toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[ニュルンベルク編]


ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より


ドイツの主要都市(ウイキペディア)より


ドイツの河川図(ウイキペディア)より


ニュルンベルクの俯瞰図


ニュルンベルクの地図



ニュルンベルクの光景、ア・ラ・カルト





ニュルンベルク史の概観


ニュルンベルクは、1050年の記録文書にNourenberc(岸壁の上にある城)として初めて確認されます。この岸壁上の城は、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世(Heinrich 3/位1046-1056)が造らせた城壁が基礎となっています。12世紀には、シュヴァーベン大公(Schwaben/神聖ローマ帝国の部族大公で、ドイツ南西部からスイスにかけて支配/現在は、アウグスブルク周辺のバイエルン州南西部シュヴァーベン行政区が残っている)を世襲してきたホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen)のドイツ王・コンラート3世(Konrad3/王位1138-1152/神聖ローマ皇帝になれなかった)、フリードリヒ1世・バルバロッサ(Friedrich 1 Barbarossa /位1155-1190)らの諸王・諸皇帝によって王・帝国所領としての支配を受けます。


このような訳で、12世紀以降には皇帝が度々ニュルンベルクに滞在し、ここで頻繁に諸侯会議が行われるようになります。13世紀には、皇帝フリードリヒ2世(Friedrich 2/位1220-1250)が「大特許状」(Grosser Freiheitsbrief、http://www.onb.ac.at/ausb/pro6/pt4/kontext/zeit.html)によって主に経済的な権利をニュルンベルクへ与えます。やがて、この頃から14世紀にかけてホーエンシュタウフェン家の支配力は落ち始め都市貴族たちが自治権を主張するようになりますが、彼らと諸皇帝の強い結びつきは変らず皇帝が城壁と居城を所有し、諸侯会議と帝国会議がここで頻繁に行われました。


この皇帝とニュルンベルクの特別な結びつきのなかで、1356年には神聖ローマ皇帝カール4世がニュルンベルクで「黄金勅書」を発布します(この文書についての詳細は『カール4世の帝国自由都市ニュルンベルク』で後述)。この14世紀には、ハウプト・マルクト(Hauptmrkt/中央市場/現在はニュルンベルクの中心地)と、その周辺にある「聖母教会」(Frauenkirche)、「うるわしの泉」(Schoener Brunnen)、「旧市庁舎」(Altes Rathaus)、「聖ローレンツ教会」(St.Lorenz Kirche)、「聖ゼバルドウス教会」(St.Sebaldus Kirche)などの基本的な部分が造られています。また、この時代にペグ二ッツ川(Pegnitz/バイエルン州フランケン地方を流れる川)に橋が架かり新・旧両市街が一体化されました。


15〜16世紀初頭はニュルンベルクが最も発展した時期で、皇帝ジギスムント(ルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝/詳細は後述)が1423年に「帝権の表象」(Reichskleinodien/王冠、王笏、宝剣、宝珠など)をニュルンベルクへ与えており、これは1796年まで続きます(その後はレーゲンスブルクへ移され、現在はウイーンにある)。今も残る「デューラーの家」(Albrecht Duerer Haus/1419)と「聖ローレンツ教会の内陣」(1477)はこの時期に建てられたものです。



神聖ローマ皇帝の王冠
ウイキペディアhttp://de.wikipedia.org/wiki/Reichskleinodien#Mittelalterより


やがて、1495〜1525年の30年間にニュルンベルクは政治・経済・文化・芸術発展の頂点を迎えます。いわゆるドイツ・ルネサンス期の中心地としてのニュルンベルクです。アルブレヒト・デューラー(詳細後述)、ファイト・シュトース(Veit Stoss/ca1445-1533/後期ゴシック〜ルネサンス期の彫刻家)、ペーター・フィッシャー(Peter Vischer/ca1460‐1529/同、木彫中心の彫刻家)、アダム・クラフト(Adam Krafft/ca1440-1507/同、石彫中心の彫刻家)、マティアス・グリューネヴァルト(通称・Matthias Gruenewald、正しくはMatthias Gothard Nithart/ca1470-1528/デューラー以降、ドイツ・ルネッサンスで最大の画家/多感で宗教的情熱に溢れた作品が多い)らの大芸術家が排出します。


