toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[バンベルク編]


ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より


ドイツの主要都市(ウイキペディア)より


ドイツの河川図(ウイキペディア)より


バンベルクのラオホ・ビール(Rauchbier)


バンベルクには伝統的な製法で醸造するラオホ・ビールがあります。これは、モルトを燻製することによってスモーキーフレーバーをビールにもたらしています。 たしかに、ここで飲んだラオホは格別に美味でした!


バンベルクの風景、アラカルト1



(プロローグ)ドイツに学ぶ=これからも続く、我われ自身の内なるヒトラーとの闘い


(参照、下記の関連ブログ記事)


2007-05-03 妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503
2007-05-01 2007年春、ドイツ旅行の印象[ドレスデン編]
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070501
2007-04-28 2007年春、ドイツ旅行の印象[マイセン編]
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070428
2007-04-25 妄想&迷想、ドイツ・ナショナリズムの反省
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070425
2007-04-23 2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編2]
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070423
2007-04-20 妄想&迷想、ヒトラー的なものについて
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/2007042
2007-04-18 2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編1]
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070418
2007-04-17 2007年春、ドイツ旅行の印象/TRAILER(予告編2)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/2007041
2007-04-13 2007年春、ドイツ旅行の印象/TRAILER(予告編)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070413


本や化粧品を買うときでも、旅に出るときでも、自分にはあまり自信がないので、つい売れ筋や上位ランクを選んでしまう。上位ランクを選べばなんとなく、そして、とりあえず安心だ・・・、これが現代の日本に生きる平均的な我われの日本的な“親方日の丸感覚”に基づく行動基準となっています。また、このような原理がネットビジネス(先端的な“eビジネス”)の推進力(エネルギー源)となっていることは周知のとおりです。


加熱するメディアによる過剰な宣伝合戦とネットワークの高度化による「mixi、ブログ」などの普及がこの傾向に拍車をかけています。そして、売り手と供給サイドにおける「ランク操作疑惑」(公表順位の不正な擬装工作)までもが囁かれるようになっています(ネットによる体制迎合促進の病理/出典:2007.4.16付日本経済新聞ネットと文明、第10部 主従逆転1』)。


無論、この「太いモノには巻かれろ」のような意識は少しも目新しいものではなく昔からのことであり、それは欧米人にもある程度は共通すると思われます。しかし、我われのこのような“殆んど無意識に近い親方日の丸の感覚”は幸か不幸か欧米のように“ラジカルな市民革命”の洗礼を受けていません。


この観点からすると、“美しい国”の“みんなのタイプの宰相”が掲げる「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズは意味不明です。なぜなら、我われは、今でも律儀かつ忠実に“親方日の丸”であり続けており、一度も国家のレジームを変えた体験などは持っていないからです。これは、恐らくマッカーサーのお陰なのでしょう。従って、本来であれば“美しい国”の宰相は「万世一系の親方日の丸意識からの脱却」というフレーズを掲げるべきでした。


さもなければ、この「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズの意味は“戦後60年で民主主義の毒が回りすぎ、国民の親方日の丸意識の箍(たが)が些(いささ)か緩んできたので、モット熱狂的にお上を崇めるとともに“お上を笠に着た重鎮たちからの「より厳しい強請(ゆす)り、たかり、恐喝」に絶えることができる”美しい国”の臣民に相応しい本来の親方日の丸意識に立ち戻るべきだ”ということになり、それは日本版ヒトラー崇拝の時代、言い換えれば「雲流るる果ての青藍の天空を貫くような日本のファシズム時代」への回帰を意味することになります。


今、もし誰かが街の中で“現代日本ファシズムと主体的に闘おう!”、あるいは“日本でのヒトラー登場を阻止しよう!”と叫べば、たいていの人々は“そんなことは、もちろんだ、十分に分かっているよ!”、“そんな当たり前のことを大袈裟に言うなよ、うるさいぞ! お前は非常識だ!”とたしなめられるのが関の山です。


ところが、我われも、そう言った人たちも日常生活の中では、意外にも「その“分かりきった”はずのヒトラーを持ち上げるような身振り手振りで“みんなのタイプの宰相”を熱狂的に担ぎ上げたり、ヒトラー似のステキな独裁統制志向型(暴力団趣味 or そのお仲間?)の政権党領袖のワンフレーズ・ポリテクスに率直な共感を覚えたり」しているのです。


これが現実であることから、「我われ自身の内なるヒトラーとの闘い」は容易でないことが分かります。


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バンベルク


バンベルク(Bamberg)は、ドイツ南東部を占めるバイエルン州(上の州区分図を参照)の人口が約7万の都市(ミュンヘンの北方約180km)です。その起源は東フランク王国の東部国境の城塞まで遡ります。現在のドムベルク(大聖堂があるDomberg/ドームの丘)が "Castrum Babenberch"として907年の記録に初めて登場します。その後、1007年に司教座が置かれ、11〜12世紀にはドイツの政治と宗教の中心地となります。


