toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

×しい色やね/地域住民の苦悩を操作するまで“ナチズム化”した自公政権の堕落と狡猾


【画像】フランチェスコ・デル・コッサ『受胎告知』

Francesco del Cossa(ca1435-1477)「Annunciation and Nativity (Altarpiece of ヒトObservation)」1470 tempera on panel 137 x 113 cm Gemaeldegalerie Gallerie, Dresden, Germany


この絵は初期ルネサンス期におけるフェラーラ派の画家フランチェスコ・デル・コッサの傑作で、聖母とマリアに突然訪れた“神聖なる瞬間”を描いた作品です。現代の美術史家ダニエル・アラスは、コッサらの絵を理解するためには、“過度にアカデミズム化したイコノロジー”(Iconology/図像解釈学/歴史的、社会的、文化史的な総合的観点から絵画の内面的な意味を研究する手法でパノフスキー創始者)に頼り過ぎることは、それが我われ人間の「眼」(リアリズムを認識する総合的な感受性(sensitivity))を曇らせるので危険だと言います。


<注記1>



Daniel Arasse (1944-2003)
ダニエル・アラスは、ヨーロッパで著名なイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家/人文学的な知の先端を担うフランス社会科学高等研究所(EHESS/Ecole des Hautes Etudes en Sciences Sociales)の「芸術の歴史と理論」部門で活躍した/EHESSは大学制度から距離を置いた自由な教育・研究環境に特色がある)


・・・・・


ダニエル・アラスは、先ずこの絵がそれほど大きなものではないこと(137 x 113 cmの祭壇画であること/下の横長の小さな絵は下壇正面の独立した絵)を指摘します。次に、その絵の大きさに比べて右下の額縁のラインにそってユックリ歩む(ように見える)、約8cm(ガブリエルの靴の約1/3程の長さ)という異常な大きさの“カタツムリの謎”に注目します。この“カタツムリ”については、聖母マリアの象徴としての解釈などイコノグラフィーあるいはイコノロジーによる研究が行われていますが未だに定説がありません。


一見したところ、この絵は同時代の他の作品と同じように厳格な線遠近法で描かれているように見えます。しかし、ダニエル・アラスの検証では消失点の設定に無理があるため、天使ガブリエル(左手前)とマリア(右中央)の位置関係やマリアの背後にある寝室などの配置に矛盾が生じています。結局、アラスはコッサが描いた世界は、人間の尺度に見合った(人間が目でみて理解し易いように)有限で閉じられた、一見では合理的な空間に見えるように演出されたものに過ぎないといいます。


もともと、「受胎告知」(Annunciation and Nativity)とは、マリアの受託にともなう受肉の瞬間であり、それは人間の目には見えない無限なるものの尺度あるもの(現実世界)への降臨なのです。言い換えれば、それは形象不可能(不可視)なものの形象への降臨(可視化)のはずです。従って、一見“科学的な遠近法の構図”の下の縁をゆっくり歩む“カタツムリ”は、この絵を見る者らに対して「あなたがたは、そのまなざしで、実は何も見てはいないのだよ」と語りかけているというのです。


まさに驚くべき発見です。しかも、“カタツムリ”は視力(視覚能力)を殆んど持たないので、彼(彼女?)は“科学的な遠近法の構図”の縁をゆっくり歩みながら、後はひたすら「嗅覚」と「触覚」の感覚器官を働かせる他ないのです。これは、まことに驚くべき「視点の発見」ではないでしょうか?因みに、マリアに受肉の瞬間を与えた当事者である神はどこにいるのでしょうか?その神様は、この絵の消失点から外れた遥か左奥の青い天空に小さな雲のように浮かんでいらっしゃるようです。


ダニエル・アラスの見解によれば、フランチェスコ・デル・コッサら初期ルネサンスの画家たちの一部は、余りにも分かり易く見えすぎる“近代合理主義”(線遠近法)による見えない世界(内面世界)の説明(一見では、分かりやすく合理的な説明に見えるが、実は狡猾な演出)が危険であることを予感していたようです。


つまり、彼らは、このような形で“世俗権力と宗教(および宗教と結びついた政治権力などと)の癒着”が高じると、宗教は、いともたやすく「国民総家畜化のための道具」と化すことを警告していた訳です。そして、特に、その宗教がカルトである場合は悲劇です。


