toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「むき出しの斧」を欲する“美しい国”の妖しい情熱(4/最終回)


(プロローグ)


リブラ(中立・公正・司法の象徴)

http://serendip.brynmawr.edu/sci_cult/courses/beauty/justice.htmlより


ファスケス(fasces/共和制ローマ時代、執政官・権力の象徴)

http://www.legionxxiv.org/fasces%20page/より


『 ファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」のことです。ここから、ファシズムの特徴は過去における国家の栄光と民族の誇りのようなものを過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化する、つまり一定の目標に到達した「美しい国」を熱烈に希求する、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念であることが理解できます。注意すべきは、いつの時代でもこのような意味での情念は人間であれば誰でもが普通に持っているという現実です。

また、ファシズム (fascism)という言葉が生まれたのはムッソ リーニを指導者とする「イタリア・ファシズム運動」の台頭によるものです。ヒトラーのナチズムは、このイタリア・ファシズム運動の刺激を受けたと考えられますが、ムッソリーニファシズム運動にはナチズムのような余りにも激しすぎる人種差別主義は見られません。それどころか、1930年代の初め(ドイツがジュネーヴ軍縮会議と国際連盟を脱退した)ころにドイツを訪ねたムッソリーニは“ドイツは狂った人種差別主義者が作った収容所だ”と言ったとされています。 』


上の『〜〜〜』の部分は、以前に書いた記事[妄想&迷想、ヒトラー的なものについて、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070420]の部分的な引用ですが、この中に出てくる、共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」(fasces/執政官の権威の象徴/上の画像を参照)の中心にあるのが「鋭い刃を持つ斧」(=武器/暴力的権力の象徴)であることに、我われはよく注目すべきです。


つまり、古代のローマ人たちは、「共和制」の時代から、既に<政治権力の本質が暴力的なモノである>ことを理解していたということです。無論、ローマの歴史はそれに先立つ王制の時代を持っており、このような考え方の伝統はどんどん人間の歴史そのもの遡ることになると思います。


いずれにせよ、バイオポリティクス(生政治/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070517の『生政治の定義』部分を参照)が喝破するとおり、政治権力・国家権力の深層には“生々しい暴力性”(=その象徴がfascesの斧)が潜んでおり、それが「美しい国」のような、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念(=閉鎖的なナショナリズムの情念)と結びつくことはとても危険です。従って、それを“公正・中立な司法の立場から適切に制御するための知恵の歴史とも見做せる欧米の法制の歴史”、その中でも、特にわが国の『大日本帝国憲法/明治憲法』(=“美しい国”の『戦後レジームからの脱イセン社会には微かながらも「ナチズムの空気」(=強力な統制的権力による大ドイツ実現への期待)が漂い始めていた。


(本 論)


4 「改憲論」に潜むナチズムの病巣


●全く健康な身体というものがあるとするなら、そのこと自体が異常であり、あるいは<そのような存在を想定する考え方そのものが異常>だということになります。別に言うなら、<全く完全に健康な身体(肉体)というものを現実世界で実現させようとする考え方>が「〜〜〜原理主義」と呼ばれる類の精神環境の特徴です。しかし、現代の日本は、このような意味での原理主義的な精神環境を単なる笑いごとで済ますことができない社会となりつつあるようです。


●例えば、「外見的立憲君主制」の家訓に過ぎなかった「大日本帝国憲法」下で「軍国主義・日本」が誤って撒き散らした歴史的事実を客観的に記述することが自虐史観だと声高にワンサイドで糾弾する一群の人々とメディアなどの出現、あるいは自分の思い通りにゆかぬからと言って自分より弱い立場にある婦女子の殺傷とや虐待に突っ走る若者らの出現など、今の日本には、かつて想像もできなかったほど逆上し易く、より端的に言えば排外的・教条的で短絡的な思考回路と閉鎖的な観念世界にスッポリ取り込まれたようなタイプの人々と情報が巷に溢れかえっています。


●これから本格的に始まろうとする「論憲」にしても、肝心の「安倍首相を始め改憲を説く人々のその必要性についての説明」が曖昧である上に、短兵急な「9条放棄型の改憲ありき議論」が先行しており、“新しい時代が求めるのだから直すべき部分は直せばよい、過去の歴史と対峙するなどウザイことをやってる暇はない”という類の先制攻撃型で粗暴な議論も目立ち始めています。