13世紀に改築された大聖堂はロマネスクからゴシックへの移行期の傑作で東西に二つの内陣を持っています。市街地はマイン川の支流であるレグニッツ川(Regnitz)の二つの分流沿いに発達しており、主に中州地域が市民の居住区であり、その左岸が司教関係地区という二元的構成をとっています。1802年バンベルク司教領は解体されバイエルン領となっています。また、バイエルン憲法が1919年にここで生まれました。


この都市はバロック文化の華を体験していますが、三十年戦争(1618-48)ではスウェーデン軍に、七年戦争(1756-63)ではプロイセン軍に、19世紀にはフランス軍(ナポレオン軍)に手ひどく痛めつけられました。しかし、バンベルク第二次世界大戦の戦禍は逃れたため、1000年前の多くの美しい建物が現存しています。このため、バンベルク市街(Bamberg Stadt)は1993年に世界文化遺産に指定されました。


バンベルク大聖堂(Bamberger Dom)



この街の西の丘に建っている大聖堂(長94m、幅28m、高26m、尖塔の高さは各81m)は神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世(Heinrich 2/王位978-1024、帝位1014-1023)が建設を開始したとの記録が残る歴史的建造物です。現在のロマネスク・ゴシック混合様式の教会は13世紀に建てられたもので、堂内の装飾彫刻と彫像は当時の彫刻の傑作です。


聖ミヒャエル教会(St. Michael Kirche

この教会はベネディクト派修道院付属で1015年に創建されたものですが、1117年に建物が崩壊し、その後再建されました。しかし、更に1610年の大火で殆んど焼失して18世紀初めにバロック様式で改築されています。


新宮殿(Neue Residenz)


この宮殿は、1605〜1611にかけて領主(司教)が創建(北、西のニ翼)し、その後、増築されています。見事なバラ園があり、ここからのバンベルクの景観も素晴しいものです。上の聖ミヒャエル教会の一枚目の画像は、このバラ園から臨んだ教会の姿です。


旧市庁舎

これは1383年にレグニッツ川の中洲に建てられており、二つの橋で連絡されています。


ヴェネツィアの景観

これは、19世紀からレグニッツ川の川沿いにある漁師たちの集合地区の美しい景観です。


バンベルク市街の景観、アラカルト2






バイエルンの概要)


現在のバイエルン州(Bayern)は、ドイツで最大面積の州でありヴィッテルスバッハ家(Wittelsbach)が支配(ヴィッテルスバッハ家・オットー1世のバイエルン公時代から始まる1180年から1918年の740年間)してきました。バイエルン王国(Koenigreich Bayern/1806-1918)の時代には、領土のうち飛び地となっていたプファルツ(Pfalz、プファルツ選帝侯の支配地)が1946年に周辺地域と統合されラインラント=プファルツ州の一部となりました。


ところで、通称のバヴァリア(Bavaria)は英語名、菓子の呼び名で名高いバヴァロワ(bavarois)はフランス語の形容詞です。バイエルンの州都ミュンヘンを中心とする古来のバイエルン地方(東南〜東部)と、19世紀初頭バイエルンに帰属したフランケン(北部)、シュワーベン(西南部)の両地方とから成っており、オーストリアチェコに境を接しています。州の中央を西から東に流れるドナウ川の南はアルプスに続く高原地帯、北は丘陵性の山地であり、その北部を流れるマイン川は西方でライン川に合流しています。


バイエルンは伝統的に農林業が盛んな地域ですが、商工業の中心地は中世以来の手工業の伝統を誇るニュルンベルク(Nuernberg)、宗教改革前後の豪商フッガー家(Fugger)で知られるアウクスブルク(Augsburg)、及びミュンヘン(Muenchen)です。ミュンヘンバイエルン州で最大の工業都市で、ミュへンのビールは北ドイツのビールに比べてモルトの風味が強くホップとのバランスがよくとれています。また、バイエルンは風光明媚なアルプス山地、中世都市の面影を残しているロマンチック街道(Romantische strasse)、ルートヴィヒ2世(Ludwig 2/1845-1886)のノイシュヴァンシュタイン城(Neuschwanstein )などの観光資源に恵まれています。


バイエルン史の概観)


紀元前15年のローマによる征服以後、レーゲンスブルク(Regensburg)がドナウ川以北に進出したゲルマン人に対する要塞都市として、またアウグクスブルク(Augsburg)はローマに通じる要地として発達してきました。6世紀半ばに西のフランク王国西ローマ帝国の継承者を自負するイタリアの東ゴート王国との板ばさみの中で、征服者フランク国王が部族大公国バイエルンを設置しました。大公アギロルフィング家(Agilolfinger) は、フランク王国の最前線に位置していたため殆んど国王に近い独立的な地位を占めていました。


しかし、フランク王国カール大帝によるタッシロ3世(Tassilo 3/742-794)の罷免(788)でアギロルフィング家の支配は終わります。カロリング朝支配下では大公はおかれずバイエルンは国王直轄州の地位に落とされました。しかし、9世紀のレーゲンスブルク東フランク王国の首都として、また東方との交易の中心地として栄えます。やがて、フランク王国が弱体化した10世紀の始めころになると、バイエルンの貴族たちはマジャール人の侵入に対し共同して立ち向かい、907年にはその先頭に立ったケルンテン辺境伯ルーイトポルト(Luitpold/? − ?/ケルンテン(Kaernten)は現在のオーストリア西部)の子であるアルヌルフ (Arnulf von Bayern/ ?‐937)を大公に選びました(新部族大公国バイエルンの始まり)。