独裁的な帝国主義国家であれ、絶対王制国家であれ、民主主義国家であれ、詰まるところは一般国民(その国を構成する一般民衆の存在)が有ればこそ、その国家が存在し得るのです。現代日本の政治権力者たちと過半の日本国民は、このように単純な現実(リアリズムの実像)を「嗅覚」で探る術をスッカリ忘れ去っているようです。


“神の代理人を語る権力によるカルト化した擬装リアリズム(神どころか悪魔に支配される恐れがある精神環境の不自由・拘束状況の創出)のために人間が存在するのではなく、ここに現実に生きる生身の人間が健全なコミュニケーションを通じて生き抜くためにこそ神(神と対話する内心の自由)が必要である”ことを我われ日本人は忘れ(させられ)つつあります。


かつて、ローマ帝国の“皇(狂)帝ネロ”が嵌った陥穽も、これと同じです。フェラーラ派の画家フランチェスコ・デル・コッサの“カタツムリ”は、この“のろまでゆったりとした嗅覚のリアリズム”の必要性を、時代を超えて“明示”しているのです。


この観点からすれば、グローバリズム市場原理主義も、サブプライム・ローンも、モノラインも“糞食らえ!”のはずです。地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備のデモンストレーションも“糞食らえ!”です。そして、今、細心の注意を払うべきことは“我われにとって最も分かり易いのが「報復殺人と戦争(公認の殺人)の論理」(目に見え易いモノ)であり、最も分かりにくいのが「平和のための努力の継続」(目に見えにくいモノ)だ”ということです。


そのためにも、我々は「論理性」とともに「センチメント(sentiment)の働き」をこそ、もっと自覚し、もっと重視し、もっと大切にすべきだと思われます。


・・・・・・・・・以下、本論です・・・・・・・・・・


<注記2>


sentiment(独Gefuehl)は「理性ではなく感情に影響されつつ揺れ動く思考・判断、つまり苦悩や喜怒哀楽の中で堅実に生き抜く国民一般の日常生活における心情」の意味。なお、ドイツ語のfuehlenには「感じる、触れる、美化する」などの意味があり、同じくfuehrenには「連れてゆく、先頭に立つ」の意味がある。また、der Fuehrer(総統)はナチス指導者としてのヒトラーの称号。


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【画像】ジョージ・ソロス(ウイキメディアより)


ジョージ・ソロスが、今回のダボス会議日本の脱ナチ化の必要性(=脱“戦前・靖国型極右化”)』を語ったとの情報があります(参照 → http://onuma.cocolog-nifty.com/)。抜け目がない投機家としてのジョージ・ソロスの思惑を脇に置くとすれば、案外、この辛辣なソロスの言葉は現在の日本政治の「病的な本質」を的確に見据えたものといえます。



たまたま、シュピーゲル誌(Jan.30、2008号)が『ヒトラー神話の謎』(The Fuehrer Myth/How Won Over the  German People)という回顧・分析記事を書いています。長文なので未だ隅々まで読み切っていませんが、核心部分だけを意訳しておきます。



『 ・・・自らがドイツ国民のアイドル(偶像)となるため、ヒトラーは凡ゆるメディアを活用した“プロパガンダ”(組織的宣伝活動)“外部からの脅威を煽ることによる軍事力プレゼンス(存在感)”を巧みに利用した。その結果、多くのドイツ国民が偶像化したヒトラーに一斉に媚びへつらうようになった。そして、“Today、Hitler is All of Germany”(1934年4月4日の新聞ヘッドライン)という次第になる。


その二日前にヒンデンブルク大統領が死ぬと、間髪を入れずヒトラードイツ帝国ドイツ国民の総統(der Fuehrer)たる自らへの忠誠を軍に誓わせた。この状況はヒトラードイツ国民が完璧に感覚的レベルで結合したことを意味する(toxandoria注記:これが、Sebastian Haffner著『ヒトラーとは何か』(草思社)による恍惚催眠(集団オルガスムス/Kollektiv-orgasmus)状態)。


1934年8月19日に行われたヒトラー総統を信任するための国民投票では、全体のおよそ2〜3割に相当する冷静な人々が存在したと推定できるにもかかわらず、実際の投票の現場では、彼等を含む殆どのドイツ国民が投票用紙に“Yes”(ヒトラー総統を信任する)と“走り書き”(内心で動揺しつつ?)で書いてしまった


