toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

日本政治の「カルト&バイオポリティクス」化への懸念


ローレンツ教会(ニュルンベルク、toxandoria撮影2007.4.6)


<注>当記事は[改憲論に潜入するカルトの誘惑(4/終章)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070512]への補足的な位置づけです。


最近の記事内容に関し、“toxandoriaは護憲の立場を言い募るため都合のよい「へ理屈」を並べ立てている”よしの有難くも無礼なコメントを頂戴いたしました。しかし、このたぐいのフェーズで議論を闘わせるつもりは“毛頭ありませ”んので、再び、当ブログは「コメント承認制」へ変更しました。何とぞ、当該事情をご賢察の上ご了承ください。折に触れて書いているつもりですが、当日記は“ひたすら護憲の立場”から書いているものではありません。


強いて立場を述べるならば『絵画・歴史・文化史・政治・経済などを学びつつ現代社会を直視し、“eグローバル・市場原理主義”時代における“未来の光”を探す』ということです。また、敢えてキーワードを挙げるなら、それは『森羅万象に対する飽くなき好奇心』と『屁糞葛(へくそかずら)も花盛り』です。その心は、今はこんなに醜悪でも未来は必ず美形になれるという意味での“素朴で健気(けなげ)な愛国心”です。


擬装ではなく本物の『美しい国』(世界に誇れる、ホンモノの個性的な立憲君主制国家)は、カネ儲け主義の美容整形やドギツイ厚化粧で拙速につくるべきではないと思っています。本物の美形は芯から美しくあるべきであり、理想は健康美人のような国家だと思っています。


憲法改正への立場ですが、それは『今の日本では未だ20年早い』ということになります(自分がそれまで、生き長らえるか否かは知りませんが)。小泉劇場に倣って、弱い体力に鞭打ってまでしてムリに危ない手術をする必要はありません。その最大の理由は、現在の多くの政治家らに信用が置けないからです。より具体的に言うならば下記二点((1)、(2))です。そんな最中に、まるで“何かに取り憑かれ総毛立ったような相貌の信用が置けぬ政治権力者”らから国民が尻に火を付けられたようにバタバタ取り組むべきものではないと思っています。


(1)国家ガバナンス(政治・行政)の根本が欧米に比べると未だ民主的ではなく、むしろヤクザ・暴力団が得意とする“恐喝・強請(ゆす)り・たかり・窃盗・ネコババ”型であること。(参照 → シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(4/4)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050405


・・・これは、日本社会に根強く浸透している“親方日の丸意識”(=逆に言えば、善良で臆病な庶民の泣き寝入りを善しと見做す、国民の希薄な主権意識を前提とした極めていい加減な政治感覚)と重なる部分があります。国政選挙に纏わる不明朗な動向もこの辺りから噴出し続けており、ビジネス・経済界や地域社会などでは、この種の悪党のエージェント(秘書など)らによる“政治・行政的に弱い立場の国民へのイジメ行為”が常態化している。


(2)国家ガバナンスの理念が薄弱であるだけでなく、近年はこの部分がカルト化またはバイオポリティクス化へ急接近していること。


・・・特に、憲法改正へのカルトの潜入の恐れについては下記(◆)を参照してください。


改憲論に潜入するカルトの誘惑(4/終章)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070512
2007-05-10改憲論に潜入するカルトの誘惑(3)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070510
2007-05-09改憲論に潜入するカルトの誘惑(2)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070509
◆2007-05-08 、改憲論に潜入するカルトの誘惑(1)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070508


このカルトの問題は歴史的に見ても根深いものです。例えば、欧米の市民革命の根本には、王朝のネットワーク(閨閥を拠点にした一種のカルト的な支配権力構造)を根底から否定して、公共意識というアンチテーゼに置き換えたという意味があります(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060404)。


例えば、フランスの近代史を見ると、1870年代(第三共和制の時代)になって漸く“政教分離の原則に基づく政治と宗教の具体的なあり方を規定する新しい概念”を国民一般へ普及するため「ライシテ」(教会権力に対する“世俗的な・俗人の”を意味するlaiqueを名詞化してlaiciteとした)という言葉が造語されたことが分かります。ここで意図されたのはフランス国内で政治と宗教が対等にそれぞれの分を守って共生・共存することでした。


