toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

日米の『軍事・利権顔(ヅラ)』周辺に漂う“ネオ・ナチズム”の臭い


【画像】ミラノの風景、ア・ラ・カルト(2006年8月)




Ornella Vanoni - La vita che mi merito


・・・これらの画像は、当記事内容と直接の関係はありません・・・・・


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●すっかり鳴りを潜めたかに見えた山田洋行(軍需商社)をめぐり、再び元・防衛大臣に関する“新・社内情報”が発見されたとの報道が一部で出始めました(情報源、http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10070988528.html)。


●また、毎日新聞(ネット/2008.2.8付)によると、NATO加盟の各国の中で米国(ブッシュ政権)が強く求めたアフガン(ISAF/国際治安支援部隊/International Security Assistance Force )への増派要請に積極的に応じる国はなかったようです(情報源、http://mainichi.jp/select/world/news/20080208k0000e030056000c.html)。ますますアフガンの混迷度は深まるばかりで、その方向性が見えなくなり、米国が主張する大義にも疑義が生まれつつあることが理由のようです。


●この二つのタイムリーな情報に通底するもの、それは日米両国の『軍事・利権顔(ヅラ)』を取り巻く一派(≒産軍複合体)が牛耳る“エゴイズムとナルシシズム、そして狂気の塊のような生存権の拡大”への強い意志(ナチス・ヒトラ−の根本に近似するカルト的な脳内環境)が存在する疑いがあるということです。


●そして、この“生存権の拡大政策”を支えるのが、シュピーゲル誌などの紙面で活躍したドイツのジャーナリスト、セバスチャン・ハフナー(Sebastian Haffner/1907-1999)が言う『恍惚催眠(集団オルガスムス/Kollektiv-orgasmus)状態』(御用ジャーナリズムの介在などがもたらす“カリスマ化した利権顔(ヅラ)一派”と“過半の善良な国民”との間に生まれる、偽装された統合・連帯・幸福・絶頂感覚/冷静に観察すれば、それは錯誤・詐欺・ペテン・ポンジーのたぐい以外の何物でもない)の存在です(この詳細は下記資料(ハフナーの著書)を参照乞う)。



[資料] セバスチャン・ハフナー著『ヒトラーとは何か』(赤羽龍夫・訳、草思社


・・・・・以下は[2008-02-06付toxandoriaの日記/フラ・アンジェリコの崇高美が照射する「日本に残るナチス的な病理、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080206]のコメント&レス(追加部分)の転載です・・・・・



argon 2008/02/08 00:02 toxandoriaさま。



拙いコメントに思いもよらぬ丁重なお応えを頂き、恐縮しています。やはりアンジェリコの『受胎告知』については既にお書きになっていたのですね。


それにしても、今回のエントリーに書かれているなんと多くのトピックが、最近、私が考えたり書いたりしてきたことと重なっていることでしょうか。いずれ、折に触れて投稿させていただきたいと思いますが、今回は『The Magus』という映画についてだけ書かせていただきます。


豪華な俳優陣にもかかわらず、なぜ日本では公開されず、ヴィデオにさえなっていなかったのか、すぐに了解しました(2006年になってやっと本国でDVD化されたのです)。<観るに堪えない>の加減が半端ではありませんでした。


「自分の出た中で最悪の映画。撮影現場に全体を把握している者が一人もいなかった」とは主人公を演じたマイケル・ケインの言葉です。またこの映画には何も関係がないはずのウディ・アレンがこんなことを言ったとか言わなかったとか、英語版のWikipediaに出ていました。「もう一度生まれて自分の人生をそっくりそのまま繰り返せといわれても私は構わないが、『The Magus』をもう一度見させられるのだけはご免だ」。


監督がピーター・グリーナウエイであったとすればどれほどすばらしい映画が出来上がっていたことでしょう。でもウディ・アレンの言葉は、できることならば自分が映画化したかったという気持ちの表明なのではないかと私は思っているのですが。


実際、キャンディス・バーゲンの演じた役は、常に片方しか現れない双子の女性なのか、双子を装っているだけの一人の女性なのか、ついに最後まで真相が明かされないという、いかにもアレン好みのシチュエーションなどもあり、ですからtoxandoriaさんが『薔薇の名前』をすぐに持ち出されたというのも、すこぶる卓見であったと思います。


でも、なかには、モラヴィアの、というよりゴダールの『軽蔑』との類縁性を説く人もいるようです。コンチスが建てた山荘と、『軽蔑』で、ブリジット・バルドーたちが遊びに行く例のカプリ島の別荘。どちらも物語の中でとても重要な位置を占めています(画像はhttp://hanasaku.blog4.fc2.com/category3-1.htmlより)。


