toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

改憲論に潜入するカルトの誘惑(2)


レーゲンスブルクの大聖堂


[副題]総カルト化する日本が学ぶべき欧米の知恵(2)


(プロローグ)


5月7日(月、PM7:30〜)に放送された「NHKクローズアップ現代:9条を語れ 憲法は今」で、下記の事実(●)を知り衝撃を受けたことで、このシリーズ記事が始まりました。


●財界の改憲論の主張(経済同友会が火付け役となった)は、グローバリズム経済で世界に伍して大競争に勝ち抜くためには集団的自衛権の行使を容認して「世界の経済戦線で活躍するビジネス現場を自衛隊が守るべきであり、そこでは場合によって先制攻撃も辞すべきでない」と考えていること。


●格差拡大が進みつつある日本社会の底辺へ押しやられた、いわゆる負け組みの人々の中で一種の「職場としての戦争願望から改憲を望む」若者たちが増えつつあること。


いわば、この衝撃は『異質なモノや考え方が、互いに自立性を保ちつつ共存し、補完し合い、相呼応して共に見識を深める』という民主主義に必須の内面的な機序が日本国民の精神環境から急速に失われつつあることへの恐怖感です。このようなタイプの「戦争願望」は余りにも自己中心的・独善的であり不健全です。『市場原理主義の猛毒』が日本の財界トップと若者たち、そして政治権力者と各専門分野を担う知識人らの内面を冒し始めたようです。


2 ヨハネス・ドウンス・スコトウスの「人間意志の神学」


そこで、この「二つの知」に関する認識論的に異なった立場を代表する典型的な視座を歴史の中で探してみると、前者(1)が13世紀スコットランド神学者、その緻密な論証態度から「精妙博士」と称されたヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1308)の「人間意志の神学」に、後者(2)が20世紀前半のアメリカの認知心理学ジェームズ・ギブソン(James J. Gibson/1904-79)の「アフォーダンス理論」(ギブソンがafford(供給する)から派生させた造語/生物が、周辺環境に働きかけることで環境から情報を与えられつつ自己創生的にリアリティを創造して行くというイメージが込められている)の考え方にほぼ対応することがわかります。


プラトン主義に染まっていた、13世紀頃までのスコラ神学(哲学)の考えでは、「人間の意志の力」は「神の理性による絶対的な真理認識に従属する力」だと見なされていました。つまり「絶対的・超越的な神の知」が森羅万象の手本であり、人間の存在も含めたあらゆる自然的・人工的存在は、この「絶対的・超越的な神の知」を忠実に模倣するように努めなければならないとされていたのです。


やがて、13世紀のスコットランドに、聖フランチェスコ(Francesco D'Assisi/1182-1126/清貧・貞潔・奉仕と花や小鳥に至る森羅万象とのアニミズム的な愛の交流を実践したフランチェスコ会創始者/当初、そのアニミズム的な愛の実践とアウグスティヌス批判が異端視された)の実践を理論的に説明する神学者ヨハネス・ドウンス・スコトウスが現れます。彼は、フランチェスコ派のスコラ神学者で、後にパリ大学教授となる人物です。スコトウスの立場を端的にいえば、プラトン哲学の大きな影響を受けたアウグスティヌス神学とキリスト教の融合を徹底的に批判したということです。また、スコトウスは「絶対超越的な神の存在」を論理的に証明しようとした最初の神学者と見做されており、これ以降のスコラ神学では、このような立場が伝統となるのです。


スコトウスの説明によると、「絶対的に正しい自由意志」を持っている神は純粋にその意志のみから世界を創造し、その生まれた世界を見て「神の理性に照らして“善し”と判断した」というのです。それ以前のプラトンの影響を受けた考えでは、天界には様々な絶対善なるイデアが既に存在しており、神(デミウルゴス)がこのイデアを模倣して世界を創ったとされていました。そして、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/354-430/初期キリスト教西方教会で最大の教父/著書『神の国』)は、このようなプラトンの世界創造説をキリスト教のなかに取り入れたのです。アウグスティヌスによると、神は自分の「知性」が元々持っていたイデアを見て、この世界を自らの「意志」で創ったということになります。つまり、この場合にイデアが意味するのは「神の絶対的な知的理解」が前提となっている訳です。


ところが、スコトウスは、この「神の知性の絶対的先行性」を保留して、神の「自由意志」は神の「知性」の判断とは無関係に世界を創ったと考えたのです。また、スコトウスは、人間の「自由意志」も「絶対的な善」ではあり得ないから、人間の「理性」の善悪にかかわる判断を抜きにして、その人間の「自由意志」が正しい判断をすることはあり得ないと考えました。同時に、スコトウスは人間の「意志」は「理性」のおかげで自由なのではなく、神の「自由意志」と同様に人間の「意志」それ自身が持つ力ゆえに自由なのだとも考えました。つまり、それまでの中世ヨーロッパの伝統的な考え方は、古代ギリシア奴隷制と対比される自由市民の立場が原点であったので、「自由」であるためには、まず正しい「理性」の判断が必要だ(奴隷には正しい理性がないと考えられていた)ということになっていましたが、スコトウスは「理性」に従属しない人間の「自由意志の力」を認めるという立場を取ったのです。即ち、初めてこの時に近・現代的な意味での「人間の絶対的な自由意志」の概念が誕生したのです。


