toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「観念的同時」と「権力の暴力的本性」について


ローマ皇帝ユスティニアヌス1世

Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Meister_von_San_Vitale_in_Ravenna_004.jpgより


kaisetsuさまの記事[内なる光の構造]、http://blog.kaisetsu.org/?eid=552060からヒントを得て、連想が働きました。toxandoriaは、「観念的同時」について未だ十分に理解ができたとは思っていませんが、この問題は「絶対知的存在」、「人間の権力意識」、「倫理的心性」の三つを媒介する「宗教的観念」と重なるのではないかと思われます。


厳正・中立・公正な視座からすれば、この「絶対知的存在」にはヤヌス神で象徴されるような「神と悪魔」の二つの本性を見るべきだと思います(参照、下記の注記★)。このように考えると、爾後のキリスト教史における長い矛盾のプロセスの繰り返しを、一応、脇へ置くこととすれば、ローマ皇帝コンスタンティヌス(大帝/Gaius Flavius Valerius Constantinus/Ad272−335)が、325年に召集した『ニカイア公会議』のリアルな意味(コンスタンティヌス大帝の炯眼)が理解できそうです。


★「絶対知的存在」の「神と悪魔」の性質について
・・・悪魔的な性質とは、あくまでも人間から見たときの「絶対知的存在」の一側面で、それは宇宙・自然を含めた全世界そのものの性質であるのかも知れない。例えば、仮に理想の民主主義社会が実現しても、時の悪徳な政権の意図どおりに国民が踊らされて衆愚化(ポピュリズム)へ走れば、そのような社会における「国民主権の行使」も悪魔化(≒カルト化)する恐れがある。圧倒的な国民投票の結果でヒトラーが国民の信認を得たナチス・ドイツなどは、そのように見做すこともできる。


更に、ここで押さえるべき『より重要な視点』があります。それは、現実世界での「政治のリアリズム」(行政施策化・実行計画化された権力の意志)は、やむを得ず形而上学的な正義だけで判断せざるを得なくなる、ごく“例外的な極限状況”(例えば、一触即発の核ミサイル発射回避のような退路を断たれたギリギリの限界状況下におけるネゴシエーション、人命救助のために殆んど選択の余地が残されていない状況下で行われる法令・規則違反など)を除けば、絶対に「リアルな時間の流れ」を超越することは許されないということです。そして、絶対知的存在の下で「悪魔の相貌」を現した「政治権力の暴走」が、この種のタブーを犯すことを許さないのが「ドキュメントの役割」(公文書、歴史資料など)です。


「権力の本性」が暴力的性質を帯びたものであること(下記の記事★参照)をコンスタンティヌス自身ががどこまで明快に自覚していたかは確かめようもありませんが、初期キリスト教の時代(ほぼローマ帝国末期〜中世初期に重なる時代)に、このようなドキュメントの意義が理解されたという事実は重要です。


★toxandoriaの日記/「むき出しの斧」を欲する“美しく不純な情熱”(1)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070519


キリスト教の観点からすれば、その後、ヨーロッパ中世から現代世界の現実的な国際関係のあり方に至るまでの長い人間の歴史そのものが、この出来事に依拠してきたと見做すことも可能であるので、このような「教会史」の嚆矢における出来事は、もっと重視されるべきだと思います。また、これ以降の長い歴史過程のなかで、エウセビウスの『教会史』(下記の関連年表を参照)が発端とも見做せる「教会法」と「ローマ法」(参照/下記★)およびゲルマン法など欧米諸国の法体系が、何らかの意味で双方向的に影響を与え合った結果として、現代社会の法体系が成り立っていることも明確に意識すべきです。


