toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編2]

toxandoria2007-04-23




ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より


ドイツの主要都市(ウイキペディアより)


ドイツの河川図(ウイキペディアより)


(プロローグ)


◆コメント&レス to 「toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編1]」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070418


o_sole_mio 『TBありがとうございました。


ドイツの町並みや絵画など美しい画像を堪能させて頂きました。丁度昨年の今頃、フランクフルトからバートキッシンゲンまで車で約2時間移動したのですが、牧歌的な光景でした。


こちらで話題になっている通り美とか正義とかは普遍的なものではないように思えます。だからこそ美や正義を殊更強調する社会風潮は要注意だと思います。』 (2007/04/22 22:57)


toxandoria 『o_sole_mioさま、コメントありがとうございます。


1929年のドイツでは世界恐慌 の勃発で外国資本の流入が途絶えて、ドイツ経済は一層衰退し失業が極度に増大しました。 不況の深刻化につれてナチス革命の状況が現れ、ナチス党は急速に多くの人々を吸収し勢力を拡大します。


新たにナチス党へ参加した人々の中には、あらゆる階 層のクビになった人々、破産した商店主や困窮した小企業の経営者たち、極貧の農民たち、共産党社民党に失望した労働者たち、生活に必要な定職に就くこと が出来ず人生に絶望した若者の大群などがいたのです。


やがて、1932 年7月の国会選挙でナチス党は1370万票を獲得し、その得票率は37.4%に至り、総議席数670のうちの230議席を占めてしまいます。絶対過半数で はないものの 第1党となったナチス党の勢いを見せつけられたヒンデンブルク大統領は、ヒトラーへ連立内閣の副首相の座を提案しますが即座にヒトラーはこれを拒絶し、首 相以下の全てがナチス党員による政府を要求します。結局、政局が行き詰まり、1933年1月30日にヒンデンブルクヒトラーを首相に任命することになり ました。


このヒトラー体制が固まるまでのプロセスから見えてくるのは“いつの時代であっても大衆は分かり易く美しいモノと目先の利益誘導 に弱い”という現実です。これは専制国家体制下であれ民主主義体制下であれ同じことのように思えます。


言い換えれば、それは“人間は目前の心と咽の渇きに は耐えられない”という現実があるということです。そして、狡猾で冷酷な野望を持つ権力者とは、このような現実に対する明快な信念の持ち主です。そして、この“目前の心と 咽の渇き”を癒すモノが“水のように中立的なモノ”とは限らず、それは目先の「“マンガ的なほどに一見分かり易く美しいモノ”であり、福祉であり、カネで あり、仕事と売上の配分である」という訳です。


今回の統一地方選挙の結果などを見ても、やはり、このようなルールの作用が透けて見えています。この“マン ガ的なほどに一見分かり易く美しいモノ”の悪魔的な危険性は、“目前の心と咽の渇き”を感じている大衆にとってみれば、それが政治権力者の邪悪な信念の強 さ、あるいは狡猾な権力者の意志の裏返しであるにもかかわらず、それが「人間的な誠実さ」と見えてしまうことだと思います。』 (2007/04/23 09:20)


◆コメント&レス to 「toxandoriaの日記/妄想&迷想、ヒトラー的なものについて」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070420


猫屋 『フランスでの投票率は85パーセントでした。古い意味でのデモクラシがまだ、どっこい生きています。


ところでフランドルは夏でした。日焼けしてきましたが、ブルージュアムステルダムヴェニスバングラデシュも地球天候変化が拡大すれば海の中です。


突然 失礼いたしました。』 (2007/04/23 09:31)


toxandoria 『猫屋さま、コメントありがとうございます。


フランス大統領選の投票率85%はさすがです。その結末も気になるところです。日本では、例えば<下>のとおりで、相変わらず民主主義の定着が疑われる状況です。あらゆる選挙での投票率・6割未満が常態の国は、とても民主主義国家とは言えぬと思うのですが・・・。


<沖縄=47・81%(2004年参院選比6.42ポイント減、過去最低)、福島=56・72%(同3・62ポイント減)>
<市長選の投票率、過去最低の53%(Nikkei-NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070423AT3S2300223042007.html


