toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「日本改革の美」に酔う「擬装右翼」の妄執的感性の危険性

[当記事の前提となること=当《試論》の原点]


安倍政権が掲げる「美しい国」が現実的に何を目指すかが一向に理解できないだけでなく、今や、その政策が悉く矛盾の壁に突き当たっていることは周知のとおりです。この小論は、その個別の齟齬を論(あげつら)うことではなく、ある一つの俯瞰的立場から、安倍政権が掲げる「美しい国ニッポン」の“異様で妄執的な感性”を抉り出す《試み》です。従って、この《試論》について異議ある人々と論争するつもりは毛頭ないことを先ずお断りしておきます。


一般に、右翼は保守主義に等しい概念だと誤解されています。そのうえ、日本の場合は「右翼が限りなく暴力団・ヤクザと『ある種の領域』を共有する」という特徴があります。因みに、日本の政党の揺籃期においては「任侠集団」と呼ばれる暴力集団が一定の役割を果たしたことも想起しておく必要があります(参照/下記ブログ記事★)。このため、仮に「美しい国ニッポン=擬装右翼の理念」と仮説するならば、今、我われ一般の日本国民は、二重に「保守主義」を誤解していることになるのです。そして、半世紀以上前の日本で生まれた大日本帝国という名の「ファシズム軍国主義国家」は、これと全く同じ誤解の上に咲いた「倒錯美の妖花」(別に言えば徒花(アダバナ))ではなかったのか?と思われます。
★『2005-04-05付・toxandoriaの日記/シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(4/4)』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050405


[アンドレア・デル・サルトとエドモント・バークの親和性/ヨーロッパ伝統・古典主義の再評価]



アンドレア・デル・サルト『洗礼者ヨハネの誕生』 Andrea del Sarto(1486-1531)「Baptism of the People」1515-17 Fresco Chiostro dello Scalzo 、 Florence



同『アルピーエの聖母』「Madonna of the Harpies」1517 Oil on wood  208 x 178 cm Galleria degli Uffizi 、 Florence


主に15世紀末〜16世紀初頭のフィレンツェで活躍した(フランソワ1世に招かれ1518〜1519年にフランスに滞在したが、それ以外はフィレンツェで仕事をした)盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルト(“仕立て屋”のサルトという呼び名)が、いま「ミメーシス美学の復活」とともに再評価されつつあります。アンドレア・デル・サルトはフィレンツェ古典主義を完成に導いた画家として知られており、ラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)、ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti/1475-1564)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/1452-1519)、フラ・バルトロメオ(Fra Bartolommeo/ca1472-1517)らの巨匠とほぼ同時代人で、特にミケランジェロとフラ・バルトロメオから大きな影響を受けています。


上の『洗礼者ヨハネの誕生』(フィレンツェのスカルツォ修道院の中庭回廊の壁画)でサルトはミケランジェロの影響を受けて身につけた彫刻的な描画法を使っています。そこでは殆んど褐色に近いモノクロームのグリザイユ技法(grisaille/モノトーンによる古典的描画法)が使われており、このような描き方はルネサンス壁画の中でも特異な作例とされています。また、サルトがこの技法を古代ギリシアで行われていたように大理石彫刻やブロンズの模倣で身につけたことをヴァザーリ(Giorgio Vasari/1511-1574/盛期〜後期ルネサンスに主にフィレンツェで活躍した建築家・画家・美術史家)が指摘しています(『イタリア・ルネサンス:宮廷と都市の文化展』-2001.3.20-7.8、於・国立西洋美術館/図録、p168-169)。


