toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

暴政権力をもて“遊”ぶ小泉前首相らに媚びつつ『大衆の狂気』を煽る愚劣なマスゴミ


<注記>


この記事は、下記(シリーズ記事◆)に代わるものです。『大衆の狂気』(戸惑う、不安な現実感覚)を煽るための“ウソづくしであった小泉劇場”の計略に嵌った多くの日本国民が、貧富差の拡大、止め処ない凶悪犯罪の増加、中枢暗黒・利権政治の温存、後期高齢者医療制度に象徴される医療・福祉・年金制度の崩壊など、今や日々に塗炭の苦しみを味わうさなか、小泉前首相は日本経済新聞社から『音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』(新書/日経プレミアムシリーズ)という“オジャラケた表題”の本を出版しました(情報源、http://www.nikkeibook.com/premiere/、参照/の出版案内▲)。


◆[机上の空論]冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(3)


▲『音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』(新書/日経プレミアムシリーズ)・・・首相退陣後はじめての小泉純一郎氏の著作。日経編集委員による注釈と曲目解説を加えて構成した「小泉流・音楽放談」、12歳から始めたヴァイオリン、オペラ、エルビス・プレスリーとの出会い、エンニオ・モリコーネ、演歌まで半世紀を超す音楽遍歴(同上、http://www.nikkeibook.com/premiere/より)。


【参考画像】レンブラント『聖家族』(第二タイトル=指物師の所帯)

Holy Family(Household of joiner) 1640 Oil on wood 、41 x 34 cm Musee du Louvre 、Paris


「独特の探求」の賜物とされる、そのドラマティックな光(レンブラント・ライト)が本格的に描かれているため、この絵はレンブラントの驚くべきほどの内的リアリズム追求の努力の成果が初めてハッキリ現れた作品(代表作『夜警』の3年前)であるとされていますが、そこでは三つの光源(左の窓からの外光、天井からの二つのスポットライト)が想定されます。


ところで、この絵には『聖家族』という表題とともにルーブル美術館の展示では『指物師の所帯』という第二タイトルが付いています。この第二タイトルは初めから有ったわけではなく、それは、18世紀になり、17世紀オランダ風俗画が本格的にフランスへ入った時に付けられたものです。


かいつまんで言えば、この絵に描かれているのは、薄暗い室内で赤子に乳を与える母親と、その様子をジッと見つめる老女(おそらく祖母)、そしてその傍らで一人の男が何かの仕事(おそらく木工細工)に熱中しているところです。


しかし、絵の鑑賞者である我々は、『聖家族』と『指物師の所帯』のどちらのタイトルを意識するかによって、まったく同じ内容が描かれているはずのこの絵の内容について、おのずから解釈が異なってしまうという体験(それは静謐な宗教画の極致か、リアリズム風俗画の傑作か?)をするはずです。


鑑賞者の心に、このような“不安の揺らぎ”(戸惑うような現実感覚)が生まれるのは、オランダからフランスへこの絵が移入して第二タイトルが付いたというプロセス(歴史)に由来するわけです。また、17世紀のオランダでは、既に、市民社会の成熟とともに16世紀初め頃に確立したばかりの静物画・肖像画・風景画・風俗画・宗教画などのジャンル区分があまり意味を持たなくなっていた事実をも思い出すべきです。


また、それが当時の世俗社会で本格的に理解されつつあった政治哲学上の「平等主義」の故かどうかも軽々には判断できないことです。ただ、それより重要なのは、この絵を見る人々が一定の権威(ここではルーブル美術館)が名付けた「表題」と、もともと付いていた「表題」とのいずれを意識する(選択する)かによって、一つの同じ現実が“異なるリアリズム”となり得るということです。


しかも、このような情況が起こるのは、このレンブラントの絵画だけに固有のことではありません。なぜなら、一般に我々は、先ずある出来事が本当だと思うか、あるいはそれは嘘だと思うかによって、その出来事から異なる意味(結果)を読み取ってしまう傾向があるからです。


