toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象・最終回[フランクフルト・アム・マイン編]

   
ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より



ドイツの諸都市(http://www2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/world/hotel/p042_hotel_germany.htm)より


ライン左岸の観光地
http://www.i-wanna-travel.com/r6-germany04.htmlより


欧州のゲートウエイ/フランクフルトの位置


フランクフルトの中心部・図
http://travel.yahoo.com/p-travelguide-577378-map_of_frankfurt-i より


フランクフルトの俯瞰図1/マイン川、レーマー広場あたり


下を流れるのがマイン川(Main/バイエルン州の水源からフランケン地方を西へ流れ、マインツ(Mainz/ヘッセン州)でライン川に合流)で、右手が上流になる。レーマー広場(Roemer)は、中央部・真下のアイゼルナー小橋(Eiserner Steg)の北端から約100mほど北側にある広場です。


フランクフルトの俯瞰図2/ドム(大聖堂)、アルテ橋あたり


下を流れるのがマイン川で、右下がアルテ橋(Alte)です。大聖堂(ドム/Dom)は、アルテ橋を北へ渡り切ったところで、すぐに広いマイン河岸通りを左折し、約150m位でドム通り(Domstr.)を右折し、同じく約150m北上した所(この画像では、ドムがDomstr.に半ば突き出たように見える/ほぼ全画像の中央部辺りで、ドム尖塔の大きく長い影が北へ伸びている)にあります。


フランクフルトの俯瞰図3/レーマー広場、ニコライ教会


真下から北へ向けて細長く伸びるのがニコライ教会の尖塔の影で、広場の真ん中にあるのが「正義の女神の泉」(Justitia)です。


【絵画の解説】


(フランクフルトの近代史に学ぶ=“資本主義の暴走”(市場原理主義)を制御する視点の再発見)


ヨハネス・フェルメール『地理学者』


Johannes Vermeer(1632-1675)「The Geographer」 1669 Oil on canvas 52 x 45.5 cm Staedelsches Kunstinnstitut 、Frankfurt


このフェルメールの絵『地理学者』は、フランクフルト市民が誇りにしているシュテーデル美術館(Das Staedel/詳細、後述)に所蔵されているもので、その奥の壁にあるフェルメールの署名の下に書かれたローマ数字(壁の右上の部分)から、その製作年(1669)が分かります。この絵のテーマはレンブラントなども描いているヨーロッパ伝統の「書斎の学者」です。そして、これはフェルメールにしては珍しく男性一人を描いた絵としても有名です。知られている限りでのフェルメール全作品、37点の内で男性一人のテーマで描かれたものは、『天文学者』(1668、ルーヴル美術館・所蔵)と、この絵の二枚だけのはずです。


この絵の空気にはフェルメール特有の静謐さとともに“不思議な活気”が満ちています。それは、科学的な眼差しと鋭敏な感受性を持つ冷静な地理学者が手にコンパス(合理性をるツール)を持ち、ジッと窓から入ってくる光の方を見据えているからでしょうか。また、その奥の棚の上には地球儀(合理的に観察するツール)が置かれ、壁には海図(合理的に進路を決めるツール)が掛けられ、見事な図柄のカーペット(美的感性の象徴)が掛けられた机の上には大きな地図(自らの立ち位置とバランス感覚を維持するツール)が広げられているからでしょうか。このカメラ・オブスキュラを覗いたような小さな画面(52 x 45.5 cm)の内側には、フェルメールの卓越した描画法がとらえた“地理学者の生きいきした精神”が満ちています。


それはともかく、このフェルメールにしては珍しく“不思議な活力に満ちた地理学者の絵”がフランクフルトのシュテーデル美術館が所蔵することは、あることを象徴するかのようで不思議な感じがします。その“あること”とは、後で詳述するようにフランクフルトは現代資本主義の出発点の一つと看做すことが可能な、近代グローバリズム金融・経済の出発地であるということです。そして、これは一般にあまり意識されていないことですが、近代におけるフランクフルトのグローバリズム金融・経済が揺籃期を迎えたのは、丁度、ここで生まれたゲーテが27歳に至るまでの青春時代を送った時期に重なるのです。


ゲーテが生きた18世紀半ばから19世紀前半にさしかかる時代は、ドイツが、三十年戦争(1618-1648)以後に起こったフランス革命の余波(影響)を受けて、中世以来の領邦小国家体制と神聖ローマ帝国の支配に終わりを告げる時であり、それは国民意識に目覚めたドイツの市民ブルジョアたちが民主国家を目指して本格的に歩みだした変革と激動の時代でもありました。また、このような時代のフランクフルトで多感な青春時代を送ったゲーテが、後に国際条約による世界平和の実現を夢見るようになったこと、そして、やがてそれがワイマール憲法国際連盟国際連合の実現に繋がったことも思い出すべきでしょう。


そもそも、地理学(≒地政学)は水分布、大気空間、対流圏、森林分布などの自然環境という物理的存在とともに人口・産業分布などの人文・社会的なものも対象の中に含むことから人文・社会科学と自然科学という両面の性格を有しています。そして、科学的な地理学の源流が19世紀初頭のドイツで起こり、アレキサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Baron Von Humboldt/1769-1859)とカール・リッター(Karl Ritter/1779-1859))の二人がその代表者であること、そして彼ら二人が“近代地理学の父”と称えられていることも想起すべきです。


その上、地理学の特徴は、それが、どんなチッポケな島や地域にも我われと同じような人間が住み生活していることをリアルに実感(理解)させること、そして、そのような認識は少数意見や、どんな小さな声にも耳を傾けるべきことの自覚に繋がるということも押さえておくべきです。恰も、これはフェルメールの点綴法(てんてい法/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050322)などの、科学的であると同時に精緻で繊細な感性をも大切にする絵画技法に繋がるものがあります。


また、結局は失敗に帰したとはいえ、1848年の3月革命(フランスの二月革命(1848)の影響で、ドイツ連邦各地で起こった自由主義民族主義的な革命運動)のあと、ドイツ史上で初めての選挙に基づく代表者によって、国民の基本権と民族の統一が論じられた「第1回ドイツ国民議会」(フランクフルト国民議会、Frankfurter Nationalversammlung/憲法制定、自由主義ドイツ統一などを討議したが、結局、オーストリアプロイセン両有力君主国の支持を得られず頓挫)が、ここフランクフルトで開催されたことも重要な出来事です。


このように見ると、実は「第1期グローバル市場経済の時代」(18・19世紀〜第一次世界大戦までの間に進んだグローバル経済の時代/この間、軍事費拡大の国際的な制御の失敗が第一次世界大戦に帰着した/資本主義を冷静に見ていたケインズは、このような着眼を示している)の嚆矢の頃は、まさにドイツにおける先進的な民主主義思想の発達期と重なっており、そこで意識されていたのは「市場経済主義による平和の実現」と「適切な資本主義の管理・コントロール」ということであり、その根本で意識されていたのは「適切な地政学的視点≒冷静な地理学者の眼」ということでした。そして、翻るに今や我われは、まるでリバイアサンのように暴走する、グローバル市場経済へ傾斜した資本主義の前で立ち往生し途方に暮れています。


例えば、アメリカのサブプライムローン問題(同ローン残高=約150兆円/出典:2007.8.16付・日本経済新聞)から始まった世界の金融・証券市場の動揺(同時連鎖的な暴落)は、現時点では容易に収まる気配がありません。言ってしまえば、これは複雑な証券化の手法(違法性スレスレの)による不良債権発生のツケ回し(人為的な金融バブル演出)の問題です。そのため、何処で、誰が、どんなババを掴まされるかという疑心暗鬼の空気が連鎖的に垣根を越えて広がってしまった訳です。同じようなことが、実体経済の分野でも深く潜行し、臨界点で突発的に顕在化する形で広がっており、これも一種の市場原理主義のバブル的暴走がもたらすモラルハザード現象と看做すことができます。


日本で言えば、それには耐震偽装事件、コムスン事件に見られるような偽装製品・偽装サービス等の販売・提供の非常に悪質な事例があり、あるいはミートホープ(偽装食肉)事件、中国発・有害食品等の意図的混入など、消費者を根底から欺くこの類の事例は枚挙の暇がないほどです。そして、その中で最も深刻なものが、アメリカを筆頭とする世界的な軍事費の拡大競争が戦争を誘うという意味での“死のバブルの増殖”です。


