toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

映画『フィクサー』/「権利保護(法の発展史)」を忘れ「市場原理」へ急傾斜する現代社会の恐怖

toxandoria2008-06-02



【画像1】映画『フィクサー』(5/30観賞/於、日比谷みゆき座/右の画像はモディリアニ『ジャンヌ・エピュテルヌ、1919』

http://www.cinemacafe.net/movies/cgi/19813/より


映画『フィクサー』の公式HPはコチラ → http://www.fixer-movie.com/


約3千億円にも及ぶ薬害訴訟で、渦中の大製薬会社にとって有利に和解されようとするとき、その製薬会社を弁護する立場の弁護士が全てを覆す秘密を握り、その数日後に殺されます。事実を知ったマイケル・クレイトン(主人公/フィクサー/Fixer=大法律事務所のもみ消し屋、汚れ役)は、不審な同僚の死の真相を追究するうち、企業の隠蔽工作にとどまらぬ巨大な陰謀に自らが巻き込まれたことに気づきます。


このためクレイトン自身も危うくなりますが、間一髪の“ある出来事”で一命を取り留めます。その出来事とは何か? これ以上書くとネタバレとなるので止めておきます。が、かつて書いた下の記事◆の一部分(ヒント1=『・・・〜〜〜』の部分)および[謎の画像](ヒント2)などが手がかりとなります。


(ヒント1)


◆2008-05-12付toxandoriaの日記/ヒールをヒーローと偽り、セーフティネットを壊した自公政権とマスコミの不誠実、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080512の[【参考画像】ジャン・フランソワ・ミレー『落ち穂拾い』]より


『・・・一方、人間の欲望を限りなく開発し続けることによって、資本主義経済システムを更に肥大化させようとするベクトルは強まる(新自由主義思想が暴走化する)ばかりに見えます。むしろ、我われにとっては、例えばジャン・フランソワ・ミレーのように、広大な大地や森林のような、目前にある美しい自然との率直な交流をとおして、素直に慎み深く、そして謙虚に自然への愛を語る心の柔軟さを回復することが先決かも知れません。』



(ヒント2)


謎の画像?

[仙台、秋の風景2007-11]、http://picasaweb.google.com/toxandoria/200711より


・・・・・以下、本論・・・・・


(ヨーロッパ法制史に見る権利保護の歴史/概観)


一般的に動物の世界では見られぬという意味で「法の発展史」は紛れもなく一つの文明現象です。例えば、「新しい人権」の一つとされる「環境権」(参照/『環境権とは?』、http://eco.goo.ne.jp/word/ecoword/E00328.html)は、その典型的な意味での事例になると思われます。つまり、「法の発展史」という観点からすれば、我われ人類の「権利」(権利保護)のコンセプト(概念)は、多様な人間社会の学習・変化・発展に伴いながら様々な意味で「基本的人権」を開発・発見してきたと見なすことができるのです。


例えば、通常の歴史観では、東方の国制に倣った専制的なビザンツ帝国の最盛期を画しつつ『ローマ法大全』(古典古代のローマ法と近代ヨーロッパの各法体系を結ぶ枢要な媒体)を集大成(編纂)したユスティニアヌス帝Justinianus 1/位527-565)の時代においても、不当に徴収された租税についての訴え、職業身分団体内部の紛争、官吏の職権乱用などから、無防備で丸裸同然の下層民らを守るために準裁判官的機能を果たす「市民保護官」(defensor civitatis)の制度がありました。このため、特にユスティニアヌス帝の時代のビザンツ帝国には専制国家的であるとともに福祉国家的な性格も垣間見ることができるようです。


それどころか、別の記事でも書いたことですが(参照/『自民党元職員の政治献金着服に透ける“共和制ローマ”にも劣る日本・民主主義の悲惨』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080528)、ユスティニアヌス帝の時代から約600〜1,000年も遡り、その国制が「半貴族政的・半民主政的」であった「共和制ローマ」(BC509の王制打倒から、BC27の帝政開始までの古代ローマ)においても、「査定官」(censor)の制度下で「倫理裁判」が機能し、共和制ローマで最も権勢を誇った元老院議員らの持続的な適正、適性および日常行為が厳しく査定(監視)されていたのです。


ちなみに、陪審裁判所と陪審員制の起こりも共和制ローマの時代まで遡り、この時代には最高権威を誇る「元老院決定」(senatus consultum)に対する拒否権(intercessio)を持つ「護民官」(tribuni prebis)の制度が機能していました。更に、その起こりを「探ると王政古代ローマ」(建国伝承BC753〜BC27)時代の「貴族・豪族vs平民」の闘争史まで遡ります(以上、市民保護官、査察官、護民官の記述にかかわる出典:クヌート.W.ネル著、村上純一訳『ヨーロッパ法史入門』(東大出版会)。


言い換えるならば、欧州における啓蒙主義が明確な画期であったとしても、突然、そこから“現代的意味の人権保護の観念”が出現した訳ではなさそうです。近世以前の国制下で全く「人権保護の観念」が存在しなかったのではなく、ギリシア・ローマ古典古代〜中世〜近世に跨る非常にロング・スパンな人類文明史に関わる法概念の特徴は別の所にあります。つまり、その長い時代には歴然たる「身分制」が存在し、誰もそれを不自然なこととは思わなかったという現実があったということです。宗教的・哲学的なトマス・モア(Thomas More/1478-1535/イギリス・ルネッサンス期の法律家・思想家)、スピノザSpinoza/1632-1677/オランダの哲学者・神学者)らの寛容(tolerance)が存在したとしても、それが「身分平等の概念」と直結していた訳ではありません。


