toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

政治的な衛生観念を欠く“美しい国”の暴政



デューラー、銅板画『メランンコリア1』 Albrecht Duerer(1471-1528)「Melancholia 1」 1514 Engraving 24 x 18.5 cm 


・・・この版画作品は複数存在しており、日本では熊本県立美術館が所蔵しています。


周知のとおり、デューラーは二度のイタリア旅行でイタリア・ルネサンスの新風をドイツへ伝えることで、ドイツ・ルネサンス芸術の基礎を完成させた大天才です。そして、この天才ぶりを象徴するのが『デューラーの二つの視線』です。その一つは『1500年の自画像』(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070521http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601の画像と説明)の視線です。


その透徹した眼差しが、どこまでドイツの未来を予見していたかは知るよしもありませんが、デューラーにおけるドイツ的精神の高み(神との内面的な邂逅を重視する神秘思想家トマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis /1380-1471)の影響を受けたとされる)は、その後の暴力的で悲劇的な波乱の時代を乗り越えること、つまり愛すべき自らの国家であるドイツの運命を深く見通していたのではないかと思われます。


<注>トマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis /1380-1471)の著書『イミタティオ・クリスティ』(De imitatione Christi/「キリストにならう」の意味)はキリスト教的信心の名著。また、ドイツ中世の神秘思想は現代で言うところのオカルトではなく、神の前で人間性をどこまでも深く見つめ抜くというひた向きで謙虚な心性による思想的系譜である。


二つ目は『メランンコリア 1』で物憂げ(メランコリック)な女性の見上げるような眼差しです。彼女の周囲には森羅万象(人間の表象世界も含めた)が描かれており、メランコリックな暗い顔のなかで、そこだけが鋭く輝くように描かれています。


その図像的解釈は、イタリア・ルネサンス思想に影響を与えた思想家マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino /1433-1499)による「四性論」(古代ギリシア医学に淵源を持つ、異質な体液の割合が人の気質を決めるとする考え/多血質=活動的、胆汁質=短気・短絡・短慮、粘液質=優柔不断、憂鬱質=内行的・孤独・・・中世までは、このなかで憂鬱質が最劣とされた)など、様々なものがあります。


一つの有力な見方を取るならば、それは、このメランコリックな女性の眼差しは「学問と知恵の象徴」だとするものです。無論、ここにも「四性論」が関係してきますが、デューラーは中世いらいの気質の評価を根本から逆転させて、憂鬱質(メランコリア)こそが人間として最も崇高な気質(精神)として注目すべきとしたのです。


なお、『メランンコリア 1』の<1>は、ドイツの思想家コルネリウス・アグリッパ(Heinrich Cornelius Agrippa/1486-1535)によると憂鬱質の創造活動には更に三つのレベルがあり、この図像はその第一段階を指すという意味です(出典:高階秀爾著『名画を見る眼』(岩波新書))。


このように考えると、デューラーの炯眼が見据えていたのは「現役閣僚の自殺」という“政治の暴力化”の泥沼に嵌り立ち往生しつつある「美しい国・日本」の悲惨のみならず、愈々、そこでこそ「学問・芸術・教育」の役割が重要になるということではなかったのか、と思われます。にもかかわらず、現代日本では「学問・芸術・教育」が“競争原理優先”の名の下で“美しい国”の暴政に屈服させられつつあります。


そして、ドイツ・ルネサンスの大芸術家アルブレヒト・デューラーの『二つの視線』は、“美しい国”という妖怪の出現と“5000万件に及ぶ巨額の公的年金の消滅、現役閣僚の自殺、平和主義首長の謀殺、平和憲法の消滅の危機、高まるばかりの重税の足音”など打ち寄せる暴政の高波の前で恐れおののくばかりの現代・日本をすら見通していたようです。


このように、デューラーの銅板画『メランンコリア 1』は、暴政の時代にこそ正当な批判力としての「学問・芸術・教育」の復権が重要であることを示唆しているように思われます。


(なお、関連内容として下記の記事もご笑覧願います)


2007-06-01 暴力的本性を露にした“美しい国”の横暴 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601
2007-05-31 暴力的本性を直視する『平和主義』の意義 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531


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6月1日の衆院内閣委員会で、元社会保険庁長官の正木馨氏が退官後に複数の法人を渡り歩き、2億9000万円以上の退職金等を得ていたとの試算が民主党の調査で明らかにされています。また、この調査によると、正木氏が社保庁長官を務めていた1980年代、手書き台帳の記録をコンピューターに移した時の入力ミスが今回の年金記録不備の一因になったようです。


また、かつて民主党はこのような『高級公務員の渡り』の実態調査をすべきことを安倍首相に詰め寄ったことがあるが、首相は消極的な答弁に終始していました(出典:東京新聞ネットニュース、http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007060190205135.html)。