●これが、いわゆる“従来の意味での右傾化”ということなら互いに議論の余地が些かなりとも有る訳で救われますが、巷では問答無用型の暴論が蔓延る一方で、安定多数を笠に着た政権与党による「踏み絵方式議論」への誘導を善しとする社会の空気が不気味に感じられます。一方で、人々は身の回りの出来事と刹那的な快楽とお笑い的で惰性的な日常生活、あるいは安易なレジャーや射幸的な気晴らしにうつつを抜かすばかりです。


●そして、この安定多数を笠に着た政権与党による「踏み絵方式議論」への誘導を善しとする社会の不気味な空気の背景には、ある歴然たる現実的な流れが見えてきます。それは、【<小泉クーデタ劇場>が「三権分立の原則」を無視して蒔き散らした『無数の子ダネ』の中に「外見的立憲君主制」が仕込まれていた、そして今やその『小泉クーデタ劇場の外見的立憲君主制の子ダネ』が妖しく美しい<厚化粧の安倍劇場の子宮>に着床した】という現実です(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070522)。これこそが、世襲政治家によって培養され受け継がれてゆく特異で寄生的な精神環境の恐ろしさです。


●このような「国家の祭司的役割」についての伝統的なアンチ民主主義的信念(具体的内容は下記▲を参照)は、現代の日本における“セレブな世襲政治家をもて囃す”という一種のファッション(社会的風潮)に支持されていることも見逃すべきではないようです。さらに、このように異様な風潮をビジネスチャンスと見て煽る役割を担うのがテレビ・新聞・雑誌などのマスメディアであり、ネットの一部もそれに加担しつつあります。


▲古い王権の神聖な血統
▲王権を支える純粋で優秀な単一民族の血
▲平民へ主権を渡さない外見的立憲君主制の必要性


●しかし、実はこのような社会は今初めて出現した訳ではなく、近代史を振り返ってみると今の日本に酷似した時代があったことがわかります。それは、19世紀末から20世紀初頭の「ワイマール共和国」時代のドイツに出現した中産階級層を基盤とする近代市民社会です。第一次世界大戦後の一時期、戦争の辛苦・悲惨と銃後の生活困窮の体験から労働者と兵士の一部が手を結び『労兵レーテ体制』(Raetesystem/労働者と兵士が手を結んだ組織で、資本主義に代わる新しい政治・経済体制の創造を目論む)を誕生させます。


●これに危機感を持った軍の一部と財界・労組・社会民主党が結集することとなり、この結集はドイツ極左集団(スパルタクス団)をも抑えることに成功し、都市と農村の中産階級層の支持の獲得にも成功し、世界に先駆けて民主主義的な「ワイマール共和国」(ワイマール憲法体制/1919-1933)を誕生させました。


●「ワイマール憲法」は、1919年にワイマールで開催され国民議会で制定されたドイツ共和国憲法です。国民主権、男女平等の普通選挙の承認、生存権社会権)の保障など時代を遥かに先取りする内容の憲法は、その先進性から「20世紀民主主義憲法のモデル」とされています。しかし、このように時代を先取りした民主主義憲法も、ナチスヒトラーの政権掌握によって、事実上、歴史からあっさり消滅する運命であったことは周知のとおりです。(ワイマール共和国の成立前後からナチス・ドイツ第二次世界大戦へ突入する時代についての要点は下記URLを参照)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514


●この時代の世相の描写から、如何にして民主主義社会の人々がヒトラーを圧倒的に支持したかを描いたマックス・ピカート著、佐野利勝訳『われわれ自身のなかのヒトラー』(みすず書房)という名著があります(この本は1965年(昭和30)に初版が出た古いものだが、最近になり復刊された)。この本を再読して驚かされるのは、当時のドイツ社会が、あまりにもよく今の日本と似通っていることです。無論、今のようにネットが普及した情報化社会ではありませんでしたが・・・。


第一次世界大戦での敗北による重圧を撥ね退けつつ近代化を急いだ当時のドイツは、アメリカ型の文化を積極的に招聘して高度な大量消費文明を享受しつつ新聞・出版・映画・ラジオなどのマスメディアが高度に発達した社会環境だったのです。しかも、そこに社会状況の急激な変化の中から適切な見境と適切な倫理観を見失った「新しいタイプの人種」が現われ、彼らが人口の多くを占めるようになるにつれて独裁者(ヒトラー)の言葉を現実的に受け入れる精神環境が着々と整ってきたと言う訳です。