アルヌルフは、ザクセン大公ハインリヒ1世とドイツ国王の位を争って敗れますが“バイエルンにおける司教叙任権の保持”は認められます。このことは、ドイツ中央の覇権力が地方における諸部族大公国から徐々に構成されたものであることを説明する出来事として重要です(あるいは、EU統合=欧州における不戦共同体の遥かなルーツかも?)。ともかくも、バイエルンザクセン朝とフランケン朝(コンラート1世/Konrad 1/?‐918/初代ドイツ国王/位911‐918/元フランケン(Franken)大公)の下で、再び国王(神聖ローマ皇帝)の直轄州としての性格を強めつつ大公国として一体性は保持されたことになった訳です。


1156年にドイツ各地における「領邦国家形成の動き」の中で、ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen)のフリードリヒ1世・バルバロッサ(Friedrich I. Barbarossa/1123-1190)はオーストリア辺境伯領を「オーストリア大公国」としてバイエルンから分離独立させますが、これによってバイエルンは東への発展の道を閉ざされます。次いで、フリードリヒ1世は、1180年に名門ヴェルフェン家(Welfen)のハインリヒ3世獅子公(Heinrich 3 der Loewe/1142-1180)を追放してヴィッテルスバッハ家のオットー(Otto 1/1117-1183 )をバイエルン大公に任命しました。ヴィッテルスバッハ家は前世紀の半ば以降バイエルンの各地で一円的な領域権力(Landesherrschaft/領邦支配権、領邦君主権)の建設に注力していた新興貴族の一つで、各地に勢力を振るう大小の貴族と激しい競合関係にありました。


15世紀になると、アルブレヒト4世(Arbrecht 4/1447-1508)を先頭とした大公側は、貴族同盟の工作を抑える一方で領邦内の修道院や教会への支配権の確立を進めます。やがて、16世紀初頭にはバイエルンの分国体制が解消して大公国としての一体性を回復します。バイエルン大公が国内のアルプス地方の岩塩(Saltz)の生産を独占し、その財政基盤を強化したのもこの頃からです。バイエルンが、ドイツの宗教改革期にカトリックであり続けたのは、この時代に成立途上であったバイエルンの領邦絶対主義のパワーが、都市市民・地方貴族・農民などの間での宗教改革への動きをイエズス会と提携しつつ抑え込んだ結果であるとされています。


ともかくも、このようにして「反宗教改革の砦」となったバイエルンは、三十年戦争(1618-48)におけるマクシミリアン1世(Maximilian 1/1756-1825)の功績によって選帝侯(バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世)の位を回復しました。しかし、その後のバイエルンは、この戦争の後半で再び戦場となり、その後もスペイン継承戦争(1701-14)、オーストリア継承戦争(1740-48)に傾注したためバイエルンの国力は疲弊します。なお、バイエルンは1648年のヴェストファーレン条約(Westfaelischer Friede/三十年戦争講和条約)でライン・プファルツ宮中伯ヴィッテルスバッハ家の別系統)に代わって選帝侯の地位を獲得し、選帝侯となってからのバイエルンは南ドイツの有力諸侯として活躍することになり、1740年にはハプスブルグ家の断絶もありバイエルン朝・神聖ローマ皇帝カール7世(Karl 7/位1742-1744)が出ています(この時、プファルツのヴィッテルスバッハ家は8番目の選定公位を受けています)。


1777年にバイエルンヴィッテルスバッハ家は断絶しますが、同じヴィッテルスバッハ家であるライン・プファルツ選帝侯家がその跡を継ぐことになりました。やがて、ナポレオン戦争が起こると、フランス(ナポレオン)と結んだバイエルンは1806年に「バイエルン王国」となります。このようにして、1180年からヴィッテルスバッハ家が治めてきたバイエルンは、マクシミリアン1世の時代に神聖ローマ帝国が崩壊する(1806)と、ナポレオン1世(Napoleon Bonaparte/1769-1821)は、近隣の領土を併合した上でバイエルンを王国へ昇格させた、これをライン同盟(Rheinbund/フランスの主導下にドイツ諸邦が結成した同盟))の有力な一員とします。


その後、バイエルン王国は1815年にはプファルツを回収・併合してドイツ連邦(Deutscher Bund/1815年のウィーン会議でつくられたドイツ諸国(自由都市を含む)の連合組織)に参加します。ドイツ帝国が成立する時にもバイエルン王国は維持されたままドイツ帝国の1領邦となりました。しかし、ドイツが第一次世界大戦に敗れると、大混乱の中で勃発した「ドイツ革命」によって、1918年にルートヴィヒ3世(Ludwig 3/1845- 1921)が退位してバイエルン王国は滅亡しました。

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