この“死のバブルの増殖”はグローバリズム経済と連動した<戦争の民営化の深化>という形で一般の経済活動の中へ浸透する形で我われの身近な所へ迫りつつあります。そして、わが国における直近の防衛省を巡る一連の不自然な動き(=テロ特措法延長への強引なバイアス、防衛庁防衛省昇格、久間・防衛相の“しょうがない発言”、与党政治家の日本核武装論、小池・防衛相の異様に高揚したマダム・スシ発言、次官人事を巡る同・防衛相周辺のドタバタ劇、あるいは元・ヒゲ隊長の「駆けつけ警護」発言、云々・・・)の背後には、この“死のバブルの増殖”がもたらす「防衛省利権」を巡る苛烈なパイの奪い合いの存在を窺い知ることができます。


つまり、このような一連の“不可思議(不自然?)な動き”の陰では「防衛省利権」(武器等軍需品、石油・核エネルギー資源、医薬品・食料品などに関わる)の熾烈な争奪戦が、言い換えれば「わが国における“戦争の民営化”の深化と経済市場における防衛関連産業の裾野の広がり」に伴う“防衛省利権”をめぐるドス黒い闘争と談合などの主導権争いが繰り広げられているということであり、そこからは不穏で不気味な黒煙が立ち昇っています。しかも、憲法9条を巡る改憲論議(←「戦後レジームからの脱却」と「美しい国の実現」への必須ステップ)に関連するかのように、メジャーな財界人の一角からは、まるで18〜19世紀の砲艦外交の時代へ先祖返りしたような「経済戦線を勝ち抜くための自衛隊による護衛活動を視野に入れた9条放棄論」が出てくるという始末です。


恐らく、このままでは再び「第1期グローバル市場経済の時代」の帰結として第一次世界大戦へ向かった悲劇的な大戦争勃発への流れの繰り返しとなる可能性があります。ひたすら「理念的平和論」を説いても一般国民の耳になかなか入りにくいという厳しい現実がある以上は、些かでも平和の実現について理想を持ち、かつ冷静で理性的な精神環境と『フェルメールの地理学者』のようなバランス感覚を持ち前とする経済学者が、もし存在するならば、これまで述べたような意味で「資本主義による平和の実現」(平和経済論)を可能とする理論を、一般国民に対して、もっと熱心に分かりやすく説明すべきだと思います。そこで、押さえるべきキーワードは、人口爆発問題、格差問題(富の偏在)、食糧問題、資源問題、投機バブル、モラルハザード、地球環境、民営化の限界、政府の役割、官僚の役割、経済制度論(環境リスクコミュニケーション論からの再検討)等々です。


むしろ、このような意味では、今や中国で活発化しつつある、急速なグローバル市場経済化の落とし子、<二極化=貧富格差の拡大>を巡る「新由主義派」VS「修正・新自由主義派」の新たな対立論争(参照、http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/051024gakusya.htm)こそ注目すべきかも知れません。もはや、中華人民共和国の「共産主義」は外見的な“羊頭の看板”に過ぎず、かの国のアカデミズムは、帝国主義ならぬ、アメリカ発の新自由主義から飛び出てきた、新たな<恐るべきリバイアサン>と格闘せざるを得なくなっています。つまり、過剰な市場原理主義へ傾斜し暴走し始めた資本主義のコントロールに取り組まざるを得なくなっているのです。


このような観点からすれば、わが国における「右派VS左派」の対立ドグマを煽るだけのマンネリ化した政治意識が、いかに不毛であるかが分かります。そして、「美しい国」という不毛な飾り言葉の陰で密かに嘲笑うのは、ひたすら増殖するばかりの“死のバブル”(過剰な新自由主義思想への傾斜により、市場経済の中へ深く浸透し巨大化しつつある軍需(防衛省)利権周辺の闇の広がり)です。そして、これを後押しするのが「寄生政治家の蔓延り」という日本独特の政治現象であり、一方で反比例的に日本国民の主権は後退するばかりなのです。しかし、我われは、資本主義を冷静に見ていたケインズに倣って、このような資本主義の暴走(市場原理主義への過剰な傾斜)による弊害発生に対する厳しい眼差しが、現代における市場経済原理主義の故地の一つである18〜19世紀のフランクフルトに存在したことを再発見すべきかもしれません。


[プロローグ]


「右派VS左派」の対立ドグマと「寄生政治家」の蔓延(はびこり)がもたらす国民主権の後退


■なお、この内容は[2007-06-19付toxandoriaの日記/増殖する「寄生&タレント政治家」と縮小する「日本国民の権利」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070619]に大幅な加筆・修正を施して再掲したものです。


1 日本における「右派VS左派」の対立ドグマと「寄生政治家」の蔓延(はびこ)り


1−1 「右派VS左派」対立ドグマがもたらす不毛な政治状況


朝日新聞が行った全国世論調査『政党と政治』(期間:平成19年4〜5月、対象:3千人、郵送方式、回答率72%/2007.6.18付・同紙朝刊で発表)によると、次のような結果が出ています。この調査は、郵送方式で行われもので回答率(72%)が高いこと、および松岡大臣の自殺・消えた年金コムスンなど安倍政権の致命的欠陥(異常な問題)が発覚する直前に行われたものという点で信頼性が高いと思われます。


●今の日本の政党が期待される<役割を果たしていない>と見る人 → 83%


●政治は<仕事や生活と切り離せないもの>と見る人 → 62%


●政治に<興味がある>人 → 82%


●今の政治は<ワイドショー(タレント型)政治だ>と見る人  → 54%


●今の政治家は<言葉を大切にしていない>とみる人 → 80%


●今の政治家は<パフオーマンスに力を入れる傾向(タレント的傾向)がある>と見る人 → 56%


●政治的な立場を説明する言葉として・・・・・<(右派VS左派)、(ハト派VSタカ派)、(抵抗勢力VS改革派)は、いずれも適切でない>と見る人 → 6〜7割


ここで最も目を引くのが『今の政党が期待される<役割を果たしていない>と見る人 → 83%』、『今の政治家は<パフオーマンスに力を入れる傾向がある>と見る人 → 56%』、『<(右派VS左派)、(ハト派VSタカ派)、(抵抗勢力VS改革派)は、いずれも適切でない>と見る人 → 6〜7割』の部分です。つまり、日本国民は政党(≒国会議員)の質的な低下と彼らの軽薄な行動、および倫理的な欠陥に飽きあきしていることが分かります。しかも彼らが相変わらず軽挙妄動的にパフオーマンスを繰り返すことに怒っているようです。


特に、日本の政党政治が相変わらず(右派VS左派)のアナクロな対立図式のドグマに囚われているのはナンセンスです。それは、例えば、現在の中国における主流派経済学の立場がアメリカ発の「新自由主義経済学」であること、そして、これは前にも述べたことですが、その中国経済学会では、まるで日本の遥か先を突き進むかのように<二極化=貧富格差の拡大>を巡る新自由主義派」VS「修正新自由主義派」の新たな対立論争が起きているのです。つまり、もはや中華人民共和国共産主義は単なる“飾りコトバ”に過ぎず、かの国の一般国民は、帝国主義ならぬ、新自由主義から飛び出した新たなリバイアサンと格闘せざるを得なくなっているのです。


また、もはや小泉劇場のような<オレオレ詐欺・美人局・ヤラセ・大道芸人・ヤクザ・ゴロツキ的な三文政治ショー>に対しては流石に日本国民の多くが胡散臭さを感じ始めたようです。つまり、松岡大臣の自殺・消えた年金コムスンなど政権崩壊に直結する異常な問題が立て続けに起こる前から、既に、国民は日本の『政党、政治、政治家』が信用できなくなっていたという訳です。しかし、問題は国民一般の思いが未だにそのレベルに止まり、そこから先へ一歩も進めないことです。しかしながら、そこでセッセと国民の足止めを促し、堂々巡りのマンネリ思考のお手伝いをして稼いでいるのがテレビの「ワイドショーと政治&芸能の融合番組」です。これでは、余りにも日本国民が不幸です。


