toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

アーカイブの役割とは何か(Ⅴ)

toxandoria2007-03-16


ドイツ在住のブロガーがドイツの日常をレポートしています・・・
『ドイツ・ジャパン』http://www.doitsujapan.jp/ ← Click Here !



ペルガモン博物館(ベルリン) presented by (copyright)Igarashi Taro 「10+1Web Site」、http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2001/11/10000000.html



ベルリン、博物館島(Museumsinsel)


・・・この画像は、当記事内容と直接の関係はありません。ただ、何となくドイツの空気が吸いたくなった気分なので掲げてみました。「博物館島」(Museumsinsel)はベルリン市内を流れるシュプレー川の中洲で、この中洲の北半分にペルガモン博物館、ボーデ博物館 (Bodemuseum)、旧国立美術館 (Alte Nationalgalerie)、旧博物館 (Alte Museum)、新博物館 (Neue Museum) の計5館(いずれも国立博物館)が集中しています。


・・・・・・・・・・


<プロローグ>


2007年3月14日のロイター発などの報道によると、ゴンザレス米司法長官は13日に記者会見を行い、連邦検事8人の解雇(昨年12月に7人、1月になって1人が、はっきりした理由の説明がないまま解雇された)をめぐって「誤りがあった」として陳謝しました。同長官は、8人が解雇理由の 説明を受けるべきだったと語るとともに、この件に関する議会への説明が「不完全」だったと述べています。また、ゴンザレス長官は司法に関連する全ての情報や決定を把握しているわ けではないことも強調しました。この騒ぎの発端は、この解雇劇に「ホワイトハウスが深く関与していたことを裏付ける電子メール」が暴露されたことです。このメールは、ゴンザレス長官の部下であるサンプソン司法長官補佐官が昨年1月1日にマイアーズ前大統領法律顧問に送信したものです。サンプソン氏は、こ のメールの中で、任期4年が終了した連邦検事の交代の是非についてマイアーズ氏がブッシュ大統領に質問したことを指摘し“司法省と大統領顧問事務所が連携し、人 数を限定して検事交代を図ることを勧める”と述べたとされています。


また、サンプソン氏は昨年9月13日のメールで、解雇予定と解雇が必要と判断される検事のリストをマイアーズ氏に送信し、「米愛国者法」の規定を利用して通常の検事任命手続きを回避することを提案したともされています。「米愛国者法」は任期未定の暫定検事を上院の承認なく任命する権限を大統領に付与しているため、サ ンプソン氏はブッシュ政権にとって好ましい人材を迅速かつ効率的に任命できるうえ、ホワイトハウスの政治的負担を軽減できるとして、同法利用の利点を挙げたとされています。これに対し、ブッシュ大統領は“ゴンザレス司法長官を信頼している”と述べる一方で、同司法長官は議会で質疑に応じて懸念を和らげる必要があるとも語ったとされています。また、ブッシュ大統領自身は自らには検事正を解雇する権限があることを確認した上で、解雇されたうち何人かについては苦情を聞いていたのでゴンザレス司法長官に伝えたが、誰を解雇すべきとは伝えてはおらず、今回の解雇は正当な措置だったと考えているとも述べています。


しかし、直近のCNNテレビなどの報道によると、解雇された8人の検事の中にはブッシュ大統領に近い共和党議員の身辺捜査の動きがあったことなども噂されており、今後の展開は余談を許さないようで、現在は複数の民主党議員が司法長官の解任を求めているうえに、共和党議員からさえも懸念の声が多数上がっていると報じられています。


(参考)


共和党上院議員、ゴンザレス司法長官の解任を大統領に要求、http://today.reuters.co.jp/news/articlenews.aspx?type=topNews&storyID=2007-03-15T120914Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-251277-1.xml&WTmodLoc=NewsArt-C1-ArticlePage1-5
検事8人解雇で米司法長官が陳謝 「誤りあった」と
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200703140011.html
ブッシュ政権、検事解雇に圧力疑惑 司法補佐官が辞任
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/world/K2007031500240.html


(補足)


「英国で『法務長官とブレア首相との特別な関係』がメディア規制への圧力を強化」


今、英国ではブレア政権を揺るがす「選挙資金融資疑惑」で政権からメディア側への規制圧力が高まりつつあるようです。ゴールドスミス法務長官のブレア首相に対する特別の気遣いからか、関連疑惑捜査のニュースを報じようとした公共放送・BBCに対して、司法当局が、突然、報道の差し止めを命令しました。このため、英国では「報道の自由」をめぐる論議が沸騰する一方で、あまりに過剰な報道介入の裏から、政権と司法の微妙な“つながり”が浮上し、疑惑を一層深める流れとなっています(詳細は、下記記事★を参照乞う)。


