toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

美しいアナクロ(墓穴)掘りばかりで、その器ならぬ<安部首相に無理心中を迫られ>苦悩する日本


<注>当記事の内容は既に[2007年春、ドイツ旅行の印象/ハイデルベルク編、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070801]でUP済みですが、その表題から<記述内容の核心>が見えにくかったようなので、主要な内容だけを改題して再度UPしておきます。なお、併せて一部の誤記・誤字なども加除訂正しました。


■美しいアナクロ(墓穴)掘りばかりで、その器ならぬ<安部首相に無理心中を迫られ>苦悩する日本( = 「原発の未来」に必須の「環境リスク・コミュニケーション」の視点 )


参院選の騒擾にかき消された感がありますが、秋田県上小阿仁村小林宏晨・村長が、検討していた放射性廃棄物最終処分場の誘致断念を村議会全員協議会で28日に表明したことを各メディアが報じていました。これは、固定資産税の増収や国からの補助金20億円が見込まれるというメリットは魅力的ながらも、同村民のみならず県レベル及び周辺市町村住民などの十分な同意を得られる見込みがないことなど様々な要因を慮ったためと思われます。


ところで、原発放射性廃棄物最終処分場及び核燃料再処理工場などが豊かな自然環境に恵まれた、風光明媚で、かつ歴史的に重要な場所に所在(または隣接)するのは日本だけのことではなく、例えばハイデルベルクへ向かう車窓から遠望したフィリップスブルク(Philippsburg、http://philippsburg.inmeco.de/)の原子力発電所(1、2号機/共に旧型原発なので段階的廃止計画に従い、1号機→2号機の順で間もなく停止する予定)は下図のとおり、ハイデルブルクから38km、シュパイヤー(Speyer/古代ローマ時代いらいの歴史的古都)から24km、カールスルーエ(Karlsruhe/ドイツにおける自由主義的改革の先進地で、連邦憲法裁判所と連邦裁判所が立地する)から36kmの距離にあります。


フィリップスブルクの原発http://www.nuclear-free.com/thomas/phillipsburg.htmより


フィリップスブルク(Philippsburg)の位置(ウイキメディアより)


フランスでも事情は同じで、例えば1994年の閉鎖後も周辺の環境汚染問題が懸念されている「ラマンシュ核廃棄物貯蔵センター(La Manche CSM)」は、イギリス海峡に面したノルマンディー地方コタンタン半島(Cotentin Pen.)の北側の内陸に近い部分にあるカン(Caen/ノルマン・コンクエスト(1066)で名高いウイリアム征服王に始まる古都)の郊外にありますが、そこから50km圏内(直線距離)には同じく百年戦争(1338-1453)の事跡で歴史的な価値が大きいバイユー(Bayeux/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050306)、ルアーブル(Le Havre/セーヌ川の河口にある大貿易港/画家モネが活躍した場所)などの都市が点在します。また、コタンタン半島の先端にはカトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画『シェルブールの雨傘』で知られる美しい港町・シェルブール(Cherbourg)があります。


また、仏原子力省・カダラッシュ(Cadarache)研究センターとMOX燃料工場(AREVA社、http://www.us.areva-nc.com/Profile/profile.html/使用済核燃料から猛毒のウラン・プルトニウム混合酸化物(=原発用燃料、Mixed Oxide)を製造する工場)は南フランスのラ・アーグ(La Hague)にあり、その約50〜100km圏にはエクサン・プロバンスAix-en Province/画家セザンヌの連作・画題、石灰質の岩山サント・ビクトアール山などに因む美しい古都)、マルセイユ(Marsille/地中海に臨み、フランス革命で重要な働きをしたフランス第二の都市/古代ローマ時代いらの歴史・港湾都市)、風光明媚なリゾート海岸・コートダジュール(Cote d'Azur)などがあります。


これら各国の事情は、本源的なリスクが指摘される原発・核燃料施設を我われの貴重な歴史と自然環境から全く隔絶した場所に設置することができないことを意味しており、逆に言えば、もはや我われ一般国民はこれら原子力関連の施設設置・立地の問題を他人事として見過ごすことができないということです。それは、恰も、グローバル市場経済時代(=地球環境・地球資源危機の時代)に生きる我われが民主主義社会の持続的な発展のために「中間層没落のリスク」という現実を直視しなければならないことに重なります(この問題の重要性については、下記記事★を参照)。


