toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

アンシャンレジーム、流血革命、利己主義・・・「驕れる心の物象化」を凝視するゴヤの視点

toxandoria2008-10-31



【画像0】オムニバス、カルーソ(Caruso)の競演(右上の画像はクロアチアの夕景/2008年9月、友人撮影)


Zizi Possi - Caruso


Zizi Possi - Caruso


Caruso(Andrea Bocelli)


Haunting Knockout Version of - "Caruso" by Lara Fabian


LUCIANO PAVAROTTI & LUCIO DALLA -- CARUSO


(利己的な「驕れる心の物象化」が乱舞するゴヤの時代/18世紀後半〜19世紀初頭)


【画像1】ゴヤマドリード、1808年5月3日』

Francisco Jose de Goya y Lucientes(1746-1828)「The Third of May、1808」 1814 Oil on canvas 266 x 345 cm Museo del Prado 、 Madrid


ゴヤは、ベラスケス(Diego de Silva y Velasquez,/1599-1660/17世紀スペイン・バロックの巨匠) とムリーリョ(Bartolome Esteban Perez Murillo/1617-1682/同じく、17世紀スペイン・バロックの巨匠)以後のスペインで最も優れた画家とされています。


ドイツ出身のメングス(Anton Raphael Mengs/1728-79/ドイツ新古典主義の画家、カルロス3世の宮廷画家)の指導の下で王室タピスリー工場で下絵を描いていましたが、ゴヤは、やがて1789年にはカルロス4世の宮廷画家となります。長命であったゴヤの作風は多様に変遷しますが、その大きな特徴は“緻密な観察と堅牢な構図、明快で強いリアルな筆致、多様で豊かな色彩感覚”といえます。ゴヤ自身は“わが師は、自然とベラスケスとレンブラントである”と語ったとされています。


ゴヤは、カルロス4世の信が厚く絵画技術に優れた宮廷画家ではありますが、それだけでなく、ゴヤには「人間社会の悪の告発者」(=権力者の利己的な「心の物象化」としての“人間の驕りの姿”を凝視する視点)としての側面があります。特に、6年に及ぶ「対仏独立戦争」(1808-1814)とその後のスペイン国内の大混乱は、そのような意味で多くのモティーフをゴヤに与えました。


そして、この『マドリード、1808年5月3日』は、それらを代表する傑作とされており、戦争が終わった1814年に、ゴヤ自身がスペイン政府に対して“フランスの暴君ナポレオンに対抗するスペイン国民の英雄的場面を描かせて欲しい”と願い出て描いたものとされています。


マドリード、1808年5月3日』はスペインがナポレオン軍の兵力に威圧された場面ですが、フランス軍の兵士たちはまるで権力者の命令に忠実に従う「前頭葉を切り取られて無感動になったロボトミー人間」(それは、決してロボットではなく、人為的に心の在り処を摘出されたか麻痺させられた人間である!)のような姿に描かれています。一方、左中央で仁王立ちの白シャツ姿で肩幅が広い男は土に足がついたスペイン市民の代表のように描かれています。が、それだけではなく、彼の大きく広げた両手の掌には十字架の上で死んだキリストと同じ釘穴が開いており、彼は決してロボトミー人間などではないことがわかります。


【画像2】映画『宮廷画家ゴヤは見た



・・・この画像は公式HPより → http://www.beltek.co.jp/goyasghosts/


スペインの啓蒙君主と呼ばれるカルロス3世(Carlos3/1716-1788)の下で、側近エスキラーチェ公爵(Motin de Esquilache/シチリア人)が行った農政改革が失敗し、マドリッド市民による「エスキラーチェ暴動」(1766)が起こり、この暴動は地方へ波及しました。従来、この暴動は抵抗勢力の反動貴族とイエズス会(参照 → http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%A8%A5%BA%A5%B9%B2%F1)が民衆を煽動したため起きたと解釈されてきましたが、近年の研究により、これはスペイン版・アンシャンレジームへの抵抗運動であったことがわかってきています。