そこで、ここでは主に<日本政治の寄生化の問題>に焦点を当ててみます。<日本政治の寄生化の問題>とは、より具体的に言えば<日本では今や特権層に担がれた寄生的政治家が増大しつつあることにより国民の権利が減少する一方で、見かけ上・名目上の小さな政府への改革とは裏腹に、かつ否応なしに裏帳簿的な意味合いでバブル化した暴政的国家権力が増大しつつある>ということです。そして、このような傾向は、少なくとも先進民主主義国家の中では異常な流れであり、大変恥ずべきであることを自覚しなければなりません。なぜならば、それは日本国民の多くが自らの「民度の低さ」に甘んじていることに他ならないからです。


1−2 日本における「寄生政治家」の現状(世襲議員の実態)


●<日本の世襲議員>の実態は<英国の世襲貴議員>の問題より遥かに深刻であると見做すことができる。なぜなら、英国と異なり、<日本の世襲議員>には莫大な金額の歳費が伴っており、しかも彼らの<世襲>による弊害は政・官・財の閨閥・縁故・利害関係などを介したネットワークによって日本中の至るところに、まるで黴(カビ)の如く蔓延るばかりとなっているからである。その上、そればかりか、彼らは自らが支える政権与党の暴政化へ手を貸している。


●この流れからすれば、あの『コムスン問題(福祉・医療分野の劣化の象徴)、消えた年金、政治資金規制法改正、官製談合と公務員制度改革天下り規制≒官邸へ権力を一極集中させることによる天下りの公認・合法化?)』などの裏側には、この<世襲議員>の問題が深く根を張っていることが理解できる。従って、見かけばかりの上っ面な法整備を行っても、この<日本の世襲議員>による甚大な被害(=一般の日本国民・市民にとっての実質的な損失と不利益の発生)の元を断つことはできない。因みに、英・独・仏など欧州諸国ではタレント(テレビ・ワイドショー)型の寄生議員の存在は殆ど皆無に近い。


●直近の<日本の世襲議員数>についての手持ちのデータがないので、いささか古くなるが、小河達之氏(兵庫教育大学大学院・修士論文)による平成9年度のデータ(1997)および上田 哲氏のHPのデータ(2003)がネット上で公開されているので、その内容を以下に採録しておく(参照、http://nvc.halsnet.com/jhattori/rakusen/sesyuukenkyuu.htmhttp://www.notnet.jp/data01index.htm)。


世襲議員の割合)


◆小河達之氏のデータ(全議員に占める割合/1999)


自民(41.8%)、新進(20.4%)、民主(25.0%)、共産(3.8%)、社民(0.0%)、太陽(30.0%)、その他(37.5%)


◆上田 哲氏のデータ(衆議院議員に占める割合/2003)


自民(51.6%)、民主(27.3%)、公明(8.8%)、共産(22.2%)、社民(0.0%)、無所属(55.6%)


●この数字を前提とするならば、そして政権与党について見るならば、少なくとも<世襲議員の割合>は今や過半を遥かに超えていると思われる。なお、小河論文によると、「世襲・非世襲議員の平均年齢」については有意な差が見られないようである。


<注記1>


・・・ここで言う<寄生政治家>とは、具体的に言えば小泉・安倍・麻生・中川・赤城らの世襲政治家のことですが、小泉劇場だけでなく直近の参院選でも目立ったテレビ・ワイドショー型のタレント国会議員(実際の政治の中身が疑わしい丸川珠代神取忍丸山和也ら)も、知名度とテレビ露出度および浮ついた人気だけで国会議員になったという意味で立派な<寄生政治家>の仲間です。


・・・ところで、第二次世界大戦後の日本のみならず欧米諸国から政治の枠組(憲法と主権のかかわり方=議会制民主主義)の手本と見做されてきた英国では、1990年代のメージャー政権(John Roy Major)頃から、「憲法改革プログラムの一環として」いわゆる「上院(貴族院)改革」が本格化してきました。ただ、下院で僅かに多数を取る立場であったたメージャー政権では本格的な改革が進まず、この動きが本格化し始めたのはブレア政権が選挙で圧勝した1997年の以降のことです。


・・・そのブレアも、「ブッシュのイラク戦争への加担の誤り」が国民一般から批判される形で退陣し、その政権をブラウンへ禅譲しました。しかしながら、もはや、この「上院(貴族院)改革」の流れが後戻りすることはなさそうです。なぜならば、英国民の権利をより増大させるためには<世界中から民主主義の手本とされてきた英国に中世いらい巣食ってきた政治の伝統であるとともに国民主権のグレードアップに関して非効率な部分と看做すことができる上院(貴族院)の改革>が必要であることは、これまでの国民を巻き込んだ膨大な議論を通して全ての英国民に共有されているからです。そのため、既に上院の世襲貴族の数が大幅に減らされるとともに、2009年には「連合王国最高裁判所」(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、上院の法官貴族(Law Lords)の内いくつかの機能が、ここへ引き渡される予定です。


・・・『憲法ユニット』(The Constitutional Unit/ロンドン大学教授ロバート・ハーゼル氏(Robert Hazell)が代表を務める評価機関)によれば、特に注目すべきは、この英国の「上院(貴族院)改革」の理想が<ドイツの第二院>であるということです。つまり、英国でも、自国の伝統だけに拘ることなく、少なくとも上院議員の一部は直接選挙で選ばれるべきで、同時に彼らは地方を代表すべきであるというのです。しかも、その上院に残される最も重要な役割は、<ドイツの第二院>と同様に「授権規範的な観点」から英国の憲法(コモンロー(common law)=、慣習・判例など統一的な意味での不文憲法が事実上の英国憲法)を守らせるため政府と第一院(下院)を監視することだというのです。


<注記2>


・・・現代ドイツ憲法基本法)と議会制の先進的意味については、今までも記事に書いてきましたが、直近のものは下記(★)を参照してください。


★妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503


★“現実のドイツ”が見えない“美しい日本”の悲惨、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070614


<注記3>『憲法ユニット』(The Constitutional Unit)


・・・憲法改革と比較憲法研究を行う独立した中立的団体(NGO)で、ロンドン大学公共政策大学院が中核となって国内外の研究者が幅広いネットワークを構成しており、最近の憲法改革(上院改革)についての提案分析などの活動に取り組んでいる。


1−3 今後予想される「日本の世襲議院」による弊害の拡大(=国民主権の制限、平和主義の危機)


英国の「上院(貴族院)改革」が12名の法服貴族を除けば歳費を伴わぬ名目的・形式的な制度であることに比べると、<日本の世襲議員>の実態が、先ず国家予算の使い方の観点から見たときに如何に非効率であるかが想像できるはずです。しかし、問題はそれだけでなく『世襲=寄生化』による特異な弊害がありますが、この論点の詳細は下記の記事(★)を参照してください。


★<寄生>住血吸虫が取り付いた美しい日本、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070609


歳費を伴う国会議員を中核として形成される政・官・財の閨閥・縁故・利害関係などを介した、時代錯誤的な<現代日本の寄生ネットワーク>が日本社会の至るところに、まるで黴(カビ)の如く蔓延り広がることの最も恐るべき弊害は、彼らの徒党集団的・仲間内的(=お友達的)な利害関係意識の構築が肥大化してゆくことです。


恐らく、そこから芽生えるのは古代・中世の遺物のような、あるいは原始社会における血族単位の報復のように非現代的な“自力救済の方法”であるフェーデ(Fehde/殺人や経済・財産・利権的な損害に対する血讐に近い報復/参照、http://www.weblio.jp/content/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87)のように“古びた特異な感覚”です。例えば、松岡農水相の自殺事件の前後において、その身近な関係者の不可解な自殺が連続して発生していたという事実からは、恰も伏流水の如く潜伏し流れている、このような意味でのおどろおどろしい暗黒のダイナミズムが想像されて身の毛が弥立ちます。


