toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

『2007年、ユマニスム復興への期待』の反照

【画像】


Parthenon -- Athens Acropolis(presented by Photo Library of University of Richmond Department of Classical Studies、http://oncampus.richmond.edu/academics/classics/photos/index.html) 


シャルトル大聖堂(presented by Gallery Sakuda、http://www27.tok2.com/home/twh/index.html


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ギリシアの古典文化(プラトンアリストテレスなど)がイスラムビザンツを経由してヨーロッパに伝わり、それがヨーロッパへの大きな刺激となったため、13世紀のイタリアを嚆矢とするルネッサンス文化が開花したとする、いわゆる「12世紀ルネッサンス文化論」は、アメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズ(Charles Homer Haskins 1870-1937/参照、http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Haskins)が、著書『12世紀ルネサンス』(The Renaissance of the twelfth century/1927)の中で初めて提唱したものです。


ところで、昨年9月に急逝した歴史家・阿部謹也氏の絶筆(著書)『近代化と人間』(朝日新書)によると、その「12世紀ルネッサンス」に活躍した哲学者の一人である“サン・ヴィクトールのフーゴー”(Hugues de Saint-Victor/1096-1141/ベルギーあるいはドイツのザクセン地方で生まれパリのサン・ヴィクトール修道院に入り、後に同修道院長としてサン・ヴィクトール学派の創始者となった)は、著書『ディダスカリコン(Didascalicon)』(ギリシア語で“学習に関する”の意味で、一般には「学習論」と訳されている)の中で次のように述べています。・・・ある賢者は学びのあり方と形式について尋ねられたとき、こう述べている。『謙虚な精神、探求の熱意、静かな生活、黙々とした吟味、貧しさ、“異国の地”、これらは往々にして、多くの人々に読解の折の不明を明らかにしてくれるものである。』


更に、その“異国の地”についてフーゴーは次のように述べています。・・・全世界は哲学する者たちにとって流謫の地(=流刑の地)である。「祖国が甘美である」(=自分の国だけが美しい)と思う人はいまだ脆弱な人に過ぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。さらに、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。第一の人(第一級の人)は世界に愛を固定したのであり、第二の人(二流の人)は世界に愛を分散させたのであり、第三の人(三流の人、愚かな人)は世界への愛を消し去ったのである。・・・以下、省略・・・そして、阿部謹也氏は『この部分は、おそらく日本人には最も理解しにくいところでしょう』と書いています。


また、阿部謹也氏は、「12世紀ルネッサンス」の一派であるシャルトル学派が自然科学も含むリベラルアーツ(中世の教養諸学科)の目的が神的な世界を理解する知識を与えるとともに、人間に対して宇宙の中での人間の位置の自覚を促すとともに、全世界的な被造物の美しさを味わうことを教えるという目的も持っていたと指摘しています。一方、その当時のスコラ神学の主流は、“宗教功利主義的な立場”から、このようなリベラルアーツの目的を厳しく批判しています。つまり、スコラ神学の主流からすれば、学習(教育)の目的は、あくまでも実践的なものであるべきで、ズバリ言えば、それは「富」(カネ)のためでなければならなかったというのです。


ここから、現代世界の混迷の元となっている「市場原理主義」(断じて、ここでは市場主義そのものを指していない!)の根が非常に奥深く、深刻であることが分かります。それとともに、今、わが国の政治の主流を占める権力者たち(小泉→阿部政権を支える一派、および闇の部分)が、何故に「美しい国」と「市場原理主義」を何の矛盾も感じることなく国家経営の柱として高く掲げているかということも理解できます。つまり、彼らは明らかにフーゴーが指摘する意味で「第三の人(三流の人、愚かな人)」たちであり、彼らには「科学(論理)と因果律(現実社会)の区別を理解できるだけの歴史認識リベラルアーツ」(常識ある人間としての教養を身につけようとする意志)が決定的に欠けているのです。その上、彼らには「世界」と「全世界に住む人間」についての真実を知ろうとする「人間としての強い意志」もありません。それどころか、彼らは「追憶のカルトに蝕まれた歪んだ意志」しか持っていないのです。


既述のサン・ヴィクトールの著書『ディダスカリコン(Didascalicon)』の中には次のように辛辣な言葉もあります。・・・多くの人は、その生来の能力不足ゆえに、簡単なはずであることも、ほとんど知的に理解することができないままだ。さらに、それらの人々は二つの種類に大別されると思われる。まずは、自分の能力不足を自覚しながらも、学識を得るためにできる限りの努力をする人々がいる。この場合、彼らは不断の勤勉さと努力によって、少ないながらも然るべき学識を身につけることになる。つまり、彼らは意欲(意志)の結果として、その学識を身につけるのだ。一方には、重大なことを自分が理解できるとは決して思わず、簡単なことも見逃してしまう人々がいる。彼らは、怠惰と無為ゆえに安寧に暮らしており、本当は理解できる簡単なことすら学ぼうとしないため、とても重大なこと、つまり真理を照らす光をすら見逃してしまうのだ。そのため詩篇には次のように書いてある。「彼らは、正しい行いをすることを理解しようとはしなかった」(注1)。「知らないこと」と、「知ろうとしないこと」(←これがナルシシズム化、あるいはカルト化の意味!/toxandoria<注記>)との間には大きな違いがある。もし本当に知らないならば、それは能力がないためだが、知を忌み嫌うのは歪んだ意志(=ナルシシズム、あるいはカルトの意志/toxandoria<注記>)のなせる業なのだ。(注1);詩篇36の4[この部分は、http://www.medieviste.org/archive/versio/Didas_I.htmlより引用]


