toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

国民の批判精神の欠如が“小沢一郎流”日本的カリスマの横暴を許す


Sarah Brightman & Jose Carreras - Amigos Para Siempre (Live)


今回の小沢辞任劇のゴタゴタは、取り上げること自体が腹立たしくなる問題です。しかし、何故に、このような『悪徳へ偏向した人物の横暴』が幅を利かすのか、その根本を再考させてくれただけの“功績”を認めることはできそうです。無論、それは二度目の守屋武昌・前防衛事務次官の証人喚問を目前として防衛利権の巨悪の暴露を覆い隠す煙幕(e.g. → 守屋・前防衛事務次官参院外交防衛委での証人喚問は15日に延期、http://mainichi.jp/select/seiji/news/20071107k0000e010050000c.html)、つまり狡猾な“旧自民党的な体質”出自のダメージコントロールの問題を脇に置くとすればのことですが。


そして、このような時こそ政治権力のアンドロジナス(Angrogynous/雌雄同体)的性質を制御し続ける必要性についての理解が民主主義の根本であったことをリアルに想起すべきです。なぜなら、そのような理解の劣化の程度と逆比例的に、あのオゾマシイ<小泉劇場の狂乱>が再来する可能性が高まると考えられるからです。


しかも、残念ながら我が国では<現実的な批判勢力の不在>が長すぎたため、言い換えれば<現実的な批判力の意義を理解する国民意識の芽生え>が遅すぎたため、『私は、今日も、これからも、昨日のように変わり続けなければならない』(ランペドゥーサ原作『山猫』の主人公、サリーナ公爵家ドン・ファブリツィオの言葉)という、民主主義国家にとって最も根本的な精神が、この段に至っても、未だに凡ゆる局面(=政・官・財・学、国民一般、企業、地域社会、マスメディア)において形成されていないため、絶えず、このような揺り戻しのリスクが付き纏っているのです。


つまり、本来であれば、「公正 (Fairness=関係者どおしでの正義)と公平(Impartiality=客観的・第三者的な立場での正義)を保持するという意味で、あるべき普遍的理念としての民主主義の未来」と「それを求めて絶えず変わり続ける国民・市民意識・政治」があるからこそ「多様で地域個性的な現実の民主主義」と「生存権が保障された一般国民の主権」が保証されるということについての根本的な理解がスッポリ日本の社会から欠落しているということです。


このため、日本の社会一般に見られるのは『Amigos Para Siempre = Friends For Always 』(参照/冒頭のYou Tube)ではなく『“残飯国家”で特権的に私腹を肥やそうとする偽装と談合』(“残飯国家”については下記記事★を参照)の人間関係ばかりが幅を利かすということになっているのです。

★2007-11★[2005-11-05]付toxandoriaの日記/アダージョの風景、ララ・ファビアンと晩秋の仙台、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20071105


このような根本問題の再考のため、旧い記事ですが[2005-07-27付toxandoriaの日記/シリーズ、『市民政治』の再生を考える[2]、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050727]の内容を下に再掲しておきます。この記事の中で<日本国内に漂う暗雲のルーツ=「特別会計」と「特殊法人等」という二つの特徴的な病巣]を[守屋・元防衛事務次官の問題に象徴される防衛疑獄事件]に置き換えると、相変わらず日本の根本的な体質改善が進んでいないことが分かります。


無論のこと、前者《 二つの悪徳=杜撰きわまりない「特別会計」と「特殊法人」関連の問題 》も依然として放置されたままで殆ど手付かずの状態となっていることは周知のとおりです。


・・・・・・・・・以下、[2005-07-27付toxandoriaの日記/シリーズ、『市民政治』の再生を考える[2]、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050727]の再掲・・・・・


【画像】


ドラクロア『民衆を率いる自由の女神

Eugine  Delacroix(1798-1863)Liberty Leading the People (28th July 1830) Oil on Canvas Completed in 1830 325.0cm x 260.0cm Louvre 、 Paris France