西洋史の流れの中では、裁判権を伴う王権または皇帝権が確立すると「神の名における平和」(=各種の平和令)の公布によって「フェーデによる復讐やリンチ」が禁止されるようになり、究極的には、このような流れの先に「三権分立、法の支配の原則、司法権の独立、憲法の授権規範性」などの民主主義の大原則が次第に成立してくる訳です。例えば、神聖ローマ帝国では1495年8月7日に皇帝マクシミリアン1世(Maximilian 1/位1493-1519)が公布した「永久ラント平和令」(Landfriedensbewegung)によって、自力救済権としてのフェーデは完全に禁止されています。


日本では、その政治権力の中枢がいつまで経っても「世界標準の(先進諸国では市民的な常識となっている)平和の意味」が理解できず、安倍政権による“戦後レジームからの脱却”のような不可解で捩れた、そして“アナクロで病的な平和意識”が梅雨時の毒キノコのように次々と不気味に生えてくるのは、恐らくこのように<世襲・寄生化>した国会議員を中核とする極めてプライベート化した利害関係の隠れたネットワーク(&クラスター)の蔓延りが影響しているのではないかと思われます。


因みに、「日本平和学会/The Peace Studies Association of Japan」(設立、1973年/参照、http://www.psaj.org/)によると、『これまで人類が考え出した平和の実現策』として、下記のとおり、10の累型が示されています。


(1)民主国家統一の強化 (2)集団安全保障 (3)世界政府論 (4)武力均衡論 (5)道義的アピール (6)平和教育 (7)心理的アプローチ (8)分配の平等 (9)官僚の監視 (10)軍縮


どれか一つによる、平和の実現は困難であるので、これらの努力目標を組み合わせることで世界平和の実現を目指すべきだというのが「世界標準の平和についての考え方」であり、この観点から見ても、徹底平和主義を根本に掲げる日本の「平和憲法」(≒一般国民が徹底平和主義の国家理念を第一位の重要な価値観として共有するという平和実現のあり方)が図抜けて高く評価されていることは周知のとおりです。一方で、その日本の為政者たちが“戦後レジームからの脱却”というアナクロニズムを理念として標榜し、それを多くの日本国民が支持してきたことは驚くべき矛盾です(今回の参院選の直前までの状況を見る限り)。


先に述べたとおり「名誉革命の国」であり、そのうえ歴史的な意味で世界の民主主義の模範国でもある英国において、形骸化した「上院(貴族院)」を改革するための真摯な努力が積み重ねられているときに、世界に冠たる「平和憲法」を掲げる日本(美しい国?)の現政権が、まるでフェーデの時代へ先祖がえりでもするような“戦後レジームからの脱却”(=第二次世界大戦前の戦前・戦中型レジームへの復帰=王制復古型の外見的立憲君主制への復帰)に拘るのは余りにも異様でグロテスクで“美しさ”からは程遠い姿です。


そして、我われは、実はその根源にある病巣が増殖中の<世襲議員数の大きさ>の中に巣食っていることに注目すべきです。この<世襲議員>に<ワイドショー型>または<芸能人型>の軽薄な国会議員(ニュータイプの寄生型国会議員)が加わり、それらが相親和し増殖するばかりというのでは世界中のお笑い種です。それは、“美しい国”どころか『日本が民主主義をネタにした自虐的で軽佻浮薄なお笑いタレント国家となる』ことを意味しており、天国のプラトンもビックリ!です。


ともかくも、今の傾向がこのまま続くならば、我が国では歳費(税金)の無駄遣いを伴う「世襲・寄生政治家」と「お笑い&タレント・スポーツ政治家」(ニュータイプの寄生型国会議員)がますます蔓延る一方で、我われ「一般国民の権利」は甚だしく縮小し、我われ一般国民の人権と民主主義の根本が著しく蔑(ないがし)ろにされるばかりです。


しかしながら、冒頭に掲げた、朝日新聞が行った全国世論調査『政党と政治』では『政治に<興味がある>人 → 82%』となっており、この辺には救いがありそうです。従って、民主主義と平和についてのマトモな考え方をどのように拡げてゆくべきか、どのように分かりやすく多くの人々へアピールできるかという点に日本の民主主義の質的改善への希望が残されており、それが日本の指導層・知識層およびメディアの重要な役割であるべきです。


(参考)英国における「上院(貴族院/House of Lords)改革」について


(1)「上院(貴族院/House of Lords)改革」の現況


●1999年のブレア政権下での「上院(貴族院)改革」によって、従来の1,330人から709人へ上院の議員数は約半減している(出典:英国・上院の改革/英国大使館資料、
http://www.uknow.or.jp/be/s_topics/political/political03.htm)・・・一代貴族(592人)、世襲貴族(91人)、聖職貴族(主教)(26人)


●一代貴族は、上院の任命委員会または政党党首の推薦で決まるが最終的な決定権は首相にある。聖職貴族はカンタベリーとヨークの大主教ならびに、その他の主教のことである。


●この上院の中には、12名の法官貴族(=法服貴族/常任上訴貴族/非世襲・勅任)が存在し、英国の司法権の頂点に立つ最高裁判所の機能を持っている。法官貴族のほかに大法官も審理に加わる資格があるが、大法官は首相の下に立つ閣僚であるため党派的偏向を避ける意味もあって審理参加を放棄する旨を表明することになっている。


●この12名の法官貴族(上院議員)を除き、その他の上院(貴族院)議員は“無給”であり、歳費の支出は伴わない。


●2007年3月7日、ブレア政権下で貴族院に選挙制導入を求める決議案が下院(庶民院)で可決され、数年のうちに全議員もしくは大半の議員が選挙で選ばれた者によって構成される見通しが出てきている。


●(既述のとおり)2009年には「連合王国最高裁判所」(Supreme Court of the United Kingdom)が設立され、上院の法官貴族(Law Lords)のいくつかの機能が、ここへ引き継がれる。


(2) 英国における“コモンローの意義”と“貴族院改革の意義”・・・出典:表記のロンドン大学教授ロバート・ハーゼル氏(Robert Hazell)による、http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/gse/gse_chosa14.htm


2−1 コモンローの意義(英国が成文憲法を持たない理由)


●英国は、イスラエルニュージーランドとともに世界で三つしかない「成文憲法を持たない国」である。その理由は英国が文字通りの「名誉革命」の国だから。→ その意味は、民主主義の実現のため王室と国民の“双方の名誉”が守られているという点にある(関連参照、下記(2)-2)。


●英国で成文憲法が作られず、「コモンロー(慣習法)および判例等=不文の英国憲法」となっているのは、英国が1066年の「ノルマン・コンクエスト/Norman Conquest」以降の長きにわたり王国を廃止した歴史を持たないことによる。


2−2 名誉革命が意味すること


●一般的な常識では、市民革命の歴史は17世紀のイギリスに始まると理解されているが、英国と仏・米の市民革命は根本的な性質が異なる。つまり、英国は形式的にせよ革命によっても王国(United Kingdom)を放棄していない、そこでは国王と主権者たる国民(市民)の双方の名誉が保全されている。


2-3 成文憲法のパターン


成文憲法は次の四つの場合に制定される。→ 四つのパターン


(1)革命による王制の打倒・廃棄・・・米・仏


(2)戦争における敗北・・・ドイツ・日本


(3)植民地支配からの独立・・・アフリカ・アジア・中南米諸国など


(4)前政権(政治体制)の崩壊・・・旧ソ連諸国、南ア共和国


●ただ、英国の憲法は「不文憲法」と呼ばれながらも、現実的にはその殆どが文書になっており、「憲法」として一つの文書になっていないだけである。例えば、それは「イングランドスコットランド連合法」、「議会法」、「人権法」などの形で実質的に文章化されている。


2−4 英国「貴族院改革」の意義


●12名の法官貴族(上院議員)を除き、その他の上院(貴族院)議員は“無給”であり、歳費の支出は伴わないことから明らかなように、政治にかかわる冗費の節約が貴族院改革の目的ではない。


●「名誉革命」の伝統を尊ぶ英国は、これからも「国民(市民)主権のUnited Kingdom」であり続けるが、貴族院改革の目的は、名目だけでその殆どが形骸化していた“中世の残滓”(=無用な形式部分)を一掃して英国の民主主義政治が、より一層、国民一般の内実の役に立つものとなる(国民主権が深化する)ようにすることにある。


