が正しく理解できていないということです。あるいは、その実像はもっと性質(たち)が悪く、そこには近代・現代の民主主義国家において当然とされる中立・中庸・寛容な「公共」の概念を放逐しようとするドグマ的な作為の意志が存在するかも知れません。それは、「公共」を前提とする近代・現代の民主主義の考え方には馴染まない、きわめて特異で前時代的な精神環境です。そして、この「公共」の対極にあるのが、現代の民主主義国家の原則であるべき「政教分離の原則」を軽視するという偏向的な心的性向です。現代日本の為政者の中で、この傾向が著しく目立つのが「小泉・前首相の靖国参拝問題」であったことは記憶に新しいところです。今回、総務省からNHKへ出された「対北朝鮮・拉致関連の放送命令」についても、言論の自由への政治介入の問題であると同時に、このような安倍政権による「公共」軽視という特異な問題として批判する必要もあるようです(参照/下記の関連記事★)。

★『NHK、命令に当惑 “すでに手厚く報道してきた”』(asahi.comhttp://www.asahi.com/national/update/1110/TKY200611100375.html

他の記事で既述のことですが、彼らの特異な性向の根本にあるのは「追憶のカルト」の呪縛です。「追憶のカルト」とは、アメリカの歴史学者サミュエル・K・コーンJr.(Samuel K. Cohn, Jr./ Professor of History、 Brandeis University. Waltham、Massachusetts、http://www.brandeis.edu/)が、14〜15世紀のイタリア・ルネッサンス美術の特徴の一つとして提唱する新しい美学的・美術史的な概念です。コーンは、1348年と1363年のペスト大流行を契機に、葬礼儀式のための板絵や典礼具などが殊更に華麗・華美になり始めたという美術史上の事実に注目します。それまでの美術作品のイメージが、どちらかといえば「女性原理(母性原理)」に従い比較的穏やかな感性と結びついてきたのに対し、このペスト大流行の時代を契機に、イタリアの美術作品が急に華麗・華美・豪華に(過剰に美しく)なリ始めたのは、この頃から「男性原理(父性原理)」(=権力的、論理的なロゴス)に従うようになり、それまで優位であった美術上の「女性原理」の美術的・感性的な権威を覆そうとし始めたからだと、コーンは主張します。

この時代から「華麗な葬儀」は死者のためであるとともに生者のためのものになったという訳です。つまり、華麗・華美な礼拝堂の壁面装飾、祭壇板絵、祭壇布、聖職者のミサ用聖衣、燭台・聖杯等の典礼具などは、家族や故人の生前の偉大な記憶と名声を後世へ末永く伝える役割を担うことになります。そこには故人の偉大な権力(父権)を後世の生者へ媒介しながら、死後になってからも墓の中から“その権力者の偉大な父系の影響力”が子孫と“それに支配される人々”に及ぶような仕掛け(カラクリ)を創造しようとする意志が働いたことになります。そして、コーンは、このようなメカニズムの中で、“偉大な祖先の意志に囚われる子孫らの特別な精神環境”を「追憶のカルト」と名づけたのです(参照、SAMUEL K. COHN, JR. 、The Black Death: End of a Paradigm、http://www.historycooperative.org/journals/ahr/107.3/ah0302000703.html)。

やがて、この「追憶のカルト」の伝統は「女性原理」との葛藤・反発・融合を繰り返しながら、16世紀前半の盛期イタリア・ルネッサンスレオナルド・ダ・ヴィンチラファエロら)から16世紀半ばの後期イタリア・ルネッサンスの時代を経て、16盛期半ば〜17世紀初頭にかけてのマニエリスムスの時代へ向かいます。巨匠ブオナローティ・ミケランジェロ(Buonarroti Michelangelo/1475-1564)は、この盛期ルネッサンスからマニエリスムス(Manierismus)の時代にかけて活躍した息の長い画家であることは周知のとおりです。そして、「男性原理」の系譜の到達点と見做すことができるマニエリスムスは、反宗教改革と結びつきながら「熱情・不安・緊張」といった不安定な精神環境の表出によって現実否定の精神環境に嵌り、次第に新鮮で瑞々しい感性を失って行きます。

