toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「国民的人気(?)の擬装ヒーロー・小泉」と「その偉大なるイエスマン武部」の正体


【画像】ヒエロニムス・ボッス『いかさま師』

Hieronymus Bosch(ca1460-1516)「The Conjurer」Oil on panel 53 x 65 cm Musee Municipal Saint-Germain-en-Laye


これはヒエロニム・ボッスの初期の作品で、珍しく非宗教的なテーマの絵です。いかにもワルそうで、あの「小泉ポルノ劇場」の主人公を想像させるような香具師(やし)の前に大勢の「カモの見物人」が集まっています。その中には単なる野次馬とともに「サクラ」が混じっています。


それとなく背後に立つ「サクラ」の男が、ターゲットの「カモ」にされた横向きで屈(かが)みこんだ老人から財布を抜き取ろうとしています。このからくりを知ってか知らずかは分かりませんが、その「カモ」の老人を下から心配そうに見上げている子供の表情が印象的です。


・・・


自民党武部勤・元幹事長(地元・北海道の選挙区では民主党の現職に世論調査で引き離され苦戦中とか?)が、2月27日に“党総裁選で麻生太郎総裁を選んだ責任があるから、今この時点では麻生政権を支えなければならないが、衆院解散・総選挙の場合には新たなリーダー(小泉カイカクの意志を継ぐ)を高く掲げて、こういう政権を目指すという政策を国民に約束することになる”と語り、衆院選前の麻生首相の退陣を求めたことが報じられています。しかしながら、ここで武部勤・元幹事長が画策するのは未だに「その国民的人気」の威光を放つ(?)小泉・元首相を熱狂的に支持する<擬装チェンジ一派>(中川秀直、マダム回転寿司こと小池百合子石原伸晃山本一太)の復権ということです(参照、下記関連情報◆)。


◆武部氏「衆院選前に新リーダーを」 議員グループ結成を検討(2009.2.27)、http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090227/stt0902271137002-n1.htm


◆武部氏が採決棄権 「反麻生」で憶測も(2009.2.27)、http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090227/stt0902272133009-n1.htm


◆2009年度予算案の年度内成立確定を受け、「ポスト麻生」をめぐる自民党内の動きが加速(2009.2.27)、http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00150277.html


まるでこの動きに呼応するかのように、ネオリベ・シンパ(?)の朝日新聞2月27日付)は<小泉氏「過去の人」?>という、やや恥ずかしげな見出しで“小泉に楯突けない今の自民党を蘇生させるのは、やはり小泉氏しかない!”という擬装チェンジ・ネオリベ一派(=元祖、小泉・竹中組)の復権・復活へのアツい想い(=小泉カルトに取り憑かれた狂気の情念)を滲ませつつ、かなり大きな「政治版記事」を書いています。同じく、このところ何故か“狂おしいほどのネオリベ・シンパ新聞(?)”へ急速に傾斜し始めた日本経済新聞が、クイックサーベイ3/2・MONDAY=NIKKEI)で『郵政民営化・支持52%、不支持18%』という“提灯・調査記事”を発表しています。この辺りの事情を勘ぐれば、案外、日本経済新聞の元政治部記者であった中川秀直ポスト小泉時代ネオリベの領袖を自認する人物?)への“優しい気配り”かも知れません(米発金融パニック勃発期の昨年10〜12月頃の日経では、殊勝にもネオリベ市場原理主義への暴走を反省する論調が多かった/例えば・・・参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081008)。


ところで、ここで思い出すべきは、やはり「自民党暴力団・ヤクザ集団との親縁性(affinity=組織構造上の類似性、親密な関係性)」ということです。具体的に言えば、それは『ヤクザ・暴力団的な政治手法』という意味です。例えば、かつての「松岡大臣及びその関係者らの自殺など=詰め腹、指詰め、あるいは復讐・敵討」、「失政のケジメ=ミソギ、落とし前」、「不正なウラ政治資金=みかじめ料」、「擬装対話(擬装タウンミーティング)と圧力(医療・福祉分野における弱者への圧力)=タカリと強請り・脅迫・恐喝」という具合に彼らが好む政治手法と仕事のやり方を<ヤクザ・暴力団世界の隠語>に置き換えてみると分かりやすくなります。この観点からすれば、今の朝日・日経“両紙”はネオリベ擁護の<業界ゴロツキ新聞>の如く見えてきます。