★『中間層の確保=民主主義の根本』を自覚できない日本政治と市民意識の貧困(ポスト参院選にも引き続く日本の危機)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070715


★同上、Appendix、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070720


ドイツは、国内発電量の3割弱を原子力発電に頼っていますが、1998年に成立した「社会民主党SPD)」と「緑の党」の連立政権は、その公約に従って脱原子力政策(原発の段階的廃止)に取り組んできました。その背景には、当時の世論調査では原発を危険と見做すドイツ国民の割合が約8割に達したという現実があります。しかし、2005年9月の総選挙の結果を受け、「キリスト教民主同盟キリスト教社会同盟(CDU・CSU)」と「社会民主党SPD)」の大連立で成立した新政権は、ドイツ初の女性首相(メルケル/CDU)の下で、経済政策ではSPDが大きな影響力を持つ体制で出発しながらも原子力ルネサンス原子力政策の見直し)の可能性が出てきたとされています。が、ことはそう単純に進みそうもありません。それは、連立相手である「社会民主党SPD)」及び「緑の党」などが原子力ルネサンスに反対しているからです。


一方、電力の約8割を原発に依存するフランスの事情は第二次世界大戦後の敗戦国ドイツとは異なります。フランスの電力事情が原発利用へ極端に傾斜するようになった契機は、1970年代のエネルギー危機です。しかし、それだけではなく、第二次世界大戦後のフランスが国家戦略として核戦力を保持しつつ米ソの二大国に次ぐ第三勢力となることを目指してきた点にこそ、現実的な契機があります。そして、ウラン濃縮及びプルトニウム関連の技術が核戦力の保持能力と通底していることは周知のとおりです。つまり、世界第一級の原子力利用国になることは、核戦力も保持するフランスの原子力大国としての国家威信がかかってきたという現実がある訳です。


それはともかくとして、そのフランスが今や最も腐心しているのが「高レベル放射性廃棄物の最終処分場の確保」と「次世代型の原子力発電技術の開発」ということです。なぜならば、この二点のリスクの大きさについてフランス国民の議論が今や二分されつつあるからです。つまり、今までどおり国家の威信をかけた原子力政策について国民の信任を確保するには、多くのフランス国民からこの二点について十分な理解を得る必要がある訳です。しかも、そこには表記のとおりの「ドイツにおける特殊事情」(原発の段階的廃止か、原子力利用ルネサンスかについての国民的議論)が、EU欧州連合)の結束とグローバリズム市場経済という共通フレーム(=一心同体化しつつある市場経済の枠組み)を介して徐々に影響を与えてくるはずです。


このため、フランスでは、より広い観点から、これからの原子力利用の問題を「環境リスク・コミュニケーション」という概念によって政府・行政・研究者・企業・一般国民が関連する情報を共有し、スムースに相互理解できるようにするための制度化についての議論が進められています(参照、http://e-public.nttdata.co.jp/f/repo/402_e0608/e0608.aspx)。また、以前から、フランスでも「緑の党」や中立的な評価機関の役割が重視され、それが政府によって公認されてきています。例えば、原子力利用についての中立的な評価機関(NGO)であるACRO(Association pour le Controle de la Radioactivite de l'Ouest 、http://www.acro.eu.org/accueil.html)は、1994年に閉鎖された「ラマンシュ核廃棄物貯蔵センター(CSM)」の調査のためにフランス政府が組織したCSM調査委員のメンバーに任命され、その調査結果を情報開示しています。


残念ながら、このような独・仏の現況とわが国の原子力を巡る事情は、本質的なあり方そのものの次元への理解がかなり異なるようです。例えば、日米英仏などが2001年に結成した「第4世代国際フォーラム」(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2001/siryo55/siryo2_2.htm)は、「第4世代原子炉(GEN-4)」として超臨海圧軽水冷却炉、ナトリウム冷却高速炉、トリウム溶融塩炉など6つの概念(今回の地震で大きな被害を受けた東電柏崎刈羽原発は第3世代の改良型軽水炉)を選定していますが、今になって、これらの中でかなり有望視されているトリウム溶融塩炉(この関連の研究業績を積み重ねてきたのが日本の古川和男・博士/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060720)の積極推進論への提言(1980年代において、同実験炉等による基礎データ・実証研究について関係科学者・財界人などが出した要望)が、一種の政治的・権力的バイアスで殆ど一般国民の知るよしもないまま雲散霧消させられた(闇に葬られた?)という現実があるようです。


