toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「触知型崇高美」への無理解で「擬装右翼の暴政」に凌辱される日本国民の不幸

toxandoria2008-08-13



【画像1】ガルミッシュ・パルテンキルヒェンから「ヴィースの巡礼教会」(Wieskirche)へ向かう道(2007年4月、撮影)


【画像2】札幌、夏の風景(2008年8月、撮影)























【画像3】Lara Fabian -La difference


アナクロな擬装右翼政党の暴政に凌辱・蹂躙され続ける日本社会)


8月10日のNHK番組に出演した大田誠一農水相が「中国製冷凍ギョーザ中毒事件に関連して・・・日本は安全なのだが、消費者(国民)が“やかましい”から安全を徹底(一層?)していく」と発言したことの波紋が広がっています。大田誠一氏(古賀派(スーパー擬装右翼?)の会長代理)といえば(改造・福田内閣農水相に就任したばかり)、思い出されるのが「スーパフリー暴言事件」(詳細は、下記▼を参照乞う)です。また、この太田氏が同番組出演後の記者会見で「多分、15日の靖国神社参拝には行くことになるだろう」と語ったことにも注目すべきです(情報源:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080810-00000062-jij-polほか/偽装右翼の詳細は、下記▲を参照乞う)。


▼ス−パーフリー暴言事件
(参照、http://www.geocities.com/waseda32154/20.html)・・・「ス−パーフリー事件」は、2003年に早稲田大学・学生らのアソビ系サークル「スーパーフリー」に参加した女子大生たちが男子学生にナンパ・集団暴行された事件。テレビ番組で司会の田原総一郎がこれを取り上げたとき、大田氏は“集団レイプする人は、まだ元気があるからいい”と発言して大騒ぎとなり、この<日本の政治家による低劣な暴言事件>は欧米のメディアでも大きく取り上げられた。


▲2007-03-27付toxandoriaの日記/「日本改革の美」に酔う「擬装右翼」の妄執的感性の危険性、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070327


これらの問題の本質は、たとえアンチ小泉派であろうがなかろうが、彼らが政治を擬装しようがしなかろうが、あるいは彼らが死んだふりをしようがしなかろうが、ともかくも日本の政治権力の中枢には性懲りもなく“お上(権力側)”から“下々(一般国民)”を見下す、あの上意下達意識(=超・悪代官意識/一般国民側からいえば無批判な親方日の丸意識)が未だに政治権力の中枢と国民の無意識の中に泰然と巣食っているという現実にあります。


従って、これは「死んだふり福田内閣」(画像は“死んだふり”をするグロテスクなヤマカガシ/http://www.ichiyomi.co.jp/okazaki/index2.htmlより)という無責任な政権の犯罪的・暴政的本性(ファスケスの斧/fasces/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070519)が図に乗りウッカリ尻尾を出したことに他なりません。コトが深刻なのは、そのように“死んだふりをするグロテスクなヤマカガシの暴政”を、ナンダカンダいいながらも、結局は有り難く受け入れてしまうという、一般日本国民の自己利益・仲間内利益中心の甚だ身勝手な姿勢(=利益誘導に弱いゼニ・カネ選挙主義)が、いつまで経ってもふっ切れないことです。


特に、その靖国神社参拝問題に関わる「特異な観念」(=擬装右翼一派が共有する異常でアナクロな価値観)の奥底にベタ−ッと澱(おり)の如く執拗にこびり付くのが「上意下達型政治」を権力側・国民側の双方が当然視する政治風土の中で生きながらえてきた日本の擬装右翼の「世にも稀で特異な価値観」です。そして、アメリカ型の科学技術立国をマネしつつ生きる現代資本主義国・日本の「上意下達型政治」を表すキーワードはグロテスク(grotesque/便宜上、これを《グロテスク1》と名づけておく)であり、この現代日本政治におけるグロテスクの問題をより具体的に言い換えるなら、それは『立憲意識が権力側・国民側の双方に根付いていない“日本の不衛生な民主主義”』(→ それをよしとするのが権力中枢に巣食う擬装右翼らのアナクロで妄執的で異常な政治感覚)ということです。が、この切り口での論をこれ以上深める余裕はありませんので、この詳細は下記★を参照願います。


2007-05-03付toxandoriaの日記/妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503


(仰視型崇高美の問題/グロテスク1、グロテスク2)


まず、ここで「仰視型崇高美」とは何かを考えてみます。そもそも崇高(sublime)の原義は「山岳の高さ、高み」のことであり、このsublimeは、洋の東西を問わず、この大地に根ざした生身の人間と「峻厳かつ荘厳な山岳等の自然景観」との関わりの歴史の中で、美的概念の一つとして発展してきたことが専門家の多大な努力によって検証されています(参照/下記資料▲)。


桑島秀樹著『崇高の美学』(講談社選書メチエ、1600円+税、2008年5月刊)


西洋では、3世紀のアテナイの修辞学者・ロンギノス(Kassios Longinos)の著書と信じられてきた文体論である『崇高論』(実際は1世紀頃の著者不明の偽ロンギノス文書/pseudo-Longinos)が、修辞学上の「文体の偉大さ」を示す言葉として崇高(Perihypous)を使ったことが知られています。そして、このロンギノスの崇高を修辞学から解放し、美的概念として再定義したのが18世紀英国のエドマンド・バーク(Edmund Burke/1729-1797)です。