また、かつて“小泉ポルノ劇場”(小泉ポルノ劇場の意味については、下記▲を参照乞う)や“美しい国”が好んで多用したパフォーマンスと言語・言説は、ヤクザ・暴力団風のハッタリであったことが分かります。しかしながら、いやしくも“民主主義国家・日本”の国民である我われは、このように下卑た暴力的徒党集団の詐術と圧力に屈し続ける訳にはゆきません。特に、この「小泉・元首相の偉大なるイエスマン武部(実はネオリベ人形劇場の哀れなマリオネットかも・・・)の背後で巧みに糸を引く(遠隔操縦している)と思われる飯島勲・元小泉純一郎首相の主席秘書官について、再度、注目すべきかも知れません。なぜなら、この飯島勲のメディア操縦術なくして“小泉ポルノ劇場”の復活は考えられないからです。


▲小泉・竹中『市場原理ポルノ劇場』が陵辱した日本社会の愛のエクリチュールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090224


かつて、ジャーナリスト・上杉隆氏が「文芸春秋、2006年4月号」で『日本一のイエスマン武部勤の正体』という記事を書いています。それによると“武部勤の正体”は「上の権力に首尾一貫して平身低頭する一方、自分より弱い立場の人々に対しては徹底的な暴君として君臨する非常に恐ろしい人物」であるそうです。より端的に言えば、それは「自分より少しでも弱い立場の人々に対し“殆んど恐喝と見紛うばかりの激烈な恫喝”を加える人物」だということです。また、表向きは自分の選挙区に関する露骨な利益誘導型の振る舞いは見せぬ一方で、政治資金について複雑怪奇な収集・管理の仕組みをランニングさせているようです。


なお、「自民党暴力団・ヤクザ集団との親縁性」については、下記★でも取り上げたことがあるので併せてご参照ください。


★“美しい世襲民主主義”に潜むヤクザ政治の本性、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070627


★暴力的本性を露にした“美しい国”の横暴、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601


★「美しい国のシナリオ」に透けて見える<異常な世襲民主主義>、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070625


★映画『極道の妻(おんな)たち、情炎』に見る“閣議風景”の原点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050406


いま、ネット上では「不可解化する一方の郵政民営化騒動の裏で小泉・竹中両氏が巨大な裏ガネを手にしたのではないか?」という驚くべき噂話が流れています(参照 → http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2006/10/12_b2ab.html)。これが途轍もないジョークだとしても、彼らには、この類の不名誉な噂を立てられるに相応しいだけの芳しくない所業があったと思われます。


(関連参考情報)


竹中平蔵元大臣がけっして触れない「かんぽの宿疑惑」の闇(保坂展人のどこどこ日記)、http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/c6c4747ea9e2473d3484195afed7c80c


ネオリベであれ、市場原理主義であれ、トリクルダウンであれ、あるいはそこから流れ出た規制緩和万能主義であれ、非正規雇用拡大による極端な格差拡大政策であれ、郵政改革(民営化)であれ、これら総てが、実は彼らが仕組んだ<自らを含めた内輪・仲間内の自己利益のための擬装カイカク>であった疑いがあるのです。つまり、彼らにとり政治・経済学上の理念(正統保守か、ネオリベか、修正資本主義か? あるいは倫理観の復権を意識する修正市場主義か?)もへったくれも、そんなことは一切関係がない(実は、そんなことは真剣に考えてもいなかった)という節があるのです。ここが「米国オバマのCHANGE」あるいは「EU統合の理念」と根本的に異質なところであり、彼らが<偽装チェンジ>呼ばわりされる所以です。