周知のとおり、1940年代におけるアメリカの「マンハッタン計画」(枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカが原爆開発・製造のため亡命ユダヤ人らを中心とする科学者、技術者を総動員した国家計画)は、一般的な意味で科学者の立場を政府の下請機関と化すことになる歴史的契機であったと見做されています。ズバリ言えば、この時から大方の従順な科学者たちは“国家(政府)の下請け機関”と化してしまった訳です。特に日本の場合は、旧・日米原子力利用協定(1968〜 )及び新・日米原子力協定(1982〜 )の下での強い縛りということがあるようです。しかし、これからの日本で大切なことは、例えばフランスの「環境リスク・コミュニケーション」のように“一般国民の立場(基本的人権法の下の平等)へ十分に配慮”して、風通しがよい「コミュニケーション環境」を創ることが大切です。無論、それを支えるのは中立的で科学的な評価、情報公開などの公正原則であり、ゆめゆめ政治的バイアスなど権力的立場や偏向・屈折した観点によって科学的真理と客観データが捻じ曲げられるようなことがあってはなりません。


もし、今のグローバリズム時代を肯定的に見做すならば、それは、地球上の人類は否応なく限られた地球の環境・資源の中で生きざるを得ない運命共同体の一員であることが、漸く、世界中の人々によってリアルに認識される時代に入ったということです。これは恰も、「ワイマール憲法」(1919)で書かれた先鋭的な民主主義の理念が30年の時間と多くの悲惨な犠牲を費やして「ドイツ連邦共和国基本法」(1949)としてやっとのことで結実し、更に、それから約70年の歳月を経て、それが今まさに「EU改憲条約」の形で、民主主義を支える「中間層の没落と格差拡大」を防ぐべきだという意思(=グローバル市場原理主義の負の側面である右翼ポピュリズムの台頭を抑制すべきだという知見)が全ヨーロッパで共有されつつあるという歴史の流れに重なります。つまり、「ワイマールの理想」は、人命等の膨大な犠牲と100年の時間を費やして、今や世界の人々に漸く認識されようとしている訳です。


見方を変えれば、これは、今の時代になって漸く「劣等処遇の原則」の誤謬が多くの人々によってリアルに共通認識されつつあるのだということでもあります。まことに皮肉なことですが、グローバル市場原理主義の深化がもたらした<極端な格差拡大>によって、我われは漸く「劣等処遇の原則」の誤謬がリアルに認識できるようになったということです。因みに、「劣等処遇の原則」とは、1834年の英国「救貧法」(及び1848年の同「改正・救貧法」)で定められた“福祉サービス利用者の生活レベルは自活可能な勤労者の平均的生活水準よりも絶対的に低くなければはならない”という、18〜19世紀における救貧事業上の原則を再確認したものです。これは、よく考えてみれば<驚くべきほど単純で明快な差別概念>であることが分かるはずです。このような誤謬への否定的理念(=基本的人権法の下の平等/日本国憲法では第11条、第14条)が、形だけにせよ漸く実現したのがワイマール憲法においてです。


しかしながら、実は原子力利用についての情報を隠蔽したり、政治的バイアスで関連する科学的真理を捻じ曲げたりすることは、国民の中における特定の利益享受者と不特定多数の被害者(または不利益者)の存在という<人為的な格差発生>の現実を無視し続けることに他なりません。つまり、それは<立場の違いによる、原子力利用の利益享受に関する深刻な格差拡大(=極端な意図的差別の発生)>を無視するということです。また、特に忘れるべきでないのは、今さら言うまでもないことですが原子力利用には絶えず大きなリスク(地震・事故等による放射線及び毒性拡散の被害、同じく地球環境汚染の拡散、ゲリラやテロのターゲット化、核兵器拡散など)が付き纏うということです。