周知のとおり、バークはダブリン生まれのアイルランド人ですが、英国の下院議員となり、やがてホイッグ党の幹部まで上り詰めた政治家・政治思想家です。また、バークは美学論でデビューした哲学者・文章家・演説家でもあり、名著『フランス革命省察』でフランス大革命を批判したため「保守主義の父」として名高い人物でもあります。しかし、表記『崇高の美学』の著者である桑島秀樹氏(広島大学・准教授)などもその立場だと思われますが、単純に、バークを「保守主義の教祖」に祀り上げることは誤りのようです。弱冠28歳のバークが著書『崇高と美の観念の起源(1757)』で主張したのは、18世紀にアンシャン・レジーム下のフランスで開花した啓蒙思想(そもそも17世紀の英国で芽生えた)による「理知的な明晰さこそが芸術に必須の本質だ」という超観念的な主張に対する反論と考えることができます。


ある意味でバークの美学を継承・発展させつつ「美の批判の学」(通称、カント美学)を完成したと看做すことが可能なイマニュエル・カント(Immanuel Kant/1724−1804)が生きた時代(バークとほぼ重なる)も、ドイツ(神聖ローマ帝国)では“皇帝カール6世〜マリアテレジア(オーストリア・ハプスブルグ)/フリー ドリヒ2世(プロイセン)”の戦争の時代(オーストリア継承戦争七年戦争ポーランド分割など)であり、フランスでは“ルイ15世(フランス絶対王政の衰退期)〜フランス革命勃発(1789)〜統領政府の混乱”という革命と大動乱の時代でした。


初めは啓蒙主義による理性への期待をもたせた大革命後のフランス社会が過激な暴力装置と化すのを目の当たりにしたカントは、人間が持つ底知れぬ 悪徳と自己矛盾、理性と軍事・科学技術そして資本主義社会(産業革命)が犯す誤りを観察することになります。そして、何よりも人間社会に“不安と混乱”をもたらす「悪」の存在を著書『宗教論/第1編・根源悪』で凝視することになるのです。このような両者の関わりとほぼ共通する時代の空気を鑑みると、恐らく、バークとカントのフランス大革命についての見方にそれほどの違いはなかったのではないかと思われます。つまり、彼らは「過剰に合理的な理性主義=近代主観主義」が犯す誤りについての危惧を共有していたのではないかということです。


バークによれば“偉大な芸術は世界の無限(≒根源的な自然)を志向するもので、その無限には果てがないのだから芸術は明晰でも明瞭でもあり得ないのであり、これこそが偉大な芸術を小さな範囲に囲い込むことができない理由で、それは、我われが明快に表現されたものより暗示的・暗黙知的な芸術の方に強い感動をおぼえる理由なのだ”ということになります。そして、このバーク流美学のパラダイムこそが英国の正統保守の基礎となってきたと考えられるのです。結局、英国政治の伝統は、その悠久の歴史プロセスにおける保守と革新(改革)の絶妙なバランスによって有機的に再生・再組織されてきた秩序の伝統だという訳です。


言い換えれば、バークが言う「悠久の歴史における保守と革新の絶妙なバランスにより有機的に再組織された秩序」とは、古代ギリシア・ローマ〜古代末期〜中世〜ルネサンス〜近代〜現代という非常に長い時間のプロセスで「英々と積み上げられてきたミメーシス(参照/下記◆)の繰り返し」と見做すことができるのです。そして、このような英国の伝統(→やがて、その余波は全欧州へ伝播)である真摯な努力の積み重ねによる漸進的な改革を重視するというバーク流保守主義のコアとなっているのは、無限の世界(宇宙も視野に入る)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」ということです。このような「怖れ、不安、曖昧、闇」などがあればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきという「英知をはらむ心性」が生まれるというのです。驚くべきことは、この古典的な思想の中に現代の我われの最大の脅威となりつつある地球環境問題への対処のヒントさえもが隠れているように思われることです。


◆ミメーシス(mimesis)


・・・一般に「模倣」と訳されるが、そう単純なことではない。「近代主観主義」の特徴は「自然を制御可能なものと見做す科学還元主義的な考え方」に立つことである。この発想からすれば、人間主観の権化たる大天才の出現によって科学的視点が革新(新しい理論の発見、科学技術の創造・イノベーション)され、レオナルドやミケランジェロのような天才芸術家によって人間のための偉大な芸術が創造されることになる。ところが、古代ギリシアのミメーシスは、このような考え方と正反対の立場であることが分かってきている。


・・・つまり、古代ギリシアの概念であるミメーシスが意味するのは、端的に言ってしまえば、それは「自然世界の本質的なものを強化的に再現し、再提示する」ということである(出典:青山昌文著『美と芸術の理論』(日本放送出版協会)、p18-19)。つまり、これは「近代主観主義」(近代主義の呪縛)への反証であり、これによって芸術についての実在論が反転することになる。結局、絵画に限らず凡ゆる芸術作品は人間の主観が構成するのではなく、この自然世界に際限なく広がる本質的なるものを「ミメーシスの努力」によってその奥深くからすくい上げ、それを「鑑賞者の目前で強化的に出現させる」ものだということになる。