ブルージュは懐かしい! 作夏の旅を思い出しています。ブルージュはパリからの日帰りも可能でしたでしょうか? また、行きたいところです。


今回のドイツ旅行でも、比較的お天気には恵まれましたが寒暖の差の激しさには驚きました。これは、暖冬傾向と予測されていた日本でも同じことですが。』 (2007/04/23 10:42)


(本 論)


ベルリン市内の風景とベルリン・テレビ塔


モスクワのテレビ塔に次ぎ欧州で二番目に高いとされるベルリン・テレビ塔(高さ368m)は、東ドイツ建国20周年記念のため1965〜1969年にわたり、アレクサンダー・プラッツ駅から徒歩5分の場所に建設されました(1969年10月3日に稼動開始)。


この塔の建設には、旧東ドイツドイツ民主共和国)(共産党社会民主党の合同で生まれたドイツ社会主義統一党を中核とする人民議会を最高権力機関として、三権分立を認めない民主集中制の国家体制)の国威発揚とともに国家の通信網を発達させるという目的がありました。


1990年の東西ドイツ統一後は、1995年〜1996年にかけて内部施設(空調・防火など)が全面的に改築されています。それ以来、年間で約100万人の観光客が訪ねる中核的な施設となっています。地上から203メートルには展望台と30分で一回りする開店カフェがあります。


ベルリン大聖堂(Berliner Dom)


上はペルガモン博物館あたりから望むベルリン大聖堂です。このベルリン大聖堂は博物館島の南端でカール・リ−プクネヒト通り(K. Liebknecht Str.)がクロスする辺りにあり、それはシュプレー川を挟みテレビ塔の東側に位置します。そして、その歴史はホーエンツォレルン家と深い関係があります。


<注>ホーエンツォレルン家(Hohenzollern)


・・・ブランデンブルク選帝侯・プロイセン王・ドイツ皇帝を輩出した名門で、始祖は南西ドイツ・シュワーベン地方の貴族です。本城があった「ツォレルンの丘」から11世紀にHohenzollernの家名が生まれています。フリードリヒ・ウィルヘルム(Friedrich Wilhelm/位1640‐88)が、ブランデンブルクプロイセンの貴族(ユンカー/東部ドイツ地方の地主貴族)たちの支配を押さえて絶対主義への道を切り開いたあと、次の選帝侯フリードリヒ3世(Friedrich Ⅲ/位1688‐1700)は、「スペイン継承戦争」(War of the Spanish Succession/1701-14)でハプスブルク家神聖ローマ皇帝レオポルド1世(Leopold I/位1657-1705)を支援する代わりに「プロイセン王の称号」を授けられ、フリードリヒ1世(FriedrichⅠ/1701‐13)と称した。これ以来ホーエンツォレルン家はオーストリアハプスブルク家と競合しながらプロイセン王国を支配するようになり、1871年には「ドイツ帝国」(Deutsches Reich/1871-1918)の建設とともにヴィルヘルム1世(Wilhelm I/位1861‐88)が初代の皇帝に選ばれました。


Berliner Domの歴史は、1465年にローマ教皇パウル2世がシュプレー島に聖エラスムス教会(collegiate church/聖堂参事会管理教会)の建設を命じたことに始まっています。1536年に選帝侯ヨアヒム2世(Joachim II)は、その教会を居城の南側で以前にドミニコ派の教会があった場所へ移築させます。更に、ヨアヒム2世は、1539年にルター派の支持によって宗教改革を行っており、それ以降この教会はルター派プロテスタント)の教会となります。


1747-1750年にかけてプロイセン国王フリードリッヒ2世・大王(Friedrich II/位1740-1786/父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の築いた強力な財力・軍事力をバックに「オーストリア継承戦争」(1740-48)と「七年戦争」(1756-63)でシュレジェン(Schlesien/現在のポーランド南東部からチェコ北東部に属する地域)を獲得/ヴォルテールらと交友を持ち、“君主は国家第一の僕(しもべ)”と称し典型的な啓蒙君主・専制政治を推進)は、そのゴシック様式教会の北側にバロック様式の新しい教会を建設させます。そして、王たちの棺が前の教会からこの新しい教会へ移された後に、ゴシック様式の古い教会は取り壊されました。


やがて、宗教改革300年記念(ルターの95カ条論題=1517年から数えて300年)にあたる1817年に、プロイセン国王はルター派と改革派の統合を命じますが、このバロック様式の教会は、この機会に建築家シンケル(Karl Friedrich Schinkel/1781-1841)の手によってドイツ古典主義様式の教会へ改築されることとなり、その工事が終わったのは1882年です。