★2007.03.16付・東京新聞・核心『英融資疑惑で報道規制
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20070316/mng_____kakushin000.shtml



これが、世界における民主主義のリーダーを自認するアメリカとイギリスで起こっている現実です。イギリスでも同じ流れが予想されますが、特にアメリカの場合は、ここでは裏付けとなった電子メールに加えて新たな「ドキュメントの存在の有無」(新たな証拠の有無)が今後の展開を左右することになると思われます。このようなことを予想したかどうかはともかくとして、ふり帰ってみれば、大分以前からブッシュ大統領は「ドキュメント」に対してナイーブな態度を見せてきました。例えば(これは既に『アーカイブの役割とは何か(Ⅳ)/参照、下記URL★』で書いたことですが)、ブッシュ大統領は、2004年5月に「アメリカ合衆国アーキビスト」を交代させると突然発表したため、米国アーキビスト協会、図書館、歴史家などの九つの諸団体が懸念を表明して公聴会を要求する騒ぎとなったことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070304


合衆国アーキビストという役職は、国立公文書館を擁する国立公文書館記録管理庁(NARA)のトップのことであり、NARAの仕事は合衆国連邦政府の公式な記録(過去及び現用の文書)を包括的に管理し、その「公共のための歴史資料」を後世のアメリカ国民に伝えるという重要な役割を担っています。従って、そのトップの交代人事は特に慎重に行われるべきであることをアメリカ国民は理解しており、その交代の必要性がある場合にはアーキビスト、図書館及び歴史関連の諸団体と事前に十分な打ち合わせを行うことが慣例となっていたのです。ところが、ブッシュ大統領は、この慣例を一方的に破って突然の人事交代を通告した訳ですが、結局、一般国民の健全な理解に支えられた関連諸団体からの猛反発を受け、この問題については流石のブッシュ大統領も引き下がっています。


このような、ブッシュ大統領の一連の動きに見られるとおり、時代の違い、政治体制の違い、洋の東西を問わず、最高位にある政治権力者の「内心に沈潜する共通の根深い宿痾」は、“ドキュメント・エビデンス(証拠)さえ存在しなければ、また、そのエビデンスさえ抹消(初めから存在しないものとするために廃棄さえ)できれば、一般国民を適当に誑(たぶら)かしながら、いくらでも歴史は自らの意志のままに創作できる” という、野獣の如く貪欲で傲慢な思い上がった心です。このことからも、我われは「アーカイブの役割」を軽視すべきではないのです。しかし、残念ながら(以下の本論で触れるとおり)、わが国のアーカイブ事情は、東アジア諸国(中国、台湾、韓国)の中で最も立ち遅れているのです。


・・・・・以下、本論(シリーズ3の続き)・・・・・


[4]  記録文書を廃棄しても「心のエクリチュール」を消すことはできない



今、最先端をきわめつつあるノイマン型コンピュータがチューリングマシン・テスト(Turing Machine -Test)の壁に突き当たっています。しかし、このような状況の中で、人工知能認知心理学の分野でコネクショニズム(connectionism)という考え方が注目されています。チューリングAlan M. Turing/1912-54)はイギリスの数学者で、第2次大戦中はドイツ軍の暗号(エニグマ/Enigma)解読の仕事に携わりました。戦後は国立物理学研究所(PL)やマンチェスター大学で計算機の設計や数値計算法を考案しています。ノイマン型コンピュータの基本原理は「計算主義」ということであり、そこにフランスの数学者・思想家であるパスカル(Blaise Pascal/1623-1662)が確立したとされる「確率」の概念を応用して高度なコンピュータの機能を引き出し、それを活用しながら人間の脳と同じような働き、つまり“人間並みの思考能力モデル”を探究するのが人工知能研究の仕事です。