・・・・・


ところで、同じ「高み、高いもの」への評価でありながらも、実は、この「ミメーシス」の対極となる価値評価の姿勢が「仰視型崇高美」のスタンスです。つまり、それは「近代主観主義」の特徴である「広義の自然を制御可能なものと見做す科学還元主義的な考え方」に立つことが基本であり、人間が近代科学技術を駆使して創造した巨大な人工建造・建築物を遠近法(透視図法)的なパースペクトで崇める(下から見上げる)立場です。従って、そこで高く評価されるのは模倣ではなく、あくまでも技術的な意味でのイノベーション(創造)ということです。この観点から見る限り、その技術的イノベーション(創造)を導く政治権力体制が王権神授に依る王制であるか、啓蒙君主制であるか、独裁ファシズム体制であるか、共産主義であるか、あるいは民主主義であるかの違いは余り意味がありません。


既述の『崇高の美学』の中で、著者・桑島秀樹氏はこのような「仰視型崇高美」の事例として、現代テクノロジー社会の帰趨としての「アメリカ的崇高」(American-Sublime)を取り上げています。しかも、その典型という意味で、最も注目すべきものとして挙げたのが「N.Y.9.11同時多発テロ」と「米国による原爆投下(広島、長崎)」です。が、これにtoxandoriaは渦中の「サブプライム(subprime)」問題を加えたいと思います(<注記>subprimeはプライムの次のこと、つまり第二級という意味)。なぜなら、この「サブプライム」問題も、ノーベル賞クラスの明晰な頭脳を総動員しつつ「広義の自然を制御可能なものと見做す科学還元主義的思考」に基づく「金融工学技術」を駆使した「金融イノベーション」の賜物だからです。しかも、まことに皮肉なことですが、現代世界で最高の金融工学技術に関わる明晰な頭脳が創造した「科学還元主義的思考の賜物たるサブプライム(subprime)」技術が、今やグローバル資本主義経済そのものに「メルトダウン炉心溶融/meltdown)の危機」を突きつけているのです。


因みに桑島秀樹氏は、「アメリカ的崇高美の問題」を更に掘り下げて、この「米国による原爆投下(広島、長崎)」と「N.Y.9.11同時多発テロ」に関わる「表象不可能性」の問題を取り上げています。この二つの余りにも悲劇的な出来事に通底するのは、これらが取り返しがつかぬ人類共通の悲劇に直結していることであり、言うまでも無く、その問題はまかり間違えば全人類の滅亡をさえもたらす恐れがあります。が、この詳細については後述するとして、ここでは「アメリカ的崇高」(American-Sublime)が身に帯びる独特のグロテスクな空気について触れておきます。


もともと、新大陸の諸「植民州」が、英国(及び欧州)の伝統的な政治・歴史・経済・社会の抑圧的支配から脱するため独立革命独立戦争/1775〜83)を起こし建国したのがアメリカ合衆国ですが、初めのころの「新大陸」は巨大な岩山、大渓谷、大瀑布、大平原など新大陸の個性的自然の偉大な崇高美(新大陸の18世紀的崇高=ニューフロンティア)が満ち溢れていました。しかし、やがて20世紀初頭にこのニューフロンティが消滅する頃から18〜19世紀的「アメリカの崇高(American-Sublime)」が科学技術志向へ変質し始めます。そして、その頂上たる到達点(高み、最高峰)が現在の航空宇宙産業、核・軍事技術、生命工学技術、コンピュータ技術、ゾーニング・ベースの都市開発、金融工学・・・という訳です。


そして、我われは、今やこの先端科学技術的な「アメリカの崇高」が醸し出すグロテスク(冒頭で書いた現代日本の【グロテスク1】と区別するため、これは【グロテスク2】と名づけておく)に気づいています。無論、誤解のないように断っておきますが、決して「原爆投下」の犠牲になった広島・長崎の人々の悲惨な姿や都市破壊のイメージ、あるいは「N.Y.9.11同時多発テロ」で破壊されたN.Y.の建造物の残骸と死屍累々の惨状が視覚的にグロテスクだと言ってる訳ではありません。それどころか、これら大変に悲惨なイメージの奥底には、より深い意味での「崇高な感情」の共有と広がりの可能性をすら予感させるものがあります。


しかし、それにもかかわらず、この科学技術至上原理主義ともいえる「現代アメリカの崇高(American-Sublime)」には独特の奇妙でグロテスクな空気が漂います。いってしまうなら、それは科学技術の奥に隠れ潜んでいた「暴力性=ファスケスの刃」の暴露なのかも知れません。そこで、その【グロテスク2】の具体例を少しだけ見ておきます。