同じく『アルピーエの聖母』はサルトの聖母子像の中で最も重要な作品とされるものであり、彼の妻が聖母のモデルとされています。ヴェネツイア派の技法を身につけたフラ・バルトロメオの情熱的な色彩、レオナルド・ダ・ヴィンチの明暗法(sfumato)、そして何よりも古典主義(古典彫刻風の人物表現)的なバランスの良い構図と荘重さが漂っており、これらのハーモニーが鑑賞者の目を強く引きつけます。向かって右は福音書記者の聖ヨハネ、同左は聖フランチェスコであり、聖母マリアは左足に重心をかけたコントラポスト(contrapost/支脚と遊脚の対照の形)で台座にしっかり立っています。なお、アルビーエ(Harpies)はギリシア神話に出てくる“女の顔と鷲の体を持つ怪物”のことで、台座の四隅に描かれています。


従来は、どちらかといえばレオナルド・ダ・ヴィンチ、フラ・バルトロメオミケランジェロラファエロらの巨匠の影に隠れた地味な存在であったアンドレア・デル・サルトが注目され、いま再び評価されつつある背景には近年における「ミメーシス美学」の復活ということがあります。ごく大雑把な言い方になりますが、実は古代ギリシアで模倣を意味したミメーシス(mimesis)の本当の意味が、ルネサンス期から現代にかけて長い間にわたり誤解されてきたことが広く認識されるようになってきたのです。具体的に言えば、それは中世末期〜ルネサンス期におけるアリストテレスの『詩学』についての誤解ですが、ここで、その点についての深入りはできません。ともかくも、別に言うなら、それは17世紀ヨーロッパのバロック・市民革命期から現代につながる近代主観主義(近代還元主義)の呪縛ということです。そして、この近代主観主義の明確化はデカルト(Rene Descartes/ 1596 - 1650)の哲学に恩恵を蒙っており、その核心は「我思う、故に我あり」(Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム)によって命題化されています。この命題は、当時も未だ優勢であったため保守的・古典的な思想であると見做されていたスコラ哲学への決別(神学の婢(はしため)の地位に甘んじていた近代哲学の復権)を意味しています。


一般に、ルネサンス期は人文主義(人間中心主義)が芽生えた時であり、それまでの「暗黒の中世」を抜け出た古典再生(古代ギリシアン・ローマ文化のルネサンス)という大いなる革新の時代であるとされており、特にイタリア・ルネサンスではレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ、フラ・バルトロメオらの偉大な天才によって、この時代がエポック・メーキングされたと理解されてきました。ところが、既に見たとおり、同じ盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトの絵画には、彼らの影響を受けながらも、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロのような大天才(巨人)とは異質な「古典主義の特徴」がかなり強く感じられるのです(なお、後にフランス・アカデミズムの至高の手本とされるラファエロも、画風はサルトよりも情感的・人間的ですが、その古典主義的な特徴という点ではサルトと同質のものがあります)。


ところで、もう一度サルトの古典主義にスポットを当てると、その特徴は次の二点になります。そして、よく考えれば(2)も古典的な意味での「ミメーシスの技法」の範疇に入ることが分かります。これらの特徴を一言で言うならば、それは「古典的なミメーシスの技法がバランスの良い構図とハーモニーを実現し、鑑賞者に対し確固たる安定感を与えている」ということです。そして、この「安定感」(または安心感)ということが実は重要なキーワードとなります。このようなサルトの正確な素描の特徴を、ヴァザーリは「誤りなき画家」という言葉で褒め称えています(出典:千足伸行・監修『新西洋美術史』(西村書店)、p162)。因みに、やがてサルトやラファエロよりやや若い世代のポントルモ、ブロンツイーノ、パルミジアーニらの画家たちが不安なバロックの空気を今に伝えるマニーリスムス絵画(様式史的には凡そ1530〜1600年ころ)を描いたことも記憶に止めるべきです。