その後も、ヒトラーへの批判が皆無であった訳ではない。例えば、1936年4月にベルリンで出されたゲシュタポによる批判の記録がある。それは、当時まだ多くの国民が未だ極貧で苦しむ状態であったにもかかわらず、ヒトラーがナチ党のお偉方の汚職や贅沢三昧を見過ごしていることへの批判であった。


ヒトラーが、このような危機を乗り越えることができたのはなぜか?それは、いま進みつつある“ドイツ国家の危機(困難)に必死で耐えてくださっているヒトラー総統”のパーソナリティと国民の意識(感覚)が全幅の信頼感(幸福な絶頂感)(toxandoria注記:つまり、Kollektiv- orgasmus)で結合していたからである。そして、ヒトラー麾下のドイツ軍はラインラント非武装地帯へ進撃することになった。・・・ 』



無論、当時のドイツと今の日本が全く同じシチュエーションだなどとの世迷言を主張するつもりはありません。しかしながら、現代日本の混迷感の広がり、中央政府(連立与党)による地方を見下すような視線、地方住民の中での言え知れぬような不安感の広がりなどの空気には、どことなく「ドイツ国民の総“恍惚催眠(集団オルガスムス/Kollektiv-orgasmus)”状態=総ナチズム化」へ突き進んだ 1930年代ドイツの空気に似たものが感じられます。


例えば、あの『安部の美しい国』は崩壊したというものの、下のようなメディアを巡る動向(連立与党による露骨なメディア支配への意志の露呈、一方的に操られるままの弱体化したメディアの実態)や、大阪知事選における主要メディアの報道姿勢(地元の真相を伝えるというより、お笑いバラエティーショー化した報道姿勢で視聴率、あるいは購読者数確保だけに走り、結果的に『自公・連立与党』(=“靖国顔(ヅラ)+利権顔(ヅラ)”の談合=ゲシュタルトヒトラー化現象=集合的・集団オルガスムスの発信源)への媚びへつらいと政党政治の機能麻痺に手を貸したことを見るにつけ、このような意味での危機感は募るばかりです。



自民党総務会に顔を出して就任の挨拶をした時、自民党総務会長らから選挙報道の“中立性”求める意見が相次いだ。総務会長は、国民の期待は大きいので“中立性”をしっかりと念頭に置き、選挙報道に留意願いたいと“注文”をつけた。これに対し、NHK新会長は“不偏不党を守り、しっかり留意して対応したい”と応じた。出典:2008年2月2日毎日新聞ネットニュース、http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080202ddm041010021000c.html)』


ヒトラーが狙った『“軍事力”プレゼンス(存在感)』の狡猾な利用も薄気味が悪いほど現在の日本と共鳴しています(例えば、混迷度が深まるISAF (International Security Assistance Force)への派兵増強をドイツなどが渋るなか、我が国では民主党も含めて恒久的なISAFへの参加・派兵方向の議論が深まりつつある)。あの、一連の「防衛疑獄」騒ぎと、その政界ルート追及の“熱い世論”はどこへ雲散霧消してしまったのでしょうか? 


外部からの脅威に備えた首都圏等への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備のデモンストレーションとイージス艦による「海上迎撃ミサイル(SM3)成功=称賛」のド派手な報道の前で、全ては掻き消されてしまったようです。この面でも、カルト化かつ極右傾化した連立与党による野党勢力(健全な政党政治・民主主義政治にとって重要なファクター)の分断・弱体化戦略は見事に功を奏しています


・・・・・・・以下は、[2008-01-30付toxandoriaの日記/タレント知事でヒトラー流“政治の恍惚化”の代用へ傾く連立与党の腎虚・老化的右傾化、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080130 ]、[2008-01-28付toxandoriの日記/タレント型大阪知事選に潜む二つの疑問/無限責任原則の放置と主権者意識の崩壊、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080128]へのコメント&レスの転載です・・・・・・


<注記3>


特に“大阪で生まれた男”様と“大阪府民”様のコメントにご注目ください。連立与党のプロパガンダの道具と化したテレビ・新聞等の主要メディアでは知ることができない、<地域の方々の生々しいセンチメント>がリアルに伝わってきます。


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Luxemburg 2008/01/30 23:10 本文中でご紹介いただきありがとうございます。


知事選の少し前にいきなり大阪府の財政が粉飾されていたと報道され、私が府民であっても「大阪は失業率も高いし、中央政府とケンカしない人を選ばないと」と思ったかもしれません。おそらくあの報道は偶然ではないでしょう。


