toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[フュッセン・シュバンガウ編](Appendix)


[ 副 題 ] 『中間層の確保=民主主義の根本』を自覚できない日本政治と市民意識の貧困(ポスト参院選にも引き続く日本の危機)(Appendix)


ローテンブルク・オプ・デア・タウバー の風景、ア・ラ・カルト

・・・これは次回記事[ローテンブルク・オプ・デア・タウバー編]の予告画像(編)のつもりです。


●当記事は[『中間層の確保=民主主義の根本』を自覚できない日本政治と市民意識の貧困(ポスト参院選にも引き続く日本の危機)]の補足ですが、その内容は当記事(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070715)の<コメント&レス>の再掲です。


●[sophiologistさま、pfaelzerweinさま → 当記事へのコメント]で次の段階への考察の筋道が見えてきました。その詳細は次回の[ドイツ旅行の印象、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー編]の中で書く予定です。


●冷静に考えれば、これまでの「国家管掌の年金制度」の中で起こった<消えた年金問題>を徹底解決することは当然(至極あたりまえ!)のことであり、目前の参院選だけを意識して、その1年以内解決の約束が政権与党の手柄(あるいは大きな実績)であるかのようにアピールすること自体が日本国民に対する裏切り行為で、我われを小ばかにした話です。


●それよりも重要なのは、一刻も早く“現在から未来世代へ向けての安心な年金システムを確保するための合理的シナリオを国民へ具体的に示す”ことです。どうやら、相変わらず、我われ善良すぎる一般国民はトンデモなく筋違いの<絶叫型議論=ワンフレーズ・ポリテクス>で騙されているようです。


●今、第二次世界大戦末期のドイツで起きた「ヒトラー暗殺未遂事件」(犯人シュタウフェンベルク大佐をトム・クルーズが演ずる)をテーマにした映画のドイツ・ロケが予定されていますが、ドイツ政府がそのシュタウフェンベルク大佐の処刑場所(ドイツ国内)でのロケを拒否したため波紋が広がっています(情報源:2007.7.20付、朝日新聞)。


トム・クルーズが信仰する「新興宗教サイエントロジー」(下記リンク▲を参照)が“問題のある団体”(カルト?、組織的詐欺集団?)としてドイツ政府によって監視されてきたことが、その背景にあるようです。犯人シュタウフェンベルク大佐が処刑された場所について、そこを管轄するドイツ財務省は“記念(モニュメント)、哀悼の場所としての品位を損なう”という理由で許可しませんでした。


http://kito.cocolog-nifty.com/topnews/cat6331888/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC
http://www.kinyobi.co.jp/uramadoEntries/makaroni/8
http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/scientology.html


●この問題への賛否はともかくとして、このようなドイツ流の”独特の宗教との付き合い方”(距離を置くというより、カルトの誘惑を避けながら積極的に宗教を生かすというべきか?)が新鮮に感じられます。


●同じヨーロッパでもフランス流の政教分離とは異なる手法ですが、ドイツ流のソフィスティケイトされたキリスト信仰(一神教)と日本人の何でもかんでもが一緒くたに“美しく見えてしまう(見させられてしまう?)アニミズム感覚”との違い故でしょうか? 


・・・・・以下、[『中間層の確保=民主主義の根本』を自覚できない日本政治と市民意識の貧困(ポスト参院選にも引き続く日本の危機)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070715]の「コメント&レス」の再掲・・・・・


[コメントを書く]

toxandoria 『sophiologistさま、ご無沙汰しております。TBありがとうございます。


歴史的に見れば、ドイツは大きな失敗も繰り返してきましたが、日本とは異なり、もう<偽(経済)学者の跋扈>だけは許さないという“知恵”がその社会にシッカリ根付いているようです。


また、これは未だよく理解できていない点なのですが、ドイツ流の”独特の宗教との付き合い方”(距離を置くというより、カルトの誘惑を避けながら積極的に宗教を生かすというべきかも知れません・・・)のようなものが存在するようです。


フランス流のガリカニスムの伝統の上に築かれた政教分離の原則もカルト的なものの排除が眼目だと思いますが、それとは違った意味で、きわめて厳粛なドイツ流の宗教的矜持(キリスト教のドイツ的ソフィスティケイト?)のようなものが感じられます。


これらの観点から眺めると、やはり竹中平蔵などのいい加減で無責任な<御用・偽経済学者>らが、小泉政権下でグローバル市場原理主義を煽りまくった責任が重大だと思われます。それに、日本のアカデミズム自身が比喩的な意味で“カルト化”(=精神的貧困化)しているようです。』(2007/07/16 12:36)


sophiologist 『toxandoria様


どうも、コメントをありがとうございます。学識と資料的検証の豊かなtoxandoriaの日記を長い間読ませていただき、オランダやドイツの「市民」の叡知が実感されてきて、それに比べて、我が国の「市民」の有り様がまったく情けなく思われます。