(1)古代ギリシアで行われていたように大理石彫刻やブロンズについての克明な模倣術(ミメーシスの技法)を身につけていた


(2)古典彫刻風の人物表現的なバランスの良い構図と荘重さが漂っており、これらの調和(ハーモニー)が鑑賞者の目を強く引きつける


次に、サルトの素描の大きな特徴である「ミメーシス」について少し詳しく考えてみます。これは、先に見たルネサンス期及び17世紀ヨーロッパのバロック・市民革命期(初期近代)から現代につながる「近代主観主義」(近代主義の呪縛)への反証ということに繋がる問題です。その「近代主観主義」の特徴は「自然を制御可能なものと見做す科学還元主義的な考え方」に立つことです。この発想からすれば、人間主観の権化たる大天才の出現によって科学的視点が革新(新しい理論の発見、科学技術の創造・イノベーション)され、レオナルドやミケランジェロのような天才芸術家によって人間のための偉大な芸術が創造されることになります。ところが、古代ギリシアのミメーシスは、このような考え方と正反対の立場であることが分かってきています。


そこで、古代ギリシアのミメーシスが意味するのは一体何かということになりますが、それは端的に言ってしまえば「自然世界の本質的なものを強化的に再現し、再提示する」ということです(出典:青山昌文著『美と芸術の理論』(日本放送出版協会)、p18-19)。これが先に述べた論点に重なることは容易に理解できるはずです。これこそが「近代主観主義」(近代主義の呪縛)への反証が意味することなのです。これにより芸術についての実在論的な概念が反転することになります。つまり、絵画に限らず凡ゆる芸術作品は人間の主観が構成するのではなく、この自然世界に際限なく広がる本質的なるものをミメーシスによってその奥深くからすくい上げ、それを鑑賞者の目前で強化的に出現させるものだということです。そこで想起されるのが、18世紀英国のエドモント・バーク(Edmund Burke/1729-1797/プロテスタントの父とカトリックの母の間にアイルランドのダブリンで生まれた政治家・哲学者・雄弁家)の著書『崇高と美の観念の起源(1757)』(翻訳、みすず書房・刊)です。


評論家・西部 邁氏が「マル激トーク・オン・デマンド、第307回」で披瀝しているとおり、エドモント・バークは『フランス革命省察』(1790)で“人間の浅知恵で先人たちが英々と築いてきた歴史や共同体を軽視するべきではない”という英国流・保守主義の立場を主張し、急進化したフランス革命を批判した人物です。また、バークは同著書で“ヨーロッパには古代ギリシアに発する理想と現実のバランスを腐心してきた英知の集積がある”とも言っており、西部氏は、これこそが正統な保守主義の歴史の系譜だと言っています。アメリカ独立戦争に際してバークが英国軍による植民地側への軍事介入を非難したことなどの経緯を考えれば、これは必ずしもフランス革命の意義を全否定した訳ではなく、革命(政治改革)が過激化したことに対する警告と見做すこともできそうです。それよりも、ここで注目すべきは、この「正統保守の歴史主義とされる考え方」が、ほとんど「ルネサンス期の古典主義の概念」に共鳴していることです。


このバークが著書『崇高と美の観念の起源(1757)』で主張したのは、17世紀の英国で生まれ18世紀にアンシャンレジーム下のフランスで開花した啓蒙思想による「明晰さこそが芸術に必須の本質だ」という主張に対する反論と考えることができます。すなわち、バークによれば“偉大な芸術は世界の無限(≒自然)を志向するもので、その無限には果てがないのだから芸術は明晰でも明瞭でもあり得ない。これこそ偉大な芸術が小さな範囲に囲い込むことができない理由である。また、それこそ我われが明快に表現されたものより暗示的・暗黙知的な芸術の方により一層大きく強い感動をおぼえる理由なのだ。”ということになります。そして、このバーク流美学こそが英国の正統保守の政治を基礎づけたと考えられます。結局、英国政治の伝統は、その悠久の歴史における保守と革新(改革)の絶妙なバランスによって有機的に組織されてきた秩序であるのだという訳です。