人間の思考能力レベルに到達した仮想コンピュータがチューリング・マシンと名づけられている訳ですが、人工知能研究の最先端では現在の「計算主義」に偏った研究手法の限界が意識されてきました。つまり、現状では、チューリングマシン・テストに合格するコンピュータは出来そうもないのです。因みに“人間らしい脳の働き”(人間らしい考え方)の特徴は何かと言えば、それは“エンドレスに代替案(無限に近い多様な考え方の選択肢、つまり連想)を生み出すことができる”ということです。そこでは、どうやら人間の心の働きに特徴的な“感情、情念そして漠然とした質感のようなもの”の要素を無視することができないようです。また、この“感情、情念そして漠然とした質感のようなもの”こそが“意志・創造力・想像力”などの原因となっているらしいことが少しづつ分かりかけています。この辺りの説明にピッタリの数場面を描いて見せたのが、スタンリー・キューブリックの古典的映画『2001年、宇宙の旅』です。ともかくも、最先端の脳科学・脳研究の成果によると、人間の脳の働きは「計算主義」とは全く異なる原理で機能しているらしいことが次第に分かりつつあるのです。


ところで、いま注目されている「コネクショニズム・モデル」(Connectionism-Model)とは、脳の神経回路モデルを使って「記憶、パターン認識、推論、学習」などの人間らしい認知機能をコンピュータの中で実現しようとする考え方です。その中核となるアイディアは「ニューロンクラスターの発火」という概念です。ここでは「発火」を「興奮」という言葉に置き換えてもよいと思われます。いずれにせよ脳が働く基本となっているのは膨大な数の神経細胞です。従って、脳を構成する主役はこの「神経細胞」なのですが、これは電気信号を発信して情報をやりとりするという特殊な働きをしています。その数は大脳で数百億個、小脳で約1千億個、脳全体では千数百億個という膨大な数です。一つの神経細胞から長い「軸索」と木の枝のように複雑に分岐した短い「樹状突起」が伸びています。この突起が別の神経細胞とつながり合って複雑なネットワークである「神経回路」を形成しており、神経細胞の接合部位とその構造がシナプス(synapse)と呼ばれます。また、細胞体と軸索と樹状突起が一つの神経細胞の単位と考えられ、これが「ニューロン(神経単位)」と呼ばれています。


<注>軸索:受け取った電気信号を出力する機能を持つ「樹状突起の末端部分」の装置


このような脳の「神経回路」の中には、特にニューロンが数多く集中して房のような形状(cluster)になっている部分があり、これが「ニューロンクラスター」(neuron cluster)と呼ばれます。各細胞体の大きさは、大きいものでは1/10ミリ以上あり小さなものはわずか1/200ミリしかありません。そして大脳では1立方ミリに約10万個の神経細胞が詰まっており、脳全体の神経細胞から出る軸索や樹状突起をすべて繋ぐと100万kmの長さになります。これは地球の周囲(赤道)の長さ(約4万km)の25倍もの長大なスケールです。このように巨大で限りなく複雑な神経細胞のネットワークを電気信号がミリ秒単位の速さ(有髄神経で1秒間に約100mのスピード)で瞬時に駆け巡ることで、脳の高度な機能が営まれている訳です。この「ニューロンクラスターの発火」という生理現象は脳神経についての科学的な脳内観察の成果ですが、コンピュータの分野でも、この「ニューロンクラスターの発火」の原理と見做される「コネクショニスト・モデル」と名づけられ、この「ニューロン内部で働く新しいアルゴリズム」(ニューロンの軸索でフィードフォワード・タイプの情報伝達が機能する原理)によってチューリング・マシンの限界をブレーク・スルーできるのではないか、と注目されています。


もう少し詳しく、この「ニューロンクラスターの発火」の原理で情報が伝達される様子を見るために「ニューロンクラスターの三つの階層モデル」(入力層、媒介層、出力層)を想定してみます。この三つの階層で行われる情報処理の特徴は、ある一つの層の上で実現されたニューロンクラスターの興奮(発火/活性化)パターンが次の層での活性化パターンに変換される(次の層を同様に変形させる)ことです。この時、入力層からの刺激(電気信号)によって変形した媒介層の興奮パターンは、媒介層における重み付け(その媒介層に与えられる入力条件)によって形の特性が決まります。同様にして出力層へも興奮パターンが伝播しますが、やはり、その形がどうなるかは出力層に与えられる入力条件によって決まります。結局、ある層から次の層へ伝わるニューロンクラスターの興奮の形状は、身体的な、あるいは脳全体の多様な条件から各層へ“配分される重み付け”によって決定することになります。