そして、リスク管理の問題については、十分に実証科学的・合理技術的な立場から様々な優れた知見が提起されつつあるようですが、最も肝心なことは素朴な「ヒューマン・エラー」を回避するために政府・行政・研究者・企業・一般国民が情報を共有し、コミュニケーションを深めつつ相互の信頼感を高める工夫を永続的に進めることです。このような意味で、わが国は、本格的にグローバリズムが深化する時代を見据えた「EUにおける原子力利用の動向」と「フランスの環境リスク・コミュニケーション」の事例を真剣に学ぶ必要があると思われます。なぜならば、『<果てしない危機の海の航海>で忘れてならないのは人的なリスク恒常性の問題』、つまりヒューマン・エラーの問題であるからです。しかも、ヒューマン・エラーを最も有効に回避する究極の方法は<双方向コミュニケーション>以外に見当たらないからです。


これらの観点からすると、今回の参院選で多くの国民からノー(過剰な陰謀史観にも通ずるところがある右翼ポピュリズムの本心を隠した安部総理に対する国民からの厳しい審判の意志)を突きつけられたにもかかわらず、7月30日の総理記者会見で、“反省すべき点は反省するが・・・”と一般論で逃げ、しかも、<今回の参院選で国民へ政権選択を強く迫った自らの誤謬>を棚上げにした上で、先ず“自らの“美しい国”への理解と信任を、つまり<国民のアベ・ノーの民意に真っ向から逆らう形で自らの続投意志への理解>を国民の側へ一方的に要求した安部総理大臣は、このような「環境リスク・コミュニケーション能力」(国民の前で、“自らの誤謬の根本に潜む劣等処遇の原則”の撤回を堂々と宣言し、多くの国民の意志を民主的に巻き込みつつ目前の国家危機を早急に回避するガバナンス・パワー)の重要性についての理解が決定的に欠けています。


比喩的に言うならば、これは、まるで「破れかぶれで冷静なバランス感覚を見失った安部内閣が、自らの根本的誤りと欠点を厳しく指弾した日本国民をムリヤリ巻き込んで抱き合い心中を図る」ような、あるいは「歴史的巨大地震のダメージで、例えばフィリップスブルク仕様の旧型原発メルトダウン(最悪の炉心溶融事故)を起こしたような恐るべき構図」です。ドイツ・フランスにおける民主主義政治の成熟度の現実に比べると、これは、まことに恐るべき前時代的な政治感覚(“美しい国”のアナクロニズム → 喩えれば、第二次世界大戦以前の恤救規則(ジュツキュウ規則/明治7年〜)で65歳以上の高齢者を“老衰者”と呼んでいたようなアナクロ感覚)であり、安部自民党政治の決定的なリスク管理意識の欠落ぶりを曝け出しています(参照/下記の関連記事★)。序ながら、安部自民惨敗で、うろたえつつ首相擁護を繰り返すばかりの日本経団連等、財界幹部の姿にも、基本的なバランス感覚を欠く一方で“美しい国”のアナクロに溺れるという、本格的なグローバリズム時代の経営者らしからぬ、余りにも近視眼的で、さもしいだけの虚弱な経営者の本性が滲み出ています。


★赤城・安部らアホ寄生虫の大ウソで世界に150年遅れる「美しい日本」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070710


・・・・以下は、[2007年春、ドイツ旅行の印象/ハイデルベルク編、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070801]から関連部分だけを採録したものです。・・・



ハイデルベルクの歴史(概観)


ハイデルベルクは、シュトウトガルト( Stuttgart )、マンハイム(Mannheim)、カールスルーエ(Karlsruhe)、フライブルク(Freiburg)に次ぐ、バーデン・ヴュルテンベルク州で五番目の人口規模(約14万人/このうち約3万人が学生人口)の都市ですが、その歴史は、BC1のケルト人の“聖なる場所”(ローマ人の礼拝所へ引き継がれる)が「ハイリゲンベルクの丘」(ネッカー川の右岸/ネッカー川を挟みハイデルベルク城の反対側にある場所で「哲学者の道」がある/上掲の俯瞰図で右端上部)にあった頃から姿を現します。


しかし、ハイデルベルクの名が文献で見られる最初は1196年です。その記録によれば、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭王/Friedrich I. Barbarossa/位1152-1190)の異母弟であるプファルツ伯コンラート(Konrad ? -1200 )が、丘の上の城砦(Burg)と周辺の小さな集落をヴォルムス(Worms)司教領から手に入れたとされています。