宗教改革の嵐に見舞われたニュルンベルクも1525年に改革を受け入れます。このため、皇帝の足が遠のき始め、ニュルンベルクで行われた帝国議会は1543年が最期となります。しかし、それにもかかわらず当市での活発な経済活動は17世紀にかけて続きます。「三十年戦争」(1618-48)が始まる前の時代にニュルンベルクの人口は最大(約5万人)となり、新市庁舎など豪華な建造物が建てられます。やがて、「三十年戦争」が始まるとニュルンベルクは甚大な被害を受け人口も減り始め窮状に陥ります。17世紀後半になるとバロック音楽が開花するなど再び文化的な活力を取り戻します。


しかし、18世紀に入るとニュルンベルク市当局(市参事会)が課す重税と近隣の関税障壁の挟撃を受ける形となり、ニュルンベルクの商業活動が衰退します。18世紀後半には、国力をつけたプロイセン王国(1701〜1870/1871-1918はドイツ帝国)とバイエルン(選定侯国/1806〜1918はバイエルン王国)がニュルンベルク周辺を併合する事態となり、フランス軍の侵入にも、しばしば脅かされます。


1806年、ニュルンベルクは、ナポレオンによって主権を剥奪され、フランスと同盟関係にあったバイエルン王国編入されたため、自治都市から地方都市の地位へ転落します。しかし、この時代は逆境を活かして高度な加工工業が興り、1835年にはニュルンベルクフュルト(Furth/ニュルンベルクの中心から北西へ約20kmの都市/ドイツ初の鉄道の始発駅)の間に鉄道が開通します。そして、Faber(鉛筆メーカー)、Cramer-Klett(機械製造)、Schuckert(電気技術会社)などのパイオニア企業が輩出し、ニュルンベルクバイエルンの工業センターの地位を確保します。


19世紀には、ロマン派の活躍によって“古き良きニュルンベルク”を回顧する運動が盛んとなり「ゲルマン民族博物館」(1852/詳細後述)が設立されます。また、リヒャルト・ワグナー(Wilhelm Richard Wagner/1813-1883)が作品『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(Die Meistersinger von Nuerunberg、1868)でニュルンベルクを賛美したのも、ニュルンベルクの古い市壁の保存運動が開始されたのもこの時代です。


20世紀に入ると、1910年にはニュルンベルクの人口が33万人に達しドイツ帝国で11番目の規模の都市(最重要工業都市の一つ)となります。1993年にヒトラーは「ナチス党大会」をここで開きますが、その目的は、ニュルンベルクが歴史的に皇帝との結びつきが強く帝国議会が度々ここで開催されたことを意識して、神聖ローマ帝国からナチスドイツ(第三帝国)への歴史的な必然性と継続性を演出することでした。また、そのナチス・ドイツ戦争犯罪を裁く「ニュルンベルク裁判」(詳細後述)が、ここで行われたことも歴史的な意味を重視したためです。


なお、ニュルンベルク第二次世界大戦における連合軍の空爆で市街地の90%近くが破壊されましたが、現在ではほぼ復興され中世の街並みがよみがえっています。



カール4世の帝国自由都市ニュルンベルク


黄金勅書の金印
ウイキペディアhttp://www.weblio.jp/content/%E9%87%91%E5%8D%B0%E5%8B%85%E6%9B%B8より


14世紀のヨーロッパは、百年戦争(1338-1453)によってイギリスとフランスで王権の確立と両国の国民国家意識が確実なものとなってきた時代です。また、イタリア半島では北イタリアのミラノの覇権が強まり、ドイツ・ボヘミアプロイセンドイツ騎士団領)・ポーランド辺りでは「ドイツ人の東方殖民」(12〜14世紀)の終盤にさしかかる頃です。このため、この時代はそれまでの地中海とローマを中心とするヨーロッパ世界が北東方向へシフトし始めた時代であり、それはほぼ現代のヨーロッパのイメージに重なることになります。


このような意味での時代の転換点における神聖ローマ皇帝であったカール4世(Karl 4/位1346-1378/ルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝で出身地のボヘミア王を兼ねた)にとって帝国自由都市ニュルンベルクは特別の意味を持っていたと考えられます。