NHKに安倍さん肝入りの会長を送り込んだ経営委員、それに反対した方の会社がいきなり税務調査で挙げられましたが、これも偶然じゃないのでしょう。NHKの最近の番組は本当にひどくなっているようです。恐怖をあおり立て、正常な判断をさせないようにする、これがまだまだ続きそうです。



toxandoria 2008/01/31 06:38 Luxemburgさま、コメントありがとうございます。


おっしゃるとおり、たしかに“鳥の眼”で見ると一連の不可思議で不自然な動きの背後には、あの“安部のNHK恫喝事件”を演出したマグマが蠢いているようです。


NHKインサイダ−取引騒動(この行為を正当化するつもりはありませんが)、アンチ新会長のNHK経営委員の税務関連摘発・・・が、ナゼこの時期なのか?という疑問がtoxandoriaにもありました。


ともかくも、この問題には政・学・財の根深い癒着構造が存在するのではないか、と思っています。そのうえ、国民不在のような“つなぎ法案のバカ騒ぎ”の背後にも、この妖しい存在が蠢いているようです。


あれだけ大騒ぎしたにもかかわらず、もはや政界ルートの摘発は火が消えてしまった“防衛疑獄の闇”にしても然りです。


ジョージ・ソロスが「日本の脱ナチ化の必要性」(=脱“戦前・靖国型極右化”)をダボスで語ったとの情報がありますが(→http://onuma.cocolog-nifty.com/)、「日本の業病の実像」は海外からの方が良く見えるのかも知れませんね。



大阪で生まれた男 2008/01/31 22:23


私、生まれは大阪です。


大阪で生まれた男やさかい橋下氏の当選は残念です。3人の有力候補の中で一番当選してもらいたくない候補者が当選してしまいました。


府知事としての今後を見なければ何ともいえないかもしれませんが、これまでの言動、政治姿勢を見ていると懸念を感じ得ません。


あなたの肩をながめながら、痩せたなと思わなくても泣けてきます。


大阪で生まれた男やさかい。



toxandoria 2008/02/01 08:53 “大阪で生まれた男”さま、コメントありがとうございます。


そうですね、本当に泣けてくるような気がします。大阪と東京は、喩えれば日本(歴史・文化・経済)の双発エンジンのような役割を担ってきたはずです。


それが、こんな男(獰猛に“無限責任原則の恩恵”をしゃぶり尽くす商工ローンサラ金の守護神!=冷酷な嘘つきの死神? 日本核武装論者?)に頼らざるを得なくなるなんて・・・


一つ言えるのは、別の記事(→http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080128)でも書きましたが、今回の知事選挙でも<過半数以上の投票棄権者>が出たことが、やはり大きな問題です。


この最もベーシックな部分は大阪のみならず日本の民主主義の決定的な欠陥(驚くべきほど底なしの他力本願意識?)であり、欧米の民主主義と根本的に異なる部分です。


なぜ、ジャーナリズムをはじめ日本人の多くがこの問題を真剣に考えないのか不思議です。


尤も、連立・政権与党は十分にその恩恵を受けているわけですから、彼らはこの問題に手をつける気はサラサラないと思います。


従って、この問題を再度クローズアップすべきだと思っています。


小泉劇場”のみならず、着々と“慇懃に極右傾化”しつつある<連立与党の腎虚・老化政権>も、この弱点に悪乗りするばかりで堕落する一方です。



大阪府民 2008/02/01 14:27


主権者意識が崩壊・・・というのは違うのでは。逆だと思いますよ。


確かに”ろくな候補がおらず、橋下氏が候補者の中ではマシだった”という現状そのものが遺憾なのですが、主権者意識が崩壊していたら熊谷氏が当選していたと思います。タレント知事では何も出来ない、阪大の先生だったら大丈夫だということで。横山ノック知事時代を経験している大阪府民はそこまで馬鹿ではありません。それに、在阪マスコミは選挙期間の間は熊谷氏のことばかり取り上げていた訳ですから。知名度で劣るというのも当たらない。


マニフェストを見たら熊谷氏のものも橋下氏のものも内容が空虚でした。熊谷氏は大阪大学の教授と言っても専攻は電子工学です。橋下氏はタレント弁護士です。二人とも地方行政に関しては素人なんだからまともなマニフェストが書けないのは当然と言えば当然ですが。