このような訳で、日頃から、我々はアカデミズムによる権威的な指示やタイトルの押し付け、あるいは権威筋や権力者のド派手なスローガンやパフォーマンスには十分注意する必要があるのです。


・・・・・以下、本論・・・・・


(国民の悲惨を誤魔化す偽装看板(山師の玄関)の上塗りを繰り返してきた小泉・安部・福田劇場)


<注記>


“山師の玄関”については、下記記事◆を参照乞う。


◆2008-02-17付toxandoriaの日記/「道路特定財源」流用のプロパガンダ・ミュージカルで「山師の玄関」化する日本、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080217


冒頭の<注記>で書いたとおり、マスゴミ・ジャーナリズムの支援もあって「政治権力の暴力的本性」を思う存分に玩(もてあそ)んできた小泉・前首相に対し、まさに反吐(へど)が出そうな<ごますり提灯の出版&新聞記事>を高々と掲げつつ、復活ロシア軍よろしく“ウラーッ!”の雄叫びをあげるマスゴミ・ジャーナリズムは、もはや倒錯的で悪趣味なエロ・グロ・ナンセンスの如き体たらくです(情報源、下記★)。


★2008.5.9付・朝日新聞小泉元首相インタビュー記事=総理はつらいよ(表記の自著『音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』のPR記事)、http://www.asahi.com/politics/update/0508/TKY200805080304.html


そこで、われわれは、再びここで5年5ヶ月にも及ぶ「小泉劇場」がもたらした『七つの大罪』をシッカリ想起すべきです。これは、シリーズ記事[冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(1)、(2)]で取り上げましたが、下に再録しておきます。


<関連、参照記事>


[冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(1)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080425


[冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080428


(1)盲目的に「新自由主義ネオリベ)」に心酔し、隷属的対米関係と悲惨な格差拡大を一層深刻化させた


(2)日本国憲法の平和主義と政教分離の原則を蹂躙し、アナクロナショナリズムの流れを国政の中枢に招き入れた(靖国神社への拘り


(3)日本国憲法主権在民と授権規範性を蹂躙し、強引な国会解散劇(クーデタ)で政治を暴政化した


(4)「改革の美名」の下で財政赤字を一層拡大した(国債増発、約250兆円


(5)政治倫理を冒涜し、日本の政治をポルノクラシー化した(芸能・淫猥政治化


(6)国民主権を無視し「非合理な外交」で世界の中で日本を孤立化させた(米国自身の反省にもかかわらず日本政府だけがイラク戦争の無謬性をいまだに主張


(7)弱者層蔑視政策で日本の教・医療・福祉の現場環境を著しく劣化・荒廃させた


この「小泉劇場七つの大罪」について、下記のような批判・反省記事▲を書いたばかりの日経が、その舌の根が乾かぬうちに今度は『小泉純一郎著/音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』というオジャラケ本の版元となるのは、見方しだいではありますが、一般国民を大いに小ばかにした話だと思います


▲2008年4月18日付、日本経済新聞・記事より部分転載


『今回の金融危機震源は1999年のグラス・スティーガル法廃止で銀行と証券の垣根が取り外されたことだ。米国ポールソン財務長官が発表しG7で承認された「金融安定化フォーラム」の勧告は、凶暴な資本主義に規律を取り戻し、制御可能な金融市場の再構築を目指したものだ。これまで進めてきた規制緩和路線の転換だ。今回の金融危機を教訓に再発防止のための制度設計が急務であり、リレギュレーション(Reregulation/再規制)の時代が始まろうとしている。金融危機が収まったとき、世界経済は大きく変質しているだろう。第一は、過去30年間、世界の潮流となってきた自由化、小さな政府、市場経済原理に代わり、規律と公益と環境を重視する時代が来る。第二は、主役の交代だ。米国の覇権は揺らぎ、価値観と生活様式が異なる多くの文明圏が共存する時代になるはずだ。第三は、国際的な大再編の始まりだ。・・・過去10年、我が国は構造改革の名の下に米国モデルを導入してきた。だが、世界の潮流が変わり始めた。四半期決算(せっかちな?)や時価会計で近視眼化した企業経営、従業員の処遇悪化と消費低迷をもたらした利益最優先経営、過度の自由化による秩序崩壊など、時代遅れのモデルの見直しが急務だ。・・・』