それは、14世紀のニュルンベルクは、既に都市貴族が皇帝から自治権を得ていたにもかかわらず、意図的・政策的に皇帝との親密な結びつきを求めていたということです。また、カール4世は、縁戚の繋がり(フランス王の妃が父ヨーハン(ボヘミア王)の妹)があるため幼少期からフランス王シャルル4世のパリの宮廷で育ったこともあり、フランス語・イタリア語・ドイツ語・チェコ語ラテン語を操る優れた文人皇帝でもありました。


<注>ルクセンブルク朝は、カールの長男・神聖ローマ皇帝ヴェンツェル(Wenzel/位1378-1400)の異母弟・神聖ローマ皇帝ジギスムント(Sigismund/位1433-1411)で断絶したため、現在のルクセンブルク大公(1890〜/オランダ総督・オラニエ公ウイレム4世の玄孫から始まる)とは無関係。


このため、カール4世は1356年にニュルンベルクで史上初のドイツ憲法(帝国法)とも見做すことが可能な「金印勅書」(Die Goldene Bulle/金の印章が付いた皇帝勅書)発布します。この文書は、選帝侯の制度によってドイツ国王(=神聖ローマ皇帝)を選ぶ選挙(1198年〜1806年まで行われた)についての手続きを定めたもので、そのポイントは以下のとおりです。


●選挙権を持つ七人の選帝侯を定めた


●これらの選帝侯に国王に順ずる諸特権を付与


●決定は多数決による


<注>選帝侯の制度は、ドイツ国王の王位争い(ヴェルフ家(Welfen/現代の英王室ハノーバー朝(Hannover)のルーツ)VSホーエンシュタウフェン家)を収めるため、ローマ教皇インノケンティウス3世(Papa Innocentius 3/位1198-1216)がライン川流域の4人の選帝侯(マインツ大司教ケルン大司教、トリーア大司教ライン宮中伯・・・縁戚のため、ライン宮中伯バイエルン公と交代で権利を行使)による選挙を定めたことに始まる。


また、カール4世は、出身地であるボヘミアプラハ(Prague)を“東方のパリ”にする夢を持ち、ローマ教皇の認可状に基づき「プラハ大学」を設立(1348)しています。が、それに止まらずカールは神聖ローマ皇帝及びボヘミア国王としての大学開設の認可状も残しています。このことは、文人皇帝としてのカール4世が、文化・アカデミズムをドイツ王国(神聖ローマ帝国)とボヘミア王国の基本に据えるとともに、世俗界の封主権(神聖ローマ皇帝としての)がローマ教皇権より上位にあることを主張したのです。このため、たびたび「帝国議会」(ドイツにおける身分制議会の始まりと見做せる)が開かれたニュルンベルクと大学・文化都市プラハは14世紀のヨーロッパで特別の役割を担っていたと考えられます。



カイザーブルク、内外の風景/Kaiserburg






ニュルンベルクが1050年の記録文書でNourenberc(岸壁の上にある城)として初めて確認されるとおり、カイザーブルクは旧市街の高台にありますが、この高台は所々で赤い岩肌を見せる砂岩でできています。そして、この築城は神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(Heinrich 3/位1046-1056/叙任権闘争で名高いハインリヒ4世の父)がローマ時代の要塞を基に築城したとされています。


この城砦(Burg)で行われた宮廷会議と帝国議会の回数は他の都市を圧倒的に上回っており、ハインリヒ3世の1050年からマキシミリアン2世(Maximillian 2/位1564-1576)の1571年までの間に、全ての神聖ローマ皇帝がこのBurgに滞在してドイツ王国を統治しています。


Burgの中央にあるジンベル塔(Sinwellturm/見張り台/15〜16枚目の画像)に昇るとニュルンベルク市街が一望できます。この城砦で残っている部分の多くは主にホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen)の皇帝たち、つまりコンラート3世(Konrad3/王位1138-1152)、フリードリヒ1世・バルバロッサ(Friedrich 1 Barbarossa /位1155-1190)らが増・改築させたものです。その前庭の小屋には深さ約50メートルの井戸(最後の画像/このように、灯がともされた燭台を下ろすと深さが実感できます)があり、今でも底から水が湧き出ています。



ペグニッツ川の風景/Pegnitz


ペグニッツ川の上に建つ「聖霊院」(Heilig Geist/帝国の代官グロース(Gross)が寄進した施設)の風景です。この建物は14世紀に社会福祉施設(老人・貧困者などのための)として建てられたものですが、今も養老院として使われています。ペグニッツ川は全長115kmで、バイエルン州フランケン地方を流れる川で、ニュルンベルク市街はこの川を谷とする緩やかな丘の形で広がっています。