・・・フランスが生んだ最も偉大な芸術家の一人とされるウジェーヌ・ドラクロアロマン主義絵画を代表する画家です。ロマン主義は、18世紀後半から19世紀前半にかけてヨーロッパを風靡した芸術・文学運動であり、丁度、この時はフランス革命からナポレオン帝政にかかる頃の時代です。しかし、この時代のフランスにおける公式の絵画はダヴィッド(J.L.David/1748-1825)が代表する新古典主義でした。そこではギリシア・ローマの古典・古代彫刻に範をとって純粋な線で理想美の造形を描くことが目的とされ、それは英雄精神や崇高美のような理念的な美の表象が追求される時代でした。また、このような理想主義的な美意識は革命精神を支えた啓蒙思想の理性主義と共鳴したのです。


・・・ しかし、フランス革命の精神は理性主義だけが支えたのではなく“情熱”(情念)こそが大きな役割を果たした側面があったのです。その“情熱”(情念)こそ が、自然・社会・人間性などが人間に対して隠し持つ恐るべき深淵(矛盾に満ちた世界の現実)を覗き見る勇気を与えたのです。このようなフランス革命におけ る、もう一つの人間性の現れである“情熱”を「均整に対置する破格や動のデッサン」と「鮮やかな色彩」の配置で個性的に表現したのがドラクロアです。


・・・ブルボン朝シャルル10世の反動政治に対してパリのブルジョア市民や学生が中心となって起こした市民革命が「七月革命」(1830)です。この市民革命は、時代錯誤的な王・シャルル10世に対する「市民の自由」の勝利ですが、この時の「自由の理念」はロマン主義運 動の思想的バックボーンでもありました。別に言えば、それは「権力に対する批判精神」を発動する自由ということです。ドラクロアの傑作絵画『民衆を率いる 自由の女神』は、きわめてリアルな市民戦争のシーンに「寓意的な自由の女神像」を描き入れており、一見すると場違いのような幻惑感の中で「市民精神の自 由」(理性と情熱(情念)が結んだ批判精神の輝き)を見事に開花させています。


2  日本国内に漂う暗雲のルーツを探る試み


 アメリカ・ブッシュ政権の「特殊な強い意志」(新自由主義思 想)が暗雲となり、21世紀のグローバル世界を被いつつあることは確かに一つの不幸な現実ですが、そのことと日本国内の政治・経済状況の甚だしい混迷が同 じ一つの現実であるかのように見なすことは間違いだと思われます。日本国内では、このような世界を被いつつある黒い潮流とは明らかに異なる水源から溢れ出 した「特別な暗黒の潮流」が連綿と脈打っています。しかも、その「特別な暗黒の潮流」は日本の近・現代史を貫きとおす形で日本の社会システムと日本人の精 神構造に根深く張りついているのです。


 現在、日本道路公団発注の鋼鉄製橋梁工事談合事件が連日のトップニュースを飾っています。しかし、我々一般国民は、この事件を単なる勧善懲悪劇的な興味と関心だけで見過ごすことは許されません。なぜなら、この談合事件の背後には日本道路公団労働福祉事業団など、つまり得体の知れぬ鵺(ヌエ)の如き暗黒組織かと見紛うばかりの「手強い業病」(悪性腫瘍化した財政構造の一部)が取り憑いており、この鋼鉄製橋梁工事談合事件は、その病巣の醜悪な実像のごく一部が垣間見えたに過ぎないからです。さらに、その暗く閉ざされた組織を腑分けしてみると「特別会計」と「特殊法人等」という二つの特徴的な病巣がハッキリ見えてきます。


  一方、現代における民主主義国家の本質を考えると、次のような二つの矛盾した性質が見えて来るはずです。これはアンドロジナス(Angrogynous/ 雌雄同体)かローマ神話ヤヌス神(Janus/頭の前後に反対向きの顔を持つ姿がイメージされる門の守護神、または物事の始まりの神)に喩えることがで きるという意味での相矛盾した性質です。しかも、生身で生きる無数の国民(人間)を統治する国家は、このように特異な性質があるからこそ生き長らえること が可能だと言えるのです。それが活力ある民主主義国家の生存条件でさえあるのです。