ともかくも、5年5ヶ月にも及んだ「小泉無責任・偽装劇場」に続く安部の「美しいアナクロ・ヤラセ国物語」(2006.9.26 - 2007.8.27)の自滅・茶番劇を観劇させられ、そして現在の「福田パンダ劇場」(2007.9.26 - )の意味不明な「あわわわわ〜!防衛・道路利権劇場」と続く間に、冒頭で拾った国民の悲惨な状況に加え、「小泉劇場」から現在までの約7年の間に少なくとも累計で20万人以上の自殺者(年平均で約3万人のペース、http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm)が発生中であることを想起すると、まことに暗澹たる思いとなります。


しかも、「金融広報中央委員会」(日銀情報サービス局)の調査で「貯蓄を持っていない」と回答した世帯(2人以上)が全体に占める割合の推移が、2003年以降<1/5 → 1/4 → 1/3>のトレンドを辿っていること、日本の総勤労者数の実に1/3強が「年収200万円以下」となってしまったこと、約107万に及ぶ生活保護世帯数の中で高齢者世帯が占める割合が約44%と約半数に迫っていること・・・等々の悲惨な現実が積み重なることで、日本社会の基盤そのものが、今や、その根底から疲弊・困憊し、ズタズタに引き裂かれつつあることが大いに懸念されます(参照、下記の参考テレビ番組★)。


★参考、テレビ番組


NHKスペシャル/セーフティーネット・クライシス〜日本の社会保障が危ない〜(総合テレビ、2008年5月11日(日) 9時〜10時28分)、http://www.nhk.or.jp/special/onair/080511.html


(国民騙しの“偽装看板”を見抜く決め手は“言論の復活による多数の視点”を確保すること)


我が日本が、このような悲惨な現況を乗り越えるために必要と思われる視点については、既に下の記事で纏めておきましたが、要点だけを再録しておきます。


(1)平和憲法理念の再強化と改革論議の方向転換(ネオリベ思想と市場原理の教条主義的解釈の停止)・・・広島・長崎の被爆経験、ドイツにおける大戦後の持続的反省などを教訓としつつ全国民的な思索深化の方法を考える(参照、下記HP★)。


★HP『酔狂の風景/“ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の風景”が意味するもの』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html

(2)日本国民の厚生・福祉・医療体制の充実と個人消費環境の底上げ重視(消費性向の向上政策)への発想転換
・・・規制緩和と規制強化のメリハリをつける。問題の本質は「改革」、「規制緩和」、「市場原理」らのコトバ遊びではなく、国民の生命と日常生活を支える個々のサービス内容等の質的充実とレベルアップにある。


(3)内需型産業に傾斜する中小企業と非製造業を重視する政策への転換/輸出政策と内需市場政策のバランス回復・・・これまで日本の景気は外需の恩恵を受けた大企業(製造業)に特化し過ぎてきた。しかし、大企業の雇用は日本の全産業の1割程度であり、同じく中小企業(非製造業)のそれが約6割を占めるという現実を直視すべき。・・・これこそが「格差拡大」傾向へのブレーキ(絶対的貧困相対的貧困双方の底上げ効果)となる。なお、多様な社会のあり方を尊重する観点からすれば、このような産業別・産業規模別の雇用構成比の現状について、その是非を軽々に評価することはできない。


<注記>


このような発想転換のために役立つのは、やはり「本論・第一部」(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080425)でも触れた“グローバリズムと市場原理を有効活用”(←決して、その暴走は許さぬ姿勢で!)しつつある『拡大EU、5億人の成長戦略』(参照/NHKクローズアップ現代http://www.nhk.or.jp/gendai/)に潜む根本理念である。なお、その詳細については下記記事■を参照乞う。