(1)「N.Y.9.11同時多発テロ」の直後に起きた「炭疽菌事件」に漂うグロテスク


例えば、N.Y.9.11同時多発テロの後(2001年秋)に起きた「炭疽菌事件」(この事件では、郵便局職員2人を含む5人が死亡)について「自殺した研究者の単独犯行と断定した」との報道がある。アルカイダの犯行として世界をあれほど震撼させた大事件の犯人が、先月薬物で自殺した生物兵器の研究者ブルース・E・イビンズ博士(28年間、メリーランド州フォートデトリックの米陸軍感染症医療研究所に微生物学者として勤務し、炭疽毒素に対抗するワクチンの開発に取り組んできた)の単独犯行であったと断定されたが、この結論を聞いて何やら不可思議でグロテスクな空気を感じるのはtoxandoriaだけであろうか(情報源:http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200808070002.html)?当局(FBI)によるこの断定後に、イビンズ博士の弁護士は、米政府が提示した文書が「具体的な裏付け不足」だとして、今後も博士の無実を主張していく意向を示している。そもそも「N.Y.9.11同時多発テロ」について、不自然で不可解な情報が次々に漏れ出て来る現状を考慮すると首を傾げざるを得ない。


(2)NASAの宇宙開発に漂うグロテスク


NASAの宇宙開発についてもグロテスクな空気が漂っている。例えば、「環境問題の本質」の著者クロード・アレグレ(Claude Allegre/1937− /地質学分野で国際的に著名な科学者、フランス科学アカデミーのメンバー、現在はパリ地球物理学研究所などで教鞭をとる/1997〜2000年は社会党ジョスパン内閣で国民境域大臣を務めた)は、同著書の中で“私の同僚であり競争者でもあった人々が、自己宣伝や他の研究グループの業績を出し抜くためにメディアを利用するのを目の当たりにした。出し抜かれ干されたのは、おもにヨーロッパの研究チームであった。私はNASAアメリカ議会の予算を取り付けるために、科学的現実を超えた調査結果を発表するのを目撃した。”と書いている。そのうえ、1971年にアポロ14号に搭乗して月面に降りた元宇宙飛行士・エドガー・ミッチェル氏が、“アメリカ政府は、過去60年近くにわたり宇宙人の存在を隠ぺいしている”と語ったとか奇怪な報道(時事通信ほか)が追い討ちをかけており、その他の月面に降りた元宇宙飛行士についてもオカルト風の奇妙な噂が流れている(「環境問題の本質」については、下記★を参照乞う)。


★2008-08-05付toxandoriaの日記/クロード・アレグレ「環境問題の本質」が照射する日本の環境意識の貧相、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080805


(3)「サブプライム・ローン」問題に漂うグロテスク


「危機ドミノ倒しの様相」が深まるばかりの「サブプライム・ローン」問題についても独特のグロテスクさが付き纏っている。RMBS住宅ローン担保証券)の最劣等部分だけを取り出した不動産債権にかかわる複雑な証券化商品(例えばCDO(評価・トリプルB格の証券だけを集めた債務担保証券)など)がファンド分野全体へ浸透・拡散し、更に空売りスワップオプション等のヘッジ技術、あるいはディリバティブ等の高度な金融工学関連技術への過剰なのめりこみで、ファンドの基盤が過剰に際限なく虚構化したことがサブプライム・ローン問題の本質。しかも、肝心の「格付け会社の評価」そのものについても「詐欺的な作為性の可能性」(フェアバリュー(Fair Value/or Fair Price/市場価格に基づく会計上の時価)は公正か否か?)をめぐる諸問題が次々と噴出するなど、米国の金融工学技術関連のフィールド全体での犯人探し(疑心暗鬼)の動揺が果てしなく広がり、広義の金融市場全体での混迷の度合いが深まる一方となり、その意味でサブプライム・ローンの詐欺的性格という根本問題は今も解決されていない。


いずれにせよ、このサブプライム・ローンの由々しき本質は、本来であれば絶対に貸すべきでない“既に事実上破綻してしまった「低格付け層(サブプライム)の人々」を、契約後の数年間だけの“誘導的な見せかけの低金利設定”という、ほとんど詐欺に近い「騙し商法」で債務契約へ誘い込んだ点にある。結局、これら気の毒な立場の人々(多くの弱者層の人々)は、擬装低金利(実質的な超高金利)で住宅ローンを貸し付けられ、一方で不動産バブルの煽り(地上げ)が公然と行われ、それが突然にはじけた”というのが現実。つまり、これは米国流市場原理主義(広義の自然を制御可能なものと見做す、傲慢な科学還元主義的思考の金融・経済への援用)の<異常で悪魔的な部分>が噴出したものに他ならない。


更に、ここにきて「ARS(オークションレート証券)」の問題が金融不安拡大の火種となっている。ARSは、定期的な入札で金利を見直す商品なので安全性が高いというふれ込みであったにもかかわらず、実はサブプライム関連の金融不安のマイナスの影響を大きく受けていたことが発覚して大騒ぎとなっている。8月7日には、シティー・グループとメリルリンチが、このような擬装による不正販売の疑いを持たれた計170億ドル(約1.9兆円)を買い戻すと発表したため、却って、このことが不安拡大を煽った。また、米政府系住宅保証金融機関(GSE)の経営悪化の先行きが一向に見えない状態であり、GSEのファニーメイフレディマック両社が抱える5兆ドル(約550兆円)の住宅ローン残高の大きさが全世界の金融不安の火薬庫と化しつつある(情報源:2008.8.9付、朝日新聞)。