(参考として、マックス・ピカート著『われわれ自身のなかのヒトラー』から一部分を転載しておきます)


[(P.8〜14)ヒトラーの出現を準備するものとしてのヒトラー以前の「いとなみ」]


「現代人が外界の事物を受け取るやり方はこうなのです」とわたしは言った。「現代人はあらゆるものを、なんの連関もない錯乱状態のままで、手当たりしだいに掻き集めてくるのですが、それは、現代人の心のなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはやそれぞれがただ一個かぎりの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。


・・・(途中略)・・・


従って、何がわが身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起こり来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです。そして、このような連関のない錯乱状態のなかへは、どんなことでも、また、どんな人物でも、容易に紛れ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょう。


さて、ヒトラーがそこへ紛れ込めば、どのようにして彼が入り込んだかには気づかれることがなくても、ヒトラーは事実上人間の内部におるわけで、そうなればヒトラーがただ単に人間の心のなかをちょっと通り過ぎるだけで終わるか、あるいは彼が人間の心のなかにしっかり食い込んで離れないかは、彼アドルフ・ヒトラーの手腕しだいであって、もうわれわれ自身でどうこうすることのできる問題ではなくなるのです。」


・・・(途中略)・・・


ラジオはこの連関性喪失の状態を機械的に運営することを引き受けたのである。六時=朝のラジオ体操〜六時十分=レコード・コンサート〜七時=ニュース〜〜〜九時=朝の精神訓話〜〜〜十時四十五分=世界の出来事〜十一時=リエンツイ序曲〜〜〜夜二十二時三十分ジャズ愛好家の時間〜〜これで本日の放送は全部終了いたしました、ということになる。


・・・(途中略)・・・


しかし、過去の連続性の世界においては、人々はまだ、そのように取るに足りないもの、下らぬものの背後に、偉大なるもの、重大な意義あるものの存在を感じていた。


・・・(途中略)・・・


ところが、ヒトラーの時代や、それに先立つ時代(主にワイマール共和国時代のこと)においては、およそ空無よりほかには何ものも存在していないかのような有様であった。しかも、その空無は第一次的に存在していたのであって、人々はその空無の場を、偉大なもの、重大な意義あるものがそこから追い出されることによって生じた真空だと感づくことさえ、もはやできなくなっていたのである。


[(P.177〜181)性欲]


現代の非連続の世界では、事情はこれとまったく異なっている。ここでは、性欲はもはや人間の連続性を破壊する必要がない。性欲は、いまさら人間を瞬間的なもののなかへ引きずり込むには及ばないのである。現代の人間は始めからすでに瞬間的なもののなかに住んでいるのであって、そのことによってまた、現代人は性的行為の場面としての世界の構造と同じ構造のなかに生きているのである。


一つの世界全体が(現代の世界全体が)性の刹那性、非連続性に合致しているのだ。ここには性欲に対するなんらの抵抗もない。ここでは、まるで自明のことを待ち受けるように、性的なるものが待ち受けられているのだ。


・・・(途中略)・・・


現代世界において進行しつつあるこの汎性欲主義は、実は性欲の一種の堕落である。それは、現代世界の単なる刹那的な構造から発生した一種の性欲であって、このような性欲は本然的に人間の生理から生じたものでさえもなく、現代世界の惨めな構造から発生したものなのだ。ここでは、精神の相手役たる名誉が性欲から奪い去られている。


・・・(途中略)・・・


性欲は、今日ではまったく自明のもの、何時でもあるものなのだ。実際、それは至る所にある。そして、丁度ヒトラーが人々の刹那的な構造によって内包されていたように、性欲は人間たちの刹那的構造によって内包されているのである。要するに、人間が刹那的で、そして無連関的であればあるほど、一層彼は何からなにまで性欲によって支配されやすい状態にあり、同様にまたヒトラーによって支配されやすい状態にあるのだ。