2007-12-27付toxandoriaの日記/市民の厚生を見据えるEU、軍需利権へ媚びる日本/リスボン条約の核心、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20071227


なお、現在、経済財政諮問会議の「専門調査会」では『21世紀(平成)版、前川リポート』( 参照、下記記事▲)の準備のため、日本の経済・社会の新たな方向性について、世界の最新潮流も見据えた議論が進みつつあるようですが、このような時にこそ、マスメディアは同「専門調査会」の議論内容を積極的に取材し、中立・公正な観点で全国民向けに分かりやすく報じ続けるよう努力すべきです。そして、“密室の御前会議”が『カムバック小泉劇場』と『御用商人&御用学者』らにとって都合よく、また“世界の潮流に敢えて背を向けた、日本のネオ・ファシスト一派(左右イデオロギー対立のトラウマに、未だに取り憑かれたまま日本会議つくる会などを極右セントラルドグマ御神体と崇めるアナクロナショナリスト一派)の目的達成”のため、この<新・前川レポート>が再び偽装(厚化粧?)されることを許すべきではありません(日本会議については、下記記事★を参照乞う)。


ところで、「市民の厚生を見据えるEU欧州連合)」と「暴政をもて“遊”ぶ小泉前首相や軍需・道路利権等へ媚び続ける日本」との間における決定的な違いは何かを考えれば、それは「アーキビズム」と「公共」の二つの問題と見なすことができます。しかし、市民の厚生にとっての「アーキビズム」の役割については、既に下の記事★などで詳しく述べてきたので、ここでは「公共」の問題を取り上げておきます。


2008-05-01付toxandoriaの日記/【復刻版】『小泉ポルノ劇場』が毒牙にかけた日本社会のエクリチュールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080501


これは、前にも述べたことですが(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080428)、アレントの「活動」(action)とは“直接的に人と人が関係し合う作用”のことであり、別に言うなら、それは“人と人が「世界」(world)を舞台にしてかかわり合いながら、何か新しいことを創始(beginning or initiating)する作用”です。更に言えば、それは人と人の「多数性」(prurality)の関係が「言語活動」(speech)を介してコミュニケーションを創生する働きのことだということになります。


そして、このコミュニケーションには“複数の他者との関係性の中で自分自身は何者であるかを明らかにし暴露する働きがある”と言うのです。ただ、この「活動」の生産物である言語的な演技(言語活動によるパフォーマンス)の特徴は、それが形として残り末永く持続することができないという点にあるため、この弱点を克服する特別の工夫と努力が求められることになります(マスメディアの重要な役割は、ここにも絡んできます)。ともかくも、このアレントの「活動」の舞台となるのが「公共」です。


ところで、フランスの「政教分離の原則」のルーツはフランス革命の時に出された「人権宣言/Declaration des droits de l’homme et du citoyen」(1789年8月26日)まで遡りますが、その 「人権宣言」には、「政教分離の原則」について、おおよそ次のような意味の記述があります。・・・“国家は人の自然権基本的人権)を保全するための永続的に消滅することがない体制”である。また、国家は世俗的目的のための空間(現代風に言えば公共空間 or 市民社会)を実現するための政治的な団結であり、それは神への喜捨や神の意志(神の真理)への奉仕にではなく、自由で平等な自律的個人の意思の上に基礎づけられたものである。ここで考えられる個人は、信教の自由を持ち、宗派にかかわりなく平等であることを保障された、そして宗教から解放された世俗的存在(今風に言えば市民?)である・・・


いずれにせよ、このような政教分離がもたらす「公共」空間の住民たる市民にとっての基本条件は何かと問うならば、それはある特定の話題を様々な側面から(つまり、これが政治的ということになりますが・・・)偽りなく、あるいは誤解なく見る能力を身につけているということです。その結果、市民たちは現実の世界から手に入れた数多くの可能な観点を受け止める方法を理解できるようになり、まったく同じ話題について、その様々の立場から考えられるようになり、その結果として、その一つの話題が非常に多様な観点から見えるようになるということです。このようなプロセスの繰り返しによって、市民たちの「公共」空間で生きる能力が高まり、結果的に、それは、その「公共」を中核とする市民社会の、ひいてはその国家の民主主義の成熟に繋がることになります。