喩えれば、これは「ドイツの森」(参照/レーマン・アルブレヒト著『森のフォークロア―ドイツ人の自然観と森林文化』(法政大学出版局)、http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/bwtsea.cgi?STRCT=1&MODE=1&FLG=&REV-COD=RB14%2FR50)のような役割です。これは、ネット上の『Google-earth』で上空から俯瞰すれば直ぐ実感できますが、今でもドイツの大きな特徴は、多くの“森のクラスター”に囲まれる形で多数の都市や集落が点在しており、その点在のクラスターを繋ぐのがライン川(スイス・アルプスのトマーゼ湖から始まり、ボーデン湖に入り、ドイツ・フランスの国境を北に向かい、ストラスブールを越えカールスルーエの南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフなどを通り、更にオランダ国内へと入ったあとロッテルダムから北海へ注ぐ国際河川)、ドナウ川(ドイツ南部の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に始まり東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ国際河川)など、その支流を含めると網の目のように拡がる、とても豊かな河川のネットワークです。謂わば、ドイツの歴史はこのような「森のクラスター」をバイパスとする水の幹線を介して、人的・物的・商業的な交流が伝播し、繰り返されることによって個性的で豊かな歴史を紡いできた訳です。


別の言い方をすれば、ノイマン型コンピュータの局在的ネットワークでは、それぞれの命令に対応する各部分が機能的に異なるものとして存在するため、ある特定の命令に伴う表象(この場合はニューロンクラスターの形状)は、宿命的(必然的)に因果的(かつ論理的)連鎖を保持する必要があります。ところが、このような 「コネクショニズム・モデル」では、「特定の命令を表象するために必要な特定の部分や特定の状態」は存在しません。そのネットワーク全体にコーディングされた命令情報は、ネットワーク全体に対して全体的(包括的)に保持され、各部分には「重み付けが配分される」のです。これは、分子生物学者・清水博氏が唱え、生命現象の中核的概念として注目されている「関係子」と「場の情報」の関係によく似ています。清水氏は、人間の存在を広範な生物界全体に位置づけて捉えなおし、生命の働きについては、その全体とのかかわりの中で生成的、関係的、多義的に理解すべきだと考えており、そのためのキーワードが「関係子」で、この関係子が発生させる生命のリズムの「引き込み現象」(スピノザの“延長”または認知心理学の“クオリア”(詳細は次の段落で・・・)との関連性?)の中に、“いのち”の秘密を発見しようとしています。(「関係子」についての詳細は、[toxandoriaの日記:再考『パパ、歴史は何の役にたつの?』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061228]を参照)


今、「コネクショニズム・モデル」との関連で「クオリア」(Qualia/感覚質)という哲学的・認識論的な概念が認知心理学の分野で注目を浴びています。クオリアとは、我われが何事かを感じているときに伴って必ず実感される、一定の持続的な独特の(何らかの意味で個性的な)質感のことを意味する言葉です。分かり易い例を挙げれば、例えば我われがフェルメールの絵画を見たときに感じる、あの一種独特の持続するような質感(生命感、宗教感、美意識、清潔感、生活感?)のことです。無論、フェルメールレンブラントらのフランドル絵画だけがクオリアという価値を持つという意味ではなく、実は、我われは周囲の環境についての多様なクオリアのヴァリエーションを次々と目まぐるしく“感じながら”日常生活を送っているのです。読書に疲れ、ふと窓の外を見ると果てしない青空が広がり、少し下に目をやれば風にゆらぐ新緑が視野に入ります。やがて、気がつくと周囲が元気な鳥たちの夥しい囀りで満ちていることに気づきます。あるいは、気が合う友人と久しぶりに街のカフェで、ブルーマウンテンのフレーバーを楽しみながら語り合っています。このような場面で我われは、空の青い色、そよぐ風、木々の緑、鳥たちの合唱、楽しげな友人の表情、コーヒーの香り・・・と、次々と遷移的に変幻するクオリアの変化を感じているはずです。このように考えてみると、この世界と森羅万象がクオリアという、ある種の“質的な情報”(スピノザが物的な性質の延長と言うもの)に満ち溢れていることが理解できるはずです。そして、そのような時にこそ、我われは自分が生きていることの歓びを感じているはずです。


