toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[ミュンヘン編]


ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より


ドイツの河川図(ウイキペディア)より


[南部ドイツの略地図]

望田幸男著『ドイツの歴史と文化の旅』(ミネルヴァ書房)より


右下のロマンチック街道とアルペン街道に挟まれた部分がミュンヘンのロケーション。ミュンヘンから約150km南東にフュッセン(Fuessen/ロマンチック街道の終点で、ノイシュヴァンシュタイン城、ホーエンシュヴァンガウ城、ヴィース教会への拠点となる町)があります。


[ミュンへンの歴史](概観)


ドイツの南東部にあるバイエルン州の人口が約133万人の州都(表記の“南部ドイツの略地図”を参照)で、ベルリン特別市、ハンブルク特別市に次ぐドイツで三番目の大都市(特別市を除く都市では最大)です。また、南ドイツの経済・文化の一大中心地であり、国際空港をもつドイツ最大の観光都市でもあります。南のアルプス山地と北のドナウ川の間に広がる高原地帯のほぼ中央に位置するミュンヘンは、アルプスに発するイーザル川(Isar/バイエルン州を流れるドナウ川の支流)が市を南南西から北北東へと貫流しており、砂礫でできた台地上に発達し、その南方には村々が点在する森林が広がっています。また、ミュンヘンの名は、8世紀に初めて集落の基をつくった修道士たちを意味するMunichen(小さな僧)に由来するとされています。


12世紀にバイエルン大公ハインリヒ獅子公(Heinrich der Loewe/位1156-1180/ヴェルフェン(Welf家=Welfen)で最期のバイエルン公 )が、この地に市場を開き、貨幣鋳造権と関税(塩税など)徴収権を得てからミュンヘンの都市としての歴史が始まりました。それは、ハインリヒ獅子公が、バート・ライヘンハル(Bad Reichenhall)からアウグスブルク(Augsburg)に通ずる『塩の道』のイーザル川にかかる橋をフライジング司教支配下(Frising/ミュンヘン近郊)のフェーリング(Fehling/ミュンヘン近郊)から5km上流のこの地に実力で移したことに始まります。やがて、ハインリヒ獅子公のあとのミュンヘンは、バイエルを支配するヴィッテルスバッハ家の居住地(Wittelsbach/オットー1世(Otto 1/位1180-1183)から1918年まで)となります。


中世におけるミュンヘンの市政はバイエルン大公が任命する代官と市参事会の合議で行われていましたが、市参事会の中でも決定的な力を持っていたのは『内部参事会』で、そのメンバーは富裕な“大商人”と大土地所有者である“都市貴族”によって構成されていました。やがて、これら都市貴族たちは周辺の村々で土地を集約するようになり、彼らの中には居城を購入して、その城主となる者も出てきました。これに対し、市政の中心から排除された手工業者などの一般市民は、1397(or1398)年に『300人参事会』という組織を樹立して数年間にわたり市政を支配しましたが、1403年には大公や都市貴族らに敗北してしまいます。


こうして、1403年にはバイエルン大公の下で都市貴族と一般市民の間に妥協が成立しますが、その頃からミュンヘンは中世市民文化の高揚期を迎えることになり、フラウエン教会(Frauenkirche)、旧市庁舎(Altes Rathaus)などの大規模な建築物が建設されました。やがて、1327年の大火を経てからは、藁や板ぶきの家から煉瓦造りまたは石造りの家への転換がしだいに進みますが、おおよそ15〜16世紀には大火に代わってペストが何度かミュンヘンを襲っています。また、これらの災難(火事やペスト)がミュンヘンを襲ったときには、しばしばユダヤ人たちが襲撃されており、1442年のポグロム(Pogrom/原義はロシア語で他民族への迫害/主にロシア、東欧中心で行われたユダヤ人迫害を指す)を機としてユダヤ人は市から閉め出されてしまいます。


このような訳でバイエルン公国の首都として、また市民活動の精華である商業・文化の中心地として繁栄したミュンへンは、16世紀の宗教改革期にはカトリック教会側の勢力拠点となり、特にイエズス会(Societas Iesu/イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola/1491-1556)らが中心となり、パリ郊外のモンマルトルの丘の諸殉教者聖堂(現在のサクレ・クール聖堂(Basilique du Sacre Coeur)の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)で創設された反宗教改革の中心組織)のドイツにおける活動拠点となります。


