toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

ヒールをヒーローと偽り、セーフティネットを壊した自公政権とマスコミの知的不誠実


<注記1>


この記事は、[2008-05-10付toxandoriaの日記/暴政権力をもて“遊”ぶ小泉前首相らに媚びつつ『大衆の狂気』を煽る愚劣なマスゴミhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080510]への[反照(TB&レス)]に若干の補足を加えUPしたものです。


<注記2>


ヒール(Heelとは、プロレス興行の客寄せに必要な、アクが強く、かつペテン師的な存在感がある悪玉のこと)です。[2008-05-10付toxandoriaの日記/暴政権力をもて“遊”ぶ小泉前首相らに媚びつつ『大衆の狂気』を煽る愚劣なマスゴミ]で具(つぶさ)に見たとおり、我われ日本国民は、<救国のヒーロー(Hero=英雄)>を騙る自公政権とマスコミを信じて、まんまとヒール(Heel=小泉前首相)を“掴まされてし まった”という訳です。その結果が現在の<セーフティーネット・クライシス>です。この意味で、日本のセーフティネットをズタズタに破壊した自公政権とマスコミの責任は重大です(参照、下記URL◆)。


NHKスペシャル/セーフティーネット・クライシス〜日本の社会保障が危ない〜(総合テレビ、2008年5月11日(日) 9時〜10時28分)、http://www.nhk.or.jp/special/onair/080511.html 


→(再放送予定1) 2008年5月13日(火) 深夜 【水曜午前】0時55分〜2時23分 NHK総合http://www.nhk.or.jp/special/rerun/index.html


→(再放送予定2) 2008年5月18日(日)  10時〜 BS2 ※あなたのアンコール・サンデー内 セーフティーネット・クライシス 〜日本の社会保障が危ない〜 


【参考画像】ジャン・フランソワ・ミレー『落ち穂拾い』

Jean-Francois Millet (1814-1875)「Gleaners」1857 Oil on canvas 83.5×110cm Musee D'orsay 、 Paris


ミレーは、ドーミエHonore Daumier/1807-1879)、クールベGustave Courbet/1819-1877)とならぶ19世紀フランスの写実主義レアリスム/Realisme)を代表する画家ですが、1814年10月4日にノルマンディー地方の北端の寒村グリシー(Gruchy)で生まれています。ここは、港湾都市シェルブールCherbourg)から西へ約17kmにあるグレヴィルの町はずれ辺りにあり、大波が荒れ狂うイギリス海峡の断崖(Cliff of Greville)に面しています。


おそらくミレーは裕福な部類に入る農民の家に生まれていますが、8人兄弟の第2子であったうえ内気で人見知りする性格でもあったため、シェルブールとパリを行き来するこの修行時代(およそ19〜31歳頃/1833〜1845)は、必ずしも順調ではなかったとされています。が、この時代のミレーはルーブル美術館当時は王立美術館)でミケランジェロ、マンテーニャ、プサンNicolas Poussin/1593-1665/クロード・ロランと並び、精神世界の高みと自然の融合をキャンバスで実現した17世紀フランス最大の画家)らの影響を受けています。


やがて、ミレーは1846年にバルビゾン派ecole de Barbizon/パリの東南にあるフォンテンブローの森の西北隅の小村バルビゾンに住みつつ活躍した風景画の一派)の画家(トロワイヨン、ディアズ、テオドール・ルソーなど)、及び後に彼のパトロンとなりミレーの伝記も残すことになるアルフレッド・サンシェ(Alfred Sensier/?−1877/内務省2等書記官)らと親交を結びます。


ちょうど、この時代は、オルレアン公ルイ・フィリップの「七月王政1830-48)」の反動化(立憲議会制であったが大ブルジョワジーが政治の中枢を占めた)に対する労働者と小市民による市民革命であった「二月革命1848)」が起こり第二共和制が成立する時で、また、その余波がドイツ(三月革命)、イタリア、イギリスなどヨーロッパ中へ拡がるという、まさに19世紀ヨーロッパの一大画期の時でした。