それ以降、この城砦は、その下に人口が更に集積して成立する都市ハイデルベルクとともにプファルツ伯領の中に組み込まれます。やがて、その城館は「プファルツ伯の城」と名づけられるようになり、現在の城の基盤となる区画は、既述のとおり、13世紀に建てられたプファルツ選帝侯の居城の建設に始まります。現在のハイデルベルク城は、バロックルネサンスなど様々な様式の建築物の集合体ですが、ルネサンス建築の印象が最も強く残るようです。


このような流れから、ハイデルベルクは長くヴィッテルスバハ家のライン宮中伯(後に選帝侯)に属してきたため、その宮廷所在地としての歴史を積み重ねてきました。1386年には、プファルツ選帝侯ルプレヒト1世(Ruprecht 1/1352-1410)によってドイツ最古のハイデルベルク大学(Ruprecht-Karls-Universitaet Heidelberg)が創設されており、その初代学長はパリ大学で教えていた唯名論者マルシリウス・フォン・インヘンMarsilius von Inghen(ca1330‐96)です。これによって、ハイデルベルクは大学都市・文化都市としての性格を強めます。


また、ハイデルベルクはドイツの中で早くから宗教改革の影響を受けた所であり、プファルツ選帝侯は1556年にプロテスタントに改宗しています。17世紀には、三十年戦争やプファルツ継承戦争の戦火で、ハイデルベルクは経済的活力を失い、宮廷のマンハイム移転(1720)によって政治的な中枢としての機能も喪失してしまいます。そして、1803年には新設のバーデン大公国(Grossherzogtum Baden /1803-1918)に帰属することになります。


なお、ゲーテヴィクトル・ユーゴーサマセット・モーム、マーク・トゥエーンなど著名な作家や画家ウィリアム・ターナーなどがこの町を訪れ、その足跡を残し ています。作曲家ではウェーバーシューマンブラームスなどがこの街の美しさを唄っています。また、麗しくロマンに満ちたハイデルベルクの名が世界に知られるのは、マイアー・フェルスター(Wilhelm Meyer-Forster/1862-1934 /ドイツの作家)の戯曲「アルト・ハイデルベルク」(Alt-Heidelberg)」が世界的な人気を博してからです。この戯曲は、1901年にベルリンで初演され、それ以降は世界各国で上演さ れるようになり、「学生王子」という題名で映画やミュージカルにもなっています。



ハイデルベルク大学・図書館(Universitaetsbibliothek Heidelberg)
http://www.ii-niku.com/travel/06euro04_1.htmlより


既述のとおり、ハイデルベルク大学(創設、1386)はドイツで最古の大学で、神聖ローマ帝国の圏内ではプラハ大学(1348)、ウイーン大学(1365)に次ぐ三番目に古い大学です。古い時代からの建物は旧市街中央部の大学広場辺り(上掲俯瞰図の中央部)に集中していますが、今のハイデルベルクは、美しい自然環境に恵まれた大学都市として落ち着いた風格のある雰囲気を持ち、ゆっくり楽しみながら散策できる小さな道が繋がりつつ広がっています。


ネッカー川を挟むハイデルブルク城の対岸は閑静な高級住宅地で、その北側には一本の細い道、「哲学者の道」(Philosophenweg)があり、ゲーテ、マックス・ウエーバー(ハイデルベルク大学で6年間の教鞭を取った)、あるいは九鬼周造(1888-1941/実存哲学者)、吉野作造(1878-1933/政治学者、民本主義(Democracy/天皇主権が法理学上の建前であったため民主主義という訳語を避けた)を唱えた大正デモクラシーの立役者)ら多くの哲学者・詩人・学者たちが好んで散策したことが知られています。


因みに、第二次世界大戦ハイデルベルクは殆ど空爆の被害を免れており、連合軍(米軍主体)の総司令部がハイデルブルクに置かれました。それは、アメリカ人の多くが、ハイデルベルクがドイツ人の精神と文化の拠り所であることを知っていたからだとされているようです。また、このこととの関連性の検証はありませんが、第二次世界大戦以前も今も、ハイデルベルク大学へはアメリカを始め世界中から多くの留学生たちが集まっており、その研究レベルは世界で第一級と評価されています。それは、ハイデルベルク大学の卒業生を少し当たるだけでも、次のような世界的に著名な学者の名が浮かび上がることからも分かります。


カール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers/1883-1969/精神医学・哲学者)

ユルゲン・ハバーマス(Juergen Habermas/1929− /フランクフルト学派・第二世代の社会学・哲学者)