他方、自殺した松岡利勝農林水産相の後任に自民党赤城徳彦衆院議員の起用が決まりました。赤城徳彦氏は元農水官僚で農林水産行政に明るいうえ、年齢も48歳と若く、政治とカネの問題に清新なイメージのあることが決め手となったと報道されています(出典:同上、http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007060101000774.html)。


周知のとおり、赤城徳彦衆院議員の祖父は岸信介・元首相の懐刀と言われ岸政権を支えた赤城宗徳・元衆議院議員です。安倍首相(母方の祖父は岸信介・元首相、父は安倍晋太郎・元衆議院議員)を始めとして、この類の二世・三世等の世襲議員が全国会議員に占める割合は凡そ過半に近づいているはずです。


このような観点から見ると、日本の国会議員と高級中央官僚の『世襲と渡り』こそが、『美しい国の封建・諸侯体制維持のための基盤』であり、今の日本にも、れっきとした“封建体制”が存在することが分かります。ドイツの中・近世史に喩えるならば、この類の「美しい国・日本の“等族ヒエラルキー”」(=ドイツ史の用語で、諸侯・帝国都市などの特権階層の存在のこと)こそが彼らの強大な支配のエネルギー源であるという訳です。


更に始末が悪く思えるのは、この『国会議員と高級中央官僚の<世襲と渡り>』の周辺に、「高度化した裏国家予算管理システム=官製談合装置」と「妖しげな徒党集団」(狂信カルト集団・暴力団・ヤクザ・ゴロツキおよび特定企業グループなど)という支援ソフトウエアが巧妙に組み込まれていることです。


まさに、これは“リアルマネー換金型の悪徳セカンドライフ・システム”(参照、「ネットビジネスの新大陸=セカンドライフ」、http://meltingdots.com/?gclid=CPT71uKsvIwCFR49TAodWFoIWw)のようなものです。余りにも“善良なコンピュータ音痴の国民”を小ばかにし過ぎです。


未だロシアやウクライナのように露骨な暗殺事件の多発という事態(毒殺・狙撃などによる政敵抹殺行為)にならぬだけましかも知れませんが、元・松岡農水大臣による「現役閣僚としての自殺」の陰には、限りなく、このような意味でのドス黒く暴力化した政治の臭いが立ち込めていることを直視すべきだと思います。たんなる「一政治家個人の内心の葛藤の帰結」などではあり得ないと思われます。


ともかくも、このようなメカニズム(セカンドライフ型の隠れ封建体制?)の中で食いつぶされたもの、つまり彼らが必要とする巨額の資金調達源の一つが渦中の「消えた国民の公的年金記録、5000万件」(その金額については、巨額規模と余りのデタラメさ故に推計が不能!!)の原因ではなかったのか、とさえ思われてきます。


ここで注意すべきことは、『中・下級の小役人をめぐる贈収賄事件等』と『国会議員と高級中央官僚の<世襲と渡り>』を同一視しないことです。これらは全く別性質の問題だからです。この観点を過小評価すれば、公務員制度改革も、年金改革も、天下り規制も、政治資金規正法関連の改革も、再び“群盲象を評す”の陥穽に嵌ることになります。“美しい国”の戦略は、この盲点を突く意図を持っているはずです。


このように恐るべき『現代日本の隠れ封建体制』を支えてきた深層には、“ミソもクソも一緒くたという、自分の身に直結するはずの政治や選挙についての、日本国民独特のいい加減な感覚”、言い換えるならば日本文化に特有な<政治的衛生観念の欠如>の問題(日本文化の弱点、アキレス腱)があると思われます。


今からでも遅くはないので、このような観点から浮上してくる、このような<日本型民主主義の根本的欠点>を見据えながら7月の参議院選に望むべきだと思います。そして、今こそ我われ一般国民は、『国会議員と高級中央官僚の<世襲と渡り>』によって“彼らの内心の奥深くで培養され継承される傲慢さ”が日本の現在と未来へ与える弊害の大きさを直視すべきです。


今こそ、『国会議員と高級中央官僚の<世襲と渡り>装置』と化した<日本の暴政>が濃縮しつつある<政治と行政の毒素>を排除・排泄(解毒/detoxify)できる唯一の手段は我われの<選挙権>だけであることを根っこから再認識すべき時です。


そして、小泉劇場に始まり安倍の美しい国で“孕んだ状態”(=戦後レジームからの脱却で、太平洋戦争直前の日本へ回帰すること、およびその障害と見做す憲法改正(9条解除型)の実践計画の策定)に至った、熱烈な“美しい国の厚化粧ラブストーリー”が、実はこのような恐るべき<政治と行政の毒素>が流れる中で狡猾に企まれたものであることを自覚すべきです。


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当内容に関連する[pfaelzerweinさま → 「toxandoriaの日記/暴力的本性を露にした“美しい国”の横暴、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601]のコメント&レスを下に転載しておきます。



投稿者:pfaelzerwein? 2007/06/01 15:46:37


欠如するもの 


「政府自身の暴力性・ヤクザ化・凶暴化の問題=美しい国の暴力的本性の露呈」−


この問題は二つの面があると思われますが、いかがでしょうか?