(4)モダニズム以降の「米国型ゾーニング都市計画」に漂うグロテスク(情報源:2008年8.10付、朝日新聞)


19世紀以前の様式建築を批判しつつ、産業革命以降の社会の現実に合った建築をつくろうとする近代建築運動により生まれた建築様式がモダニズム建築(Modernism Architecture)だが、その具体的あり方は国によって様々であり、アメリカでは、1916年のゾーニング法の施行から「住宅街とオフィス街を分ける米国型ゾーニング都市計画」が本格的に始まった。これが根本的な過ちであることを約50年にわたり批判し続けてきたのが「壊れゆくアメリカ」(仲谷和男・訳、日経BP社 ¥1,995.-)の著者ジェイン・ジェイコブス(Jane Butzner Jacobs/1916-2006/米国の作家・ジャーナリスト・都市計画理論家)である。ジェイコブスは、“都市は雑多で古いものと新しいものが集中的に混在する時に活発な魅力を発揮する”と主張してきた。


この著書の中でジェイコブスは、“今や、ロサンゼルス市民はかつて路面電車が市街地を走っていたことを覚えてはいない、これは「集団的記憶喪失」によってアメリカ文明が暗黒へ向かう姿の象徴だ”と語っている。また、ジェイコブスは「アメリカの大学改革」についても同様の病巣を発見する。つまり、アメリカでは大学教育を効率化するため、ムダと見える学問分野、例えばビジネスの役に立たない「人文学」を切り捨ててきた。その結果、一昔前なら誰でも知っていた古典文学を、殆どの人々が知らなくなっており、しかも彼らはそんなことを知らなくても平然としている。これらの“愚かな思考習慣”(≒アメリカの崇高)を悉くサル・マネし続けてきたのが日本であり、特に、小泉改革以降の新自由主義思想にかぶれた政治家・官僚・御用学者・経営者・ジャーナリストらの罪は重い。


(触知型崇高美の問題)


「触知型崇高美」について考えるには、再びバークが28歳の時の著書『崇高と美の観念の起源』に戻る必要があります。バークは、この「近代感性学(美学)の出発地点」と位置づけられる名著の中で次のような主旨のことを述べています。・・・「趣味(taste)=美的感性(例えば崇高美)の評価」を成立させるのは「想像力と判断力の複合」であり、その想像力の対象は「類似」で、判断力の対象は「差異」である。そして、この「類似」と「差異」の複合・葛藤のプロセスから、それらの複合と組み合わせの具合に応じて個別の個性的な「趣味」が生まれてくる。つまり、「類似」は「模倣」を生み、その「模倣」は「共感」を生むことになる。


実は、この「類似と差異の複合・葛藤のプロセス」こそが先に述べた「ミメーシスのプロセス」に重なるのです。そして、ミメーシスのプロセスにおける真摯な努力の積み重ねによる漸進的な変革を重視するというバーク流保守主義のコアとなっているのが、無限の自然世界(宇宙も視野に入る)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」ということでした。この考え方は、現代の日本に蔓延る「保守vs革新、ウヨvsサヨ、右vs左、改革vs抵抗勢力」に類するデカルト的な二項対立型ドグマの対極にある思考(「理知的な明晰さこそが芸術に必須の本質だ」というドグマ的な主張に対する反論)です。そして、ミケランジェロなどの天才芸術家は、そのプロセスで「自然世界の本質的なものを強化的に再現し、再提示して見せる」ことになり、それが崇高美だという訳です。


驚くべきことに、これはガダマー(Hans-Georg Gadamer/ 1900 - 2002/ドイツの哲学者/解釈学(Hermeneutik)という言語テクストの歴史性に立脚した独自の哲学的アプローチを提唱)、ドウールーズ(Gilles Deleuze/1925-1995/フランスの哲学者/差異の哲学を構築してヒューム、スピノザベルグソンらを読み解く)、タルド(Jean‐Gabriel de Tarde/ 1843 - 1904/フランスの社会学者・社会心理学者/名著『模倣の法則』を著した/群集に対する公衆の概念を提唱し、ジャーナリズムの意義を定義した)、リオタール(Jean-Francois Lyotard/ 1924 - 1998/フランスの哲学者/「未規定的なもの」、「生起しないことに対する不安」などのユニークな概念を提唱した)らを先取りするポストモダンの先駆けに位置づけるべき思考でもあったようです。


ともかくも、バーク流のミメーシス思考を援用するならば、現実世界に満ち溢れる“差異、格差、混沌、反目、宗教的対立、抗争”などを成るがままに放置するか、あるいは逆にデカルト的な近代的自我の啓蒙・教化による「過剰に主観的な合理主義=近現代的な意味での冷徹な主観主義」に基づきつつ社会を威圧的に、かつ短兵急にコントロールしようとすれば必ず地域または地球壊滅型の大戦争への道をひた走ることになるという、いわば「社会エンジニアリング的手法」(例えば、米ブッシュ政権イラク・アフガン戦争など)の限界が見えてくるはずです。