また、カルロス3世は、「国王教権主義」(ローマ教皇の影響力をスペインから排除しようとする意志)を押し通すため、スペイン国王によるカトリック教会支配を拒否するイエズス会へ「エスキラーチェ暴動」の濡れ衣を着せたふしがあります。いずれにせよ、このような訳で複雑に錯綜する形で政治と宗教が格闘する中、強大な宗教権力の復権を画策する18世紀後半のスペイン・カトリック教会では、その頃には殆んど機能しなくなっていた「異端審問」を復活させようとする動きが芽生えていました(その後、フランス革命(1789)を契機にスペインにおける近世の異端審問は一層強化され、それが廃止されるのはナポレオンの支配が始まる1808年)。


ほぼこのような“18世紀後半〜19世紀初頭”頃のスペイン社会の空気を濃密なイベリア風に描いたミロス・フォアマン監督(Milos Forman、参照 → http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=3429)の映画『ゴヤは見た』は、それに続く「カルロス4世(Carlos4/1748-1819/位1788-1808)〜(フランス革命(1789)〜)フェルナンド7世(Fernando7/1784-1833/位:1808)〜ナポレオンのスペイン制圧〜(復帰・反動)フェルナンド7世(位:1813-1833)」の時代を舞台としています。この映画で、心の壮大な芸術家ゴヤを演じるのは、身長が193cmもあるスウェーデンの名優(舞台俳優)ステラン・スカルスガルド(Stellan Skarsgard)です(Stellan Skarsgardの画像は、
http://www.stellanonline.com/news0405.htmlより)。


この映画のエピソードは、“酒場で豚肉を口にしなかったという些細な場面の目撃証言(密告)により、スペイン・カトリック教会から「フダイサンテ(judaizante/隠れユダヤ教徒)」の疑惑をかけられ「異端審問」を受ける羽目となり、その「陰惨な裸体・宙吊り拷問」に耐えかねて「実は自分はユダヤ教徒」だと嘘の告白をさせられ投獄されてしまう、ある裕福な商人の「美しい娘イネス」”の薄倖の物語です。しかし、このイネス(Natalie Portman)とロレンソ神父(Javier Bardem/実は、ロレンソこそが、スペインカトリック教会の権力回復のために、このサディスティックな「異端審問の復活」を提案した人物)は、ゴヤも絡む運命の悪戯から恋の虜となり、イネスは囚われの牢獄の中で可愛い女の子(成長後はNatalie Portmanの二役)を生み落します。


そして、カルロス4世の宮廷画家ゴヤは、このイネスとロレンソ神父の肖像画を描いていた立場から彼らの悲劇をつぶさに目撃することとなります。やがて、「フランス革命」を境にしてスペインのアンシャンレジームは崩壊しますが、その反動の荒波もひとしお激しく、イネスとロレンソ神父は余りにも非情な政治権力闘争の論理の渦の中へ吸い込まれて行きます。そのため、フランスへ亡命しフランス革命政府の“スペインにおける統治代理人の立場”へ転進してスペインへ戻ってきたロレンソは“スペインの反動政府の刃”によって首を切られ、イネスはもはや絶対に修復不能な狂気の世界へ突き落とされたかに見えます。


しかし、映画のラストシーン、つまり道端で偶然に拾い上げた赤子をひしと胸に抱きしめ“屍と化して荷車で運ばれるロレンソの手をシッカリと握りながら、とても幸せそうにフェイドイン(画面上の地平の消失点)へ向かってひたすら歩いて行くイネスの余りにも貧相で哀れな姿と、それをどこまでも追いながら歩き続けるゴヤ (この時、ゴヤは既に突然の業病で聴力を完全に失っていた)の後ろ姿に、我われ(この映画の鑑賞者)が心の奥底から不思議な感動を覚えるのは何故でしょうか? 


