toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

“暴政の調教に身を任せるサル”と化した日本のメディア(続編)

toxandoria2006-12-01


kaisetsu氏からのTB『異なるフェーズの対話を享受する 『少し茶化したアプローチに対して、toxandoria氏から直球勝負の剛速球のコメントを戴いた。』(http://blog.kaisetsu.org/?eid=485941)から触発されたコメントができましたが、些か長くなるため、『続編』としてアップします。

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Mr.kaisetsuのTB  『異なるフェーズの対話を享受する 『少し茶化したアプローチに対して、toxandoria氏から直球勝負の剛速球のコメントを戴いた。』(http://blog.kaisetsu.org/?eid=485941
Mr.kaisetsu to [“暴政の調教に身を任せるサル”と化した日本のメディア(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061130)]

少し茶化したアプローチに対して、toxandoria氏から直球勝負の剛速球のコメントを戴いた。

⇒参照
2006.11.29 Wednesday
美しい国はスキャンダラス!は戴き!!

⇒参照内容

『記事紹介&TBありがとうございます。

自ら信仰するカルト神に向けた顔の角度に些か違いはあるものの、「美しい安倍政治」も、やはり小泉政治(擬装&ヤラセ劇場一座)に続く「暴政」(“刺客議員・出戻り劇”の猿芝居、擬装TMのヤラセ劇、底なしの選挙&政治資金スキャンダル、人身御供演出型・地方財政破綻放置の寸劇など)だと思います。
ごく普通の人間は、これらの「暴政」がもたらす過酷・残虐・醜悪(ピーテル・ブリューゲルと思しき画家が『イカロスの墜落』に密かに描き込んだ“醜悪な農夫のお尻”』(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061125)を直視して生きることはできません。

しかし、誰か(本来はこれがマスメディアの仕事)がこの過酷・残虐・醜悪を勇気をもって直視し、的確に批判しなければ、その「暴政は増長するばかり」になると思います。

中世末期のフランドルに生きたヒエロニム・ボッス、同じくマニエリスムバロック初期に生きたピーテル・ブリューゲルらの卓越した画家たちは、彼らは無自覚であったかも知れませんが、このような意味でのジャーナリズム精神を先取りしていたような気がします。

しかも、彼らの批判と直視の対象とされたハプスブルグなどの暴君たち自身が、これら卓越した画家たちの絵画の収集に血眼となった事実があることを思うと、つくづく「真実の美」とは何であるかを考えさせられます。』
posted by toxandoria ,2006/11/30 7:14 AM

◆◆ここで仰られる『直視』とは、『摩訶止観』のことだと思います。事実を直視することの痛ましさ、厳しさ、困難さについての考察もまた日本とアジアの諸哲学の非常に重要なテーマです。諸行無常を説く仏僧の眼差しには、平家物語に見えるような「凄まじい現実の様相への直視」が横たわっています。止観とは、諦めでは在りません。虚と実の中間点に止まることです。この場合の「虚」とは「理念」「哲学的世界」のことです。半眼の世界です。自分の内側と外側との両方を見る姿勢です。

◆◆私が、ケインズ主義を批判する裏には、税金の無駄遣いと政財官の癒着によって強制的に死に追いやられた津々浦々の中小企業経営者の末路が存在します。

◆◆私が、ODAを批判する裏には、税金を野放図に海外に移転して海外住民の生活を破壊し、環境を劣悪にし、日本の大企業の海外移転を促進し、外務官僚の優雅な生活を保証する仕組みにあります。

◆◆マスコミの特性は、「人が犬を噛む」記事を作ることです。マスコミは、ジャーナリズムではありません。

◆◆ジャーナリズムとは、平凡な事実、巷に散見する事柄を「直視(止観)」する所から生まれる想念の提示です。

◆◆しかし、これを庶民に求めることは、これまで成功していません。

◆◆つまり、ハプスブルグ家の知性とブリューゲルの知性は共鳴しあうことが可能です。プラトニック・シナジーの理論では、「i*(-i)⇒+1」で表現できます。ハプスブルグ家の知性の鏡像は、ブリューゲルの知性であり、ブリューゲルの知性の鏡像は、ハプスブルグ家の知性です。悪臭を放つ日本のマスコミの愚性の鏡像は、他人を許せないサル、他人を見下す若者たち症候群であり、彼らの美の乱調は、線香花火のように爆裂を繰り返しています。 参照:
toxandoriaの日記 2006-11-30 “暴政の調教に身を任せるサル”と化した日本のメディア


[コメント toxandoria to Mr.kaisetsu]

kaisetsuさま、TB&記事紹介、そして、思考のプロセスを整理して頂きありがとうございます。よく理解できます。

それにしても未だに、一般には観点が狭窄な「ウヨ←→サヨ」のステロタイプ型議論が横行し、toxandoriaの立場も「サヨ」と見做されている節があり驚かされております。

ところで観点が変わりますが、下記のデータを見ると既存メディアの広告収入を巡る条件が激変しつつあることが分ります。(出典:2006.11.30付・日本経済新聞、記事『メディアの波頭(上)』)

【既存の広告(テレビ・新聞・雑誌)を抜く勢いのネット広告】

(2004年データ/概数)
 
テレビ(2.0兆円)新聞(1.0兆円)雑誌(0.4兆円)ラジオ(0.2兆円)インターネット(0.18兆円)(合計3.78兆円)

(2005年に見られる特徴)

2005年のネット広告は約2,800億円で、前年比55%の大きな伸び。この傾向が続けば、2006年にはネット広告がテレビ・新聞に次ぐ「第三の広告媒体」になる可能性がある。

実例を見ると、例えば大塚製薬は食物繊維飲料「ファイブミニ」のテレビCMを2006年は一回も流さなかった。その代わりSNSを使ったネット上での口コミ販促に費用を注ぎ込んだ結果、期待に沿う成果が得られている模様。

また、効果が疑問だとしてネット広告を打ち切っていたホンダ(2000年)が、2003年から影響力が無視できないとしてネット広告を2003年から再開している。