そして、この「社会エンジニアリング的手法」(=技術イノベーションによる社会構造の変革)のもたらすものが、例えば「アメリカ的崇高」のような「仰視型崇高美」とするならば、バーク流・ミメーシスの漸進的プロセスがもたらすのが「触知型崇高美」です。すなわち、それは下から遥か峻厳な高みを憧れるが如く見上げるのではなく、身近な差異を埋める地道な触知プロセスを経ながら漸進的に認識を深め、究極的には大きなパラダイム転換の高みへ辿りつくということになります。


なお、「触知」(touch)とは認知心理学の用語で、感覚器官を通して周辺環境や社会環境の変化情報を漸進的・段階的に取り込みつつ馴染んでゆくためのアプローチを指します。アフォーダンス理論(affordance)のJ.ギブソン(James Jerome Gibson/1904-1979/米国の認知心裡学者)は、パターン認知のために動物が対象に触るプロセスを能動的触知(active touch)と受動的触知(passive touch)に分類しており、前者は対象に触れ、その特徴を把握するために手指などを随意的に動かすアプローチで、後者は主体の意志にかかわらず対象との接触が自生的に起こるプロセスのことです。いずれにせよ、このような蝕知的な認識作用のプロセスで認知・共感・認識される「触知型崇高美」を考える時に見逃すべきでないのは、バークがアイルランド出身であるという事実です(アフォーダンス理論の詳細については下記◆を参照乞う)。


2007-05-10付toxandoriaの日記/改憲論に潜入するカルトの誘惑(3)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070510


アイルランドには初期キリスト教時代(6〜9世紀)いらい「自然詩の伝統」があり、その豊かで奥深く味わい深い文学的伝統はヨーロッパで他に匹敵するものがないとされる土地柄です。アイルランド教会の厳格で禁欲的な教義が、却って、アイルランド人が自然に親しむことにつながり、自然を神聖なものとして崇めつつ宗教的な情熱と自然美に対する感性がみごとに融合する詩が多く書かれるようになったのかも知れません。17世紀半ば以降はクロムウエルの征服によって英国の影響を大きく受けるようになりますが、このようなケルト色が濃いアイルランドの「自然詩の伝統」はアイルランド文学の中核的エッセンスとして伝承されてきました(情報源:アイルランド語文学、http://www.globe.co.jp/information/literature/lierature-i1.html)。そして、バークが、このようなアイルランドの自然・社会・文学環境の中で育ったということは重要です。


このようなアイルランドの「自然詩の伝統」を前提としつつ、『崇高の美学』の著者・桑島秀樹氏はバークの「詩・触覚・アイルランド」について次のように語ります(同書、p92−95)。


・・・第一の観点として「詩」というモチーフについて。『崇高と美の観念の起源』の最終第五部で展開された、絵画と詩をめぐる芸術ジャンル論、つまり『詩画比較論』こそ、ここで注目すべきものです。感覚認識とかかわる視覚表象の「明確さ/不明瞭さ」、それに必然に伴う「快/苦」を考慮しつつ、それぞれを「絵画(=イメージ)」と「詩(=ことば)」に割り当てる。そうして、そのメディア性の違いにもとづき、二つの芸術ジャンルの固有の存在様態を原理的に腑分けしていきます。バークによれば、「詩」は、「絵画」に比べて視覚的な表象再現力(再現的想像力の働き)は低いが、かえってそのぶん、いっそう強く(あえていえば触知的に)魂に訴えるある種の創造性があるとされます。


・・・これをさらに敷衍すると、「詩」すなわち言語芸術一般の本質的効果は、明瞭ないし明晰な画像イメージの呈示作用にではなく、むしろ「触覚的な想像力」の発現にこそあり、ここにこそ「詩」固有の創造の源泉がある、というのです。ここにおいて、「詩」(=ことば)のもとに生起する比較的不明瞭な非再現的な視覚イメージは、まさしく感性的な「苦」と同一視されます。つまり、視覚中心パラダイムでみたマイナスの要素が、触覚中心のパラダイムでとらえなおされた瞬間、まさにプラスへ変ずるという「パラダイムの転換」があるということ。こうなれば、「詩」というジャンルが、バーク美学においては「崇高」の側に与するものであることが容易に理解されるでしょう。・・・途中、略・・・


・・・さて最後に、第三の観点たる「アイルランド」についてバークの経歴から考えてみましょう。彼は、大ブリテンによるカトリック弾圧が厳しさを増した1720年代のアイルランドに生まれ、長じてロンドンに渡り、大ブリテンを代表する政治思想家にまで上り詰めた移民アイリッシュです。少なくとも、この点は、バークの初期著作たる『崇高と美の観念の起源』の執筆背景を考慮する際に見逃してはならない事実だと思います。


これらのことから、桑島秀樹氏は、「米国による原爆投下(広島、長崎)」と「N.Y.9.11同時多発テロ」にかかわる「グロテスク2」(「科学技術至上主義的なアメリカ的崇高美」が帯びるグロテスク)の画像的な意味での「表象不可能性」の限界を乗り越える役割を「演劇的トリック」(=俳優の語りの効果)に期待しており、その優れた事例として『父と暮らせば』(井上ひさし・原作、こまつ座公演、於・紀伊国屋ホールほか、映画化作品もあり/参考、http://www.cinematopics.com/cinema/c_report/index3.php?number=1431)の舞台を紹介しています。特に、「米国による原爆投下(広島、長崎)」の問題は、被害を受けた方々の高齢化とともに、原爆投下による阿鼻叫喚の地獄絵図というまさに「表象不可能性」の課題を乗りこえつつ、その「全人類共通の余りにも悲惨な状況」をどのようにして後世へリアルに伝えてゆくかが焦眉の課題となっているだけに、この問題の指摘は重要です(画像はhttp://www.komatsuza.co.jp/kouen_kako/chirashi/40_21/34-o.htmより)。