イエズス会の拠点となったミュンヘンは、17世紀の初めころから『ドイツのローマ』と呼ばれるようになりますが、三十年戦争(1618-48)では、スウェーデン国王グスタフ・2世アドルフ(Gustav 2 Adolf/位1611-1632/スウェーデン最盛期の王)に占領されます。18世紀のスペイン継承戦争(1701-14)ではオーストリアに占領され、マクシミリアン2世エマヌエル(Maximilian 2 Emanuel/位1679-1726)はフランスのルイ14世の下に逃れます。このため、以降のミュンヘンはフランスの影響を受け始めます。1805年、ミュンヘンに入ったナポレオン1世(Napol駮n Bonaparte/位1804-1814、1815)は、「アウステルリッツ(Austerlitz)の勝利」(チェコのAusterlitzでの三帝会戦、1805)の後に領地を拡大してバイエルン大公国を王国(1806-1918)にします。


これより先の1791年には、ミュンヘンの要塞施設と4.8kmに及ぶ市壁の撤去が開始されました。それは、王宮の北東に連なるイーザル川左岸低地の『イギリス庭園』の開設(1789‐92)とともに、14世紀以来の市域の枠を越えて進むミュンヘンの新しい発展の幕明けです。1806年にバイエルン王国の首都となったミュンヘンには、フライジングの司教座に代わって大司教座が置かれることとなり、1826年には大学も誘致(1412年創設のインゴルシュタット大学(Ingolstadt/ミュンヘンの75km北)が移転)されました。


従って、これ以降のミュンヘンはドイツだけでなくヨーロッパの文化と学問の中心地の一つとなります。また、この時期には初代バイエルン国王マクシミリアン1世(Maximilian 1/位1806-1825)と次のルートヴィヒ1世(Ludwig 1/位1825-1848)のもとで、オペラのための宮廷・国民劇場、ヴィッテルスバッハ家歴代の王たちが収集した絵画を収めるアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)、古典古代の彫刻を蔵するグリュプトテーク(Glyptothek)などの大規模建造物の建設が進められます。そして、王宮から北に延びる大学や国立図書館の建ち並ぶ『ルートヴィヒ通り』は、ミュンヘンを“第二のパリ”と呼ばしめる象徴的な市街地を形成しています。


ところで、1839(1840)年のミュンヘンアウグスブルク間の鉄道の開通いらいバイエルン王国・鉄道網の中心となったミュンヘンは、南ドイツ最大の国際物資の集散地へと発展(主要貿易品=穀物・木材・家畜・果物・野菜など)します。それに伴い銀行や保険会社の発達も著しく、ミュンヘンのビール産業が世界的名声を博すようになるのはこの頃からです(周知のとおり、札幌とミュンヘンは緯度とビールの共通項で姉妹都市交流を行っています/http://sarvo.at.infoseek.co.jp/j-stammtisch.htm)。しかし、その後のミュンヘンでは大工業の発展がそれほどみられず陶磁器・家具などの工芸・印刷・既製服など宮廷都市の伝統に根ざした良品質の多彩な中小企業が発達を遂げています。


三月革命(1848)でルートヴィヒ1世が退位し、その後を受けたルートヴィヒ2世は狂気のため自殺 しますが、ルートヴィヒ1世の善政と鉄道開通などによって、ミュンヘンは南ドイツで随一の都市に成長しました。しかし、1918年には全ドイツ革命に先駆けミュンヘンで革命が起こり、バイエルンの王国体制は倒されてしまいます。1923年には「ヒトラー一揆」(詳細は後述)が起こり、ヒトラーが政権についたドイツ第三帝国の下で、1935年にミュンヘンは「ナチス運動の首都」と宣言されてしまいます。また、「ズデーテン(Sudetenland)問題」(ドイツ人が多いチェコ・ズデ-テン地方併合の問題/1945年にチェコ領土へ復帰)に関する1938年9月の英独仏伊の四国協定はここミュンへンで調印されました。