(原文)Multi sunt quos ipsa adeo natura ingenio destitutos reliquit ut ea etiam quae facilia sunt intellectu vix capere possint, et horum duo genera mihi esse videntur. nam sunt quidam, qui, licet suam hebetudinem non ignorent, eo tamen quo valent conamine ad scientiam anhelant, et indesinenter studio insistentes, quod minus habent effectu operis, obtinere merentur effectu voluntatis. ast alii quoniam summa se comprehendere nequaquam posse sentiunt, minima etiam negligunt, et quasi in suo torpore securi quiescentes eo amplius in maximis lumen veritatis perdunt, quo minima quae intelligere possent discere fugiunt. unde psalmista: Noluerunt, inquit, intelligere ut bene agerent. longe enim aliud est nescire atque aliud nolle scire. nescire siquidem infirmitatis est, scientiam vero detestari, pravae voluntatis.


このように見てくると、ホワイトカラー・エグゼンプション制度の導入について、国民生活の現実を無視した(ナルシシズム化した=平泉澄の『皇国史観』の下で『追憶のカルト』化した)安倍首相が“日本国民の多くが、家で家族そろって食卓を囲む時間はもっと必要ではないかと思う。だから長く働くほど残業手当がもらえる仕組み(=現在の、正当に残業が付く制度)を変えれば労働者が働く時間を弾力的に決められるようになるので、結果として、国民が家で過ごす時間も増える。そうすれば、結果的に子供も沢山生まれるようになり少子化対策にも役立つ。”などと発言して、かなり多くの人々から“そんなアホな!”と顰蹙を買うことになるのです(参照、http://www.asahi.com/politics/update/0105/007.htmlhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/0105/007.html)。しかしながら、このように国民とサラリーマンの生活の現実を無視したバカゲタことを言われながら、一向に腹が立たないメディアと国民が多いことも日本の悲惨な現実です。


・・・参考まで、[2007-01-02付、toxandoriaの日記/2007年、ユマニスム復興への期待、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070102]へのコメント&レスを、以下に転載しておきます。・・・


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# toxandoria 『kaisetsu 様


新年おめでとうございます。TBありがとうございます。


安倍政権の「美しい国」については、遊就館歴史認識のみならず、教育バウチャー制度の導入も根本的な誤りだと思っています。』


# kaisetsu 『謹賀新年 所謂、小泉的な偽装・ペテン政権から、どのように方向転換するか、が去年から続く、国政のチャレンジだと思います。この問題を難しくしているのが、愚民の小泉劇場ファン層(墓堀人に貢ぐ層、墓穴層)と、世間に巣食う癒着・火事場泥棒層です。


安倍政権は、敵と味方が同居する、呉越同船内閣で、郵政離党組の復党で、一層、呉越同船色が濃くなりました。おそらく、安倍氏が嫌った「曖昧な日本の私(大江健三郎氏)」状態に、安倍氏自身が陥っている状況です。


教育バウチャー制度の導入については、Kaisetsuも反対です。教育委員会の強化に向かっている安倍政権の態度には、大きな不信感を抱きます。天下り禁止の緩和方向も間違っているし、財界言いなりの法人税関連減税や残業代ゼロ路線も、間違っています。安倍氏が、まず、行うべきことは、アンチ小泉宣言と、郵政民営化を含めて、全ての小泉政権下の法律の一時停止、小泉チルドレン自民党放逐だと思います。』


# toxandoria 『sophiologistさま、本年もよろしくお願いします。記事紹介&TBありがとうございます。


「連続的同一性=悪魔」論に同感です。スコトウスの「自由意志論」も、これを指摘していたと思います。これが、カルトの本性だと思います。


イベリア半島レコンキスタ(特に終盤のレコンキスタ)も、西欧の十字軍もカルト段階のキリスト教史の一コマだったと思います。


その後、長い時間を経て、やっとのことでソフィスティケイトされたキリスト教はブッシュ一派によって再びカルトの闇に引きずり込まれました。その一つの証拠は、未だにブッシュ政権が地球環境問題の根本(=地球温暖化問題)に無関心であることです。


そのためか、重大な知見と見做すべき「30 October 2006、Stern Review on the Economics of Climate Change」(http://www.hm-treasury.gov.uk/independent_reviews/stern_review_economics_climate_change/sternreview_index.cfm)も、ブッシュ一派のアメリカが指導する世界の大勢からは無視されています。