・・・(途中略)・・・


かつては、人間の顔は身体のなかでも特別の場所であって、そこには精神が肉体を支配しているという“しるし”が刻み込まれていた。そして、顔を構成している物質は、その背後から放射してくる精神の光によって透明にされていたのである。ところが、今日の非連続の世界では、顔は性的なるものによって隈なく浸透されていて、精神は顔から放逐されてしまった。そして、かつては精神が座を占めていた場所に、今や性欲がのさばりかえっているのである。精神ではなくて、性的なものが、現代人の顔にその“しるし”を印している。多くの人々顔は、まったく生殖器そのもののように見えるのだ。


[(P.182〜183)歴史への破壊的闖入]


ナチの理論家たちは、国民社会主義フィヒテヘーゲルの浪漫主義的な世界国家の理念から導き出そうと試みた。ヒトラーの場合も、ヘーゲルフィヒテの場合と同様に、国家が絶対化されているのであって、そこには確かに関係がある、と彼らは主張したのである。しかしながら、これら二人の哲学者たちにとっては、やはり本当に国家そのもが問題であった。


彼らはやはり国家を見ていた。国家は厳然としてそこに存在していたのである。ところがヒトラーは、国家の授けをかりて秩序を破壊するためにのみ、それを利用するだけなのである。ヒトラーが国家を絶対化する場合、彼にとって問題となるのは、国家を位階的秩序から無理やりに切り離すことだ。ただ切り離すことだけが(彼にとっては)問題なのだ。


絶対化は彼にとって、万事を切り離すための単なる一つの手段、一つのチャンスであるに過ぎない。ヒトラーは、国家を見る能力(国家を認識する能力)を持っていない。いわんや、それが絶対化された国家であれ、あるいはそうでないものであれ、一つの国家を建設する能力などまるで持ってはいないのである。


彼にできることといえば、ただなにものかを切り離すだけだ。これがヒトラーに付着している悪魔(サタン)的な性格である。つまり、ヒトラーにおいては、無理無体に切り離すこと、何物かが秩序から引き離されることだけが意図されている。ヒトラーにおけるあらゆる運動は、すべて破壊の運動なのである。


●この本を読むと、ワイマール共和国時代のドイツの社会状況がが、あまりにも現代日本の政治社会の情勢に似ていることに驚かされます。また、まさか、こんな些細なと思われるようなことの積み重ねのなかから不気味な波紋がひろがり始め、恰も津波が押し寄せるように予期せぬほど大きな時代のうねりが押し寄せてきます。そして、気がついた時には手遅れという事態になることがピカートの文章から読み取れるはずです。


●[性欲]と[歴史への破壊的闖入]の記述内容にいたっては、まさに、これは日本の現代社会のドキュメントではないかと思われるほど迫真的です。毎日のように猟奇的な性犯罪のニュースがテレビのワイドショー番組に高付加価値のネタを提供し続け、そのネタは高給寿司ダネかセレブで美味なお惣菜でもあるかの如くお茶の間で消費され、深刻な事件・事故の内容や被害者が置かれた悲惨な状況などは次々に忘却の彼方へ送り出されて行きます。タレントも俳優も、そして政治家さえもがプロとしての演技よりも「厚化粧と艶技」の方に精を出し、必要とあらば易々と顔にメスを入れて臆面も無く美容整形術を施すのが当然となりつつあります。


●このような時代にこそ、我われ一般国民は物事の本質を見極めるため良く自分の頭で物事を考えるという習慣を取り戻すべきです。時には、テレビもインターネットも切断する必要があるでしょう。刹那的にメディアや周囲の環境に反応し、反射的に結果だけをすぐに求めるような性向にブレーキをかける努力をすべきです。成果主義だ、勝ち組だ負け組だ、競争原理だというシュプレヒコールに踊らされる心を時には休める必要があります。


●そして、今、憲法改正論議が本格化しようとしていますが、忘れるべきでないのはナチス的現象が20世紀初頭のドイツに忽然と現れたのではないということです。また、日本が軍国主義の暴走を止めることができなくなり無謀な太平洋戦争に突入したという歴史を持つこともシッカリ想起すべきです。そして、この二つのことが決して無関係ではなく、19世紀のプロイセン・ドイツ(プロイセン王国〜第二ドイツ帝国の時代)に共通の淵源があることを知るべきです。


●現在の改憲論議で気がかりなことは、自民党改憲案を始めとする論議の内容を見る限り、このような意味での危機感がきわめて希薄だという点です。むしろ、積極的に「プロイセン憲法」が宿していた病根を再評価するべきだというような風潮があることが気がかりです。日本国民も、このような病根論議については殆ど無関心であるか、あるいは気がついておらず、ただ刹那的・反射的に“歴史などに拘らず、新しい時代の日本のためには変えるべきは変えるという積極性が必要だ”というような次元での議論が目立つことも気がかりです。