114mもの高さの天蓋(ドーム)を持つBerliner Domの内部は見事なステンドグラスと荘厳で美しいレリーフ(聖書の物語が施されている)で装られプロテスタント教会としては異例な豪華さを誇っており、その右手にはフリードリヒ1世と皇后ゾフィーシャルロッテの棺が安置されています。この大聖堂の天蓋は、第二次世界大戦空爆でかなりの被害を受けましたが、1975年〜1993年にかけて修復が行われました。


ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)


ブランデンブルク門はドイツ連邦議事堂の南側(旧東西ベルリンの境界線上)に位置する石造の都市門です。それは、ベルリンから西方向へ約80kmにあるブランデンブルク市へ向かうウンター・デン・リンデン通り(Unter den Linden Str.)の終端に位置しており、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命に基づき建築家ラングハンス(Carl Gotthard Langhans/1732-1808)によって1788‐91年に建設されたプロイセン新古典主義建築の傑作です。門上には、彫刻家シャドー(Johan Gottfried von Schadow /1764-1850)が作った四頭立ての馬車(Quadriga)に乗った勝利の女神ヴィクトリア(Victoria)の像があります。


アテネアクロポリスのプロピュライア(Propylaia/古代ギリシア神殿の壮麗な列柱門)を模したドリス式による簡潔な造形が特徴ですが、このBrandenburger Tor(高さ26メートル、幅65メートル、奥行き11メートル)はベルリン都市の美しさの象徴となってきましたが、同時にそれはベルリン市民の心のよりどころで、ベルリンの歴史を見つめてきたランドマークでもあります。東西ベルリンの時代には、門が東ベルリンに属していたためベルリンの壁はその西側に作られていました。


なお、現在のブランデンブルク市はドイツ北東部にあるブランデンブルク州工業都市ですが、それはハーフェル川の要衝に位置しており、10世紀以来城塞が置かれてきました。12世紀にハーフェル川の両岸に相次いで商人地区(旧市街と新市街)が成立してから都市としての重要性が高まります。やがて、ブランデンブルク市は中世ドイツ人の東方植民とともに発達し、中世を通じて両地区は別々の行政単位として並存してきましたが、1715年に単一都市に統合されました。


また、ブランデンブルク州 (Land Brandenburg) ベルリンを取り囲んでいるドイツの北東部の州です。もともと、この辺りのブランデンブルク辺境領(Mark Brandenburg)は辺境伯領から選帝侯領となった地域です。1815年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時にプロイセン王国の10州の一つであるブランデンブルク州となり、第一次世界大戦後はヴァイマル共和国のプロイセン州 (Freistaat Preuseen) の一部となるなど幾多の変遷を経ますが、1990年の東西ドイツ統一でブランデンブルク州が復活しました。その首都はポツダム市です。


カイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm−Gedaechtniskirche)


カイザー・ヴィルヘルム記念教会は、ベルリンの西側のヅ−オローギッシャー・ガルテン(Zoologischer Garten/動物公園)駅の南側に位置するクアフェルステンダム(Kurfuerstendamm/通称、クーダム/ショッピング街)付近(動物公園の南側)にあります。Kaiser-Wilhelm−Gedaechtniskircheは、その名のとおり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とビスムマルク体制が成立させたドイツ帝国(Deutsches Reich)の記念に創建されたものです。


残念ながら、このカイザー・ヴィルヘルム記念教会は、1891〜1895年の歳月と莫大な費用で建設されたにもかかわらず第二次世界大戦中の1943年に度重なる空襲で甚大な被害を受けてしまいます。様々な検討の結果、戦争中の悲惨さを忘れぬよう中心部分を碑とすることが決まり、その破壊されたままの姿を残すことになりました。 そして、その横には近代的な新たな教会が建設されています。


碑として残された中心部分には、創建当時の教会の姿や戦争で破壊されたベルリン市街の様子を伝える写真や教会の遺品が展示されており、このKaiser-Wilhelm−Gedaechtniskircheの遺構は、ベルリン市民の平和を祈念する心の象徴的な存在となっています。