ローレンツ教会/St.Lorenz Kirche


二つの塔を持つ、ニュルンベルクで最大規模の壮麗なプロテスタント教会です。その建築の開始は1270年頃ですが、長堂・側廊などの基本的な部分は1350年頃に完成しており、塔ができたのは1400年頃とされています。



聖ゼバルドウス教会/St.Sebaldus Kirche


その建築開始(後期ロマネスク様式)は1230年頃で、ゴシック様式の側廊は1310年に完成した教会ですが、今はプロテスタント教会です。1361〜79年にはゴシック中期様式のホール式内陣が造られています。聖セバルドウスは、1070年以前にニュルンベルクで没したとされる聖人で、その遺骨が銀の容器に入れられ保管されています。



聖母教会/Frauenkirche


1352〜1358年に神聖ローマ皇帝カール4世が造ったカトリック教会です。この建物は、フランケン地方で最初の後期ゴシック様式のホール式教会です。ホール式教会とはバジリカ式教会と対照的に身廊と側廊の天井高をほぼ同じにしてホールのような印象を与えるゴシックを代表する教会建築様式です。


この聖母教会には宮廷教会としての役割があり、皇帝がニュルンベルクを訪れた時には、ここで「帝権の表章」(既述の神聖ローマ皇帝の王冠ほか)が一般へ開示されました。有名な「仕掛け時計」は、『黄金勅書』の公布を記念して1506年に取り付けられたものです。その仕掛けは、毎日、12時に7人の選帝侯が王座に座るカール4世の回りを三周し、最後にカール4世が祝杯を上げるものです。



うるわしの泉/Schoener Brunnen


「うるわしの泉」は聖ローレンツ教会のすぐ近くにあります。高さが約19メートルで、教会の尖塔の形をしたこの「噴水」は14世紀後半に造られたものです。泉の周りをぐるりと取り囲む柵には真鍮の輪が取り付けられており、この輪を回す人には幸運が訪れるとされています。また、この噴水の周囲には、ピタゴラスソクラテスキケロアリストテレス・マルコ・ヨハネ・7選帝侯・カール大帝などの像が取り付けられています。



ゲルマン民族博物館/Germanisches Nationalmuseum、http://www.gnm.de/index_en.html
http://hvanilla.web.infoseek.co.jp/nuernberg/nuernberg5.htmlより


この博物館は、1852年(1806年にナポレオンによって主権を剥奪されバイエルン王国編入されてしまった時代)にドイツの歴史・芸術・文化の研究を行う中央機関として設立されました。ドイツ語圏内の“ボランティア会員制で運営”されており、<その時々の政治権力からは厳正に独立すること>という原則が掲げられています。このように<冷静でヒューマンな観点>は、靖国問題などで頭に血が上っている“美しい国”の多くの“ヤマト民族”は見習うべきだと思われます。


この博物館の建物の前身は旧カルトイザー修道院(Kartaeuser Kloster)であり、それは14世紀に建てられたその修道院の建造物と15世紀の回廊から成っています。先史時代から現代までのゲルマン民族にかかわる展示内容(コレクション点数は約120万点)は多岐にわたり、世界最古の地球儀(1491〜1492)、デュラー、シュトース、リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider/ca1460‐1531/ビュルツブルグで活躍した彫刻家/木彫でドイツ彫刻史を代表する存在)などの作品も多数展示されており、“ゲルマン民族の中核を担うドイツ語圏”で最大の民族史・文化史・芸術史博物館です。


<注>ゲルマン民族の中核を担うドイツ語圏


・・・現代のヨーロッパ史(ヨーロッパの人々一般)の常識では、多かれ少なかれゲルマン民族の血はヨーロッパ中(イギリス・フランス・スペイン・イタリアなど)の凡ゆる国民の血と混じり合っている。


・・・例えば、フランスとドイツの歴史はメロヴィング朝フランク王国を共有しており(我われ“ヤマト民族”の常識に反して、ガロ・ロマンス語ケルト語+口語ラテン語)から派生したフランス語を話すフランス人の血にはゲルマン民族の血がかなり濃く流れている)、国家的なフレームと言語の違いが目立ち始めるのはカロリング朝フランク王国(この頃からラテン化、つまりフランス化の傾向が強くなる)辺りからである。