欧州は、確かに、歴史の愚行を反省して、それを繰り返さないという不退転の決意があって、今のような社会を創ってきたのでしょう。これは、正しい学習と言えます。


コメントで、「ドイツ流の”独特の宗教との付き合い方”」が気になりました。「カルトの誘惑を避けながら積極的に宗教を生かす」という態度は、プラトニッ ク・シナジー理論(以下、PS理論)的です。というのは、PS理論は、超越性(イデア性、宗教性)を強く肯定しますが、それと現象的様態(いわば、現実) を不連続化(区別)します。だから、宗教的様態と現実・物質的様態を混同することがありません。両者を混同するのが、正に、カルトですね。


ということで、私見的には、ドイツは、宗教と知性との混同を避けて、両者を共存させる知恵を、理由はわかりませんが、獲得したように思えます。


思いつきでは、トマス・アクィナスの思想のようですね。どうも、中世文化が欧州には文化生活の岩盤としてあるのではないでしょうか。日本の場合、アメリカの圧力を受けた似非経済学者等や官僚たちが、アメリカの同一性化しています。これが、カルトです。


最後に少し飛躍しますが、どうも、どこかで、日本人は本来の余裕をもった文化的生活を喪失して、自己喪失した狂騒的生活に陥ってしまったと思います。


自己や個に即した生活が本来、日本にはあったと思いますが、それが、近代化によって、完全に解体されてしまったと今は思っています。あまりにも、戦後、アメリカ的な便利な物質生活に洗脳されてしまったと思います。』(2007/07/16 13:39)


pfaelzerwein 『興味ある方向へとお話が進んでいるようで、コメントさせて頂きます。


唯一無二のドイツの教会税のビスマルク時代の施行を考えますと、その独特が見えるかもしれません。その歴史的背景には、古い時代の終焉があったのも事実ですが、教会的な福祉組織などが社会機関として発足して行く時代です。


近代的な国の基本にフランス型の政教分離を採用しなかったのは、現在でも批判の対象でもある反面、教会税に民主的な制御が象徴されているとしても良いのかもしれません。


話題となっているイスラムの問題も、この税の中に組み込まれるようになれば次元は変わってくるのでしょうが、それはイスラムの世俗との関係でその本質とは相容れないようです。』(2007/07/19 21:12)


toxandoria 『pfaelzerweinさま、新たな視点を与えていただきありがとうございます。


教会税は北欧諸国、オーストリア、スイスにもある(ドイツが最も高率で8〜10%、その他約1〜9%程度)ようですが、これはすべてビスマルク時代の名残(飴(=社会福祉)と鞭政策(=強制・弾圧による富国強兵)の名残)でしょうか? 


これらの税制を共通基盤とみなした場合これらの国々で世界に先駆けた高福祉が実現してきたことと何か関連がありそうで興味が惹かれます。


とするならば、ビスマルク時代の功罪を批判するばかりではなく、やはり、それ以降の過酷な歴史を乗り越えてきたドイツの歴史に学ぶという観点が重要になると思われます。


ま た、デンマーク・モデル(フレキシキュリティ=新しい積極的労働市場政策)がこれらの国々からフランスなどEU諸国およびアメリカへまで影響を与えつつあ るように見えることとも関連がありそうに思われます(フレキシキュリティについては新しい記事で書くつもりでおります・・・)。それはグローバル市場原理 主義の副作用を緩和するための処方箋として期待されているようです。


一方、日本の政治ではこのような視点からの切込みが全く無いようで す。そこにあるのは根本を勘違いした政治家による“美しい国”という絶叫だけです。いまや安部政権が掲げる“美しい国”なる政権目標が甚だしい矛盾を露呈 し、破綻しかかっているのも、このような視点が欠けていたためではないかと思っています。


つまり、宗教・文化的な差異の視点です。この差異を真正面から受け止めたうえで、それを乗り越えつつ“理想の民主主義”を実現するという方向を意識すべきだと思います。


渦中の年金問題にしても、与野党ともに参院選対策(目先の議論で国民一般を騙すこと)ばかりが先行しており、最も肝心な“現在から未来世代へ向けての安心な年金システムについての合理的説明を国民へ具体的に示す”という政治の核心的な役割を放棄(または先送り)しています。


「欧米型政治の根本=キリスト教一神教)の救済」、「日本型政治の根本=アニミズム型の救済」とでもいうようなものが潜在的無意識のように、それ ぞれの社会に滲みこんでいる点を見逃すべきではないようです。ただ、イスラムキリスト教の間には近親憎悪のような感性(感覚?)があるように思われま す。』(2007/07/20 06:29)