toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[ガルミッシュ・パルテンキルヒェン編]


[ 副 題 ] 赤城・安部らアホ寄生虫の大ウソで世界に150年遅れる「美しい日本」


ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より


ドイツの河川図(ウイキペディア)より


[南部ドイツの略地図](ウイキペディアより)


・・・バイエルン州に属するガルミッシュ・パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)の位置は最下端にある赤丸で、ミュンヘンから南西へ約80km(直線距離)です。以下の(プロローグ)で触れるとおり、バイエルン州の西隣がドイツの立憲史上で重要な役割を担ったバーデン=ヴュルテンベルク州です。


(プロローグ)


わが国ではあまり意識されることがないようですが、米国のペリー提督が艦隊を率いて浦賀に来航して江戸幕府に開国を迫った時(1853/嘉永6)を35年ほど遡ったころの西南ドイツおよびバイエルンでは、国民主権による立憲主義の実現をめざす運動が活発化しており、バイエルン(Bayern)、バーデン(Baden/現在のバーデン=ヴュルテンベルク州の一部を構成)、ビュルテンベルク(Wuerttemberg/同前)などの旧ライン同盟諸国(Rheinbund/1806-13/ナポレオンがプロイセンオーストリアへの対抗勢力とするため西南ドイツの16領邦で組織させた/これで神聖ローマ帝国は崩壊する)では憲法が発布され議会が開設(それぞれ1818、1818、1819年に)されていました。


しかしながら、この時代のヨーロッパはオーストリアメッテルニヒ主導のウイーン体制(ウイーン会議=1814-15)下で「正統主義」(フランス革命前の諸国における絶対王政的支配関係を復活させようとする復古的理念)による「諸国均衡政策」(国際会議で戦争を回避する政策)が推進されていた時代です。ところが、既に、この頃はドイツ人たち自身の中からウイーン体制に対する根本的な疑問が湧き上っていた時代でもあったのです。このため、より過激な形で国民の政治参加を求める動きも現れ、その典型が「ブルシェンシャフト」(Burschenschaft/一般的には学生組合の意味)と呼ばれた学生たちの動きです。


彼らは、1817年10月に立憲主義国家としてのドイツ統一を求めヴァルトブルク城(Wartburg/ドイツ中央部のチューリンゲン州にあるルターゆかりの場所)に集結し宗教改革と解放戦争を記念して気勢を上げました。しかし、この動きを嫌い警戒したメッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich/1773-1859/オーストリアの宰相)は「カールスバート決議」(Karlsbader Beschluesse、1819/現在、Karlsbadはチェコボヘミア西部のカルロヴィ・ヴァリ/Karlovy Vary)で、これを徹底的に弾圧(マインツの捜査委員会による大学の出版活動への監視・弾圧など)しました。


以降の<「三月革命」(1848/フランスの二月革命の余波)→憲法制定ドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)による国民基本権の検討(制定)→オーストリアによる反動の時代(反革命の時代)→プロイセンドイツ帝国憲法の時代(オーストリアを排した小ドイツ的ドイツ帝国憲法=外見的立憲君主制=日本の明治憲法および爾後の太平洋戦争時代まで繋がる皇国史観と軍事国体論の形成へ影響)→ビスマルクドイツ統一第一次世界大戦(敗戦)→ワイマール共和国(同憲法の時代)→ヴェルサイユ条約体制→ナチス・ドイツ時代(第二次世界大戦の敗戦)→ナチスへの徹底反省とドイツ連邦共和国基本法の成立(1949)〜東西ドイツ統一(1990)>のプロセスに見られるとおり、その後の統一ドイツへの道がまことに険しいものであったことは周知のとおりです。


しかし、この余りにも過酷ともいえるドイツ近・現代史の流れの中で19世紀半ばという嚆矢の場所を占めるフランクフルト国民議会による「国民の基本的権利の制定」(1848年12月、公布)が、その直後に大反動の嵐に見舞われ遂にはその実現が雲散霧消したといいながらも、それが以後の「ワイマール共和国憲法」と現在の「ドイツ連邦共和国基本法」(Grundgesetz f・ die Bundesrepublik Deutschland)のルーツとなったという現実を見逃すことはできないようです。なぜならば、神聖ローマ帝国時代の多民族型国家統一という特異な歴史も踏まえつつ、その総体的な歴史から学び取ったドイツの人々の経験的な知恵が現代のEU欧州連合)の根本的理念部分へ流れ込んでいると看做すこともできるからです。


そして、今や、これはEUによるドイツ・モデル下での「地球環境問題への先進的な取り組み」、フランスにおける「サルコジの“市場原理主義”と“平等”の調和の実験?」(注:サルコジについては評価が割れているが、少なくとも人権と環境に真剣に対峙するという観点からすると、ドグマティックな歴史観を掲げて“成長による解決”を図ろうとするジレンマに嵌り、遂には深刻な再分配問題を放棄または先送りする“美しい日本政治”の無責任さとは次元が異なる)あるいは、アメリカにおけるクライメット・アクション・パートナーシップ(United States Climate Action Partnership: USCAP)による地球環境問題への新しい取り組みなどへ、無視できぬ大きな影響を与えつつあるように見えます(USCAPについては、7/8付NHK番組・BS1『地球特派員2007』、http://www.nhk.or.jp/bs/tokuhainを参照/なお、これらの論点については別途に記事を書く予定/とりあえず関連する視点として下の記事★を参照乞う)。