「公共」空間の中で、このようにして市民らへ様々な観点や考え方などを積極的に提供し、あるいは「公共」を安定的に持続させるという観点から、暴政化しようとする権力を適切に批判しつつより新たな見方などを市民レベルへ提供するのが本来のマスメディア(ジャーナリズム)の仕事です。然るに、「小泉劇場」から現在に至るまでの間に過半のマスメディアがやってきたのは、このような彼らの基本原則に反することばかりです。彼らの多くは憲法違反や国民の基本権を無視する冷酷な政治に媚びるばかりで、市民のための「公共」の基盤を自ら率先して破壊することにウツツを抜かしてきました。それどころか、「小泉劇場」や安部の「美しい国」では、その妖しげな国民騙しのスローガンとパフォーマンスを率先して煽り立てさえしました。これらの行為は、明らかにマスメディアの基本を逸脱しており、まさに、それは『暴政権力に媚びつつ『大衆の狂気』を煽る卑劣なマスゴミ』に他なりません。


ついでながら、ハンナ・アレントHannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)は、著書『政治の約束』(ジェローム・コーン編、高橋勇夫・訳/筑摩書房)の中で、市民社会における「公共」(=言論による多数の視点が出現すること)の重要性について次のように書いています。退化したマスメディアの奮起を願いつつ、下に、それを転記しておきます。ここでアレントが強調するのは、近代民主主義の基盤たる「自由」の根源は「公共空間と精神世界における移動の自由」にこそあるのだ、ということです。それはネオリベ小泉純一郎竹中平蔵、あるいは経済財政諮問会議に属する新自由主義思想の信者たち)が崇める「交換的正義に過剰に傾斜した自由」とは“異質な自由”です。このような観点からすれば、「小泉劇場七つの大罪」という暴政の結果を忘れ去り、その暴政の主(あるじ)たる人物が書いた、国民一般を侮辱するようなオジャラケ本『・・・真実の“うそ”は感動的だ』に媚を売るばかりか、再び、そのプロパガンダを煽る手助けをしようとする魂胆は、まさに<愚劣なマスゴミ>以外の何物でもありません。


『これは、単に個人的な利害を棚上げすることよりも、はるかに重要な意味を持っている。なぜなら、個人的な利害の棚上げは結局のところ損失を招くだけだからである。さらに言えば、自分自身との利害を断つことによって、私たちは世界とのつながりを失い、そこのある物やそこで生起する事象への愛着をも失う。同一の事柄を多様な立場から見る能力は人間世界の内部に在り続けるのだ。つまり、それは、生まれつき持っている立場を、同一の世界を共有している他の誰かの立場とやりとりすることに尽きるのである。その結果として、私たちは、物理的世界における移動の自由に見合う、“精神的世界における真の移動の自由を獲得する”のである。』


なお、余談ながら、大統領就任1年後で「小泉似のネオリベ型看板と派手なパフォーマンスで登場したサルコジ人気が急落(65%→40%未満へ)」したフランス、あるいは「ハンブルク市(州と同格のベルリンに次ぐ大都市)で“CDU”(キリスト教民主同盟)と“緑の党”の連立合意が成立」したドイツなどの最新動向に象徴されるEU欧州連合)諸国には、紛れもなく健全な「公共」空間が存在するとともに、上で述べた「精神的世界における真の移動の自由」も確実に存在しているようです。従って、渦中の地球温暖化対策問題についても、これからEUは、おそらく交換的正義と配分的正義のバランス回復を図りつつ「エコ・ファシズム」(温暖化の原因を炭素量の増加のみに帰す炭素原理主義、あるいは科学否定主義などへの極端な傾斜)を回避する方向の探求が期待されます。一方、この分野でも、我が日本の可能性については、メディアの退廃ぶりから推すと、まことに忸怩たるものがあります。