5 「改憲論」に潜むナチズムの病巣(補足)


●最後に、「外見的立憲君主制」をよしとする『改憲論』に潜むナチズムの「病巣」を箇条書きで抽出し、この「病巣」に対するドイツ政府と日本政府の現時点での対応の違いを大まかに纏めておきます。


(1)病巣の抽出(『王権神授説』、『民族精神』の高揚という二つの病巣がある)


[病巣1] 王権神授説


(ドイツ)


・・・王権神授説(神権政治神聖ローマ帝国への回帰願望)→独裁的なプロイセン王権、プロイセン憲法の成立(授権規範性が欠如)→ドイツ皇帝権の確立(ドイツ第二帝国)→総統ヒトラーの独裁(民主的なワイマール憲法の狡猾な活用による合法化)


(日本)


・・・プロイセン・ドイツの「授権規範性が意図的に排除」された「プロイセン憲法」を媒介に「外見的立憲君主制」が日本の「大日本帝国憲法」へ伝染。神権政治(神格天皇)が合法化され天皇大権が確立。天皇を頂点とする国体守護のために上からの愛国心が強要される。一方で「軍事国体論」の象徴として創建された靖国神社が日本ファシズムの王道を準備する。


・・・結局、天皇大権を盾にする軍部が独走してアジアへの侵略戦争と太平洋戦争へ突入し、議会による財政面からの国家ガバナンス機能も崩壊した。


[病巣2] 民族精神の高揚


(ドイツ)


・・・フランス革命の余波→反動としての「サビニーの歴史法学+ゲルマン民族精神の高揚」→プロイセンナショナリズムプロイセン憲法の成立→ゲルマンの純血を称揚するヒトラーのナチズム(カール・シュミットなど政治学者の一部がナチズムを評価)→第二次世界大戦へ突入


<注>カール・シュミット(Carl Schumit/1888-1985):ドイツの公法・政治学者。ワイマール体制下で議会制民主主義を痛烈に批判し、ナチスヒトラーを賞賛した。一時、ナチス学会で活動した。


(日本)


・・・同じく「プロイセン憲法」を媒介に日本の「大日本帝国憲法」へ伝染。→万世一系の皇室を頂点とする、世界に秀でた大和民族神話が創作→「軍事国体論」と融合→特攻精神、一億玉砕の破局


(2)「病巣」に対するドイツ政府と日本政府の対応の違い


(ドイツ)


・・・ナチズムの徹底反省(現在も反省は持続しており、ナチズムに対するドイツ人の深い反省を象徴する壮大な記念碑がベルリン市内に完成したばかり。 → ナチズムの徹底排除と授権規範性を明確に意識した「ボン憲法」が成立 →ナチズムの反省を克服した「新しい歴史主義」の復活(歴史的伝統を生かした社会的市場経済の理念との結合) → 拡大EUの牽引役を担いつつある


・・・また、ナチスの残虐への反省と平和の大切さへの訴えが、今も現実的な国家的・国民的運動として真剣に続けられている(実例として下記▲を参照)。


▲ベルリンにホロコースト記念碑を建設(ヨーロッパの虐殺されたユダ ヤ人のための記念碑/Denkmal fuer ermordete Juden Europas) → 参照、[2007年春、ドイツ旅行の印象(ベルリン編2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070423]


▲映画『運命の日、ドレスデン』の制作・公開 → 参照、[英国民のドレスデン爆撃への反省と「ブレアの退陣」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070511]


(日本)


・・・軍事国体論と侵略戦争の歴史への反省が不徹底で、「日本国憲法」に関する授権規範性の意識が希薄である。この点に関する国民一般の認識も低い。


・・・与党関係者、自衛隊関係者の一部では「軍事国体論」の復活、更には上からの「外見的立憲君主制にふさわしい愛国心」と「民族精神高揚の必要性」が主張され始めている。


・・・政治家や学者などの間では「日本国憲法」の「9条平和主義」の廃棄、授権規範性の弱体化の必要性が国益論や集団的自衛論と先制攻撃論のメリットなどと絡めて真剣に議論されている。


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