(仰視型・触知型、二つの崇高美のバトルが根付く欧米社会)


これまで見てきたことから、同じ「高み、高いもの」への感性(美学)的評価でありながらも、崇高美には権力側の演出で創り上げられた「仰視型崇高美」とミメーシスの作用による「触知型崇高美」という根本的に異なる二つのタイプがあることが分かり、更に「仰視型崇高美」の典型としての「アメリカ的崇高美」が、独特の科学技術至上主義的でグロテスクな空気(グロテスク2)を帯びていることが明らかとなりました。また、同じ「仰視型崇高美」ながらも、現代日本のそれは先進民主主義国家を名乗るにしては余りにも古めかしい「上意下達型政治」(=仮面を被った国民だましのマスカレード(masquerade)政治)がその実像であり、しかも、それを牛耳るのが相も変わらず「擬装右翼一派」であるうえ、そこには「立憲意識が権力側・国民側の双方に未だに根付いていない」という、余りにも時代錯誤的でグロテスクな空気(グロテスク1)が漂うことも確認されました。


念のため付け加えますが、もし、現実世界における「人権(正義)」と 「ファスケスの刃(悪)」の対決という「政治的課題」と「美学的評価」(芸術批判)が全く相容れない次元だと思うなら、それは錯覚です。かつてヒトラーが、政治支配の道具として「芸術」をきわめて巧みに利用したという比較的新しい歴史があることを思い出すべきです。例えば「近代主観主義」の徒花とも言えるヒトラーの「狂気のナチズム」では、その「崇高美」の実像は、同じ人間存在の「不安」を前提としつつもミメーシスによる自然力の強化的再現などではなく、それは、専制国家主義の高みへ舞い上がった自らの「狂気の幻想」が創造した「悪徳」に他ならないからです。同じ意味で、現代日本の政権中枢に巣食いつつ「ス−パーフリー暴言」に類する下劣なジャーゴン(jargon)をほざく「擬装右翼」の存在が極めて危険なものであることを自覚すべきです。


しかも、環をかけて恐ろしいのは、これが世襲化・寄生化・特権化しているか、あるいはヒトラーのように激烈な劣等意識をバネとして舞い上がった政治権力者(例えば、あの小泉劇場、安部の美しい国など)の場合には、自己防衛(自らの保身)に纏わる異常な「不安」がその美学を高揚させるエネルギー源となることです。そして、例えばドイツ・ロマン派絵画では(不幸にもヒトラーに利用されたキャスパー・ダヴィッド・フリードリヒなど)、ミメーシスと異質な“ヴァーチャル虚構性”がアキレス腱となり、これが「悪徳化した政治権力」(暴政)と国民一般(鑑賞者)が親和する回転扉として作用します。つまり、このように「特異な美学」上の欠陥たる脆弱な機序が介在することで、政治権力者と一般国民の間で「不安の心性」と「政治権力的な狂気のナショナリズム」が熱狂的に共有される恐れがあるのです(「キャスパー・ダヴィッド・フリードリヒの不幸」については下記▲を参照乞う)。


▲2007-03-27付toxandoriaの日記/「日本改革の美」に酔う「擬装右翼」の妄執的感性の危険性、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070327


そこで想起すべきは、欧州の「EUリスボン条約」がアイルランド国民投票の結果(=No、ノー!)で頓挫している問題です。これは、今でもEU官僚(ユーロクラット)のエリート主義と素朴な市民感情との対立が存続しており、「EU拡大憲法」がフランス、オランダ市民によって頓挫させられた時と同じ問題を未だに引きずっているということを明らかにしました。が、コトはそれだけではないようです。周知のとおり、バークの故郷でもあるアイルランドには聖パトリック伝説と妖精の伝承があります。妖精たちは美しい自然が好きで緑に覆われた山、色とりどりの草花が咲き乱れる広い草原、海岸、湖沼や川辺、薄暗い洞窟などに現れるとされています。そして、今でもアイルランドの田舎を旅する人々は、妖精たちが好む不思議な遺跡や自然が一杯の景観に出会うことができ、それがアイルランドのこの上ない魅力となっています。