それは、ゴヤが、人智を超えた天才芸術家の壮大なスケールで「激動する社会、残酷で非情な戦争と殺戮の地獄、政治と宗教がらみの原理主義的で醜悪な権力闘争、過激化へ転じ流血に染まり残虐な倒錯劇と化した知的理想と平和を求める市民革命」・・・、これらあらゆる<悪徳>の彼方に“ナイーブな本物のキリストの愛”を凝視(仰視)していたためかも知れません。その<悪徳>と<イネスとの愛>の狭間で両義的な苦悩を演じたハビエル・バルデム(Javier Bardem)の存在感は、この映画で欠かせないものとなっています(Javier Bardemの画像は、http://www.thehollywoodgossip.com/gallery/a-javier-bardem-picture/より)。


ともかくも、そのような意味で、この映画はミロス・フォアマン監督が「権力者の利己心が物象化した驕りの醜悪な姿を見つめ続けた人間・ゴヤの偉大な芸術家としての心の壮大さ」を見事に映像化した作品です。また、その余りにも薄倖な人生ながらフラジャイルでナイーブな真実の美しさを演じ切ったナタリー・ポートマンNatalie Portman)の演技は見事でした(Natalie Portmanの画像は、http://putonyoureargoggles.blogspot.com/2007/11/hollywood.htmlより)。


(“異端審問”と“割れ窓理論”に学ぶべきこと=米国流・利己主義政治の受け売りを反省できない自民党の驕り)


アメリカの社会心理学者ジョージ・ケリング(G.L.Kelling)が提唱した“割れ窓理論”(Broken Windows Theory/参照 → http://www.uchidak.com/research/InfosecPsychology.pdf)という考え方があります。それは、例えば建物の窓ガラスが割れたまま放置されていると、管理人がいないと思われ凶悪犯罪が多発することに直結するという考え方です。そして、1990年代のニューヨークでは落書きなどを「割れ窓」に見立てて徹底的に取り締まったところ犯罪が急減したとされています。


別に言うなら、これは目に見える軽微な犯罪の兆候や誘引と思われる目撃情報を「犯罪の発芽」と見なし、それらが芽のうちに摘み取ってしまうという考え方です。しかし、このニューヨークの事例については、その後の景気回復による失業率改善や人工中絶合法化など内生的な社会的現実との相関の方が強いのではないかとの疑問が提示されています。


それはともかくとして、この“割れ窓理論”の発想が“異端審問”の発想と微妙に重なることに注目すべきです。敢えて言ってしまうなら、「割れ窓理論」が先鋭化し、そこに“密告制度”が加われば、そのような社会では「異端審問」による異分子の早期“摘発、囲い込み、そして殲滅”という、いわゆる「社会的排除(social exclusion)」の発想が常識とされるようになるのではないか、という懸念です。しかも、実は、これこそがキリスト教イスラム教に限らず、あらゆる宗教・宗派の弱点とも言える「宗教原理主義」化の“タネ”の一つでもあるのではないかと思われます。


しかも、「異端審問」では告発者(密告者)が秘密にされることが前提であったため"怨恨・敵討ちを擬装した濡れ衣”や“報奨金目当ての告発”など「権力者・利害関係者等の利己主義の暴走」が多発したとされており、政府自身の作為的な操作による告発(密告)さえあったとされています。この辺りは、政府与党が拘り続ける「共謀罪」の恐ろしさを連想させます。また、「異端審問」が人種的な意味での“血の純潔”を重視した点は、ナチスの倒錯的で異常な犯罪を連想させて不気味です。


更に想像を逞しくするなら、米国型グローバル金融市場原理主義の誤り(金融大パニック)の根本が「過剰な利己主義の失敗=米国(グリーンスパン)流自由原理主義の誤謬」(参照、 → http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200810250062a.nwc)にあることを思えば、今こそ、我われ日本国民は「割れ窓理論」の逆説で(この理論の誤りを理解して他山の石(=反面教師)とすること、つまり人間の生き様の多様性を真正面から受け入れる心性を身につけて)生きる知恵が求められていることを自覚すべきです。