19世紀末〜20世紀初頭のミュンヘンでは、カンディンスキー(Vassilii Kandinskii/1866-1964)らによる表現主義芸術家のグループ『青騎士』(der Blaue Reiter)、あるいは『青春様式』(Jugendstil/フランス、ベルギーのアール・ヌーヴォーに対応するドイツ圏の世紀末芸術運動)の芸術運動、あるいは、L. トーマ(Ludeig Thoma/1867-1921)の風刺雑誌『ジンプリツィシムス』(Simplicissimus/http://en.wikipedia.org/wiki/Simplicissimus)などが一世を風靡します。カフェーには文士や芸術家志望の若者、ボヘミアンらがたむろしており、オーストリア(Braunau am Inn/参照、下記画像▲)出身のたヒトラーもその一人でした。


ヒトラーの生誕地、オーストリアのBraunau am Innの街並み(ウイキメディアより)


第一次大戦とともにミュンヘンには大工場が設立されますが、戦争の長期化に疲れ食糧不足やインフレに苦しんだ労働者、兵士、職人、サラリーマン、農民及び社会主義的な文士たちの合作の中からミュンヘンでの革命運動が活発化します。しかし、『レーテ運動』(Raetebewegung/参照、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%9D%A9%E5%91%BD)の崩壊後、バイエルンでは右翼勢力が強力となり、1923年11月にはヒトラーの『ミュンヘン一揆』(詳細後述)が起こります。このため、民主的・世界都市的なベルリンに対してミュンヘンの”文化保守的役割”が強調されるようになりミュンヘンは地方都市の性格を強めました。


1940年から45年までの計71回にも及ぶ連合軍による空襲(空爆)の結果、ミュンヘンの半分近く(旧市街では90%)が破壊されました。しかし、その歴史的建造物の多くは後に見事に再建されています。やがて、EEC(European Economic Community/欧州共同体/1957年に設立された欧州諸共同体(European Communities)のうち最も重要なヨーロッパの国家連合体/1992年のマーストリヒト条約により、これは欧州連合EU)へ発展) の成立によって南ヨーロッパ・東ヨーロッパへの門としてその役割が高まったこともあって、ミュンヘンバイエルンで最大の工業都市へと躍進することになります。その主な産業は電機・機械・精密機器・自動車・航空機・光学・化学などです。なお、1972年にはオリンピックが開催され、それを機に地下鉄 が開通しています。


[ミュンヘン中央部の地図](中心地がマリエン広場)
http://tabimap.com/country/area_euro.htmlより


[マリエン広場](Marienplatz)

俯瞰画像はウイキメディアより


この一帯は、19世紀に新市庁舎(中央部の下)が建てられマリエン広場が完成すると文字通り街の中心となったところです。それより前から、この地域は塩・ワイン・穀物・魚などの食料品が毎日売られる市場でしたが、1801年には聖ペーター教会(St. Peterkirche)の裏手(南側)に現在のヴィクトアーリエン市場(Viktualienmarkt/食料品市場/市民生活が肌で感じらるマーケット)が出来たため、このマリエン広場はミュンヘンのシンボル的な中心地となります。


[マリエン広場の聖母塔]


1638年には“Mariensaele(マリエン塔=聖母塔)”(高さ85mの聖母塔)が広場の中央に完成しマリエン広場と呼ばれるようになりました。この大理石で造られたマリエン(聖母)塔の頂上には金色のマリア像が立っています。


[旧市庁舎](Altes Rathaus/旧市庁舎/おもちゃ博物館/Spielzeugmuseum )


ゴシック様式の旧市庁舎は1417年に建てられました。しかし、第二次世界大戦で破壊されたため、今の姿は1953-1958年に再建されたもので、“おもちゃ博物館”として使われています。


[新市庁舎](Neues Rathaus)


[ミュンヘン市の都市紋章]
http://isar-athen.de/sanpo0.htmlより


マリエン広場の正面に聳える新市庁舎は、バイエルン国王ルードヴィヒ2世(Ludwig 2/位1864-1886)が新ゴシック様式で建てたものです。高さが85mある中央部(塔)には、32体の等身大の人形が踊る仕掛時計があり、これはドイツで最大規模(ヨーロッパでは5番目の大きさ)を誇っています。