未だその頃のフランスでは、外国から入って来る移民の問題は想定されていませんでした。そして、このライシテ(laicite)が初めて「フランス共和国憲法」の中に現れるのは、パリコミューン(1871)後に制定された第三共和国憲法(制定1875)が、1884年に改正された時です。


そして、メディアで“右派”とされるサルコジ新大統領の下でも、このような厳しい「政教分離の原則」と裏腹の意識と見做すこともできる「フランス社会の寛容の精神」が根底からリセットされることはあり得ないと思われるのです。これからのフランスは第五共和国憲法の下で「グローバル市場主義の活力」と「新しい共感の場の創造」が探求されることになるはずです。


また、目下の日本で「政治のカルト化」とともに注目すべきことは「バイオポリティクス」の問題です。この問題をここで詳述する余裕はありませんので、下記の本(◆)による「バイオポリティクス」の定義を整理しておきます。


米本昌平『バイオポリティクス』中公新書中央公論新社


・・・バイオポリティクス(biopolitics/生―政治学、 生物政治学 )には4つの用語法がある。従って、ある議論でバイオポリティクスを定義するとき、どれを意識するかを明確にしないと混乱を招く(出典:池田光穂、医療人類学辞典/http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060630biopolit.html)。


(1) 後期ミッシェル・フーコーによる、アナトモ・ポリティーク(権力構造を解体する意味での解剖政治学)の対語としてのバイオポリティクス(人口管理の政治学


(2) 政治学的現象を説明する際に社会生物学や進化生物学の理論を援用する議論としてのバイオポリティクス


(3) ヴァンダナ・シヴァが提唱する先進国の多国籍企業開発途上国の住民をもつ「豊かな生物多様性」をさまざまな技術や法的手段を行使して搾取するバイオパイラシーを正当化させる、グローバルな政治的枠組みを指示することばとしてのバイオポリティクス


(4) 先端医療や生物技術を行使する政策としてのバイオポリティクス


この分類からすると、今の日本で特に懸念されるのは(2)と(4)であることが分かります。例えば、超高齢化社会における医療・福祉のビジネスツール化、多発する薬害・臓器移植や遺伝子操作に関連する問題など、人権・ヒューマニズム等の価値観を十分に視野に入れながら、より慎重に対応すべき深刻な政治課題が山積しています。なお、私見では「教育問題」もバイオポリティクスの範疇に入ると思っています。


(参考1)

在ドイツpfaelzerwein氏から頂いたTBの内容(転載)


TB → to「改憲論に潜入するカルトの誘惑(4/終章)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070512」& コメント



ヨハネス・ケプラーのワイン樽、http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/c798f1682ff9260cfea109469eda3093


文三つの法則で、ガリレオの地動説を理論的に援護し、ニュートン万有引力を準備した天文学者兼数学者(1571-1630)。観測結果の精度が出ない 間、光学系の研究も進める。視力に関しての論文は、最初期のものという。シュトッツガルト近郊のヴァイル・デア・シュタットの兵卒と旅館賄いの長男。幼く して、数学の才能を示し、当時の高名な天文学者のいるシュヴァーベンのテュービンゲン大学に学ぶ。ギリシャ語からヘブライ語の文献へと学識を広げる。新教 的信仰の中にコペルニクス的宇宙観をもち、ピタゴラスユークリッド数学を用いその構築を厳密数学的に追求していく。蜂の巣からの多面体の解析も業績。火 星の観測から楕円軌道を推測するが、第三法則の出版まで10年近くの歳月を要する。


その間、思想の革新性からグラーツへの移転を余儀なくされる。観測精度 不十分のため高名な天体観測者チコ・ブラーエを訪ねプラハへ転居。二度目の妻を娶り、挙式を挙げることになった。彼は、晩餐のために樽でワインを大量に注 文する。その際、形状の違う樽に関わらず穴から棒を突っ込み量を測る方法を見て疑問に思う。三日三晩の試行錯誤の末、厳密な計測の計算式を編み出す。微細 な曲線部分は、微分の概念で計算していく。これら計算式や素材などは現在でも観覧できる。


彼の更なる研究は、こうして完成されていった。ガリレオの地動説に即、賛辞を送った彼は、ガリレオの父であるヴィンツェンツォの音楽論文を彼の著「宇宙の 調和」で扱う。その音楽論文は、ヘレニスム的思考に立ち、中世教会調を元にした多声からの脱皮と12音や5度8度4度などの音響的調和を解析する。デカル トに尋ねるまでもなくラモー以降の和声理論に直接の影響を与えた。この「宇宙の調和」を基に20世紀の作曲家ヒンデミットがオペラ(管弦楽)を作曲してい る。