例えば、高リスク層(後期高齢者層)を国民健康保険(高リスク層のリスクを分担して全体のリスクを平準化するシステム)から分離して、低リスク層(働き盛りの労働者層)のリスクを低めながら「日本社会全体の経済活力を高める」という小泉構造改革が創った「後期高齢者医療制度」の根本にあるのは、まさに米国流利己主義(自由原理主義)の教義たる「市場原理主義」(厳密に言えば、それを前提とするトリクルダウン理論)の狂想がもたらした「安心社会」(=擬装信頼社会/参照、下記注◆)の現実化ということに他ならないのです。


従って、渦中の「後期高齢者医療制度」は小泉・前首相(及び竹中平蔵らの御用学者)が“米国流のネオリベ型「利己主義」を受け売りしただけの詐欺師・ペテン師”であったことの歴然たる証拠でもあることをもう一度シッカリ見据えるべきだと思われます。このような原点への反省なくして、麻生流の「追加経済対策」(参照、→ http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-34642520081030)をいくら打ち出しても、それは近未来の時間軸を人質にとった子供騙しのネズミ講ネズミ講型ビジネスモデル=“2兆円の擬似餌バラマキ”と“増税(3年後)”の“回しサヤ取り堂々巡り方式)に過ぎず、結局、内発型の地域経済発展と内需拡大による付加価値創造などはとても叶わぬ「砂上の楼閣」であることを肝に銘じるべきです。


(◆注記/安心社会と信頼社会の違い)


安心社会(市場原理による損得勘定重視型社会、高リスクの根本要因を放置しつつ金融工学等の科学的手法でそれを低リスクへ擬装する社会)


信頼社会(不安を共有する人間性重視の社会、表面的な癒しへ逃避することなく新しい社会関係資本を醸成する社会) への転換


安心とは・・・
自己責任と相手の損失を前提としつつ、何らかの被害が自分の身に及ばないと理解する心の状態/個々の「不都合な人間」の社会的排除を前提とする → スケープゴート社会、共謀罪必要型社会、共同・相互監視型社会、低リスクをリバレッジで高リスクへ煽り、ハイリスク・ハイリターンのビジネスチャンスを仮想的・外生的に創造する社会、人間のケアを擬装する科学原理主義の社会 / 外生的≒人工的・人為的・意図的・作為的


信頼とは・・・
社会的な不安とリスクは解消していないが、人間どうしが相手の人間性ゆえに自らに被害が及ばないと理解する心の状態 → 協働社会、リスクコミュニケーション型社会、暗黙知的なリスク環境を分担する社会、グローバリズムを生かしつつ共通価値(ミニマリズム価値又はメゾスコピック的経済価値)を内生的に醸成する経済社会、隣人の苦しみを共有できる社会(by 大江健三郎シモーヌ・ヴェイユの引用)


例えば、高リスク層(後期高齢者層)を国民健康保険(高リスク層のリスクを分担して全体のリスクを平準化する信頼のシステム)から分離して、低リスク層(働き盛りの労働者層)のリスクを低めながら「日本社会全体の経済活力を高める」という小泉構造改革が創った「後期高齢者医療制度」(安心のシステム=擬装信頼のシステム)の根本にあるのは、まさに「市場原理主義」(厳密に言えば、それを前提とするトリクルダウン理論)の超利己的な狂想がもたらした「安心社会」(=擬装信頼社会)の現実化ということに他ならない。従って、「後期高齢者医療制度」は小泉・元首相(及び竹中平蔵ネオリベ嗜好の御用学者ら)が“詐欺師・ペテン師”であったことの歴然たる証拠でもある。


・・・・以上◆の内容は、藤村正之著『生の社会学』(東京大学出版会)、社会心理学者・山岸俊男氏の考え方(参照 → http://vanillachips.net/archives/20060910_2121.php)などを参照しつつ、これまでの自らの考えを整理したものである。