仕掛時計の上部は1568年のヴィルヘルム5世(Wilhelm 5/位1579-1597)の結婚式を、下段は桶屋の踊りを表現しています。この仕掛時計の人形のすべてが動き、24種類の音楽が流れるようになっています。そして、夜の9時になると仕掛時計の左側の出窓からホルンを鳴らす夜の見張りが、右側からはミュンヘン小僧が登場する仕掛けになっています。


この塔の頂上ではMuenchenの名の起こりとされるMuenichen(小さな修道僧/ミュンヘン市・紋章の中心)がミュンヘン市街を見渡し、見守っています。


[フラウエン(聖母)教会](Frauenkirche)


この画像は、http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun/report_2003/bayern.htmlより


この画像は、http://pics.livedoor.com/u/k1_wa_k0/875014より


1468〜1488年に後期ゴシック様式で建てられたフラウエン教会は、16世紀に造られた2本の玉ネギ型の屋根を持つ約100mの塔がシンボルとなっています。左右の側廊には小さな礼拝堂がいくつもあり、聳え立つフラウエン教会の塔に上るとミュンヘン市街を展望できます。 この教会の中には、バイエルン王ルードヴィヒ2世の墓碑があります。


[ティアティーナ教会](Theatinerkieche)
[


ティアティーナ教会は1663〜1688年に造られたティアティノ修道会付属の教会ですが、ドイツにおける最高のバロック様式教会とされています。


[聖ペーター教会](St.Peterkirche)
この画像は、http://blog.so-net.ne.jp/munchen-papa/archive/200603より


マリエン・プラッツ駅の南側にある聖ペーター教会は、11世紀頃から存在するミュンヘンで最古の教会です。11世紀いらい幾度となく改築されてきたため、その建築様式はロマネスク、ゴシック、バロックが混在しています。


レジデンツ(Residenz)


ミュンヘンレジデンツは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の本宮殿で、1385年に建設が始まり、以後に長い時間をかけて増改築を繰り返してきたためかなり複雑な構造をしています。王宮・大広間などの本体部分は16〜19世紀にかけて造られたものです。


正面に向かい右側が宝物館(Schatkammer)、左側が博物館(Residenzmuseum)となっています。宝物館は10室の規模で、約1.250個のバイエルン王家の宝物を展示しています。


[バイエルン国立オペラ劇場](Bayerische Staatsoper、http://www.nbs.or.jp/stages/bayerische/index.html


ミュンヒェンでオペラが初めて上演されのは1625年のことで、それはバイエルン選帝侯マクシミリアン一世 (Maximilian 1/位1623-1651) の時代です。また、選帝侯フェルディナンド・マリア(Ferdinand Maria/位1651- 1679) は、レジデンツ内にヘルクレスザール(Herkulessaal)と名づけた劇場を造り、ミュンヘンで初めてのイタリア・オペラの上演が行われました。このホールは現在コンツェルトザールとも呼ばれ、室内楽の演奏で使われています。


その後、ミュンヘンのオペラ劇場は幾多の変遷を経ますが、1865年、バイエルン国王ルードヴィヒ2世(Lidwig 2/位1864-1886)によって現在の州立劇場の前身であるアクチエン-フォルクステアター (Actien-Volksteater) が開場します。しかし、この州立劇場は1944年の爆撃で破壊され、1958年にレジデンツ内の現在の場所に復元されました。


[ニンフェンブルク城](Schloss Nyumphenburg)

これら三つの画像はウイキメディアより



ニンフェンブルグ城は、ヴィッテルスバッハ家の<バロック様式の夏の離宮>ですが『妖精の城』という意味があります。宮殿・本館内の『石の間』には、女神フローラが描かれた吹き抜けの天井があります。バイエルン国王ルードヴィヒ2世は、ここで育っています。


この城は、選帝侯フェルディナント・マリアが1664年に妃アーデルハイト(Adelheid/高貴の意味)の為に造営した別荘が始まりで、19世紀までのロココ様式による増改築およびロココ庭園の造営によって今の姿となりました。戦争による被害を免れたため、昔のままの壮麗な姿を見せています。


ホーフブロイハウス(Hofbraeuhaus)


1589年に創設された王立ビール醸造所がルーツのビアホールで、ミュンヘンの観光スポットとしても世界的に知れ渡っています。このため世界各国からのお客が集まり、いつも1,200席の大ホールが満員状態です。