残存する「ベルリンの壁」(Berliner Mauer)の一部


ベルリンの壁(厚さ約15〜30センチの硬質のコンクリート)は、1961年に東ドイツによって建設され、 それ以降28年間にわたり西ベルリンを囲み続けてきた高さ4m、全長155kmの壁のことですが、今はその一部が残されているだけです。この画像は『テロのトポグラフィー(Gedenkstaette Topographie des Terrors )』の前にある壁(ポツダム広場の南側)です。壁が建っていた部分(線)は地面に跡が残されています。道路や横断歩道などにもこの石跡が残されています。


Topography of Terrors(恐怖政治の地誌)


上の「ベルリンの壁」の裏側には『テロのトポグラフィー』(Topography of Terrors)と名づけられたナチス時代の恐怖政治の解説パネルが展示されています。この辺りにはゲシュタボ(国家秘密警察)とSS(ナチス親衛隊)の本部があったとされており、東西に走るニーダーキルヒナー通り(Niederkirchnerstr.)に沿う約150メートルほどの部分で、ここにあったナチス時代のゲシュタポ本部の地下構造が一部掘り起こ されています。


その崩壊しかかった煉瓦壁の手前にはボードが並べられており、ナチス親衛隊による支配と抑圧の仕組みや悲惨な目に遭った膨大な犠牲者たちについての資料が展示されています。ここの展示方法は、ナチスによる残虐な行為と悲惨が決して過去の特異な出来事(忘却すべきこと)ではなく、この場所の記録そのものは、今もその悲劇の種がドイツ人やベルリン市民はもとより、全ての人間社会の中にも潜んでいる可能性があることを想像させます。


ホロコースト記念碑(ヨーロッパの虐殺されたユダ ヤ人のための記念碑/Denkmal f・ ermordete Juden Europas)
ブログ『ベルリン便り』、http://www.meinde.com/tagebuch/c_note.cgi?vより


これは、2005年5月に完成した「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」、いわゆるホロコースト記念碑です。ドイツ連邦議事堂の南側にあるブランデンブルク門を中心とする一帯は、かつてナチス時代の政治の中心地であり、今も再びドイツ政治の中心となっている場所なので、日本で喩えれば永田町の国会議事堂や霞ヶ関周辺に相当するような地域です。そのブランデンブルク門のすぐ南側にある広い敷地に2711基の石碑が並んでいる場所があり、これが「ホロコースト銘記碑(ヨーロッパの虐殺されたユダ ヤ人のための記念碑/Denkmal f・ ermordete Juden Europas)」です。


これは17年の歳月をかけて作られた施設で、600万人とも言われるナチスによるホロコースト犠牲者(大量虐殺されたヨーロッパのユダヤ人犠牲者)を追悼する記念碑です。それは、約1万9千㎡の広大な敷地にコンクリート製の石碑2711基がグリッド状に並ぶ壮大なモニュメントです。厚さ0.95m、横幅2.38mのブロックが様々な高さ(0m〜約4.5m幅の範囲)で並んでおり、基礎の地面も緩やかに波打っているためブロック全体の高さも地面に添って波打つようになっています。


建築を委嘱されたのはユダヤアメリカ人の建築家ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman/1932-  )です。彼はこの巨大モニュメントの間を車椅子も通れるようなスペース取り、ここへの来訪者が施設の中を自由に歩き回れるように設計しました。来訪者は、その中に入ると迷路に迷い込んだような錯覚に陥り他の人々の影が予想を裏切ってふいに横切るため不安な気持ちが増幅されます。また、時間の経過にともなう陽の傾きによってコンクリートのモニュメントの表情が微妙に変わるのも圧巻です。


ともかくも、かつてはナチス第3帝国時代の政治の中心地で、その後は東西分断の最前線となり、今や再び政治の中心地となった重要な場所にナチス・ドイツ時代のおぞましい記憶である「ホロコースト記念碑」を建設するというドイツ人の決意からは、過去における自らの残虐な歴史から決して目を逸らさず、そこから絶えず新たに学び直すことが未来のドイツを創るのだという固い信念が伝わってきます。


なお、ここで詳しく論ずる余地はありませんが、このようなドイツのナチス時代への反省は、単にナチスの残虐行為(Terrors)を反省することに止まらず、その歴史をドイツ帝国時代からタキトウス(Tacitus/ca56〜ca120)など古代ローマの史家が伝える「トイトブルクの森の戦い」(AD9年/英雄アルミニウスの時代)辺りまで遡って検証することがベースとなってきたことを認識する必要があります。