●この観点からすれば、日本の安倍政権が掲げる“戦後レジーからの脱却”(→目指すは第二次世界大戦前の戦前・戦中型レジーム=王制復古型の外見的立憲君主制:「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問、http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY200705170380.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/kechack/20070520/p1らの支援による)という摩訶不思議な考え方は、英国民にとっては、とても理解し難いはず。


2−5 今後の英国「上院(貴族院)改革」が目指す方向


●先ず英国が学んだのは、カナダ・ニュージーランド・香港などの伝統のコモンロー体系の下で「人権憲章」を導入した「人権法」についての考え方である。


地方分権については、オーストラリア・カナダ・スペイン・ドイツなどから多くを学んでおり、特にドイツの第二院(連邦参議院)を擁するドイツ連邦議会のあり方が重要と考えられている(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503)。


●これらを参考としつつ、新しい「英国の第二院」は、一部が政党の指名者、一部が選挙で選ばれた議員から構成され、その第二院の全体は英国の各お地域を代表すべきだと考えられている。そして、この第二院の最も重要な役割は<その暴走を防ぐための政権への監視と憲法を守る機能>である。


・・・・・


[フランクフルトの概観]−欧州のゲートウエイ・交流都市、金融・経済都市フランクフルト−


フランクフルト・アム・マインは、マイン川とライン川が合流するマインツから30kmほどマイン川を遡ったところにあり、ヘッセン州に属する人口が約65万人の国際都市です。後述するとおり、フランクフルトには“フランク人が川(マイン川)を初めて渉った浅瀬”という意味があります。つまり、このフランクフルトは、ライン左岸地域(古代ローマいらいの文化的先進地)から未開のゲルマン人たちが住むライン右岸から更に奥の地域への渡渉地点であったということです。


が、やがて、このフランクフルトという言葉は“交通の要所、通過し易い場所またはゲートウエイ”という意味合いで使われるようになります。従って、ドイツの北東部でポーランド国境に位置する都市である、もう一つのフランクフルト、つまりフランクフルト・アン・デル・オーダー(Frankfurt an der Oder/ブランデンブルク州のオーダー川沿いの都市)は、ポーランドとの国境にある“交通の要所”という意味で名づけられ都市名です。


ヴェッテラウ平野(Wetterau)の南端にあり、比較的温暖で肥沃な土地であったこの地方には先史時代からの人類の足跡があり、前述のとおり、古代ローマ時代には“ライン左岸地域とゲルマ−ニア(ドイツ)の内部を結ぶ通り道”の役割を果たしていました。AD83〜86年にわたり、マインツに駐屯していたローマ軍団はゲルマン部族の攻略に乗り出し、マイン川右岸(マイン川の北側)で現在の大聖堂(ドム)がある丘の上あたりに前哨基地を設け、100人程度のローマ軍兵士を駐屯させました。これが、現在の「レーマー(ローマ人→市庁舎の名へ転化/Roemer)、レーマー広場」の名の起こりだとされています。


フランク王国(中初期〜 )〜神聖ローマ帝国」時代の主な歴史の流れは、後述の「EU経済の中心地フランクフルトの都市性格を決定したヨーロッパ中世〜近世史」に譲りますが、神聖ローマ帝国の下でフランクフルトが大きな役割を担うのはホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen/1138-1208、1215-1254)になってからで、同朝初代国王のコンラート3世(Konrad 3/王位:1138 -1152/実際に皇帝にはなれなかった人物)は何度か帝国議会 (Reichstage) をここで開いたほか、ここでは同王朝によって新たな王城 (Saalhof)も築城されたようです。


12世紀中葉には、ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭王)(Friedrich 1Barbarossa/帝位:1152-1190)の選出がフランクフルトで行われました。これを切欠にドイツ王の選挙を行う地 (16世紀央以降は戴冠地も兼ねる) としての伝統が生まれたとされています。1356年にはルクセンブルク朝(Luxemburg)の神聖ローマ皇帝カール4世(Karl 4/帝位1346‐78)発布の「金印勅書」は今も残るドム(Dom/正式にはバルトロメウス大聖堂(St. Bartholomeus Dom/13〜15世紀建造)を帝国法上で公式の国王選定場所と定め、1562年からは戴冠式もここで行うことになりました。


また、王城周辺の集落から発展したフランクフルトの市街地は、13世紀中葉に大空位時代(1256-1273/ホーエンシュタウフェン朝が断絶した後に皇帝位が空白となった)の混乱の中で都市としての自立性を強化して諸侯と同格の「帝国都市」を名乗るようになります。なお、フランクフルトの「市参事会」の名が記録文書に初めて出るのは1266年、「市長」の名が初めて出るのは1311年です。1994年にフランクフルトでは開市1200年の記念行事が行われましたが、これは794年のカール大帝(Karl der Grosse/位:768-814)の文書にフランクフルトの地名が初めて出てくることに因んだものです。カール大帝はフランクフルトを指して“交流の盛んな活気がある場所”と呼んでおり、既にこの時代からフランクフルトのゲートウエイ都市の性格が運命づけられていたようです。


フランクフルトは金融都市としての特徴を持っていますが、現在は約400の金融機関で約8万人の人々が働いており、その金融機関の半数以上は外国企業です。世界の20大銀行のうち16のドイツ支店が、フランクフルトに立地しており、ヨーロッパの一流銀行の大半がそのドイツ本社をここフランクフルトに置いており、ドイツの5大銀行のうちの4社 も同様に本社がフランクフルトにあります。 また、ここは欧州中央銀行(ECB/European Central Bank)とドイツ連邦銀行(Deutsche Bundesbank/ドイツの中央銀行)の所在地であり、フランクフルトは欧州通貨同盟とヨーロッパの金融政策の中心地となっています。


フランクフルトも第二次世界大戦における連合軍の空爆で旧市街地の90%以上は破壊されましたが、市庁舎レーマー、大聖堂(ドム)などレーマー広場を中心とする地域に立地する建造物を中心に修復・復興への取り組みが逸早く開始されています。しかしながら、ドイツに駐留した連合軍の主な行政機構がフランクフルトに置かれた影響で近代的ビルの建築も急がされたため、ドイツの他都市に比べるとフランクフルトには歴史的建造物の見所が、やや少なく感じられることも事実です。


[EU経済の中心地フランクフルトの都市性格を決定したヨーロッパ中世〜近世史]


フランクフルトのスカイライン(夜景)
ウイキメディアより


ユーロタワー(Eurotower/欧州中央銀行
三枚目は「ECB Hp.」(http://www.ecb.int/ecb/visits/how/html/index.en.html)より


ユーロタワー(Eurotower/欧州中央銀行・本部ビル)はEU欧州連合)の経済・金融統合の象徴的な存在ですが、その場所は大聖堂(ドム)などがあるレーマー広場の東側へ500mほどの場所(Kaiserstrasse 29)にあります。


このユーロタワーが立地する地区はマンハッタンをもじってマインハッタンと呼ばれることもありますが、それは、ユーロタワーの他にもコメルツ銀行タワー(Commerzbank/アンテナを入れて約300m/上掲画像『フランクフルトの夜景』の中央部に聳えている)、メッセタワー(Messetower/ヨーロッパ最大級の見本市会場であるフランクフルト・トレード・フェアの中心に立地)、日本センター・ビル(Japan Zentrum)、ヴェストハーフェンタワー(Westhafentower)、マインタワー(Maintower/フランクフルトで最初の高層ビル)などの超高層ビルが欧州で随一とされる美しいスカイラインを見せているからです。


(1)欧州における「国家フレームと各国語」の芽生えとフランクフルトの位置づけ


(ガロ・ロマン時代〜フランク王国〜独・仏・伊語の成立期/およそ4〜9世紀頃)


・・・詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070217を参照


西ローマ帝国が滅亡(476年)したあと、西欧世界は言語上の大混乱期に入ります。それは、ローマ帝国の政治権力体制が瓦解したことによって、今まで支配と統治のための言語として使われてきた古典ラテン語(ローマ時代の公式な文語)の権威が次第に弱まることになったからです。