ハンス・ゲオルク・ガダマー(Hans-Georg Gadamer/1900-2002/言語テクストについての歴史哲学的アプローチで名高い哲学者)

ハンナ・アーレント(Hannah Arendt/1906-1975/ハイデガーヤスパースに師事し、その後はアメリカで活躍した政治・哲学者)


また、これはハイデルベルク大学だけのことではありませんが、軍国主義・外形的立憲君主制の国家としての後進性が目立つドイツ帝国の時代ですら、ドイツは世界でトップクラスの「学問の国」でもあったという下のようなデータがあります(出典:坂井栄八郎著『ドイツ史10講』(岩波新書))。


●19世紀最後の25年間になされた物理学分野(熱・光・電気・磁気)の分野での新発見・・・ドイツ(1886件)、イギリス(751件)、フランス(797件)

●同時期における、生理学分野の全世界における独創的研究の60%はドイツが占めている

●19世紀のアメリカからドイツへの留学生数は約1万人・・・その半数がアメリカへ帰国後に大学の教職に就き、アメリカにおけるアカデミズムの発展に貢献している


ところで、第二次世界大戦後のドイツが日本と根本的に違うのは「人道に対する罪の意識」を戦後のドイツ国民が共有することに成功し、今もその状態が持続している点だと思います。もちろん、これはドイツでの国際軍事裁判のために連合国側が規定した「平和に対する罪」、「戦争に対する罪」、「人道に対する罪」のなかの一つです。しかし、ドイツの場合にはこれが単に消極的な受身の意識に終わらず、この三つの罪についての反省的な思索を深めドイツ国民へ大きな影響を与えた、既述のカール・ヤスパースハイデルベルク学派の中心人物)の存在があります。ヤスパースは、妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗姿勢の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りの圧力では自宅に2人で立て籠もり通したというエピソードがあります。


<注>ハイデルベルク学派(Heidelberger Schule)
・・・1910年から1920年代にかけ、ハイデルベルク大学における精神病理学の分野で活発に活動した研究者集団のことを指す。ウィルマンス(K. Wilmanns/1873‐1945)、H.W.グルーレ(H.W.Gruhle/1929- )、ヤスパース、マイヤー・グロース(W. Mayer Gross/1889‐1961)、ベーリンガー(K. Beringer/1893‐1949)らが主要メンバー。その精神的中心はヤスパースであり、ヤスパースが『精神病理学総論』(1913)で展開した現象学や了解心理学の方法は、外部からの客観記述にとどまっていた精神分裂病躁鬱病など内因性精神病の研究を内的体験の角度から解明する方向へと推し進めた。しかし、彼らの活動は、1930年代に入るとナチスによって弾圧されるようになり、ハイデルベルク学派のメンバーは四散することとなり、ハイデルベルク学派は壊滅的打撃を蒙る。やがて、この学派が再建されるのは第2次大戦後で、ヤスパースを師と仰ぐK. シュナイダー(Kurt Schneider/ 1887 - 1967)、バイヤー (W. R. von Baeyer/1904‐ )らが中心となって人間学的方向を開拓したため、彼らは「新ハイデルベルク学派」と呼ばれる。 


このようなエピソードを持つヤスパースの偉大な功績は「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせて主体的・積極的に考えるべきだ」という前提を明快に示したことです。そして、ヤスパースナチス・ドイツが行った侵略戦争ホロコーストなどの「罪」を四つの次元に分けて考えます。それは、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪の四つです。つまり、これで「政治的・法的な責任」(前者二つ)と「内面的な責任」(後者二つ)を区別して考えることが可能となったのです[出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』(光文社新書)]。


こ れによって、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合った自覚レベルに応じて「人道に対する罪の意識」を具体的に表わすことが可能となり、是非とも自分は そうすべきだという人道に関する実践的な心と意志を一般のドイツ国民が共有できるようになったのです。このように見ると、ドイツの人道に関する戦後の責任意識が 日本とは比較にならぬほど高い地点に到達していたことが理解できます。このことは<ドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因>ともなって長く尾を引くことになり、現在に至っています。ともかくも、「日本の国会議員の品性の低劣さ」と「ドイツの国会議員のモラルの高さ」はあまりにも対照的です(参照/下記の関連記事★)。

2007-05-03付toxandoriaの日記/妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503