詰まるところ、バークが言う「悠久の歴史における保守と革新の絶妙なバランスにより有機的に組織された秩序」とは、古代ギリシア・ローマ〜古代末期〜中世〜ルネサンス〜初期近代〜近代〜現代という悠久の時間の流れのプロセスで「英々と積み上げられてきたミメーシスの努力の繰り返し」と見做すことができます。そして、このようなヨーロッパ伝統の真摯な努力の積み重ねによる漸進的な改革を重視するという古典主義(≒バーク流の保守主義)のコアとなっているのは、無限の世界(=宇宙も視野に入れた広大無限の自然)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」であると考えられます。また、このような「不安」があればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきだという「英知を伴う心性」が生まれるはずです。驚くべきことですが、このような古典主義(及び正統保守)の思想の中には、現代の我われの最大の脅威となりつつある地球環境問題への対処のヒントさえもが隠れているように思われます。


[キャスパー・ダヴィッド・フリードリヒ/「不安の心性」と「狂気のナショナリズム」の親和性]



キャスパー・ダヴィッド・フリードリヒ『孤独な樹』 Casper David Friedrich(1774-1840) 「Solitary Tree」1821  Oil on canvas  55 x 71 cm  National Gallery 、 Berlin


当然のことながら古代ギリシアに始まるミメーシス美学は自然の本質の中に「美しいもの」だけでなく「醜悪なもの」も見てきました。そして、美術史を概観すれば、その事例は数多く存在します。例えば、14世紀イタリア・シエナ派の最も重要な画家の一人とされるアンブロジオ・ロレンツェッティ(Ambrogio Lorenzetti/ ? -ca1348)の『善政の寓意/Allegoria del Gattivo Gererno(particolare)、ca1338-1340 /affresco、Palazzo Pubblico 、Siena 』があります(参照/下記ブログ記事★)。この絵の全体は、シエナ市庁舎の壁画で善政について描いたものですが、その部分画像が「暴政」(暴君が支配する政治)の寓意を描いたものであり、このブログ記事では「悪政のアレゴリー」の中心に居座る「暴君」の図像をクローズアップしています。
★『2006-11-11付toxandoriaの日記/“小泉譲りのカラクリ”で「美しく面妖な国づくり」をめざす“安倍・ヤラセ内閣”』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061111


しかしながら、このアンブロジオ・ロレンツェッティの事例のように「悪、醜悪、悪徳、狂気」などについて客観的に、かつ冷静に描かれた寓意画だけでなく、美術史の中には不幸な事例が存在します。例えば、ドイツ・ロマン派風景画の代表者とされ、18世紀末以降〜19世紀にかけてドレスデンで活躍したキャスパー・ダヴィッド・フリードリヒの絵画があります。本来、フリードリヒは厳しい自然環境ながらも誌的情趣に溢れたドイツの風土を反映したロマン主義絵画を描いたはずなのですが、不幸にも、そのような本人の意図とはまったく異なる形でファシズム・ドイツ(ヒトラーのナチズム)によって、そのファナティックなナショナリズムの高揚感のために利用されてしまったのです。ここで、その理由についての論を深める余裕はありませんが、一つ言えるのは、芸術における「崇高」の概念にはアプローチの違いによるノーマルとアブノーマルの両義性が伴うということです。そして、古代ギリシアのミメーシス論に従うならば、「崇高」なるものの本性は果てしない無限の自然の中に深く隠されているのであるから、それを完璧なミメーシスによって偉大な芸術家が再現した時にこそ、初めて我われ鑑賞者はその崇高を「美的実在」(優れた芸術作品)として鑑賞することが可能となる訳です。


