toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

酔狂の風景/『HP、新レンブラントの眼』の開設(ご案内)


[副題/暴政]自民政権の正体は偽装保守のファシスト/いまさら!小泉の冷血の結果に狼狽するウブな日本国民


●HP『レンブラントの眼』が諸般の事情により崩壊したため、新たに『HP、新レンブラントの眼』を開設しました。


●未だ試作版のつもりなので、これからも試行錯誤になると思います。一応、当ブログ『toxandoriaの日記』とイメージ的に整合を図るつもりですが、目下、思案投首の状態です。なお、URLは以下のとおりです。


『新レンブラントの眼』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/


同上・ページ1「四季の風景」へのリンク、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage1.html


同上・ページ2「酔狂の風景」へのリンク、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html


・・・・・以下は、<ページ2「酔狂の風景」>の再録です。


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2008年4月15日



ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm−Gedaechtniskirche/2007年、春)


なお、第二次世界大戦で爆撃を受けた形のまま保存されているカイザー・ヴィルヘルム記念教会の象徴的な意味については下記★を参照乞う。ドイツの人々は、自らも加担した「戦争の悲惨と犯罪性」を日常生活(現実)の中に埋め込み、それを永遠に反省するという決意を共有している。


★[toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象(ベルリン編2)]、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070423


・・・ここは、感銘を受けたフレーズ、そして自らの心象風景とスナップ画像などを折にふれ、ご紹介するページです。


・・・・・本文・・・・・


何とも悩ましい話だが、活動(必然的に時の政治権力の影響を蒙る、我われ一般国民の日常生活のコミュニケーション活動)の最中に真っ先に判明するのは、五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能であるということだ。


なぜなら、それが何であるのか誰も具体的には知らないからである。たしかに 誰もが、それについての概念は持っているのだが、具体的なレベルでは、それについてまったく異なるものをイメージしている。活動がこうした人間の複雑性に 依存しているものである限り、西欧哲学---その伝統の最後尾にいる哲学者たちは、結局のところ、活動の制御を目論んでいるのだが---の最初の破局は、 原理的に独裁政権下意外では不可能な統一=単一性が実現されるための必要条件なのである。


二番目に判明するのは、活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会など、絶対的なるものとして何でも使えるということだ。あらゆる事柄が等しくお誂え向きであり、要するに「何でもあり」なのである。どこかのイカ サマ師が思いつきかねない狂気の理論に対する場合と同じように、現実はほとんど抵抗を示さないように見える。いかなることも可能なのである。


三番目に判明するのは、ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、ある いは、ニーチェが言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になるということだ。なぜなら「理想」とか正義それ 自体は、もはや尺度として存在するのではなく、世界内で達成も生産も可能な、ひとつの目的=終焉になってしまったからである。言い換えるなら、哲学の実現 は哲学を終わらせ、まさに「絶対的なるもの」の実現は世界から絶対的なるものを追放するということである。


そして、最後には、「人間(man)」(一人または少数の政治権力者による狂想の脳内表象)の見せかけの実現が「人間(men)」(絶対多数の国民・市民の現実生活)を文字どおり廃棄(破壊)してしまうのである((  )内はtoxandoriaによる注記)。---「思索日記」「1951年9月」より 


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以上は、[ハンナ・アレント著、ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』(筑摩書房)の<緒言>]の引用・転記であるが、このアレントの文章は、(中曽根・・・小渕〜森〜小泉〜安部〜福田)の流れを辿りつつ与党政権がファシズム的性格を強めてきた必然性を予見しているようで不気味である。


これは、中曽根以降の与党政治の流れが、保守を偽装しつつ、“意図的にニヒリズム化させられた一般大衆をユートピア論(天国と地獄の観念=差別化の根源的イメージ)で釣り上げるというナチズムに近い政治手法を取ってきたということであり、悪意に満ちた復古的全体主義一派(日本の極右支持勢力=民主党にも同じ穴のムジナが潜む)のシナリオを与党政権が忠実に仕掛けてきたことの証左に他ならず、あの“小泉劇場”などはそれが先鋭化したものに過ぎない、そして「後期高齢者医療制度」(参照下記★)などは、その“悲惨な成果のほんの一部”である。つまり、日本国民は保守の仮面を被ったファシスト一派に小ばかにされ続けてきたということである。


★008-04-05付toxandoriaの日記/【改定版】冷血小泉の狂想が生んだ後期高齢者制度(ナチスガス室まがいシステム)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080405