★2007-06-14付toxandoriaの日記/“現実のドイツ”が見えない“美しい日本”の悲惨、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070614


翻るに、目下のところ日本の安部政権が「美しい国」を実現するための「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズを旗印としつつ、第二次世界大戦以前のレジーム(=王制復古型の外見的立憲君主制/「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問、http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY200705170380.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/kechack/20070520/p1)、「新しい歴史教科書をつくる会」(http://www.tsukurukai.com/)、「日本会議」(http://www.nipponkaigi.org/)」らの超アナクロな極右派勢力の支援による)への復帰(復古)を画策していることには驚かされるばかりです。


なぜならば、それはEU諸国およびブッシュ以後のアメリカがこれから進みつつある方向から約1世紀半以上も前の時代へ歴史時間を逆走しようとする、まさに狂気の如きカビが生えた復古主義か、あるいはナチス的な社会ダーウイニズムの発想(動植物世界の弱肉強食の原理をそのまま人間社会へ適用しようとする勘違いの発想=市場経済の人間文化的な意味と役割がまったく理解できない愚昧な精神)に他ならないからです。


そして、現代日本のこのような恐るべきアナクロニズムを先導するのが、国会議員の凡そ過半以上を占めつつある赤城徳彦(度重なる事務所経費(政治資金管理)の偽装問題で渦中の人物)、安部晋三(勘違いでナンデモかんでもが美しく見えて仕方ない人?)、麻生太郎天才バカボン風ギャグ漫画のヒーロー?)、小泉純一郎(遊蕩人風ヤクザ気質の詐欺師的無責任オトコ?)らのような、二世・三世のボンボン丸出しで政界を闊歩しつつ国民から徴収した歳費(税金)を湯水の如く浪費・蕩尽する寄生(世襲)政治家たちです。


ガルミッシュ・パルテンキルヒェンの概要)


ガルミッシュ・パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)のルーツはローマ時代まで遡りますが、少なくとも1100年の歴史があり、その起こりはヨーロッパ中世史の用語で「Market towns」(Marktgemeinde)と呼ばれる交易市場が在った場所です。15〜16世紀に、この地域の流通を仕切ったのが神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(ハプスブルク家出身のオーストリア大公/Maximilian 1/1459-1519)の御用商人となりアウグスブルク(Augsburg)を拠点として活躍した大富豪のフッガー家(Fugger)です。


オーストリアとの国境近くに位置するツークシュビッツェ山(Zugspitze/高さ2,926mでドイツの最高峰)の北麓に位置しバイエルン州に属するこの地域は、西部オーストリアと北部イタリアにまたがるスイス・チロル地方に近いこともあって、古くから人とモノの交流が盛んであったという訳です。このため文化・風俗的にもチロル地方の影響が残されています。


もともとガルミッシュとパルテンキルヒェンは別の集落でしたが、ヒトラーナチス政府が1936年に冬季オリンピックの誘致条件を満たすため強制的に二つの村を合併させてできたのがガルミッシュ・パルテンキルヒェンです。今はウィンターリゾート、スキーリゾートとして世界中に知られている美しい街です。


ガルミッシュ・パルテンキルヒェンから見たツークシュビッツェ山

http://www.forumone.co.jp/club/takaiphototokushu.htmlより


ツークシュビッツェ山

二、三枚目はウイキメディアより


ガルミッシュ・パルテンキルヒェンの市街図


鉄道のガルミッシュ・パルテンキルヒェン駅と線路を隔てて、東がパルテンキルヒェン地区、西がガルミッシュ地区です。ガルミッシュ・パルテンキルヒェン始発のツークシュピッツェ登山鉄道で、ツークシュピッツェ山の山頂付近まで登ることができます。


後期ロマン派の代表者とされるリヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss/1864-1949/生誕地はミュンヘン)は、ここで晩年を過ごしたため名誉市民の称号を受けており、ここにはリヒャルト・シュトラウス博物館もあります。また、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンは、「はてしない物語」、「モモ」などの代表作で知られる児童文学作家ミヒャエル・エンデ(Michael Ende/1929-1995/1989年に「はてしない物語」の翻訳者佐藤真理子と結婚/参照、http://www.fsinet.or.jp/~necoco/ende.htm)生誕地です。


ミュンヘンから向かう途中のガルミッシュ・パルテンキルヒェンの風景

・・・この日は、あいにくの曇り空でした。


ガルミッシュ・パルテンキルヒェンの風景、ア・ラ・カルト

・・・チロル風の愛らしい風景が印象的です。


ガルミッシュ・パルテンキルヒェンから「ヴィースの巡礼教会」(Wieskirche)へ向かう道