ここで重要なのは、敗戦後のドイツが特にフランスとの共通の歴史を遥か遠い共通の英雄時代にまで遡ることで、ヨーロッパの中のドイツとしての役割を新たに自覚できたということです。このような真摯な態度があってこそ、かつてのライバルで幾多の戦争を繰り返してきた仇敵・フランスと手を携えて欧州連合EU)の基盤を欧州全体へ提供する重要な役割を担うことができた訳です。また、それはヒトラーナチスの凶暴な民族意識(純粋なゲルマン人の血への拘り)に基づくドイツ帝国時代以降のナショナリズムが、実は、このような歴史の根本についての誤解が下敷きとなってもたらされたものであったことが明らとなったからでもあります。


(これ以降はKleinmachnom bei Potsdam、Potsdam)


クラインマッハナム(宿泊地)あたりの早春の風景


ポツダム市街の風景


ポツダムは、ベルリン南西部に隣接(ベルリンから約26km)するブランデンブルク州の州都で、エルベ川の支流ハーフェル川に沿う工業・文化・観光都市です。その歴史は、1411年以来の自治都市として知られており、16世紀にはオランダ人織工が移住し、17世紀にはフランスからのユグノーを積極的に受け入れました。つまり、フランスのルイ14世が「ナントの勅令」(1598にアンリ4世が発布)を廃止してユグノーの迫害を行ったとき、プロイセン選帝侯(フリードリヒ・ヴィルヘルム)は「ポツダム勅令」(1685)を発表してユグノーの亡命者を受け入れました。


ホーエンツォレルン家との結びつきは、17世紀にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムがここに兵営を置いたことに始まります。次いで、プロイセン国王フリードリヒ2世(大王)は離宮(サン・スーシ宮殿)をかまえ、それ以降のポツダムプロイセン軍国主義の牙城となりました。


第二次世界大戦中にはポツダム市街も爆撃で破壊されましたが、殆んどの由緒ある建物は戦火をまぬがれます。1945年7〜8月にトルーマンチャーチル(途中でアトリーと交替)、スターリンの連合国首脳がツェツィーリエンホーフ(旧プロイセン王家の屋敷)で「ポツダム会談」を行い、ドイツ占領政策の大綱を定めた「ポツダム協定」を締結し、同時にここで日本に対する無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を発表しています。


ツエツイーリエンホフ宮殿(Schloss Cecilienhof)の風景


皇太子時代のヴィルヘルム2世(Wilhelm Ⅱ/位1888-1918)と妻ツエツイーリエンホフ(Cecilienhof)のために建てられた英国別荘様式の宮殿です。既述のとおり、ここでは1945年7〜8月に「ポツダム会談」が行われ、ここで「ポツダム宣言」(The Potsdam Declaration)が発せられます。これは、その会談の合意に基づき米・中・英(ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名せず、1945年8月8日の対日宣戦布告の後に、この宣言に署名)が大日本帝国に対して発した13条から成る降伏勧告の宣言です。


1945年8月10日、大日本帝国は「ポツダム宣言」の受け入れを連合国側へ打電し、同年9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇、政府全権・重光葵大本営全権・梅津美治郎が連合国側への降伏文書に調印しました。なお、この降伏文書には宮城県白石市の特産である白石和紙(大変高品質な和紙として東大寺の“お水取り”の儀式などでも用いられる)が使われました。


また、この宮殿の建物と庭園は1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されています。宮殿の前には美しい庭園が広がっており、周囲の自然環境も大変に美しいものです。


サンスーシ宮殿(Achloss Sanssouci/無憂宮)の風景


サンスーシ(Sans Souci)はフランス語で“憂いなし”の意味で、この宮殿はフリードリヒ2世・大王が1745〜1745年(オーストリア継承戦争の最中)に造営を命じ、建築家G.W.フォン・クノベルスドルフ(Georg Wenzeslaus von Knobelsdorff /1699-1753)によって建設されたもので、ロココ様式建築の最高傑作とされています。


当初の名目は「夏の離宮」でしたが、事実上ここが本拠地となり、その後のポツダムでは華やかな宮廷文化が花開くことになります。1990年には、同じく「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されています。


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