繰り返せば、このプロセスから浮上するのは、「政治権力の暴力的(あるいは暴走的)な性質」の根源が「観念的同時」という人間内奥の無時間性の意識と精妙に関わるものである(ただ、この観念的同時そのものに善悪を問われる責任はない/この内奥の精神環境を穏やかで寛容な平和で満たすか、あるいは地獄の戦争と苛烈な空気で満たすかは、その時々の人間の知恵の出し方に任されている!)と考えられることであり、そのような政治権力の弱点を補填する「ドキュメント管理と法体系整備」(=今で言えば、公文書館等のアーカイブ整備、および授権規範性を定めた憲法を始めとする各種法体系の整備)の役割がキリスト教史(≒欧米史)が始まるときから、国家管理の重要な柱としてコンスタンティヌス大帝という最高権力者によって自覚されていたということです。


★ローマ法大全(Corpus Juris Civilis)
・・・東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(Justinianus 1/483-565)が、それまでのローマ法令を集大成させたもの。学説集・法学概論・勅令集の三部から成る。完成は534年。


(関連年表)


313年 → コンスタンティヌスの『ミラノ勅令』
・・・すべての宗教に対する全き寛容を布告し、それらのなかにキリスト教を明示的に含めた。


325年 → コンスタンティヌスが『ニカイア公会議』を召集
・・・キリスト教会最初の公会議。神の三位一体とイエス・キリストの神性とに関する信仰上の論争に終止符を打つ。つまり、アタナシウス派(三位一体説)が正統、アリウス派(ゲルマン社会に普及/キリストが父なる神と似た性質を持つに過ぎないとする)が異端とされる。


・・・つまり、ここで議決された『ニカイア信条』は信仰上の論争に裁決を下したもので、今でもカソリック教義の根本とされている。


 → 同時に、コンスタンティヌスは、ローマ帝国・国立文書館所蔵の「証書・布告・書簡などの記録文書類」をカイサリア(“海辺のカイサリア”と呼ばれたパレスティナ港湾都市)の司教・エウセビオス(Eusebios/ca260-339)が『教会史』を書くために利用することを許した。


・・・このエウセビウスの『教会史』は、今も迫害時代のキリスト教および初期キリスト教会の歴史研究のための比類がない資料・史料となっている。
      

・・・・・・当「連想記事」の発端となった『kaisetsuさまの記事(http://blog.kaisetsu.org/?eid=552060)』の部分転載


■内なる光の構造 2007.05.20 Sunday  


◆テーマ:原光と玄光⇒(+i)*(-i)


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『toxandoria の日記、アートと社会』
2007-05-20 レオナルド・ダ・ヴィンチ、モネ、ドレスデンの光


●たまたまチャンスがあり『レオナルド・ダ・ヴィンチ/天才の実像』(東京国立博物館)、『モネ展/印象派から現代へ』(国立新美術館)、ドイツ映画『ドレスデン、運命の日』(日比谷、シネ・シャンテ)を鑑賞してきました。


レオナルド・ダ・ヴィンチ/天才の実像』(東京国立博物館)、公式HP → http://dresden-movie.com/


(抜粋)


『パラソルの婦人』、『ルーアン大聖堂』、 『睡蓮』などの連作シリーズは見るごとに新鮮な印象を与えられ、モネの才能に改めて驚きますが、なぜか今回はこの『かささぎ』に目が止まりました。寒々と した冬の光景にもかかわらず、この静寂と懐かしいようで幸せな光は一体どこから来るのでしょうか? この温もりがあるモネの光は何なのでしょうか? この 絵のテーマとされる“かささぎ”の向こうに広がる冬の遠景には、なぜか平穏な安堵感のようなものが広がっています。そこには、苛烈化し、中間層が没落しつ つある現代のグローバル市場原理主義社会が見捨ててきた何かがあるように思われます。


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参照⇒ 岸田劉生⇒近代を拒絶した天才画家:『内なる美⇒在るということ』 2007.05.18 Friday


◆toxandoria氏の御指摘のように、「“かささぎ”の向こうに広がる冬の遠景」に満ち満ちる「温かい光」の静寂は何と心に染み渡るのだろう。この光の響きと同じものを岸田劉生の「道路と土手と塀」にも感じる。同じものなのだろう。