一つは、政府機構に授与された暴力で、警察権や防衛等の暴力的権力の行使ですね。これは、教科書通りに理解されていて、必要悪といったように理解がされ て、その権力の正当性と尚且つ民主的であることが大前提となっています。その双方ともを、現行の日本政府が満たしていないとする疑惑が、ご見解ではないか と察しています。


しかし、これもご指摘のように、立法化を以って、さらに憲法を改正することで、如何なる政体をも正当化する制度へと変えていく事が出来るのですね。非常に 良い例が一部のイスラム諸国の近代国家としての体裁ではないでしょうか?そこに欠けるのが、日本における未成熟に苦言を呈しておられる民主主義そのものな のでしょう。


もう一つは、こちらでもしばしば俎上に上る国民性と言うか文化的気質のような暴力性でしょうか?しかし、これも一般に日本人が自ら考えているほど単純では ないのですね。例えば、自決にしても、その実酷く現世的な実益が隠されていてもそれが美化されて、独自の心理構造を形作っているようです。まあ、これは何 も政界の特許ではなくて、広く日本社会を特徴つける社会構造にもなっている訳ですが、最も大きな問題は遵法精神の欠如に表れているのではないでしょうか。 民主主義を護る憲法や法律の枠組み自体が、それを自らが勝ち得た経験の無い国民には、抜け道を探す対象ぐらいの意味しか持たないのでしょう。上から舞い降 りて来た民主主義は本来の力を持たないのでしょうか。


ゲンシャーの発言への言及を読みました。これに関してはその信条を先日のフォン・ヴァイツゼッカーの講演に読み取れましたので、改めて考えてみたいと思います。



pfaelzerweinさま、コメントありがとうございます。(toxandoria)


今や、<黄金の国ジパング>では“約5,000万件の年金記録消滅”、“現役閣僚の自殺”、“平和を信奉する首長の暗殺”など、まことに『美しい国』の暴政を象徴し、恰も未来の『美しい国』の地獄絵図を予言するかのような、おぞましくも虫唾が走る<怪異な事件>が続発し始めています。


おっしゃるとおり、一部の過激なイスラム国家の<世界における無法>ぶりは今の日本が目指す『美しい国』の未来に重なる可能性があるかも知れません。ただ、イスラムの場合は一神教ゆえの原理主義的な世界観を持っているという意味では違っていると思われます。ここから見えてくるのが、カミカゼ特攻隊とイスラム自爆テロの根本的な差異ではないかと考えられます。


二つ目のご指摘で思い出したのは、松岡農水大臣の自殺が報じられた直後の石原慎太郎東京都知事の発言です。テレビのインタビュー記者から感想を求められた石原氏が、しばし苦痛に満ちた表情をした後で発した言葉は次のとおりです。


・・・・・“彼(松岡大臣)も、やはりサムライだったんだと思いますよ!”


これこそが、pfaelzerweinさまがご指摘の“現世的な実益も含めて”美化するという日本人の心身に滲みこんでいる文化的な特異性ではないかと思われます。露骨なスキャンダルにもめげず慎太郎人気が一向に衰えぬ訳が、この辺りにあるような気がします。


例えば、一見するとシチリアのマフィアにも似たような心性があるかのように思われますが、日本人の心性とは根本的に異質ではないかと思っています。マフィアには、強大な政治権力に対峙する矜持のようなものが感じられますが、日本のそれは、表現が汚くて恐縮ですが“ミソもクソも一緒というような独特のいい加減さ”があると思っています。いわば、<政治的な衛生観念の欠如>でしょうか?


やはり、日本人の多くは未だまだ“市民革命、公共空間、政教分離の原則、法の支配の原則、憲法の授権規範性、国際法と平和主義の役割”などの意味を理解していないのではないか、と思っています。


結局、これは<教育の問題>に帰結すると思いますが、これも“美しい国”によって逆ねじを巻かれている現況です。これでは「ハラキリ、ゲイシャ、フジヤマの日本」に逆戻りではないか、と懸念しています。


ゲンシャーの発言もそうですが、EUにおけるドイツの役割が想像以上に重要であることが分かってきたような気がしております。』 (2007/06/01 16:54)


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