《参考》一般的にカルト(Cult)という言葉は、特定の人物や事物への礼賛や熱狂的崇拝、または、そういう熱狂者たちが集まった集団、あるいは邪教的な宗教団体(セクト)を意味する。なお、1984年の「EC議会」(現在のEU議会へ引き継がれた)の決議に沿う、フランスにおけるカルト(セクト)の定義に関する詳細な解説HPがあるので、下(★)に記しておく。また、独自の美術館構想を持っていたヒトラーが、かつて印象派表現主義抽象絵画などを堕落した芸術と見做す一方で、イタリア・ルネッサンス絵画の多くに感銘を受けていたという事実がある。これは、イタリア・ルネサンス絵画に潜む「追憶のカルト」的な要素とヒトラーの感性の共鳴を想像させて興味深い。

★『フランスのカルト認定の経緯』http://page.freett.com/sokagakkai_komei/shukyou/cult_french.html
★『カルト心理学を考えよう』http://checkpsychology.com/834A838B8367/


(「日本核武装論者」に纏わる“論理過剰”の罠)

一連の「カラクリ・ヤラセの問題」と通底するのが『日本核武装論』です。この問題については11月11日付・東京新聞「特報」が適切な解説を書いています。それによれば、これは安倍首相本人の信念でもある『日本核武装論』をなし崩し的に一般国民層へ“刷り込む”ためのヤラセ行為に近いものだとし、それをカムフラージュするために「安倍首相は“各閣僚の個人的発言だ!”という詭弁を使っている」と分析しています。そして、同記事の最後は、政治評論家の本澤二郎氏の次の言葉で締めくくられています(参照、下記の記事★)。
・・・『日本人は自分の言葉に責任を負わず、むしろ他人の意見になびく軽さと付和雷同性がある。それこそが太平洋戦争の原因になったのではなかったのか?』

★『“個人的発言”という詭弁、“核”へ誘導』(東京新聞・特報、ネット)http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061111/mng_____tokuho__000.shtml

また、一部の専門家のなかから純粋に論理的な立場から「日本核武装論」を肯定する声が上がっています。これは、同上の東京新聞・記事の中で、前参院議員の平野貞夫氏が「政治家が政治について話す場合、これは公的、これは個人の発言というのは成り立たない。発言には常に責任が発生する。(現在の『個人の責任論』は)『はぐらかし』の小泉劇場型政治の悪い影響であり、詭弁(きべん)以外の何物でもない」と憂いていることとは別問題です。たしかに、純粋に論理的に考えれば、冷戦時代の核弾頭の対峙が長期間の平和な時代をもたらしたように、日本のような大国が核武装してこそ、世界規模の覇権のバランスが均衡することになると思われます。

しかし、これは「抽象論理と現実世界の因果律」を混同したために起こる一種のパラドックスだと思われます。核弾頭の存在が究極的な政治権力を担保することは、そしてそのような考えで核弾頭を保有しているフランスやロシアのような国が存在することは歴史的な現実ですが、一方で、核弾頭を持たず、「非核三原則」に徹し、平和主義に徹する日本のような国が存在することもれっきとした歴史的現実です。この二つの現実を論理的に結ぶことは不可能であり、そこに求められるのは「父性原理」による無理な解決ではなく、「母性原理」による救済でなければならないはずです。恰も、そのパラドックスはサミュエル・K・コーンJr.が指摘する「追憶のカルト」が父性原理(=権力的、論理的なロゴス)に傾くことで、「現実界での解」を見失うトリック、つまりマニエリスムスに嵌ることと似ています。

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いずれにせよ、このように非倫理的で無自覚で無責任な「カラクリ&ヤラセ政治」の下で、たった一人の孤独の中で政府が取るべき責任を転嫁され、あるいは日本の社会全体の歪みである筈のイジメ問題等が原因で、自らの尊い命を絶つ(教育現場の責任者であるが故に)高校の校長先生や小・中・高校の子供たちが多発することは余りにも痛ましい限りです。我われは、今こそ“最も親密な同盟国”であるはずのアメリカから、「過半の日本国民のトラウマ」となっている「上から与えられるお仕着せ民主主義」ではない、もう一つの健全な「下からの民主主義のあり方」を、そして「国政選挙への正しい臨み方」を真剣に学ぶ必要があるようです。