テレビ番組に出ているから投票したという愚かな人も多かったでしょうが、政策の中身をよく見ていた人も昔と比べたら増えてきました。ろくな候補がいないわ、と投票を棄権した人も数多くいました。


政策では全員素人だから、府民は思想や支援団体に注目しました。橋下氏は言動の軽さと梁山泊などとの黒い交際がマイナス要因となったのですが、それでも熊谷氏が橋下氏よりも票を集めなかったのは、人権擁護条例の制定を名言し、公務員制度改革同和利権問題対策に消極的な姿勢を見せていたからです。


言動が軽くて信頼性に欠ける橋下氏より、府政を改善する気がない他候補は票を獲得できなかったのです。(梅田氏は政策はいい部分もありましたが、黒田府政で財政赤字が深刻化した過去があるので府民共産党アレルギーは強く、票を集められませんでした)


投票率が低いのは府民が政治に無関心だからである”と結論付けるのは分析が浅はかです。それも一因ではありますが、それだけではない。



toxandoria 2008/02/01 17:33


大阪府民”さま、懇切なコメントありがとうございます。


想像以上に、各政党内部での対立点が地元、大阪に暗く困難な影を落としていたことがよく分かりました。


おそらく、地元の方々の切羽詰ったセンチメント(特殊な事情と対決する複雑で苦しい気持ち)をここまで詳細に伝えた一般メディア情報はなかったと思います


連立与党の橋下氏に対する妙な距離の置き方が気になっていたので、その疑問も解けたような気がします。


また、民主党が内部に深刻なネジレ構造を抱えていることも今回の投票率の低下に影響があったのではないかと思われます。


いつものことではありますが、全国レベルの報道で最も目に付いたのは民放テレビでのワーワー・キャーキャーの大騒ぎばかりで、まるで地元の方々が“橋下熱”に浮かれているように見えました。


そして、ご教示の情報とは異なり、大阪の外部、つまり全国レベルで“熊谷情報”は余り目立たなかったと思います。


しかも、東京の連立与党幹部(福田首相)らは選挙の結果が出てから、それを自らの立場の補強材料(=連立与党の広告塔化)として利用するという狡猾な態度がみえみえです。


これは、見方しだいですが、地元の方々のセンチメント(toxandoria注記 ⇒ 身近な課題へ熱心に取り組もうとするあまり呻吟する地元住民の方々の真剣な思い)を踏みにじるような態度であり、とても怪しかぬこと(toxandoria注記 ⇒ 連立与党政治のナチ化!!)だと思います。


                (民主主義の寓意図=狼と子羊は同じ投票権・一票の持主)


大阪府の地元事情は分かりました。しかしながら、一般論としては自らの投票行動によって政治に参加するという意識(=断固たる強い意志の表明/toxandoria注記 ⇒ 民主主義での市民による直接的な政治参加の手段はこれに尽きる)は、やはり最も重要な民主主義の根本(基本)だと思います。


そして、いま最も大切なことは橋下・新知事のこれから(実際の仕事)を徹底的に見届けることだと思います。


今後とも、どうぞよろしくお願いします。



大阪府民 2008/02/01 20:27


ご返事いただきありがとうございます。


橋下氏も叩けばホコリが出てくる人物だと思います。


当選後に東京の自民党公明党だけでなく、創価学会本部にまで挨拶回りに行ったのはメディア対策の一環ではないでしょうか。


メディア対策をする上で創価学会の影響力は無視することができませんから。都合の悪い事は出来るだけ報道しないでくれと頼みに行ったのかもしれません。東京の連立与党幹部の計算もあるでしょうが、橋下氏にもそれなりの計算があったのでしょう。


横山ノックが立候補した時とは違い、大阪府民は真剣でしたよ。


経済の地盤沈下が進み生活苦にあえぐ府民は多いですから。この現状を何とかできそうな人物に立候補してもらいたかった。


結果的に立候補者に恵まれず、消去法で橋下氏を選ぶ羽目になったのですが、選挙後の他府県の方々の大阪府民に対する反応を見てて不思議に思いました。


その謎が解けた気がします。大阪府民の敵は大手メディアだったのかもしれません。


橋下氏は計画性がなくファナティックな一面を持つ人物なので、個人的には知事職は長続きしないだろうなと思っています。


ですが氏を当選させてしまった府民としては、toxandoria様が仰るとおり責任を持って見届けるしかないでしょうね。