・・・そして、カロリング朝が断絶する頃から“ゲルマン民族の中核を担うドイツ語圏”に住む人々、つまりドイツ人としての意識が次第に形成されてきた訳である。因みに、下記の名著(★)は、この立場を詳細に実証しつつ書かれている。


★アレクサンダー・アブッシュ著、道家忠道・成瀬 治共訳『ドイツ、歴史の反省』(筑摩書房


★ヘルベルト・ヘルビック著、石川 武・成瀬 治共訳『ヨーロッパの形成、中世史の基本的諸問題』(岩波書店



フランケン・シュヴァーベン地方のドイツ・ルネサンス


15〜16世紀にかけての数十年間に都市貴族層・農民層などの反乱や闘争が特に多く繰り返されたフランケン・シュヴァーベン地方を中心にドイツ・ルネサンスの動きが台頭し、その中心地となったのがニュルンベルクです。これは、決して偶然の現象ではなく、騎士・市民・農民らの封建世界を破壊しようとする闘い、古い社会の凡ゆる階層に及ぶ精神的・文化的・政治的観念の進化、あるいはイタリア文化など新しい空気への憧れなどが多くの芸術家・知識人の創造的・知的・芸術的・文化的能力を刺激した結果です。


なお、シュヴァーベン地方はバーデン=ヴュルテンベルク州(ドイツ南西部で、東はバイエルン州、北はヘッセン州、西はラインラント=プファルツ州とフランスのアルザス地方、南はスイスに隣接する)の中・南部からバイエルン州南西部辺りを指す漠然とした概念(中心都市はアウグスブルク(Augusburg))で、現在のフランケン地方バイエルン州北部の地名(中心都市はニュルンベルクヴュルツブルク(Wuerzburg))です。


フランケンの名の起こりはフランク族に因みますが、直接的な意味でフランク族とは関係がありません。ただ、フランケン・シュヴァーベン辺りは、5世紀の終わり頃に“一ローマ将軍”(アエギディウス(Aegidius/?‐464))がフランク族の協力を得て他のゲルマン諸民族を抑えつつ、現在の北フランスのソワソン(Soisson/パリ盆地北東部でパリから約100km)を中心としてライン川・ロアール川間の広い地域を勢力圏とした頃まで遡る、ドイツで最も古い歴史を誇る地域です。そして、486年に征服者クローヴィス1世(Clovis 1/位481-511)がソワソンを中心にメロヴィング朝フランク王国を建国したことは周知のとおりです。



ドイツ・ルネサンスの精華、デューラー


一枚目の画像の右奥に見えるのがカイザーブルクの近くにある「デューラーの家」(Albrecht Duerer Haus)です。この建物自体は1420年頃に建てられていますが、デューラーは晩年(1509-1528)をここで過ごしました。


ドイツ・ルネサンス期最大の画家とされるアルブレヒト・デューラーは、当時のドイツでは最も人文主義的な雰囲気に満ちたニュルンベルク (Nuernberg/ドイツ南部、バイエルン州にある現在はドイツ第二の都市)で金細工師の子として生まれています。


1495年、第一回目のイタリア旅行では特にマンテーニャ(Andrea Mantegna/1431-1506/パドヴァ派の巨匠、イタリア・ルネサンス彫刻の巨匠ドナテッロの影響を受けた北イタリア初期ルネサンスの最も優れた画家の一人/意識的な遠近法の駆使と人間の肉体の解剖学的な構成を詳細に描写した)の芸術に感銘しました(なお、デューラーの詳細については下記の記事★を参照乞う)。


2007-05-31付toxandoriaの日記/暴力的本性を直視する『平和主義』の意義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531


2007-06-01付toxandoriaの日記/暴力的本性を露にした“美しい国”の横暴、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601


★2007-06-02付toxandoriaの日記/政治的な衛生観念を欠く“美しい国”の暴政、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070602




デューラーランダウアー祭壇画/聖三位一体の礼拝』 Albrecht Duerer(1471-1528) 「The Adoration of the Trinity」 1511 Oil on lindenwood  135 x 123.4 cm Kunsthistorisches  Museum 、 Vienna