ミレーの故郷グレヴィルの大地を描いたミレーの『落ち穂拾い』は、明澄な朝の陽の光に照らされた三人の貧しい農民の妻たちが、地主の畑にこぼれた麦の穂を集めている静寂な光景です。背景に遥かに見える“豊かな収穫の景色”と殆どボロに近い粗末な衣服を着た“三人の女たちの貧相な姿”との対比の構図は、それらが矛盾するどころか、ミレーがルーブルで身に着けたプサン風の豊かな色彩と壮麗な様式で美しく、むしろ見る者にとって心地よく纏められています。


ミレーの「画家としての誠実な眼」は、この時代のフランスの農民たちの貧しさや苦しみを、避けることができない一つの歴史的現実として見事に捉えています。このため、二月革命の影響を受けた革新的な批評家たちは、このミレーの作品の中に“権力への闘いの意志”を読み取っていたようです。一方、それ故に、ミレーは保守的な立場の人々から危険視されるということもあったようです。しかし、ミレーのレアリスム絵画(農民画)の価値は、このようなイデオロギーの対立を遥かに超えた、人間と芸術への深い愛にあったと見なすべきです。


このミレーの絵には、日本の画家が農民を描いた絵を見る感覚では理解できない独特の敬虔で美しい雰囲気が漂っています。その一つの理由は、“落穂を拾うのは畑(土地)の所有者ではなく貧しい農民たちであり、その畑の所有者は落穂を拾ってはならない”というキリストの愛の教え(申命記・第24章 19節ほか)”がヨーロッパの社会にあることだと思われます。ミレーには、そのような貧しい人々へのキリスト的な愛を描きたいという心があったと思われます。そして、ミレーのこのような“人間と芸術への深い愛の心”は、<現代のどこかの国の元宰相>が語る“ひどく屈折した倒錯的な愛”(=真実の“うそ”は感動的だ、権力もオペラの愛の前にはむなしい・・・/参照、下記URL★)とは全く異次元のものです。


★2008.5.9付・朝日新聞小泉元首相インタビュー記事=総理はつらいよ(表記の自著『音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』のPR記事)、http://www.asahi.com/politics/update/0508/TKY200805080304.html


ロマン・ロランRomain Rolland/1866-1944)によれば、もう一つの理由は、プサンがローマの平原に見た田園詩と同質の、とうてい人間(人知)の力が及ばぬ自然(環境)への愛をミレーがバルビゾン(フォンテーヌブロー)の森と平野に見ていたということにあるようです。この時代は、イギリスに遅れをとったフランスの産業革命が本格化する時でもあり、また、それ故にフランス革命の弛まぬ余韻がフランスの民主主義と資本主義経済を成熟させつつある時代でした。


つまり、ミレーは、無限とも思える自然の驚嘆すべき広がりを、生きいきした表情で描くことに心身をくだき、そのため自らの心眼と手の技術を、身体と精神の全てを、そして持てるだけの知性と感性とイマジネールを彼のキャンバスに捧げたのです。このため、ミレーの絵を見るとき、我々は目の前に広がる大地と地平線の美しさがしみじみと心に染みわたるような体験をするのではないでしょうか。そこでは、家族や友人たちとの愛や友情、労働や日常生活、あるいは農作業などの大地との触れ合いをとおして感じることができる、人と人との繋がりや季節感を分け合える喜びまでもが、我々の心の奥深く沁みこんでくるように思われます。


現代の我われは、日ごとに加速しつつある温暖化を始め地球環境問題の深刻化を目前としてうろたえるばかりですが、ミレーを始めとするバルビゾン派の画家たちの<美しい業績>をアンチ環境破壊の視点から見直すべきかも知れません。地球環境学なる学問は未完成であり、我われは未だ気象学・生物学・資源エネルギーなどの枝分かれした個々の現象論を追いかけるのに精一杯なので、それは、未だに“群盲が象を評す”状態であるように思われます。