2階は250席のレストラン、3階はショーホールとなっています。なお、このビアホールでヒトラーが集会を開き、演説をしたことはありますが「ミュンヘン一揆」を起こす契機となった演説が行われたビアホールは、ここではなく、後述のとおりBuergerbraeukellerです。


ミュンヘンには、この他にレーヴェンブロイケラ−(Loewenbraeukeller)、ヒネージッシャー・トウルム(Chinesischer Turm)、アウグスティーナーケラー(Augustinerkeller)などの有名なビアホールがあります。


[近代ミュンヘン史のトピックス]


■初期ナチスの拠点・ミュンヘン(以下の二項目の記述▲は、『2007-04-20・toxandoriaの日記/妄想&迷想、ヒトラー的なものについて 』の再録へ加筆したもの)


ヒトラーミュンヘン一揆


1923年11月8〜9日、政権奪取をめざしてヒトラーミュンヘンで起こした一揆のことです。武装した600名の突撃隊員とともにヒトラーミュンヘンのビアホール(ビュールゲルブロイケラー/Buergerbraeukeller/このビアホールの建物は現存しない)に突入し、そこで演説中のバイエルン州総監グスタフ・フォン・カールとその側近たちを捕え、 ルーデンドルフ将軍をともなって、グスタフ・フォン・カールの名で国民革命を宣言し、ドイツの新政府樹立を宣言しました。


結局、この一揆(クーデタ)は失敗し、ナチス党は解散させられたうえヒトラーは裁判にかけられることとなり、1924年4月に5年の禁固刑を言い渡されます。しかし、このような経緯からミュンヘンナチス党の出発地とされています。ヒトラーは、ランツベルク(Landsberg am Lech/ミュンヘンの西方へ約60kmでロマンチック街道のレヒ川沿いにある)の要塞で禁錮刑に処せられますが、この間に口述で執筆したのが著書『わが闘争』(Mein Kampf)です。


この著書の中心にはユダヤ人排斥とに東ヨーロッパにおけるドイツ民族の生存圏樹立という二つの目標が設定されており、また、歴史は人種間の生存闘争であるとし、それは強者による弱者の征服プロセスだとみなす特異な社会ダーウィニズム(一種の格差拡大政策!)の世界観に拠っています。この本は、1933年1月のヒトラー政権成立までにドイツ国内でほぼ28万部が刊行され、同年末には150万部、第2次世界大戦が勃発した1939年には500万部、1943年には984万部が売れたとされています。


ヒトラーファシズムについて


ファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」のことです(参照/ 下記画像)。ここから、ファシズムの特徴は過去における国家の栄光と民族の誇りのようなものを過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化する、つまり一定の目標に到達した「美しい国」を熱烈に希求する、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念であることが理解できます。注意すべきは、いつの時代でもこのような意味での情念は人間であれば誰でもが普通に持っているという現実です。



また、ファシズム (fascism)という言葉が生まれたのはムッソ リーニを指導者とする「イタリア・ファシズム運動」の台頭によるものです。ヒトラーのナチズムは、このイタリア・ファシズム運動の刺激を受けたと考えられます。しかし、ムッソリーニファシズム運動にはナチズムのような余りにも激しすぎる人種差別主義は見られません。それどころか、1930年代の初め(ドイツがジュネーヴ軍縮会議と国際連盟を脱退した)ころにドイツを訪ねたムッソリーニは“ドイツは狂った人種差別主義者が作った収容所だ”と言ったとされています。


共和制ローマの統一シンボルfasces
http://www.legionxxiv.org/fasces%20page/より


■2007年3月22日、「ユダヤ人博物館・ミュンへン」(Judisches Museum Munchen)がオープン
http://www.juedisches-museum.muenchen.deより


2007年3月22日、ここミュンヘンユダヤ人博物館がオープンしています。場所は市内マリエン広場から近い、ユダヤ人コミュニティー・センターと新シナゴーグに挟まれた所(St. Jakobs Platz)です。総面積900㎡の館内にはミュンヘンに居住してきたユダヤ人の歴史や文化に因んだ映像や作品が数々展示されています。