一方、例えば「近代主観主義」(近代主義の呪縛)の徒花(アダバナ)とも言える、ヒトラーの「狂気のナチズム」のような心性では、その「崇高」なるものの実像は自然のミメーシスによる再現などではなく、同じ人間存在の「不安」を前提としながらも、それは、自らがファシズムナショナリズムの高みへ舞い上がったことによる「狂気の幻想」が創造した「悪徳」に他ならないのです。しかも、恐ろしいのは、これが世襲化・寄生化・特権化しているか、あるいはヒトラーのように激しい劣等感をバネとして跳ね上がった政治権力者などの場合には、自らの保身に纏(まつ)わる異常なほどの「不安」がその美学を高揚させるエネルギー源となっていることです。そして、特にロマン主義絵画にはミメーシス的なもの(ハーモニーによって安定・安心を確保し保全するための英知)と一定の距離を置く“虚構性”という本質(弱点)が伴うため、これが政治権力者と鑑賞者(国民一般)が親和する出入り口として機能し易いということが言えそうなのです。つまり、このような美学上の特異でフラジャイル(脆弱)な機序が介在することで、政治権力者と一般国民の間にある空気が「不安の心性」と「狂気のナショナリズム」の親和力を強化する方向へ流れることになる訳です。


ここに、「美しい国」など一定の美学的価値感を政治改革の実現目標として掲げることの危険性の意味が浮上してきます。このことを、西部 邁氏は「マル激トーク・オン・デマンド、第307回」の中で“安倍総理は「美しい国」などと言い出す前に、今の日本がいかに「醜い国」になっているかを自覚して、それを総点検するところから始めなければならなかった”という表現を使って辛辣に批判していますが、まさにこれは炯眼です。直近の報道は「美しい国ニッポン」を世界に向けて発信する準備に取りかかったと伝えていますが(参照、下記URL★)、この動向についても十分に注視する必要があります。なぜならば、恥さらしな「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」のリバイバルになりかねないという懸念(参照/下記ブログ記事◆)があるうえに、文学・絵画など日本を代表するほどの芸術作品の中にはキャスパー・ダヴィッド・フリードリヒの事例のようにファシズムナショナリズムの感性と親和力を持つ可能性がある「優れたロマン主義的作品」が数多く存在するからです。一部の専門家の中には、東山魁夷・画伯など日本を代表する著名な画家たちのロマン主義的作品の中に、そのような空気が漂うものが存在することを指摘する向きがあります。
★「美しい国」へ推進室設置=政府、「美しい国」を戦略的に内外に発信する(時事通信/ネット)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007032300047
◆『2007-03-23付・toxandoriaの日記/厚化粧の「美しい国」から「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」への回帰』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070323


<注>ここでは、東山魁夷・画伯の絵画そのものが“危険だ、ファシズム的だ”などと言ってる訳ではないことに留意!


しかも、この「美しい国」を掲げる政治権力には“右翼”というよりも“暴力集団”的なものへの嗜好というか、ある種の“それら”との間の親和力のような独特の強権的な空気が漂い続けていることも気がかりです。例えば、『松岡農水大臣が1本5,000円のミネラルウオーターを政治資金の“架空の光熱水費”で愛飲することは合法である』と閣議決定したことを始めとして、近年は、憲法違反であろうが、刑法違犯であろうが、虚偽・擬装であろうが、詐欺・ペテンであろうが、凡ゆる“齟齬・矛盾と<悪得>”を閣議決定で回避できるという政治権力側のワンサイドの独善的な論理が定着しており、メディアも無条件でこれを受け入れていますが、この辺りにも何か限りなく妖しげな臭気(=無法の空気!!)が漂っています。また、小泉政権〜安倍政権にかけて行われてきたタウンミーティング等におけるヤラセ型の世論誘導、放送法改正案についての直近の報道(参照/下記URL▲)などからも「美しい国」に纏わる暴力性が臭い立ってくるようです。
▲<放送法改正案>番組ねつ造処分は「ドラマも対象」菅総務相(2007.3.26・毎日新聞、ネット)
・・・参院予算委員会沢雄二氏(公明党所属/元・フジテレビ『報道2001』のプロデューサー)は“報道内容の真偽をもとに行政処分を下す法律は世界に例がない。関西テレビの事件の再発防止と、言論の自由の問題を混同している”と指摘した。
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070327k0000m010128000c.html