ワインの内容量に疑問を差し挟む事になった、シュヴァーベン地方の合理性と倹約と実験精神は、現在も同地方のメルセデス社他の機械産業や教育・研究施設に脈々と流れるのを容易に見出すことができる。


toxandoria 『pfaelzerweinさま、TB「ヨハネス・ケプラーのワイン樽」ありがとうございます。


おかげさまで、新しい記事が出来上がりました。
 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070513


ヨハネス・ケプラーのワイン樽」の精神を受け継いだシュヴァーベン地方の合理性と倹約と実験精神が、今もメルセデス社他の機械産業や教育・研究施設に脈々と流れるという現実があることは驚きです。


<「暗黒の中世」への単純なアンチ・テーゼとしての誤解(一種の原理主義的な意味での近代合理主義精神と近・現代科学の発達)>によって“カルト化”しつつあるとも見える現代科学の或る相貌(例えば、バイオポリティクスの弊害)に対して「ケプラーが残した暗黙の知」が輝いているように思われます。』 (2007/05/13 17:15)


(参考2)


改憲論に潜入するカルトの誘惑(2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070509/p1#c」へのコメント&レス(転載)


とむ丸 『お久しぶりです。でも、いつも興味深い写真にうっとりしながら、旅行記を読んでいます。クローズアップ現代に出てきた、経済活動を自衛隊が守れ、という経済同友会高坂氏の主張はショックでした。そんな形で豊かな生活を享受するのはいやだ、と思いましたが、なぜ経済人は改憲させようとするのか、これでよく分かりました。希望を失ったわかものが戦争に期待するのは予想していました。


ところで、お話しされているのは、スコトウスという卓越した神学者の考えの誤解から近代以降の「知」が方向を誤った、ということでしょうか?


話しはちょっとそれますが、西洋近代が植民地経営に罪の意識を感じずに、むしろ合理的な世界を知らない無知蒙昧な人びとをわれわれが導いているのだ、とさえ考えていたような事例とも関係があるのでしょうか?』 (2007/05/09 20:29)


toxandoria 『とむ丸さま、こちらこそご無沙汰しております。 また、いつも拙文をお読み頂きありがとうございます。


スコトウスの誤解から近代以降の「知」が方向を誤ったという側面と見做すこともできますが、現実的には我われも恩恵を蒙っている“人間の進歩”を肯定する立場からすれば、このような方向へ進んできたことはある程度やむを得ない面があったかと思われます。


これは自分自身でも未だ思いあぐねている問題なのですが、スコトウスが予見していた“自由意志の暴走”を見過ごしてきたため現代社会は一種の原理主義的な方向(これをカルト化と見做していますが・・・)へ向かいつつあるのではないかと懸念しております。


ただ、キリスト教的な「絶対知」と対照的な「相対知」の立場もあり(その具体的内容は当シリーズ(3)で書きます)、どのようにしてこの二つの「知」を人間のために生かすことができるか、この点にかかわる知恵が問われているのではないかと思います。


いずれにしても、これが絶対に正しいという「確信の誘惑=決して疑われることのない堅固な認識の世界の押し付け」(その典型例が安倍の“美しい国”?)はカルトと同義だと思っています。


本性が「嘘つきで悪辣な政治権力者」が、さかんに“美しい、美しい”と言い募るのは有名な「嘘つきのクレタ人のパラドックス」と同じ轍で、一般の日本国民へは不可解な幻惑感を与えるばかりです。


西 洋近代の植民地経営も、まさに“自由意志の暴走”であったと思われます。ただ、悪名高いスペインのエンコミエンダ(Encomienda/16〜17世紀 に熱狂的なカトリック教徒であるスペイン王室が民間の植民者に与えた先住民支配権の信託契約制度で、過酷な先住民搾取の原因となった)に対しては、カトリック教会の一部から厳しい批判が出たことも興味深い現実です。


恐らく、このような批判はカトリックのカルト化していた部分(合理的な世界を知らない無知蒙昧な人びとを我われが導いているという確信)に対する批判ではなかったかと思います。』 (2007/05/10 00:39)

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