一方、人間の欲望を限りなく開発し続けることによって、資本主義経済システムを更に肥大化させようとするベクトルは強まる(新自由主義思想が暴走化する)ばかりに見えます。むしろ、我われにとっては、例えばミレーのように、広大な大地や森林のような、目前にある美しい自然との率直な交流をとおして、素直に慎み深く、そして謙虚に自然への愛を語る心の柔軟さを回復することが先決かも知れません。


なぜなら、例えば二酸化炭素の排出削減だけで地球環境危機が回避できるという錯覚に嵌るのが<愚>であると同じ様に、論理による科学認識を絶対視するのは傲慢に目が曇った結果としての、ただ小ざかしいだけの<知的不誠実>に他ならないからです。そして、何よりもこの<知的不誠実>が犯罪的になるのは、我われが未来の人々への思いやりと責任(通時的な倫理観)を忘れた時です。


言い換えるなら、科学方法論的ハードコア主義に囚われることなく、カール・ポパー流の「仮説→非反証」枠内で暫定真理を持続させるという意識上のスタンスこそが、現実の人間社会を対象とする政治・経済における誠実な知的態度の原点なのです。この観点からすれば、グローバル市場原理主義小泉劇場以降の日本で旋風を巻き起こしてきた過剰な新自由主義思想フィーバー)、“自公癒着・談合”による道路族(賊?)の跋扈に代表される利権型・地域開発絶対主義、あるいは二酸化炭素原理主義のようなエコファシズムへ傾斜する態度などが、人間に対して通時的な意味で倫理的に傲慢であり、また、それが人間に対する知的不誠実の現れであることは明らかです。


・・・以下は、[2008-05-10付toxandoriaの日記/暴政権力をもて“遊”ぶ小泉前首相らに媚びつつ『大衆の狂気』を煽る愚劣なマスゴミhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080510]への[反照(TB&レス)]の再録です・・・


sophiologistさま、


TB(http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20080513)ありがとうございます。


『人間の条件』の文庫版解説(阿部 齊氏)によれば、ハンナ・アレントはナチの強制収用所に入れられた経験がありますが、そのことについては一切語らなかったそうです。


しかし、彼女の深い洞察力は、その過酷な経験と無縁ではないと思います。ちなみに、アレントの最初の大著は『全体主義の起源、1951』です。


Media Pointと共鳴する「精神的世界における真の移動の自由」は、今の日本に最も欠けていることです。本来、それを確保すべき責任を負うのが政治家であり、マスメディアであり、アカデミズムであったはずです。


しかし、彼らのことごとくは、この視点を敢えて無視しているようにさえ見えます。これが面妖な『ウソつき小泉劇場』を、今になっても増長させ続けている背景となっています。


従って、ここでは誰も気づかぬうちにナチス的あるいはスターリン的「全体主義」を受け入れる空気が醸成されつつあるようです。


toxandoriaが意識する危機感のベースは、このような“現実認識”にあります。が、残念ながら、このような視点は少数派であり、場合によっては過半の人々から異端視されることさえあるようです。


たまたま、アカデミズムの真っ只中に居ながら、このような立場と似た観点で「権威の作り出す常識が現実に裏切られても、そ知らぬ顔で通り過ぎる権威の知的不 誠実」に警鐘を鳴らし続ける、新進気鋭の若き(38歳)経済学者の著書が存在することを知りました(下記★)ので、これから読むつもりです。


★佐野 誠著『開発のレギュラシオン』(新評論)、佐野 誠氏の詳細については下記URLを参照ください。<注>レギュラシオン(regulation)は“制御”の意味。
・・・Risearchers Niigata University、http://researchers.adm.niigata-u.ac.jp/R?ISTActId=MEMBER&userId=372&lang_kbn=0