キリスト教原理主義と過激なネオコン一派に引きずられて大義なきイラク戦争に突入し、そのうえ頑なに地球温暖化に背を向けてきた米ブッシュ大統領の頑迷固陋な態度は、今や世界中から非難を浴びています。一方、その親愛なる同盟国ニッポンでは、自ら掲げた「改革の美名」にひたすら酔うばかりの安倍政権が、市場原理主義と妄執的な「擬装右翼」という矛盾した二枚看板が苦しげに軋むブザマな本性をさらけ出しており、その周辺には得体が知れぬファシズム風の不気味さだけが漂い始めています。もはや手遅れかも知れませんが、彼らにこそ、一刻も早く「古代ギリシアのミメーシスの英知」を理解させる必要があるようです。


今や世界中の多くの人々の関心事は“一人ひとりの市民が地球環境悪化へのブレーキ役と社会参加を促す方向を模索する”こととなっているときに、ひとり日本だけが、ミメーシスが強く自覚された時代でもある同じルネサンス期を発祥とする「資本主義の欠陥」(放置すれば、必然的に際限なく市場原理主義へ暴走する機序を内包すること)へ殆んど無関心のまま、ひたすら「小さな政府を目指すだけのために“ファシズムと親和しやすい『改革の美なるもの』(美しい国のワンフレーズ)を唄い続けるという妄執的な狂気の政治に没頭する愚かさ」は余りにも滑稽であるとともに限りなく情けないことでもあります。


<参考1>


以上の論とは直接的に関係ありませんが、(ミメーシス的な美的感性の効果)と(近代主観主義的な美的感性の効果)という仕訳で、今後とも検討すべき関連キーワードを図式的に書き出しておくと以下のようになります。


(ミメーシス的な美的感性の効果)


ヨーロッパ伝統の家族愛的な調和=(1)漸進的な正統保守の観念、古典美と主観の調和、利他主義への配慮、安定した社会への希求 → (2)自然環境と精神環境の破壊へ暴走する資本主義への健全な批判能力を保全 → (3)本物の崇高美への憧れ → (1) ・・・・・・ 安心継続への好循環= 安定した民主主義への可能性の維持


(近代主観主義的な美的感性の効果)


倒錯美の妖花を掲げる擬装右翼の不安定=(1)利己的な世襲継続への不安、家族・社会における連帯喪失の孤独、利己的・排他的な権力と市民双方の不安が増殖 → (2)マニエリスム的な美意識の談合的・癒着的な共有、主観の断片化・シンクロ化、利己主義的な自由観念の暴走(自然環境と精神環境の破壊へ暴走する資本主義への健全な批判能力の喪失) → (3)異常な耽美意識への憧れ(暴力的、ファシズム的心性の侵食) → (1) ・・・・・ 不安拡大への悪循環 = 民主主義の健全な基盤が崩壊


<参考2>


ヨーロッパ伝統の「ミメーシス的な美的感性の効果」を演出したようなフランス映画が4月14日から全国ロードショー公開されるので、下に案内しておきます。


2007年、フランス映画祭 (3/15〜3/18)の一コマ、“European Selection”http://plaza.rakuten.co.jp/europeans/diary/200703180000/より。


映画『輝ける女たち』(Le Heros de la Famille ) 公式HP → http://www.kagayakeru-movie.com/
http://blog.so-net.ne.jp/nozawahisashi/2007-03-17 ← 批評ブログ(この映画の家族愛、人間愛の描き方についてかなり好評です)
・・・プロフィールは、この映画で主役を演じたカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)とエマニュエル・ベアール(Emmanuelle Beart)。Emmanuelle Beartの画像は『8人の女たち』(8 Femmes/http://www.tv-tokyo.co.jp/telecine/cinema/8femmes/cast.html)より。


・・・・・旅に出るため、しばらく(4月中旬頃まで)当ブログの更新はストップします。

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