さて、もしクオリアが我われの心の中で生じる一種の質的な「感覚」でもあるとするならば、それは脳内の「ニューロンクラスターの発火」と何らかの関係がある、と考えられます。これは未だに仮説的話題ですが、「ニューロンクラスターの発火」によってできる多様な形状はアモルファス(amorphous/無限のパターン)に遷移・変形することが可能であり、その時系列に応じたパターンの一つひとつは、我われが周辺環境の刺激(つまり物的なモノが発する刺激、情報)によって獲得する個々のクオリアと1:1の関係で対応しているはずです。そして、この無限の形状変化の可能性を持つ「ニューロンクラスターの発火」が対応し、反応し、共鳴し、あるいは反発する対象は、現在、目前で生起しつつある凡ゆる外界(周辺環境)の出来事や造形芸術・パフォーマンスなどについてのイメージ表象や音声表象だけでなく、過去の記憶としてのイメージ表象や文字・文章・記号・映像など何らかのドキュメントが提供する数多の抽象的・具象的表象にも次々と対応していると考えられるのです。そして、哲学者デリダ(詳細、後述)は、特に後者(過去の記憶に纏わるイメージ表象)がスピノザの言う“延長”と強いつながりを持つ点に注目すべきだと主張しています。


更に、身体的な、あるいは脳全体の条件から各層へ“配分される重み付け”が「ニューロンクラスターの発火」の興奮の形状に影響を与えることが分かってきています。近代哲学の祖として、今、見直されつつあるスピノザ(Baruch de Spinoza/1632-1677/17世紀オランダの哲学者)は、物質の存在に根ざす独特の持続的な感覚のことを「延長」と名づけ、著書『エチカ』(生態倫理学)で感覚や感情と身体の関係を重視する哲学(心身並行論)を論じ、その上で人間のモラル(実践倫理、道徳)を説いていますが、このスピノザの「延長」は、ほぼクオリアに近い概念だと理解することが可能です。また、この辺りから「感覚、情動、意志、創造力、想像力”の関係について新しい視座(エピステーメ)が見出されるのではないかと期待されています。また、「ニューロンクラスターの発火」と「クオリア」という新しい概念についての更なる探求は、個々の人間の脳内表象の作用メカニズムの解明だけの問題に留まらず、経営学応用心理学分野における「コミュニケーション論」(狭く言えばプレゼンテーション論)にも大きな影響を与える可能性があります。更に、イスラムのタブー(例えば、女が男たちの前でヴェールを脱ぎ生の声で歌うことを禁じていること、など)の意味を理解する手掛かりとなる可能性もあるかも知れません。
  

現代フランスの哲学者ジャック・デリダ(Jacques Derridas/1930-2004)が、1960年代末の思想史上のパラダイム転換の時代に“脱構築”(deconstruction)の方法として唱えた「エクリチュール」(ecriture)という概念があります。デリダの仕事は、フッサール(Edmund Husserl/1859-1938/ドイツの哲学者)の現象学ソシュール(Ferdinand de Saussure/1857-1913/スイスの言語学者)の言語学を批判することから始まり、ついには現前のすべての形而上学の矛盾を暴く必要性に迫られて“脱構築”(deconstruction)の手法に辿り着きました。エクリチュールとは、平たく言えば“人間が書いたり描いたりする表現活動、書かれた文字、記号、絵画”あるいは“生きた人間が残す生命の軌跡”というような意味で使われており、英単語で言えば「write」に相当するフランス語です。デリダが、エクリチュールという言葉で“脱構築”しようとしたことを手短に纏めることはなかなか困難ですが、最も特徴的な点を指摘することは可能です。


デリダは、ジャック・ラカン(Jacque Lacan/1901-1981/パリ・フロイト学派を創設したフランスの精神病理学者)の精神分析学の批判でエクリチュールの概念を使います。デリダは、まずラカン精神分析学がイメージ(図像・形態表象)とシンボル(記号・文字・象徴)を混同していることを厳密に指摘します。更に、ジャック・ラカンシニフィアン(signifiant/文字の記号的な機能=能記)を現実界の物質的なもの(スピノザが言う延長(≒クオリア)に相当する)から切断してしまったことを批判します。この結果、デリダは、一般的な意味でのエクリチュールの役割があまりにも理念的・抽象的なものに偏りすぎてしまっていると言います。別の言い方をすれば、これはシニフィエ(signifie/文字が表わす現実的な意味・内容=所記)が、あまりにも象徴的なものの世界に舞い上がりすぎて現実世界から懸け離れているというのです。