経済評論家・内橋克人氏は、この本の紹介で次のように書いています。


『本書は著者38歳の大著。いま、「負の奇跡」(南米経済開発で、新自由主義信奉者らが唱えた現実無視の事大評価を批判的に摘出したコトバ)を警鐘として著者 の炯眼は日本の新自由主義改革へと激しく向かう。「新自由主義改革日本版」の悪夢こそ著者の警告なのである。経済学の初級レベルで刷り込まれる「ハッ ピー・バランス(おめでたい市場均衡論)」に黄昏の時が迫っている。』


また、次のようなことも語っています。


『2006 年初め、「日本社会の格差拡大はみかけだけ」と唱えた内閣府は、翌年6月、今度は「勤労者のクビを切りやすくすれば雇用の機会が増える」(フレキシキュリ ティも備わっていないのに!)といった理屈の調査結果をまとめた。景気の「いざなぎ越え」が囃されるようになると、2006年4月、日銀展望レポートは 「今後、日本経済は内需と外需のバランスのとれた景気拡大が続く」と説きつづけた。権威のつくり出す常識が現実によって裏切られる。権威はそ知らぬ顔で通 り過ぎる。この国を被う時代の空気は「知的不誠実」にある。』(2008.5.11、朝日新聞・書評欄)より



toxandoria2008/05/11 17:18


sophiologistさま、先のレスに補足・訂正を書かせて頂きます。


まず、佐野 誠氏の年齢のことですが・・・現在、佐野氏は48歳であり、38歳の時(つまり10年前)に『開発のレギュラシオン』(新評論)を書いたというのが正確な表現となります。


いずれにしても、38歳の気鋭の経済学者が、このように「先見的な大著」(362頁の学術専門書)を著していたことに驚かされます。氏は、「開発の政治経済 学」の分野がご専門のようですが、この著書は「知のアナキズム」に依拠しつつ常に開かれた立場で「開発の政治経済学」を脱構築するというスタンスで貫かれ ています。


内橋克人氏が語るように、この著書の中に直接的な表現はありませんが、その後、ほぼ10年に及ぼうとする「小泉→安部→福田」 政権による「新自由主義改革日本版」が<悪夢のような結果>に終わることを的確に見通していたと思われます(それに、民主党も未だに同じ悪夢の種を宿して いるので要注意です)。


そして、最大の悲劇は、メディア、政治家、アカデミズム、そして国民の多くが「新自由主義改革日本版」のための ヒーローのつもり で、実像はヒール(Heel/プロレス興行の客寄せに必要な、アクが強く、かつペテン師的な存在感がある悪玉のこと)であった小泉前首相を“掴まされてし まった”ことです。その意味で、根本的には連立与党(自民党公明党)の責任が重大です。


佐野 誠氏は、この著書の中(第三部、何をなすべきか)で『・・・次のように・・・』書いています。参考まで、部分的に引用・転載しておきます。


『・・・ 市場が失敗するからといって市場自体を放擲するのが誤りであるように、民主主義が失敗するからといって“権威主義”を容認してしまうのも安易ではないか。 民主体制の枠内で多元的な利害関心のコンフリクトの経済合理的な妥結を媒介し、その制度化を保証し、さらにこの制約の下でアカウンタビリティを保ちつつ効 率的に活動するような、社会奉仕的な国家・官僚制度こそ望ましいのではないか。・・・』


この考え方には、ほぼ同感できます。しかし、残念ながら、我々一般の国民は、この“権威主義”の代わりにヒーローどころか「詐欺師的な最悪のヒール=小泉前首相=“真実のうそウソ感動的だ!”を信奉するという意味で“倒錯趣味”の人物」を掴まされてしまったのです。


この点について、テレビ・新聞・週刊誌・雑誌などのメディアの責任が重大です。これが、彼らをマスゴミと呼ばざるを得ない所以です。