しかし、このスコトウスの「人間の絶対的な自由意志」の概念には厳しい条件が付いていました。スコトウスは、「理性」に従属しない「意志」の働きにこそ「自由」の根拠があるのだと考えた訳ですが、同時に、スコトウスは「理性」の働きには「論理の罠」という本性的な必然が纏わり付くと主張していたのです。また、スコトウスは“「意志」は主要な原因であるが、「理性」は副次的な原因である、なぜなら「意志」は自由に動き、その運動によって他のものを動かすからである。一方、対象を認識する「理性」は本性的に一定の場でだけ働くものだから方向性を示す意志との協働がなければ、決して「一定の方向へ向かう意欲的な働き」という意味での十分な能力は持つことができない。だから、「意志」こそが第一義的な主要原因なのだ。”と主張しました。つまり、スコトウスは、人間の「自我」の根拠としての「自由意志の能力」と「理性による善悪についての論理的・合理的判断能力」を切り離して見せたのです。そのため、これ以降の人間は「善」と「悪」の両方向のベクトルを併せ持つ「自己分裂的存在」であることになったのです。


次に、スコトウスは「三位」、つまり『神』と『子』と『聖霊』のなかの『聖霊』の重要な役割に注目します。スコトウスは、「聖霊」は人間の「自由意志」を指導する力、つまり「実践理性」の働き(倫理的な働き)をするものだと説明します。人間の「自由意志」は、その「意志」を「正しく導く認識」を与えてくれる「聖霊」の助けが必要なのであり、それなしに人間の「自由意志」は正しく作用することができないと主張しました。つまり、スコトウスは、人間の自由意志を導くために「神がもたらす理性」ともいうべき「聖霊の能力」(正しい方向性を示す作用)を「人間の理性」より高い次元に位置づけた訳です。結局、神の恩寵を享受するというキリスト教を信仰する人間にとっての究極の目的は、このような「人間を導く聖霊の力」を謙虚に受け入れる敬虔な心と中庸な精神環境を整えながら、誠実な信仰生活を実践することで漸く達成できるものだというのです。これが、「人間の絶対的な自由意志」に付帯する厳しい条件だったのです。


ところが、スコトウスがせっかく導き出してくれた「人間の自由意志」についての、このような正しい理解と認識は、主に次の三つの方向に沿って甚だしく誤解されることになります。


(a)王権神授説の誤解(近世ヨーロッパ絶対王権の成立)


(b)「暗黒の中世」への単純なアンチ・テーゼとしての誤解(一種の原理主義的な意味での近代合理主義精神と近・現代科学の発達)


(c)自然法についての誤解(自由主義から自由原理主義への暴走)


特に、(b)に関する誤解は、現代の我われにとって功罪相伴う両義的な意味をもたらすことになります。フランシスコ派のスコラ哲学者で、その博識により「驚異博士」と呼ばれたイギリスのロジャー・ベーコン(Roger Bacon/ca1219-92)の経験主義的な科学研究の態度は近代科学の源とされるほど重要なものですが、この頃からスコトウスの“人間の意志は、その意志のみで自由である”という側面だけが強調されるようになります。つまり、人間の意志の自由という側面だけが、スコトウスのもう一つの条件である“人間の意志は実践理性の助けが必要であること”(正しい目的や方向を示してくれる聖霊の働き/森羅万象のなかに偏在(ユビキタス)する聖霊が与えてくれるものとしての理性の力)から切り離されてしまったのです。


アウグスティヌス的な「絶対知を持つ神の世界」、つまりキリスト教の絶対的な支配がもたらした「暗黒の中世」へのアンチ・テーゼの役割をスコトウスの神学が担わされることになったため、ある意味で、それは仕方のないことでもあります。しかし、人間の自由意志についてのこのような側面を、その後の哲学者や科学者たちが余りにも持て囃し過ぎたため、人間の思想は、次第に「善」であり続けるための根拠を見失ってゆくのです。やがて、人間の思想は「神をも畏れぬ傲慢さ」を身につけるようになり、このようなスコトウスへの決定的な誤解は後の時代になるほど拡大され、遂にはパスカル(Blaise Pascal/1623-62/フランスの科学者、思想家)の思想の中に見られるように、我われ人間は、近・現代人に特有な底知れぬ「不安の意識」を持つことになります。つまり、パスカルは近代合理主義(聖霊から切り離された自由意志と人間の理性だけが支配する精神環境)と人間中心主義が行き着く先は『人間が生きる意味の喪失”(神の死)』であることを予感していたのです。


要するに、このようなスコトウスの「人間意志の神学の根本的な誤解」が「一種の原理主義的な意味での近代合理主義、科学合理主義の発達」を促してきたことになる訳です。つまり、スコトウスの「人間の自由意志」についての誤解の中で、特に(b)の方向性から生まれた近代合理主義精神と近・現代科学の発達は「絶対知仮説」を前提としていた訳です。そして、「神の絶対知」のほんの一部を分有する人間の「知」の働きを構成するのは、「人間の自由意志」と「人間が操る抽象論理」の二大要素です。


我われ人間は、このような仮説の下で客観性を保障する実験を繰り返し、理論を構築して科学法則という絶対的な神の「知」にかかわる新しい領域を次々と手に入れることが出来るようになったのです。今、進みつつある破格の大容量コンピュータ開発や人工知能の研究、遺伝子操作・臓器移植などの先端研究も、このような方向性の延長で足場を固めているのです。しかし、その「人間の合理的な世界」を見下ろす天空には「絶対的な真理の大陸」(絶対的な神の知の領域)が今も聳え立っていることを忘れ去っているようです。


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