新自由主義思想がもたらしつつある、権利保護の歴史を無視した<恐怖の時代への入り口>)


この意味での歴史的な「法の発展」の視点を失うと、とかく我々は例えばエコ・ファシズムと揶揄されるような原理主義的思考に嵌るおそれがあり、その典型が、今や一種のファシズムイデオロギーの次元まで教義化された「グローバル市場原理主義」、つまり“人間の基本的人権の一つと見なせる「市場原理型の経済権」を人間の幸福と厚生のための「最善で唯一の切り札」と見なす新自由主義思想”です。


いわば、現代における「グローバル市場原理主義」や「エコ・ファシズム」(地球環境学なる学問が未完成であるにもかかわらず気候温暖化の原因を二酸化炭素のみに帰す“非科学的な炭素原理主義”のような立場、あるいは科学否定主義などへの極端な退行的傾斜)の立場などは、その意味での「原理的思考の罠」に嵌っているかのようです。


それにもかかわらず、仮に「グローバル市場原理主義」に注目すると、一部のメディア(週刊誌など)が報じるとおり、「自民党小泉元首相、中川元幹事長ら)と民主党の一部(前原元代表)の合体による政界再編」の実現によって「グローバル市場原理主義に忠実な小泉構造改革リバイバル=カムバック・小泉純一郎!」を実現しようとすることなどが報じられており、主要メディアと国民の一部には、何の疑念も持たず、この動向に大いに期待する向きも多いようです。


しかしながら、上で見たとおりのことですが、法制史の流れを少々かい摘まむだけでも分かるように「身分制の復活→社会的定着」(=極端な経済格差の発生・定着化→その世代間踏襲への流れの創造)を社会経済発展の活力源として当然視する「グローバル市場原理主義」は、<人間の権利保護の歴史(権力者サイドにおける弱者救済&福祉的概念の存在 → 理念としての寛容論の誕生 → 人類による基本的人権の着想&学習 → 身分制&差別の廃止と民主的理念の定着)>という「法の発展史」の観点からすれば、明らかに時代錯誤、というよりも時代逆行的でさえあり、かつ非人間主義的で異常なイデオロギーです。


そして、この観点は、日本の新進気鋭の地域開発経済学者・佐野 誠氏が著書『開発のレギュラシオン』(新評論)で警鐘を鳴らした「開発独裁的な市場メカニズム原理主義の誤謬=クリオージョ資本主義の失敗」に重なります(この詳細は、下記記事★を参照乞う)。


★2008-05-12付toxandoriaの日記/ヒールをヒーローと偽り、セーフティネットを壊した自公政権とマスコミの知的不誠実、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080512


また、この異常な「小泉構造改革」のご落胤の典型たる「後期高齢者医療制度」の根本には、同じ“小泉構造改革の悪性病原体”がもたらす「アメリカ型混合診療」への<恐怖の入り口>が待ち受けています。一口で言えば、それは我が国の「国民皆保険制度」を破棄して「アメリカ型の医療保険制度」(=病気治療(医療行為)を市場原理に委ねて経済を持続的に活性化させつつ、小さく効率的な政府が安泰に税金を徴収できるシステム構築の一助とする)への移行を最終ターゲットとしています。更に。ここには臓器売買・薬害放置などバイオポリテクスの問題も絡みますが、これ以上ここで深く触れる余裕はありません(アメリカ型混合診療の恐怖については、下記記事▲を参照乞う)。


▲2007-08-24付toxandoriaの日記/国民を米国型『患者の権利宣言』へ誘導する内閣府「規制改革推進会議の欺瞞性」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070824


さらに、この<恐るべき原理=凡ゆる公的分野を市場原理へ委ねた効率的税収システムを装備したポスト・モダン国家を創造するという異常なイデオロギー>は、法制分野へも着実に浸透しており、アメリカの「ロー・ファーム」(Law Firm)と呼ばれる大規模な法律事務所に、正義の闘いならぬ、その典型的な“悪魔の闘い”(Fighting of Demons)を見ることができます。サスペンス・ドラマ仕立ての映画『フィクサー』(トニー・ギルロイ監督、ジョージ・クルーニー主演)のテーマも、実はこの問題を伏線としていることが分かり、興味深いものがあります。


因みに、イギリスの歴史家らによれば、このような意味での“法制効率化の源流”は、コモンローの伝統を前提とする欧州でもユニークな「集権的裁判制度」を創ったヘンリー2世(Henry 2/位1154-1189/プランタジネット朝アンジュー朝)初代イングランド王)の時代に見られるようです。集権化そのものは民営化と無縁のことですが、この時の問題は“公営か、民営か”ではなく、まず政治権力者トップ(国王)へ盲従する『腹心』らに裁判権を含むあらゆる統治行為を委任したことです。次いで、ヘンリー2世は、その意のままに恰も彼らをスパイ(諜報部員)であるかの如く操りつつ組織を動かし、特に<税収に直結するよう効率的な法律行為を徹底実行>させたという点にあるようです。


従って、我われ一般国民は、大きな意味での「司法改革」の一環として現代の日本で行われつつある「法科大学院弁護士数等の)拡充、裁判外紛争解決手続Alternative Dispute Resolution)、裁判員制度、刑務所民営化、ネット規制法」などの整備動向について、このような「一般国民の権利保護の歴史」の観点から問題点を監視する必要があります。このような観点からの厳しい斬り込みについて、新聞・テレビ・雑誌など一般メディアの奮起を促したいところです。“小泉カムバック!”のチョウチン記事を書くばかりが彼らの仕事というのでは情けない限りです。