中世から現代に至るまでの彼らユダヤ人たちの歴史は、中世の繁栄とポグロムの悪夢、そしてナチによる迫害の悲惨、やがて来る戦後復興の時代・・・と波瀾に富んでいます。ベルリンの「ホロコースト記念碑」(ヨーロッパの虐殺されたユダ ヤ人のための記念碑/Denkmal fuer ermordete Juden Europas/参照、2007.4.23・toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編2]、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070423)に匹敵する、「ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の歴史」への今も続くドイツ人の深い反省の礎(いしずえ)の一つです。


[ダッハウ強制収容所]( KZ-Gedenkstaette Dachau)=日常のなかにある“普通の美しい異常”に気づくことの重要性
http://www.kk.iij4u.or.jp/~anne/info-east-south-german.htmより


ダッハウ強制収容所ミュンヘンから南東へ約20km)は、1933年3月22日に軍需工場跡地に建てられた「ドイツ最初の強制収容所」です。ここには、ナチス・ドイツにとって望ましくないと見なされた政治犯ユダヤ人、聖職者などが国家の敵として隔離収容されました。


この強制収容所には、1945年までに合計で20万人以上が収容され、少なくとも約3万人以上の被収容者がこのダッハウで亡くなっています。なお、ヒトラーは、約1,500万人のユダヤ人の絶滅を目指す「最終解決目標」の達成のため占領地ポーランドに複数の「絶滅収容所」を建設したことは周知のとおりです。


ドイツ本国と南東ヨーロッパをふくむ占領地域から鉄道で移送されてきたユダヤ人の多くは、これらの収容所のガス室で殺害され、その数は420〜460万人に達するとされています。ここで忘れてならないのは、これら一連の悲惨な出来事が<異常性>からのみ生まれたのではなく、これらの悲惨な出来事には、ごく<普通の人々>が自分の仕事の延長としてかかわっていたという現実があることです。そして、この点については戦後ドイツ政府とドイツ国民が深い反省を続けてきており、今もその反省の努力は終わっていません。


一方、我が日本は『米軍による原子爆弾の日本への投下はしょうがなかった』(国際司法裁判所は1996年に「核兵器による威嚇とその使用は一般的に国際法に違反する」という勧告的意見をまとめている。←参照、東京新聞・社説、http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2007070202028890.html)、あるいは『女性は子作り機械だ』などの余りにも非人権的で不見識な暴言を吐き続ける防衛大臣・厚労大臣らが未だに失職もせず、『美しい国のための戦後レジームからの脱却』を掲げる総理大臣によって、のうのうと無罪放免され続けているという“異常な有様”となっています。どうやら、今の“この美しい国”では、一般の日本国民の人権よりも“悪辣な魂胆の大臣諸閣下の人権の方が上等だ”ということになっているようです。これは、まことに<驚くべき美しい国の民主主義の姿>です。


従って、いま我われ日本人は、ドイツの元外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー(Hans-Dietrich Genscher)が好んだとされるトーマ・スマン(Paul Thomas Mann/1875-955)の『我われはドイツのヨーロッパではなく、ヨーロッパの(そして世界の)ドイツを欲する』という言葉を想起すべきです。それは、いつの時代であっても、一国を代表する政治権力者であればこそ、そのような立場の人々は、より広い意味での人間性と社会および一般市民に対する責務として、普遍的人権への配慮と健全な倫理観を必死で保持すべきであり、決して一部の身内や仲間たち、あるいは少数の閉鎖的で妖しげな徒党集団(狂信カルト集団・暴力団・ヤクザ・ゴロツキおよび特定企業など<利害と集票>への関心のみで結集したグループ)の利益だけを優先してはならない、という警告です


そして、我われ一般国民は、“美しい国”や“戦後レジームからの脱却”のような耳障りが良いだけで意味不明なコトバに惑わされることなく、“あの<小泉クーデタ劇場>が「三権分立の原則」を無視して蒔き散らした『無数の子ダネ』の中に「外見的立憲君主制」が仕込まれていたこと、そして、今やその『小泉クーデタ劇場の外見的立憲君主制の子ダネ』が、妖しく美しい<厚化粧の安倍劇場の子宮>に着床した”という流れの中で起こりつつある<一連の異常な現実>を恐れずに直視すべき時です(参照、下の関連記事▲)。それは、決して今からでも遅くはないのです。