・・・デューラーは、この作品で13世紀末頃から復活したアウグスティヌスの『神の国』の教説を描いたとされています。つまり、『神の国』では最後の審判の後に地上の国々の正しき人々だけが神の国へ迎えられると説いています。デューラーは“ドナテッロらの影響による数学的・科学的な調和と正確な遠近法による精緻な対象の描写”と“ヴェネチア派の影響による聖なる静謐と華麗を伴う美しい色彩表現”という二つの「イタリアへの憧憬」を持っていましたが、この『ランダウアー祭壇画』は後者の代表的な作品だとされています。


・・・イラク戦争の開戦でウソを吐き、目前に迫る地球環境の危機を尻目にハイリゲン・サミットで温暖化ガス削減目標の設定を渋る米ブッシュ大統領(その環境政策は米国内で大きな批判を浴びせられている)や、自らの外交ブレーン・岡崎久彦氏の主張「20世紀は世界が何千・何百万人を殺戮した人権侵害が当たり前の時代だったので日本の慰安婦問題などチッポケでくだらない問題だ!」という異様な考えを黙認する日本の安倍首相などは、さぞかし『神の国』の住民権を得ることは難しいと思われます(関連して、下記の記事★も参照乞う)。


★2007-06-04付toxandoriaの日記/美しい国の恥ずかしすぎる恥さらし、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070604



ニュルンベルク裁判の現代的意味/Nuerrnberg trials


ニュルンベルク裁判は、第二次大戦と、それにかかわるる特定の行為に対してナチス・ドイツの指導者たちの責任を追及するために行われた裁判です。その正式名称は「国際軍事裁判」であり、日本の指導者たちの同種の責任を追及した「東京裁判」と並び国際法上いくつかの重要な問題を提起しました。


この裁判は、人類史上で初めて侵略戦争を犯罪として国際法によって裁こうとする意欲的な試みでしたが、敗戦国の不正と戦勝国の正義を誇示する政治的な動機もあったため、検察官・裁判官などのすべてが戦勝国側の代表者で占められるという問題があります。また、裁判所の適用すべき法の内容が戦勝国間の協定により事前に定められていたため手続上で中立・公正に欠けるのではないかとの指摘もあります。


ただ、連合国がドイツ側の責任追及の手段として、一部で主張されたような指導者たちの即決処刑を避けて裁判を選んだことは評価されます。つまり、これによって被告(ナチスドイツの戦争犯罪人)たちも弁明の機会が与えられ、この法廷で主張されたことや膨大な証拠資料を客観的に分析する可能性を後世に残すという意味では公正が確保されたと見做すことが可能です。


そして、何よりも重要なことは、これが契機となりその後の国連中心による国際紛争回避の知恵が再確認されたということです。考えてみれば、残念ながら人間の歴史は99%が戦争と殺戮・残虐行為の歴史です。これを無視することは不可能です。


しかし、だからと言って、安倍首相の外交ブレーン・岡崎久彦氏の主張のような「20世紀は世界が何千・何百万人を殺戮した人権侵害が当たり前の時代だったので、日本の慰安婦問題などチッポケでくだらぬ問題だ!」(出典:6/6付・朝日新聞、記事)という恐ろしく傲慢な考えは許されません。こんな考えが世界から受け入れられるはずはなく、恐らくこれに頷くのはブッシュだけでしょう。


今、我われ日本人にとって大切なのは、安倍首相の私的主要ブレーン「価値観外交を推進する議員の会」(http://www.furuya-keiji.jp/images/19_05_17%BC%F1%B0%D5%BD%F1.pdf)が主張する“美しい国”のような「外見的立憲君主型で軍事国体論的・標本化石的なアナクロニズム」に拘泥することではなく、戦後のドイツが過ちを犯した近代史への真摯な反省を自覚したように、自らの戦争経験への十分な反省に立った上で、まず自国民の主権と人権へ十分に配慮しつつ(渦中の年金記録5000万件以上の消滅、政・官・民癒着の官製談合・ネコババ天下り&渡り・寄生型世襲議員などによる税金ドロボー等の国家的犯罪・詐欺行為は言語道断!)、世界中の人々から受け入れられる国際的理解への努力の意義を再認識し、国連中心主義による戦争抑止の努力と地球環境問題解決へ積極的に取り組むことです(参照、『美しい国の恥ずかしすぎる恥さらし、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070604』)。


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