A 多数決原理に従う 民主主義国家には、ある階級の他の階級に対する支配の手段と化す性質が絶えずつき纏っている(この性質は、立場が変われば逆に作用する)。そして、この性 質が一方的に強く出過ぎるとある階級の利益だけが追求されるようになり、国家のバランスが崩壊する。


B 多数決原理に従う民主主義国家には、ある理想に基づく社会秩序を確立して、すべての国民にとって公平な公共の福祉を目指すという役割が求められている。


 必然的に、国家がこのように相反する二つの性質を伴はざるを得ないことは、恰も“絶えざる生と死の葛藤”の中から新しい生命と新たな活力が次々ともたらさ れる「生命誕生・生命維持の原理」に似た性質だと見なすことができるかも知れません。従って、そのように相反する矛盾した性質の存在が問題なのではなく、 この(A)と(B)の二つの矛盾した性質が国民一般の視野(または意識)から消え去ること、つまり国民一般が、これらの性質の並存の意味を自覚しなくなる (自覚できなくなる)ことが国家にとっての危機なのです。それこそが、まさに国民一般の批判精神の欠如ということであり、健全なジャーナリズム精神の喪失 (不在状態)ということでもあり、そのような時こそ国民一般の「自由」が失われたことになるのです。


 か つて、ドイツの社会学者マックス・ウエバー(Max Weber/1864-1920/ドイツの社会学者)は、国家統治権力の本質について下記のよう (・・・『〜〜〜』・・・の部分)に述べています。マックス・ウエバーは権力による「支配の正当性」を「伝統的支配」(家父長的支配)、「カリスマ的支 配」(超人的英雄による支配)、「合法的支配」(法に基づく実務的な支配)の三つのパターンに分類しました。そして、「法の支配の原則」に従うべき現代の 民主主義国家に求められるのが「合法的支配」であることは言うまでもありません。


・・・『権力とは、広義 には権力者個人(または権力集団)が自らの意図を貫徹する力のことであり、それは人的・物的な組織を通して実行される。その権力の行使とは、他者の行動を 支配することである。このため、特に国家権力の場合には、被治者(被統治者)によって、その正当性の承認を受ける必要がある(正当性受容の原 理)。』・・・


 現代日本における国家財政に関する「合法的支配」の原則(すべてが一般会計に一元化された会計システムによる国家財政の運営=国会中心財政主義)を無視し続ける「特別会計」 のような「手強い病巣」の成因を理解するためには、その発祥の歴史を辿り遡る一方で、普段は余り目に付かぬ、あるいは入手が困難な内部情報や特殊資料等を 広く深く手繰る必要があるようです。しかし、平凡な一市民は、このような調査についてはあまりにも無力です。従って、ここで論ずることは“群盲が象を評す る”ようなことになるかも知れませんが、今後の更なる探索の糸口にでもできればと願っています。


・・・・この後は「シリーズ、『市民政治』の再生を考える[3]」へ続く・・・・


(参考)当シリーズ[2]以降で参照する主な資料、URL


松浦武志著『特別会計への道案内-387兆円のカラクリ-』(創芸出版)
石井紘基著『だれも知らない日本の裏帳簿』(道出版
特殊法人監視機構
http://www.nomuralaw.com/tokushu/
特別会計
http://www.mis.ne.jp/~yosh/nakusukai/page294.html
財務省HP、財政制度等審議会
http://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/top.htm
財務省HP、予算・決算
http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/syukei.htm
財政制度の改革について(財政改革委員会)
http://www.jimin.jp/jimin/saishin97/gyoukaku-11-2.html
財政投融資(金融用語辞典)
http://www.findai.com/yogo/0070.htm
日本銀行金融研究所
http://www.imes.boj.or.jp/
大森徹『明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響』(ディスカッションペーパー・シリーズ、日本銀行金融研究所)
http://www.boj.or.jp/type/ronbun/ron/imes/dps01.htm