▲2007-06-27 “美しい世襲民主主義”に潜むヤクザ政治の本性 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070627


▲2007-06-25 「美しい国のシナリオ」に透けて見える<異常な世襲民主主義> 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070625


▲2007-06-19 増殖する「寄生&芸能政治家」と縮小する「日本国民の権利」 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070619


▲2007-06-14 “現実のドイツ”が見えない“美しい日本”の悲惨、 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070614


[芸術の都、ミュンヘン]


ヴィッテルスバッハ家の王宮(Residenz)は世俗建築の代表作であり、この王宮を中心とした施設群は長年にわたり造営されてきた美術館・祝祭劇場などの一大複合建築群と見做すことができます。それらを大別すれば、17世紀初頭のマクシミリアン1世の時代に建造された宮殿や西側正面部などの末期ルネサンス様式の部分と、19世紀のルードヴィヒ1世(Lidwig 1/位1825-1848)の時代に造営された祝祭劇場などの擬古典主義様式の部分とからなっています。


絵画館であるアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)とノイエ・ピナコテーク(Neue Pinakothek)も、この一連の王家の収集品から始まったもので、その内容はヨーロッパ絵画の一大収蔵庫となっています。このほかにバイエルン国立博物館(Bayerisches Nationalmuseum、http://www.bayerisches-nationalmuseum.de/)、彫刻館グリュプトテーク(Glyptothek、http://www.antike-am-koenigsplatz.mwn.de/glyptothek/index.html)などの美術館・博物館があり、また、市立美術館(レ−ンバハハウス /Lenbachhaus、http://www.lenbachhaus.de/neu/index.htm)では、20世紀初頭にミュンヘンで活躍したカンディンスキーの作品を多数見ることができます。


(アルテ・ピナコテーク/旧絵画館/Alte Pinakothek、http://www.pinakothek.de/alte-pinakothek/information/oeffnungszeiten/oeffnungszeiten_en.php
この画像はウイキメディアより



デューラー『1500年の自画像』Albrecht Duerer(1471-1528)「Self-Portrait at 28」 1500 Oil on panel 67 x 49 cm Alte Pinakothek 、 Munich


・・・・この画像の詳細は、下の記事(▲)を参照してください。


2007-05-31・toxandoriaの日記/暴力的本性を直視する『平和主義』の意義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531


ケーニヒス広場(Koenigsplatz)に建つアルテ・ピナコテークの所蔵作品は、15〜18世紀の西欧絵画約2万点で、そのうち1,000余点が常時展示されています。バイエルン国王マクシミリアン1世が、それまで王宮や離宮にあった16世紀以来のバイエルン公の収集物を一堂に集め一般公開したことが、この美術館の始まりです。現在の建物は、ルートヴィヒ1世の命により1836年に造られたものです(創立時=バイエルン王立、現在=同州立)。


所蔵作品の中心を成すのは、デューラーらを中心とする15〜16世紀ドイツ絵画ですが、初期ネーデルラント絵画、ルーベンスをはじめとする17世紀フランドル・オランダ絵画、さらにはイタリア、スペイン、フランス絵画などがあります。第二次世界大戦空爆で建物が破損しましたが、1957年に修復が完成しています。


(ノイエ・ピナコテーク/新絵画館/Neue Pinakothek、http://www.pinakothek.de/neue-pinakothek/information/oeffnungszeiten/oeffnungszeiten.php
この画像はhttp://www.sparta.jp/file24.htmlより


アルテ・ピナコテークの向かい側に建つノイエ・ピナコテークは、アルテ・ピナコテークの開館後の1853年に現代絵画を収蔵するためバイエルン国王ルートヴィヒ1世によって創設された美術館ですが、アルテ・ピナコテークと同様に第二次世界大戦空爆で破損したため、現在の建物は1981年に再建されたものです。


18世紀半ばから20世紀の作品約5千点を収集しており、特にドイツ・ロマン派やナザレ派などのドイツ近代絵画、さらにモネ、セザンヌルノワールゴーギャンなど印象派以降の作品が充実しています。


[ミュンヘンの光景、ア・ラ・カルト]