それだからこそ、この問題の本質は、国民投票で否決された「リスボン条約」の内容が、市場原理主義(米国型新自由主義経済=格差を煽る社会ダーウイニズム的な経済政策)へ過剰に傾斜するものであったとアイルランド国民が見なしたという点にあります。つまり、聖パトリック伝説、妖精の伝承、色とりどりの草花、そして湖沼や川辺、薄暗い洞窟などに恵まれた美しい自然環境、及びケルト色が濃いアイルランド文学(バークも取り上げた、欧州随一の「詩」の伝統=触知型崇高美の伝統)の中で生きるアイルランド国民にとって、「EUリスボン条約」の目指す世界が、先端科学技術・ポンジーネズミ講型)金融工学ゾーニング都市計画などへ過剰に傾斜した「現代アメリカの崇高(American-Sublime)」のグロテスク(グロテスク2)に気づいたからに違いありません。しかも、そのAmerican-Sublimeが席巻するアメリカでも、「オバマ民主党大統領候補のCHANGE旋風」によってブッシュ政権の「過剰に産軍複合体企業に飲み込まれたAmerican-Sublime」が厳しく批判されつつあることも周知のとおりです。(「リスボン条約の批准・否決」問題についての詳細は下記■を参照乞う/オバマによるCHANGEの意味については下記◆を参照乞う)。


2008-06-22付toxandoriaの日記/“会津の風景”と“愛蘭・リスボン条約、No!”の対比に滲む幻影国家・日本のアキレス腱、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080622


◆2008-07-26付toxandoriaの日記/国民主権を侵す「資本の暴走」を「政治のチェンジ(変革)」に擬装する連立与党らの犯罪、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080726


既に触れたことですが、ほぼ同時代に「フランス大革命」を挟む対岸のドイツに生きたカントが、エドマンド・バークの美学(=過激化した「フランス大革命」がもたらす“不安と混乱”の分析を介した「負の崇高の美学」)について、幾分かは共有するものがあったと看做すことができそうです。それまで、「悟性」(感性的知覚を統一して概念を構成する論理的能力)と「感性」(悟性に知覚材料を与える直感的能力)は異なるものと考えられていましたが、カ ントは「美的判断力」の考察を介しつつ「想像力」(構想力と同義)の概念で両者を結びつけます。例えば、我々が“現実の立方体”を知覚するとき、その全側面が 一度に見えないから、それを1個の立方体であると認識するには、立方体の各側面が意識の中で総合されているという訳です。


この総合の働きをカントは 「想像力」(Einbildungskraft)と呼び、この「想像力」はア・プリオリな認識能力であるとします。例えば、我われは、「眼前のリアルな表象」(直感的表象)と「過去の表象」(記憶表象)を 「想像力」で総合しながら、目前で見ている“現実世界”を再構成しているのであり、これが我々の現実認識のメカニズムであるということになります。仮に、このようなア・プ リオリな認識能力がなければ、我われは“映画やテレビの静止画像”を順送りで見るような世界、つまり、バラバラで平面的で、その場かぎりの断片的な知覚表象の世界の中で日常を生きることになります。


ところで、この「過去の表象」(記憶表象)を脳内記憶データベース(脳内に取り込まれた広義の歴史記憶)に置き換えれば、我われが日常的に歴史(自分史、社会史、経済史、世界史など)との対話を繰り返しながら生きている存在であることが理解できます。従って、ここで重視すべきことは、<「類似」と「差異」の複合・葛藤のプロセスから、それらの複合と組み合わせの具合に応じて個別の個性的な「趣味」が生まれてくる。つまり、「類似」は「模倣」を生み、その「模倣」は「共感」を生むことになる。>という、あのミメーシスの役割です。無論、そのプロセスは初めから予定調和的であるはずがなく、小競り合い、喧々諤々の議論、ディベート、喧嘩とののしりあい・・・という喧しいバトルの展開になるはずです。


しかし、そのようなバトルの果てに漸く見えてくるのが、カントのいうところに従えば、そのプロセスで否定的契機(感性的な挫折、苦、不安)を乗り越えてこそ到達できる、「自分の内部にある人間理性」への歩み寄り(=人間理性の覚醒、他者との理性的共感)であり、それこそが「カントの批判哲学」の作業から帰結した「崇高」ということです。また、ここへ到達するための条件として、カントが指摘するのが「感情陶冶の必要性」ということです。つまり、文化的な意味で高度に陶冶された“十分に成熟したおとなの人間”でなければ「崇高」を経験的に理解することはできないというのです。まさに、これは「仰視型崇高美と触知型崇高美」が永遠に繰り広げるバトルの一コマに他なりません。


既に見たとおり、欧米社会では、このような意味でのバトルが繰り返されており、その典型が「EU統合への苦難のプロセス」(「リスボン条約の批准・否決」問題など)に見られます。アメリカといえども、例えばジェイン・ジェイコブス(既出)、ロバート・B・ライシュ(カリフォルニア大学バークレ−校・教授/オバマ大統領候補の政策アドバイザー/参照、下記★)らによる、高度に理論的で冷静な立場から「現代アメリカの崇高(American-Sublime)」がもたらす弊害に対する厳しい批判が繰り返されています。然るに、殆どの人々が「触知型崇高美」へ無理解な我が日本では、「中国冷凍ギョーザvs消費者・やかましい事件」や「ス−パーフリー暴言事件」の主人公のような、低劣でアナクロな「擬装右翼政党」に属する輩(我われが国政選挙で無批判に担ぎ上げてしまった人物たち)の暴政によって、一方的に、一般国民がこっぴどく凌辱・蹂躙され続けるばかりです。


★2008-07-26付toxandoriaの日記/国民主権を侵す「資本の暴走」を「政治のチェンジ(変革)」に擬装する連立与党らの犯罪、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080726