初めてコンチスからその山荘に招待されたとき、マイケル・ケイン演じるアーフェはとても不思議な感覚に襲われます。そしてそれが、フラ・アンジェリコの受胎告知に描かれたポーティコ(円柱で区画された外部廊下)をそっくり再現したものであったことに気づくのです。


この場面によって、コンチスの人格的背景がただならぬものであることを原作では暗示しています。映画でも、そっくりそのままというわけではなかったにせよ、言われてみればそのように見えるようなセットとして作られていました。でもそのことについての説明的なシーンがまったくなく、原作を読んでいない限り、あのポーティコが歴史的に極めて重要な絵画を再現した空間だと気づく者など決していないでしょう。


『軽蔑』で使用された海岸の崖の上に建つ別荘は、セットではなく、本物が使われていました。ナポレオンのボナパルト(Bonaparte、良い党)に対して、自らマラパルテ(Malaparte、文字通り悪党、フルネームはクルツィオ・マラパルテ)と名乗った、イタリアの、一筋縄ではいかない文化人が自分で建てた別荘でした。


この映画を観た人ならみな印象に残っていると思いますが、険しい地形に合わせて建てられた、何の説明も必要がないほどそれ自体が実に強烈な個性を発揮している建築でした。因みにこの設計の協力をしたのがアダルベルト・リベラという建築家で、この人は当時グルッポ・セッテ(和訳すれば七人組)という建築家のグループに属しており、そのグループにはジーノ・ポッリーニという人も所属していました。マウリツィオ・ポッリーニの父親です。


ついでながら、ジェームズ・アイヴォリー、私も大好きです。ことに『日の名残』、心が疲れたりしたときに観る映画の一つです。もうひとつ、ついでですが、私は大阪の堺で生まれた男やさかい、橋下氏の当選はもっと残念です



toxandoria 2008/02/08 17:08 argonさま、こちらこそです。


ゴダールの『軽蔑』は、とても懐かしい映画です。見方しだいでしょうが、市場原理主義へ傾くばかりのアメリカ化を蔑みつつも深く苦悩するヨーロッパの心が投影されているような気がします。



そのカプリ島の美しい別荘、コンチスのポーティコ、マウリツィオ・ポッリーニの堅牢なピアノ演奏・・・、これらに共通するのはやはりヨーロッパの重層的な歴 史でしょうか? また、単純な連想ですが、ルキノ・ヴィスコンティLuchino Visconti )監督のイタリア映画『山猫』(原作は、ヴィスコンティと同じ貴族の末裔であるジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ/主演はバート・ランカス ター、共演はクラウディア・カルディナーレアラン・ドロン)を思い出してしまいました(画像はhttp://blog.jtb.co.jp/modelplan/location/archive/2006/10/24/381.aspxより)。



もう大分前のことですが、イタリア旅行で北イタ リアを訪れたとき、ミラノ市街の真中にある貴族のアパート風の古色蒼然たる建物を見て不思議な気配(オルネラ・ヴァノーニの歌声が似合いそうな?)を感じ たことが想起されます。このような感覚的な空気(波動の放射)は、一種のヨーロッパ流・文化ナショナリズムが醸すのかも知れませんね(画像はhttp://www.italianmusic.jp/VANONI.HTMより)。


いずれにしても、現在のヨーロッパ流・文化ナショナリズムは、我が日本国における屹立型・マッチョマン嗜好(志向)の石原慎太郎や小泉前首相、あるいは“決して美しくなかった”安部前首相、そして政権与党の利権顔(ヅラ)の面々らの「DVを連想させる直情・屹立型の極右センチメント」とは 異質だと思います。もともと、日本の歴史・文化の本流(伝統の奔流部分)にはヨーロッパ流・文化ナショナリズムに共鳴する、美学・文化現象的な意味での洗練されたエロティシズム(パロール型、対話・交流型の人間関係を重んずるセンチメント)が存在しているはずだと思います。


このような空気が単純きわまりないデジタル型・市場原理主義一辺倒のアメリカ文化によって日本から急速に失われつつあることが残念です。機会があれば詳しく考えてみるつもりですが、今の主流アメリカ文化の中にはドメスティック・バイオレンス(DV)型の、言い換えれば隠微で暴力的なネオ・ナチズムの臭いが立ち込めているような気がしており、それがネジレた形で日本の「直情・屹立型の極右」や「ネオリベラリズム一派」などと、ご都合主義的に共鳴し合っているようで不気味です。


今後とも、どうぞよろしくお願いします。