この時代に先行するガロ・ロマン時代(Gallo-Roman period/BC3世紀末〜AD476年)、つまり共和制ローマから帝政ローマ時代の滅亡までに至る約700年間の西欧世界の公式な言語(行政用語)は古典ラテン語でした。無論、この間のガリア地方(現在のフランス全土及びドイツのライン左岸を中心とする地域)では、現代のフランス語・ドイツ語などにつながる地域言語・部族言語の変化が進行していました。そこで大きな役割を果たしたと思われるのが俗ラテン語(口語として使われていたラテン語)です。つまり、俗ラテン語は、この間にケルトやゲルマンの部族言語の変化に対して大きな影響を与え続けていた訳です。


やがて、5世紀頃になるとガリア地方のケルト語は俗ラテン語の中で消滅したと考えられています。一方、イタリア半島に残った俗ラテン語はイタリア語の中核(原型)を形成することになるのです。そして、このような言語状況が進むガリアの地において、次第にフランス語とドイツ語の輪郭が立ち上がってきますが、このような変化が著しく進んだ時代は、フランク王国が成立・発展し滅亡するまでの時代にほぼ重なります。


フランク王国は、中世ヨーロッパの前半に成立していたフランク族ゲルマン民族に属す)の王国です。481年頃、クロービス(Clovis/ca465〜511/サリー支族の王子)はライン川の北に住むフランク族の一派で自らが属するサリー支族、その下流に住むレミ支族及びリブリア支族などを統一してライン川を南へ渡り、当時トキサンドリア(Toxandoria)と呼ばれていたあたり(現在の北フランスのシェルデ川とベルギー地方に跨る地域/およそフランドル地方に重なる/ローマ時代からの重要拠点でローマの主力軍団が置かれた)から北フランス(ほぼ現在のイール・ド・フランス(中心地パリ/古称ルティティア)、シャンパーニュ、ロレーヌ地方に及ぶ地域)でメロヴィング朝フランク王国メロヴィングはクロービスの祖父の名メロービスから命名)を建国しました。


その後、クロービスはチューリンゲン族を攻撃してフランク北部(現在の中部ドイツ)を押さえ、ブルグンド王国と同盟を結び現在の中部フランス・南フランス・北イタリアあたりの政治環境を安定させます。また、フランクフルトは、6世紀に入って早々にクロービスがアラマン族(ゲルマンの支族)を南方へ駆逐してマイン川を渡った地点という意味で、この都市名(フランクフルト・アム・マイン/Frankfurt am Main/Furtは歩いて川を渡れる渡渉点または浅瀬の意味で)が付けられたとする説が有力です。


このようにして、全ガリアの政治状況を安定させたクロービスは、496年のクリスマスの日にランス(Reims/シャンパーニュ地方・レミ支族(Remi)の中心都市/Remi→Reimsに転訛)の司教レミギウス采配下のランス・ノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame de Reims/ca5世紀〜 )で配下の兵士たち約300人とともに洗礼及び塗油の儀式を受け、異端アリウス派から正統アタナシウス派キリスト教に改宗します。このようにしてローマ教会と手を結んだフランク王国は異教徒を撃退しながら、その領土を拡大することになります。


732年、フランクの分国アウストラシア(フランク王国の東北部、現在のシャンパーニュ周辺でランスが中心地)の宮宰(本来はメロヴィング家の家政を仕切る執事的な存在/王権の凋落とともに行政の実権を掌握)のカール・マルテル(Karl Martel/ca689-741)が“トウール・ポワティエ(間)の戦い”(実際の戦場は未詳)でイベリア半島からピレネーを越えて侵入したウマイヤ朝イスラム軍を撃退します。


更に、カール・マルテルの息子・小ピピン(Pippin3世/Pippin der Jungere/714-768)は、ローマ教皇よりメロヴィング家から王位を簒奪することについての了承を得てカロリング朝カロリング朝は後になってからカール大帝の名を取って命名された)を興します。更に、小ピピンは息子カール(後のカール大帝)に命じてランゴバルド王国(6世紀に北イタリアで栄えたゲルマンの一派、ランゴバルド族の王国)を滅ぼし、その中心都市であったラヴェンナ周辺の土地をローマ教皇ハドリアヌス1世へ寄進し、これが教皇領の始まりとなります。


800年にローマ教皇レオ3世は、教皇領寄進を始めとするローマ教会への貢献を評価して、小ピピンを継いだカール大帝(Karl der Grosse/Charlemagne/742-814、位:768-814/身長195cmの体躯から命名)に「ローマ帝国の帝冠」を授けます。その結果、名目上ではあるにせよ、ここでローマ帝国が復活したことになり、同時にそれはフランク王国東ローマ帝国ビザンツ政権、ビザンツ文化圏)の影響から脱したことを意味するとともに、ローマ・キリスト教文化とゲルマン文化が本格的に融合したことを象徴する出来事でもありました。
なお、文書史料にフランクフルト・アム・マインの名(フランコノフルト/Franconofurd)が最初に登場するのは794年のことで、この年にカール大帝はヨーロッパ全土から聖俗高位者をフランクフルト・アム・マインに呼び集めて、その王宮の広間でバイエルン大公タッシロ3世の廃位、異端アリウス派の禁止などの重要問題を討議したとされています。


このような激動の時代(5世紀〜9世紀頃)の中で、古典ラテン語(文語ラテン語)は単語や正書法が著しく変化し、乱れ始めていました。しかし、ローマ時代に辺境の地とされたイングランドアイルランドには古典ラテン語の文化がそのままの形で保存されていました。このため、カール大帝イングランドアルクイン(Alquin/ca730-804/イングランド神学者)らの学者を招聘し、トウール、サン・ドニ、アーヘンなどにラテン語学校を建設して正統な古典ラテン文化の復興をめざしました。このため、カール大帝の時代はカロリング・ルネサンスとも呼ばれています。


やがて、カール大帝の子であるルードヴィヒ1世・敬虔王(Ludwig1/独Ludwig der Fromme/仏Louis le Pieux/778-840)が死ぬと、カール大帝の4人の孫たちの領土争いが始まり、843年のヴェルダン条約で、東フランク王国(現在のドイツ地方を中心とする国/ルードヴィヒ2世が統治)、西フランク王国アキテーヌ地方(上のルードヴィヒ1世の子、ピピンアキテーヌ王が統治)以外の現在の北・西部フランスに重なる国/シャルル禿頭王が統治)及び中部フランク王国(現在のオランダ・ベルギー・ブルゴーニュ・スイス・プロヴァンス・北イタリアを中心とする国/長兄であるロタール1世が統治)の三つの国に分裂しました。


更に、ロタール1世が死ぬと中部フランク王国の領土は870年のメルセン条約で東西に分割され、結局、旧フランク王国の領土全体が現在のフランス(西フランク)、ドイツ(東フランク)、イタリア(北イタリア地方)の三つの地域に分かれることになります。


(2)国際金融都市フランクフルトの成立とユダヤ人の活躍


(ヨーロッパ共通の祖国へ繋がる交流拠点となってきたフランクフルト)


このような訳で、中世前期〜中期のフランク王国からドイツ・フランス・イタリア三国が成立するまでの歴史を概観すると、ドイツ語・フランス語・イタリア語の成立のプロセスと、ヨーロッパにおけるフランクフルトの特別な位置づけが理解できます。つまり、フランクフルトの国際金融都市としての性格が各民族の交流の積み重ねの中から徐々に形成されてきたこと、そして、特にフランクフルトが、ドイツ・フランス両国のみならずヨーロッパ各国にとって共通の祖国であるフランク王国への歴史的な橋渡しの役割を担ってきたということが理解できるはずです。


ところで、13世紀頃までにはフランクフルトで定期的なメッセ(Messe/大市/教会のミサ(メッセ)と共通の用語)が開かれていたことが分かっています。例えば、カロリング朝フランク王国の王・カール大帝(独Karl der Grosse=仏Charlemagne、シャルルマーニュ/位768-814)の時代には、フランクフルトの聖バルトロメウス聖堂(現在のDom)前の広場では定期的に週1回の市が立ち、周辺から農民などが訪れ日常品の交換が行われ、夏の終わりには、王領で収穫された穀物などが大量に運び込まれて、秋の定期市も開かれました。


ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(Friedrich 2/帝位:1215-1250)は、メッセを公認しており、全てのメッセへの訪問者を帝国による保護の対象とする勅令を発布しました(当初は秋のメッセのみで14世紀以降は春秋2回となる)。 このようにして、フランクフルトは地中海と北海・バルト海の交易の中継地点として栄えることとなり、その経済力を背景にして、1372年には「帝国自由都市」となっています。


このような訳で、フランクフルトは、ヨーロッパの陸路と河川交通(マイン〜ライン川)の一大拠点としての地の利から神聖ローマ皇帝の選挙と戴冠が行われる都市、神聖ローマ帝国の特権を得た帝国自由都市、同じく帝国議会の開催都市として大いに発展することとなり、必然的にグローバルな交流拠点としての性格を強め、やがてフランクフルトは、ドイツのみならずヨーロッパで最も重要な都市の一つとなります。そして、特にグローバルな経済活動の拠点として、継続的に各種の商取引、見本市、金融業務などが活発に行われたため各国・各地から商人たちが集まる交易都市となりました。


現在のフランクフルト証券取引所(Frankfurter Wertpapierboerse/世界第4位規模の株式市場)の起源は、少なくとも1585年以降にその存在が確認されている『各国の貨幣の交換相場を決定するための組合』(ブールス/Bours)です。また、このような経済・金融発展史のなかで、商取引と金融業だけが唯一の生きる手段であったユダヤ人がフランクフルトに集まるのは必然であったと考えられます。ともかくも、このような流れの中から、近世〜現代の国際金融都市フランクフルトが誕生したのです。


ユダヤ人銀行家たちの活躍)


元々はユダヤ系の銀行・金融業であったロスチャイルド家(Rothschild/主にイギリスとフランスに拠点を置き活動中)は、フランクフルトを故郷とするユダヤ系の多国籍コングロマリットです。1743 年にユダヤ人の金細工師・アムシェル・モーゼス・バウアー(Amschel Moses Bauer)がフランクフルト・アム・マインに両替店(後に、それが銀行へ発展)を開いた時、その店の入り口には「ローマ帝国の双頭の鷲を描いた赤い楯」 の看板が掲げられていました。その後、この「ローマ帝国の双頭の鷲を描いた赤い楯」の紋章は帝政ロシアの軍服の襟章となったため、ロスチャイルド家の紋章は獅子と一角獣が王冠を支えるものへと変わりますが、その中央部には小さな赤い紋章と双頭の鷲の図像が描かれています。


やがて、そのフランクフルト・アム・マインの両替店は「赤い楯の店」(the Red Shield firm)と呼ばれるようになり、その存在はヨーロッパ中に知られるようになります。そして、このRed Shield (独語:ロートシルト=Rothschild/英語:ロスチャイルド=Rothchild)こそがロスチャイルド家の名の起こりであり、このアムシェル・モーゼ ス・バウアーの息子としてフランクフルトに生まれたのが、現在のロスチャイルド家の始祖とされる銀行家、マイアー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild /1744-1812)です。


17〜19世紀にかけてのフランクフルトにおける私立銀行の設立はユダヤ人によるものが多く、19世紀後半にあった210の銀行の85%以上はユダヤ人が経営していたと言われています。これらの銀行は、一般大衆を相手にするのではなく、王侯貴族や各国政府への貸付、外国為替取引、債権・証券の売買を行っていました。そして、フランクフルトの金融業は、1836年にプロイセン王国(Koenigreich Preussen/1701-1918)配下の関税同盟に加入してフランクフルト市の経済圏が大きく拡大したとき、即ち商取引と見本市が活発化した1830〜1840年代に飛躍的に発展することになります。この時いらい、近・現代的な意味での金融・経済都市フランクフルトが形成されたのです。


第一次世界大戦後のワイマール時代(1919年〜1933年)においても、フランクフルトにおける私立銀行の6割強はユダヤ人の所有で、その割合はベルリン、ハンブルクなどよりも多かったとされています。このように概観すると、19世紀からナチス政権が成立する頃のドイツ全体に占めるフランクフルト金融業界の大きさが分かります。ヒトラーが、フランクフルトをユダヤ人の街と名づけて嫌った理由が、この辺りに窺われます。しかし、フランクフルトは中世から近代にかけてヨーロッパの中で最も多くの外来者を受け入れてきた市民的開放性を持つ都市なのです。


・・・・・


レーマー広場(Roemerberg Platz)


紀元1世紀、マインツに駐屯していたローマ軍団に属する100人程度のローマ軍兵士たちが、このマイン川右岸にある丘に駐屯していたという歴史から、この一帯は元々ローマ人の丘(Roemerberg)と呼ばれていました。そのため、ここに建てられた市庁舎がレーマーと、そして、この丘(広場)がレーマー広場と呼ばれるようになったのです。


この広場の周囲には、都市貴族たちの館、旧レーマー(旧市庁舎)、聖ニコライ教会などが修復・復元されて往年のままの姿を残しています。一枚目の右端は聖ニコライ教会、二枚目の奥に聳えるのはドムの尖塔、三枚の右手に見えるのは旧レーマー(旧市庁舎)です。


旧レーマー(旧市庁舎)


旧レーマーはフランクフルトのシンボル的な存在です。1405年、市当局は3件の建物を都市貴族から買い上げて市庁舎に改造しました。中央にある大きな建物は、長い間ローマと取引をしていた豪商が所有していたものです。各建物の入り口は馬車が商品を積んだまま出入りできるように大きく造られています。


新レーマー(新市庁舎)


聖ニコライ教会 (St. Nikolaikirche)


レーマー広場のマイン川沿いに建っている教会ですが、元々は神聖ローマ皇帝の宮殿付礼拝堂でした。それが後に市参事会員教会(Ratskirche)となったことが、今までの発掘と研究で確認されています。


聖ニコライ (St. Nikolai/? - ca350年)は、小アジアのミラ(Myra) の司教ですが、海難を避ける船乗りの守護者とされています。その遺骨は、1087年にイタリアのバリ に移されており、東方教会ローマ・カトリック教会で聖人とされています。


最初の教会は、1440ころに後期ゴシック様式で建てかえられ、その後に市参事会員のための教会となったようです。塔の周歩廊には1460年以降、塔守が立つようになり、マインツ(司教座都市)からマイン川を上って市場に来る船の到着を告げるラッパを吹いていました。


ドム(Dom/St. Bartholomaes Dom)


これは聖バルトロメオ(St. Bartholomaes )に捧げられた教会です。1152年以来ここで神聖ローマ帝国皇帝の選挙が行われ、1562年からは皇帝の戴冠式もここで行われ るようになりました。


ドムは、別名カイザードーム(Kaiser Dom/皇帝の大聖堂)とも呼ばれていますが、ドムは教会の位を表す名称であり、司教座の置かれた教会のみが名乗れることになっています。元々の建物は9世紀に造られたロマネスク様式の教会でしたが、13〜15世紀に現在のゴシック様式の教会に改築されています。


パウルス教会(Paulskirche)


フランス革命勃発の頃から、ルネサンス様式で建て始められた楕円形の教会です。仏ナポレオン軍の占領時代には建築が中断され、完成したのは1833年です。


1848年の3月革命のあと、ドイツ史上で初めての選挙に基づく代表者によって、国民 の基本権と民族の統一が論じられた「第1回ドイツ国民議会」(フランクフルト国民議会、Frankfurter Nationalversammlung/憲法制定、自由主義ドイツ統一などを討議したが、結局、オーストリアプロイセン両有力君主国の支持を得られず頓挫)が開催された場所です。


このため、東西ドイツ統一が実現する前には、この教会が民族統一のシンボルとみなされてきました。このような意味で、 ドイツ国民にとっては歴史的に由緒ある建物です。現在の建物は戦後1948年の「国民議会100周年記念」の日に、全国からの寄付で再建されたものです。今は、各種の公式行事とともにゲーテ賞・ドイツ出版平和賞の授与式などが行われています。その外壁には名誉市民を記念する銘板が取り付けてあります。