ただ、このStern Reviewのお膝元である英国のブレアは、この報告書に注目しているようです。この辺りから英米に隙間風(薫風?)が吹き始めることは却って有意義だと思います(参照、http://www.janjanblog.jp/user/stopglobalwarming/stopglobalwarming/7849.html)。


今や、我が国でも「日本伝統の神道」と「靖国信仰」(追憶のカルト)を同一視する偏狭な心情の人々の増加傾向が見られますが、これは根本的な誤謬だと思います。この点で、“小泉、安倍、石原(慎)、小林よしのり”らが高々と掲げる「美しい国」はドグマ化した「追憶のカルト」です。元来、「美」は多様であるはずです。


彼らがカルト信者たる所以は、論理も、因果律も、ヒューマン・コミュニケーションも、地域社会も彼らには無関係(無関心なコト)であるからです。そこにあるのは自己中心的でナルシスティックな「連続的同一性化した美しい国」があるだけです。それは、毫も“生命の宿り”が存在しない悪魔化した世界です。


喩えてみれば、それは「永遠に指示待ち状態のコンピュータ・ソフト」を命懸けで有り難がって信仰するようなものであり、まことに愚かしい“邪神信仰”(or馬のシッポ信仰)だと思います。こんなモノに付き合いをさせられる日本国民はいい面の皮だと思います。


これから本格化するであろう教育改革(教育バウチャー制度など)や改憲論議についても、先ず、このような視点から押さえるべきだと思っています。』


# sophiologist 『toxandoria 様


新年おめでとございます。今年も記事を楽しみにしています。さて、どうも、コメントありがとうございます。


先の[歴史の評価]再考「パパ、歴史は何の役にたつの?」の論考にコメントしようと思っていましたが、先に、コメントをしていただくかたちになりました。分子生物学の「関係子」という概念は、正に、プラトニック・シナジー理論の差異共振シナジーにおける差異の働きに重なると思いました。


また、ドゥンス・スコトゥスの個の概念は、不連続的差異・特異性に重なると思いました。結局、toxandoria氏が考えられている思想とプラトニック・シナジー理論と重なります。


さて、アメリカでは、中間選挙で、民主党が勝利して、いよいよブッシュ政権は、分裂症になったようです。一方は、帝国主義路線、他方は、多極化路線です。しかし、アメリカはポスト・ブッシュで、路線を後者へと明確に切り替えるのではと思っています。


問題は、日本ですね。確かに、安倍政権は、カルト的なものを抱えていますね。安倍首相の年頭の記者会見を聞き流しましたが、抽象論で説得力がないですね。大企業路線と民主路線の言葉だけの整合性で、実体は、前者に押し切られていると思います。


今年は参院選挙がありますが、私は、一度、小沢一郎に政権とらせた方がいいのではと思います。もっとも、雑居状態の民主党ではだめだと思っていますが。小泉/安倍カルト路線から脱却する方法は難しいですね。国民が財政破綻を身体で感じることが必要だと思います。私の経験からでは、頭ではだめです。身体に痛みが来ないと人間は動きません。それでは遅過ぎるのかもしれませんが、とまれ、いたずらに明るいヴィジョンを説くよりは、悲劇的ヴィジョンを言う方がいいと思います。


後、20代〜30代の意見を反映する政治が必要だと思います。老害日本ですから、かれらの意見を吸い上げるようにすれば、政治は変わると思います。


今年もよろしくお願いします。』


# sophiologist 『toxandoria様


日本の「カルト」的政治ですが、自公政権とは、正に、近代合理主義と霊的世界観の合体で、連続的同一性の「カルト」・全体主義政権であります。以下、最新の私のブログから引用させていただきます。


「さて、先に問題となった、「霊」のことであるが、以上の考察からすると、身体・コスモス的主体の連続的同一性が考えられるのであり、それは、確かに、神秘主義的身体と言えるだろう。この神秘的身体を、「霊」と呼びうるだろう。しかし、これは、他者の身体であり、知的認識主体を従属させるので、たいへん危険である。シュタイナーの人智学であるが、それは、霊主体従としているが、正に、これは、知的認識主体iを従属させているものであり、倒錯・錯誤・反動と言えるだろう。


つまり、「霊」的世界観は、近代合理主義と同様に、偏頗な、誤れるものであり、それは、人間を「霊」の従属者にしてしまうのである。精神世界や新興宗教の問題の本質は、ここにあると言えよう。オウム真理教があのように全体主義になったのは、論理的帰結である。そう、近代合理主義とオカルト主義は一致するのである。それは、全体主義、カルト主義になると言えるだろう。


現代、日本社会の問題はここにあると言えるだろう。自公政権とは、正に、近代合理主義と霊的世界観との合体である。これは、全体主義を生むのである。日本社会は、このカルト主義から脱却しないと、アメリカの従属・隷属国のまま、没落・滅亡するだろう。日本を救うのは、プラトニック・シナジー理論プラトニック・シナジー・サイエンスである。ポスト近代主義の、トランス・モダンの理論、未来・希望の理論がここにあるのである。」
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20070111



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