そのため、ラカン精神分析学では“無意識(暗黙知も含めて)の世界は言語として構造化されている”という狷介な誤解が導き出されることになるのです。また、デリダは“文字(言語)の理念性は文字(言語)の物質性と切り離すことができない”とも言います。この“文字(言語)の物質性”ということはクオリア(あるいは延長)を連想させます。そして、デリダは“文字(言語)の物質性(クオリア的なもの)から文字(言語)の抽象的な理念性が立ち上がるメカニズムをこそ厳密に解明しなければならないのだ”と説きます。そして、この「文字(言語)が持つ宿命的な両義性」(象徴界と物質界の間を揺れ動くという意味)の中にある相互批判(相互評価)的な作用(これを“審級”の働きと言う)がもたらす軌跡のことを「エクリチュール」と定義します。このように見てくると、デリダの「エクリチュール」の概念が、人工知能認知心理学)の分野における「クオリア」や「ニューロンクラスターの発火」の考え方において重要な役割を果たす可能性があることを示唆しています。また、この問題提起によって、我われは欧米の表音文字と極東の象形文字表意文字)の異質性をも強く意識させられるはずです。


一般に「意志と創造性」は人間の精神活動の中で最も高度なものだと理解されています。ところが、直近の認知心理学精神病理学の知見によると、この人間の「意志と創造性」に最も大きな影響を与えるのがシニフィエとしての「情動」(一時的な激怒・欲情などの激しい感情)であることが解明されつつあります。そして、このフィールドで注目されているのは“感情、情動、そして生理的な作用を基盤とする身体が脳の働きにどのような作用を及ぼしているか”ということです。脳の中には、身体の各部分及びその全体の状況を継続的にモニターする領域が何ヶ所かあり、何らかの「情動」が起こるということは、脳内のモニターする領域が身体状況の変化をキャッチしたことを意味するということが知られています。つまり、そのような「変化」が「その変化の原因である対象」と同時に「表象」されるものが「感情」であり「自意識」だということになります。いずれにせよ、人間の心の作用の奥底では、生物としての生理的欲望が基本となっている訳であり、ある時点におけるシニフィエとしての全身体的な状態についての生理的感覚こそが「感情・情動」と「自意識」の本源であるという訳です。


この「感情・情動」なるもの大きな特徴は“過去・現在・未来という時間の流れが不確実だということ”です。別に言えば、「情動」では時間の感覚がまったく通用しないということです。これは、例えば“夢の世界では直線的な時間の流れが無関係であること”、“欲情に駆られて前後のことを考えられなくなり我を忘れるという表現が存在すること”、“世界中に残る神話の世界(情動と理性的意識の間の審級のエクリチュール)では、殆ど合理的な時間の流れが無視されていること”などから容易に納得できることです。これら新しい研究分野であるクオリアの問題に触れると、往年のSF映画の傑作とされる監督・脚本アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』(スタニスラフ・レム原作/参照、下記URL)は、このような人間の「意志、感情、生理的欲望」の精妙な関係と生命についての現代的な理解を先取りしていたように思われてきます。


http://www.pcs.ne.jp/~yu/sf/solaris.html、映画『惑星ソラリス』(旧ソ連時代の作品)
http://posren.livedoor.com/detail-8624.html、映画『惑星ソラリス』(アメリカ映画、上のリメイク版)


ところで、人間の様々な活動の中で最も強固な意志と創造的実行力(あるいは破壊的決断力?)が求められるのは大方の政治権力者の仕事であると思われます。従って、大抵の政治権力者の「感情・情動」の基盤である生理的欲求のエネルギーが野生の動物(野獣)に匹敵するほど強烈なものであることは想像に難くありません。そして、「感情・情動」の性質が時間の流れについて不確実であることを考慮すれば、彼らの本性(本心)は基本的に「確実な過去と、まだ起きていない未来」という時間の整合性については無頓着、無関心であるはずです。だから、彼らが破壊的決断力を行使した後に理性が立ち戻り、自らの行為について“時間の合理性”が破綻していることに気付いた暁には、証拠で反証されぬ限り、あるいは形式的な合法性の主張が許される限り、彼らには、最強の立場に立つ政治権力者として凡ゆる非合法な手段を講じてでも「自らが招いた時間的矛盾」が伴う「現実」を強引に捻じ曲げようとする不埒な意志が必ず働くはずです。それは、政治権力者が自らの「感情・情動」によって歴史的現実を捻じ曲げるか、あるいはデフォルト(消去)しようとする、決して許されるべきでない違法行為(法の支配の原則に逆らう反民主主義的な行為)です。