聖カタリーナ教会(St.Katharinenkirche)


元々は女子修道院および施療院として建てられ混合様式の教会で、 1343年に都市貴族フロッシュが寄贈しています。1678〜1681年にかけて古い教会は取り壊され、新しい教会が建てられました。フランクフルトにおけるプロテスタントの首席教会の位置づけにあり、ここで洗礼と堅信式を受けたゲーテが礼拝に訪れた教会でもあります。


ゲーテ・ハウス(Goethe-Haus)


1749年8月、ゲーテJohann Wolfgang von Goethe/1749-1832)は、この家で誕生し、1775年(27歳)までの青春時代をここフランクフルトで過ごしました。この家は、第二次世界大戦で全壊しましたが、今は完全に復元されています。


ゲーテが誕生した当時の父カスパーは、まだ39歳ながら帝室顧問官の名誉職にあった人物ですが、出生の翌8月29日にゲーテは自宅からほど近いプロテスタントのカタリーナ教会で洗礼を受けました。当時は未だ出生児の死亡率が高かったため、洗礼で一日も早く原罪を清めて、いつ死んでも天国に行けるように備えた訳です。


ゲーテが生きた18世紀半ばから19世紀前半にかかる時代は、ドイツが三十年戦争(1618-1648)以後に起こったフランス革命の余波(影響)を受けて、中世以来の領邦小国家体制と神聖ローマ帝国の支配に終わりを告げる時であり、それは国民意識に目覚めたドイツの市民ブルジョアたちが民主国家を目指して本格的に歩みだした変革と激動の時代であることを忘れるべきではないと思われます。


「正義の女神の泉」に立つユスティティア(Justitia or Libra or Lady Justice)
二枚目はウイキメディアより


ユスティティアは、ローマ神話に登場する正義と公正の女神です。裁判所などでは、天秤と剣を手にし目隠しをしたユスティティアの像 を飾る習慣があります。この女神像は、国際交流都市フランクフルトの中心であるレーマー広場の中央で、交易・交流および様々なコミュニケーション活動の公正を見守っています。


フランクフルト大学、フランクフルト学派
http://www.uni-frankfurt.de/english/about/index.htmlより


1914年10月に開校したフランクフルト大学(Universitaet Frankfurt am Main、http://www.uni-frankfurt.de/english/about/index.html)は、ハイデルベルク大学(1386〜)、マインツ大学(1477〜)、マールブルク大学(1527〜)、ヴェルテュブルク大学(1582〜)など周辺の大学と比べると、とても新しい大学です。


これら周辺諸都市の大学はすべて教会または世俗領主による創立ですが、フランクフルト大学は、国家からの補助を一切受けずに、当時のアディケス市長(Franz Adickes/ 1846-1915)の尽力によって、もっぱら市民の寄付でできたドイツで唯一の寄付金大学です。


この大学の元となったのがゲーテらの推奨で、すでに1817年にできていたゼンケンベルク自然科学研究所(Senckenberg)ですが、この研究所は今もゼンケンベルク自然史博物館(http://www.senckenberg.de/root/index.php?page_id=71&preview=true)として存続しています。


なお、1930年代以降にフランクフルト大学の社会研究所(Institute fuer Sozialforschung)で活躍した、フランクフルト学派(Frankfurter Schule)と呼ばれる一群の思想家たち(ホルクハイマー、アドルノベンヤミン、マルクーゼ、フロム、フランツ・ノイマン、ハバーマス、アルフレド・シュムットなど)が存在します。彼らは、西欧的マルクス主義精神分析学、アメリ社会学などの影響下で「独自の厳正・中立な批判理論」を展開し、現代も大きな影響を与えています。


フランクフルト市街にある書店の風景


14〜15世紀ころのフランクフルトでは、他のヨーロッパ諸都市に先駆けて、それまでの遍歴的商人や手工業者などに代わり、都市に定住しつつ正確な記録文書(ドキュメント)と信用できる代理店(代理機関)を使ってあらゆる物産・商品を集める大商人が活躍するようになり、更に、彼らは各地に支店を持つ商事会社へ発展して行きました。そして、彼らがフランクフルトの大市の伝統的な活動を支え続けることになります。この伝統は、現代の「フランクフルト国際見本市」(Messegelande Frankfurt/参照、http://www.earthnavi.com/europe/frankfurt_am_main/business/69926/index.html)に繋がっています。


中世末期(15世紀)になると、このようなフランクフルトのビジネス環境の中で従来と全く異なる分野である文化的な商品、すなわち「書籍取引」が加わりました。既に1427年ころには、木版印刷業者がフランクフルトの大市でトランプや聖画などを売っていたことが知られています。やがて、1445年に近隣の都市マインツグーテンベルク活版印刷術を発明すると、印刷ブームが起こり、他の諸都市に先駆けて「書籍市(ブック・フェアーorブーフ・メッセ)」が行われるようになり、それが現代の「フランクフルト・ブックフェアー」(毎年行われる世界最大の書籍市/参照、http://www.geocities.jp/hugu9een/frankfurtbookfair.html)に繋がっています。


このような市街に満ちた伝統文化の空気はフランクフルトの学術・芸術・ジャーナリズムなどの奥の深さを演出しています。ともかくも、街を散策すると書店が多いことに気づきます。


オペラ座(Alte Oper)、新オペラ座(Schauspielhaus)
旧オペラ劇場の画像はhttp://www.geocities.jp/dokidokigermanhours/newpage137.htmlより、新オペラ劇場の画像はhttp://blog.zgm.jp/?eid=618766より


その上演が世界的に高く評価されているフランクフルト旧オペラ劇場(Alte Oper)は、イタリア・ルネサンス様式の建物です。元の建物は空爆で崩壊したため寄付金等によって1981年に再建されています。また、新オペラ座(Schauspielhaus)は、価値の高いオリジナル作品で地元と国内のオペラ芸術に新しい方向性を与え続けています。


シュテーデル美術館(Das Staedel oder St臈elsches Kunstinstitut)
ウイキメディアより


シュテーデル美術館は、18世紀後半〜19世紀初頭にフランクルトを中心に活躍した銀行家ヨハン・F・シュテーデル(Johann Friedrich Staedel/1728-1816)の遺言により、彼のコレクションを主体に美術研究所付・美術館として1817年に設立されました。シュテーデルの死後は、多くのフランクフルト市民による絵画の寄贈が続き、市民の寄贈による絵画コレクションという点が、この美術館の特徴になっており、約2,700点の絵画、600点の彫刻、100,000点のグラフィックアートなどを所蔵しています。


巨匠のコレクションとしては、ホルバイン、クラーナハボッティチェリデューラーレンブラントフェルメールなど14世紀〜18世紀までの絵画があります。また、19世紀〜20世紀の画家としてはモネ、セザンヌらの印象派、キルヒナー、ベックマンらの表現主義者、ピカソやディックスなど新古典主義の画家による作品があります。また、美術史・絵画・造形芸術・写真に関する文献・雑誌を取りそろえたシュテーデル図書館も一般開放されています。


フランクフルト国際空港


現在、ロンドン・ヒースロー国際空港に次いでヨーロッパで二・三位を争うフランクフルト国際空港は年間5,000万人以上の搭乗客と約480,000回の離着陸があり、ヨーロッパにおける国際輸送の要所となっています。


また、フランクフルト国際空港は、その利用者数が多いため空港への交通の便が非常に良くできています。ヨーロッパで最も交通量が多いアウトバーンのフランクフルト・インターチェンジが近くにあり、空港ターミナル1には遠距離列車と近距離列車が乗り入れています。また、この空港には1万台以上の収容力を持つ世界最大の地下駐車場が整備されています。


フランクフルトの風景、ア・ラ・カルト1(三越フランクフルト支店)


フランクフルトの風景、ア・ラ・カルト2(市街地にある市場)


フランクフルトの風景、ア・ラ・カルト3(デパートGaleria)


フランクフルトの風景、ア・ラ・カルト4(地下鉄通路ほか)


・・・これで、「2007年春、ドイツ旅行の印象」の連載は終わります・・・

           Auf Wiedersehen、Goodby Deutschland.  Wann kann es vermutlich treffen?