◆もっと考えて見ると、この「光」は本当に向こう側に在るのだろうか。この光は実は心に内在するものではないか。


岸田劉生が言う、「美は外界にはない、人間の心の衷(うち)にある。」とは、こういうことではないか。


◆光は内在するのである。静寂な光は静寂な心に内在するのである。この内在する光は現象界の光ではない。これは観念上の光である。だから、実際に在るものとして記号化することが出来ない。そこで、虚数表示することになる。


◆ "+i" である。


◆この観念的な「光」が静寂な光とすると、その静寂な光を静寂にしている背景が必ず必要である。このback groundが「-i」である。


◆もう少し分析してみよう。モネの絵の光は弱い。それは直射日光ではなく、反射、雪の反射光を主に描かれている。その反射光の織り成す模様が遠くへと伸び ていくのだ。一方、心に広がる内なる光も、まさに眼をスクリーンとして、心の奥深くに静かに伸びていく。この心の光も淡く、トレモロのように小さく響き あって心の奥底に広がっていく。


◆この内面の光を包み込む闇がある。これが、「-i」である。back groundが「-i」とは、これである。


◆モネは柔らかい光を天才的な筆致で描いている。この絵は複雑で技術を要する。一方、この絵を見る人間の心に、この絵が、そのまま映し出されるのではない。心にはモネの描いたエッセンスが描かれるのだ。それが、例えば、この静寂な光である。


近代主義の特徴として、物質、現象界から精神が形成されるという考え方からすると、モネの絵が心の光を生み出していると説明されよう。しかし、心の光を構成している人間の認識からモネの絵の光が生まれている、と考えても同じことである。


◆ところで、toxandoria氏がモネの絵を見て、そこに広がっている心の静寂な光と海舌が感じる「心の光」が同じであろうか。これは誰にも証明できないことである。しかし、暗黙の内に、何等かの共通性を見出しているのである。これが超越性である。


◆Renshi氏が丁度、アフォーダンスについて基礎的な説明をされている。勿論、この概念の応用については、既に、toxandoria氏が行われている。


「思想」の現在形―複雑系・電脳空間・アフォーダンス(単行本(ソフトカバー))吉岡 洋 (著)
Japonesian Apocalypse   
Trans-Modern Platonic Trans-Creation
Sun, May 20, 2007 15:12:15
Affordanceアフォーダンス


アフォーダンス理論⇒情報は環境そのものの中に実在する。知覚者が意味付けをしているのではなく、環境からピックアップしている。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/kaken/3/affodance.html


◆情報は相互作用である。物質の側から説明するか、精神の側から説明するか、本質的な差異は無い。


◆もっと深く考察して見ると、もし現実の光で、モネの描く「光」、心の光を「指し示す」ことが可能であろうか?例えば、直射日光だけで表現可能であろうか?これは困難ではなかろうか?何等かの反射が必要だと思う。背景が必要なのだ。


◆個々の心の「光」が超越性を持っていて、それが現実世界を経て、共通の認識となっていく様子をプラトニック・シナジー理論は次のように表現する。


◆(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)・・
矢印は次元の異なることを示している。


◆上の式は、例えば、海舌とtoxandoria氏、或いは、Renshi氏との間で起こっている事象の数式化である言える。数式化を何故するかと言うと超越性の構造を指し示すためである。超越的構造を指し示す手法としては古代から数学が最も適したものである。


◆ここで、海舌とtoxandoria氏、或いは、Renshi氏との間で起こっている事象の数式化である、言ったが、では、この⇒で繋がった式は、時刻 と言う『意味』で、連続しているのだろうか。そうでは無いのである。確かに、toxandoria氏がモネの絵を見た時刻の方が海舌が「モネの“かささ ぎ”」の「光」を認識した時刻よりも先であるが、海舌が心で感じた「光」の存在は、toxandoria氏がモネの絵を見た時刻とは無関係に存在している のである。


◆つまり、内在的光の存在は、認識世界では時刻の定められないものである。これを「観念的同時」と読んでいる。


◆⇒部分は、次元の異なる場への移転を、効果の発生、を表している。この部分が「即非」部分である。つまり、 Media Point である。


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