しかしながら、このような“矛盾”を押し付けられる非権力的な立場の一般国民といえども心の中には権力者に負けないほど強烈な「感情・情念」を抱えています。従って、この弱い立場の人々の肉体の奥底には「心のエクリチュール」の傷口を介して「強烈な怨嗟と怨念のマグマ」(身体全体へ再配分されたニューロンクラスターの興奮の位置関係(形状)の変化)が沈潜することになります。このようにして、悪徳と違法行為を犯した不遜な政治権力者の肉体(動物的な暴力性を帯びた政治的現実)の「延長」が散布する「冷酷なニューロンクラスターの発火」の焔(ほむら)は数多の人々に対する「負のクオリア」と化し、それは一般国民へ「傷ついた心のエクリチュール」を伝播します。やがて、このようにして生まれた「負の情念と怨念の強烈なマグマ」は、広く一般国民の身体全体(脳、肉体)に斑(まだら)なアクのように沈潜することになります。従って、それは、決して“言語で構造化された制度や言語化した無意識の世界”(ラカン)などではなく、現実を強引に、違法に、かつ非倫理的に捻じ曲げた政治権力者らの「悪徳(政)のクオリア」に触発され、異常に変形してしまった「リアルな怨念の表象(エクリチュール)」なのです。従って、国家的危機管理という観点からしても、政治権力者たちは、このように極めてリアルな「心のエクリチュール」の問題を看過すべきではないはずです。


ここにアーカイブ制度の重要な意味が立ち上がってきます。カール大帝時代のカロリング朝フランク王国(9世紀)でさえも、その「文書局」はフランク国王のガバナンス(統治権、統治能力)の正統(当)性を記した行政文書(公文書)を作成・保管するアーカイブであった、つまり“現用・非現用の行政文書全体”を視野に入れて管理する権限が付与されたアーカイブであったのです。しかし、これは前にも述べたことですが、いつの時代においても、あくまで自らのガバナンス正統(当)性を主張し、それを誇示しようとする強引な意志と身勝手な政権維持の野心(情動、欲望)のために、大方の政治権力者たちは、まず「ドキュメント(文書)に記録されたエクリチュール」の操作(公文書、歴史資料などの廃棄・消去・改竄など)の可能性に絶えず目を凝らしています。そして、そこでは「現実の記録と事実の消去」だけに止まらず、政治権力者による悪意に満ちた意図的な「偽証の創作」(証拠のデッチあげ工作)さえ行われます。しかし、このような政治権力者による作為的で傲慢な「エクリチュールの操作」は、主権在民現代社会に生きる我われ「一般国民の人間としての尊厳に対する冒涜」であり、最も悪質な犯罪行為だと断言できます。


今の日本では「NHKの放送内容への政治的圧力」、「省庁再編時の旧大蔵省等中央官庁による公文書の廃棄」(参照/下記◆)など、政治(及び行政)権力の暴走によるマスコミやアーカイブへの意図的な「消去の圧力」が発生しています。しかし、“ドキュメントを消去したり、廃棄したり”という権力サイドの暴挙は必ず「悪のクオリア」のシャワーを全国民へ浴びせることになります。必然的に、被支配層(一般国民、市民など)の脳内では「悪のクオリア」が夥しい量の「怨念の表象」を産出することになり、一般国民の身体の奥深くに悪臭を放つ澱のようになって沈潜・蓄積します。やがて、それは必ずリベンジ(revenge)という名の「情念のマグマ」と化し、発火し、煮えたぎることになります。従って、政治権力者も一般国民も「フランス革命」(1789)前夜の「アンシャンレジーム」という「人類に対する教訓的な時代の歴史」を甘く見ずに、もう一度想起すべきです。あの歴史は決して幻想や絵空事ではなく、現実に起こったことです。仮に、政治権力者が「ドキュメント」(公文書・歴史資料等の記録情報・データ情報としてのエクリチュール)を強権的に廃棄・消去・改竄できたとしても、人間の肉体の奥深くに刻み込まれたエクリチュール(実在の肉体(生命)に刻印された表象の軌跡)を完全消去することは不可能です。このような意味での生命のリアリティ(脳と肉体に刻印された情報としてのエクリチュール)は、地上の全人類が絶滅せぬ限り、この世界から消滅することはあり得ません。これが「情報の価値」の公理的な意味です。別に言えば、ごく一握りの権力者(あるいは勝ち組)だけが生き残り、その他殆んどの人類が滅亡した暁には“偉大な神の権威も、絶対的な権力者の権威も、大金持ちの財力も、稀少な情報の価値も、ヘッタクレも無くなる”ということです。


文部科学省科学研究費学術創生研究(2)、グローバリゼーション時代におけるガバナンスの変容に関する比較研究資料:行政文書管理をめぐる比較考察(http://www.global-g.jp/eastasia_k/)、「Ⅲ.考察−おわりにかえて」より部分転載。


『アジアという観点からみるならば、①韓国において、李氏の報告や「韓国民主化運動記念事業会アーカイブズ」に見るように民主化の文脈において文書収集・ 文書公開が進み、②台湾でも民主化・台湾化の流れの中で文書公開が進んでいる。しかし、こういった動きと異なり日本では、近年の情報公開法・省庁再編と軌 を一にして大量の行政文書が廃棄されるという事態が生じた。日本の文書管理は、韓国・台湾と方向性を些か異にしていることが窺われる。川島は、こうした状況について「東アジア諸国、中国、台湾、韓国は、文書の保存、整理、公開に極めて熱心であり、東アジアで日本がもっとも立ち遅れている」と述べている。』


かつて、アメリカのブッシュ大統領は“神の名において、「悪の枢軸イラク」を攻撃する”と宣言してイラク戦争に突入しましたが、17世紀オランダの哲学者スピノザは、“汝はこの木の実(りんご)を食べてはならぬという神の言葉にひたすら恐れを抱いたアダムの理解は間違っている、なぜなら、全知全能である神の言葉の意味を人間であるアダムが理解できるはずがないではないか”という主旨のことを述べています。もし、神が全知全能であるなら、そうでない人間は全く歯が立たず、神の定めた運命をひたすら生きるしか術がないはずです。従って、もし幸いにして神の前に立つ人間がいるとするなら、徒に神を恐れたり必死に神の言葉を理解しようとするのではなく、全知全能の神の前で“神の思し召し(寛容)”の奥深い意味を噛みしめながら、自らの判断による自らの行動の結果に対して潔(いさぎよ)く責任を取る覚悟を決めるしか術がないはずです。そして、たとえ権力者であっても、彼が人間である限りは、同じ立場のはずです。従って“神の名において”などの神憑りな言葉を軽々しく口にして自らの決断を誇示する権力者は、詐欺師か、ペテン師か、狂人か、あるいはトコトンの愚か者のいずれかということになります。


従って、仮に全知全能の神が存在するとしても、現実の世界における「情報の価値」を左右できるのは、ささやかながらも貴重な生命を与えられて日常生活を送る多くの人間たちです。このような意味で「情報」(厳密に言えばエクリチュールとしての一次情報)は人間が作り出し、人間が利用し、人間が評価すべきものです。というより、人間が作り、人間が利用し、人間が評価する以外に「情報」(エクリチュールとしての一次情報)の存在に特別の意味はないのです。ましてや全知全能の神は、そんな「情報」など必要とするはずがありません。そのような意味での「人間の情報活動」(人間のあらゆる活動がエクリチュールを生産し、発信し、受信し、記憶・保存し、消費することと考えられる)の軌跡こそが「生命に刻印されたエクリチュール」であり、また「文字のエクリチュール」です。現代社会における「アーカイブ制度の役割」は、このような意味での「エクリチュールの記録」(一次・二次情報)の中で、主に“行政と国民のかかわりの領域での諸活動”についての「ドキュメント」を公正・中立かつ客観的な立場で管理・保全し、必要に応じて「国家の主権者たる一般国民(市民)」に対して情報公開の形などで積極的にサービス・提供することです。他方、非常に多義的な人間の生き様の中で様々に変容するという意味で「生命に刻印されたエクリチュールのドキュメント」の方は、一般図書(文学作品等)及び芸術作品のような形で図書館、美術館などで保全・公開されることが望ましいということになる訳です。


<注>二次情報:一次情報を検索しやすくするために工夫された情報類のこと。例えば、目次、索引(誌)、目録、抄録(誌)、辞典・辞書、百科事典、ハンドブック、データベースなどで、いわゆるレファレンス情報のこと。


===============【ご案内】===============


◆『コメント』は、下記URLの<掲示板>にお書きください。多少のタイムラグは生じますが、<コメント内容の承認後>にレスをつけて該当ページのコメント欄へ公開します。
http://mypage.odn.ne.jp/home/rembrandt200306

◆『トラックバック』は、通常の使い方です。


・・・「toxandoriaの日記、アートと社会」内でノイズが発生することを防ぐためのポリシーです。よろしくご協力をお願いします。


===================================