つまり、小泉・竹中・中川(秀)・武部・小池らは、「構造カイカク」の“擬装美名”の下でB層戦略で国民一般を手玉に取りながら「日本の国民と政治・経済の仕組み全体」を<私益のために利用した=擬装構造カイカクした>のではないかということです。そのうえ、奇しくも、彼ら(小泉・竹中ら)の身勝手な私益行為は、この擬装カイカクと阿吽の呼吸で引き起こされたかに見える「日本資本主義の象徴的存在たる日本経団連の御手洗会長(兼キャノン会長)が絡む<キヤノン工事“大光”脱税疑惑>事件」という「グロテスクな悪徳像」(=薄汚い裏ガネ資本主義の実現)と、余りにも見事にシンクロすることにも驚かされるはずです。


特に、始めから自らの学問を露骨なカネ儲けの手段としてきたと思われる「擬装・御用学者竹中平蔵」と、ジャーナリズムの仕事をかなぐり捨てて、このような意味で善良な国民騙しの「小泉ポルノ劇場」の演出を手助けしてきた主要メディアの罪は重いと思われます。そして、このような意味での政・財・学&メディアの癒着・談合から今や生まれつつあるのが、下の二つの、まことに危機的な日本政治の誤った方向性です。まさに、これは日本の「民主主義の危機」以外の何物でもありません。


(1)政治権力が、社会の主人公であるべき一般国民の内的論理(市民による日常生活への信頼に基づく論理、その豊かな外部経済性への信頼に基づく論理/ ← これこそ豊かな内需をもたらす源泉)をますます軽視・捨象する傾向が強まる。


(2)非倫理的・美的・情念的・欲望的論理に歯止めが利かなくなり、天空へ舞い上がった権力者自身の自我分裂の不安(ナルシシズム化した政治的情念=ヒューマニタリアニズム(humanitarianizm)の対極)が現実政治をファシズム化へ導く(ヒューマニタリアニズムについては、下記◆を参照乞う)。


◆『小泉ヒトラー』の“笑っちゃう”パフォーマンスが謀る<かんぽ国家詐欺・黒い霧>の隠蔽、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090213


・・・以下は、当記事の内容に関連する[2009-02-24付toxandoriaの日記/小泉・竹中『市場原理ポルノ劇場』が陵辱した日本社会の愛のエクリチュールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090224]へのコメント&レスの再録です・・・


もえおじ 2009/03/01 13:50


toxandoria さま、アカデミズムの劣化に言及して頂き、ありがとうございます。


学問の本分は、何を差し置いても先ずは「真理、真実の追求」であり、これを軽んじては、アカデミズムは成り立ちません。 学者や研究者は政治的思惑や経済上の損得で、真理や真実をねじ曲げてはいけません。


アカデミズム(特に技術部門)の劣化に関して、実際の劣化実例を挙げてみます。


批判の多い「高速道路などを建設する費用対効果の分析手法」


築地市場豊洲移転に関する技術会議


環境アセスメントの諸問題


温暖化防止技術 ( 本当に必要なのは、資源・エネルギーの再生化技術です。)
http://akumanosasayaki.blog.shinobi.jp/Entry/33/


私が最も危険で容認できないと考えているのは、日本の原子力政策における核燃料サイクル高速増殖炉です。


(1) 核燃料サイクル高速増殖炉もんじゅ


エネルギー資源の乏しい日本は電力供給の3割を原発が担っています。「日本にはプルトニウム保有しない」との方針があり、通常のウラン原発が稼働する限り増 えていくプルトニウムを、ごみとして捨てるのではなく資源とする核燃料サイクルを、国は原子力政策の「国策」に掲げています。


将来的には、高速増殖炉核燃料サイクルの柱にすえる意向ですが、「もんじゅ」事故で長期停止が続いており、現在のところ、国はプルサーマルを頼みの綱にしています。


(2) プルサーマル発電
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=5539&blockId=1192858&newsMode=article


(3) 高レベル放射性廃棄物


核燃料サイクルの流れは、「青森県六ケ所村の再処理工場(試験運転中)で原発の使用済みウラン燃料を処理してウランとプルトニウムを取り出し、同村で建設計 画中の燃料加工工場で新たにMOX燃料を製造する」となっています。 しかし、国内再処理工場の完成時期が当初計画から10年以上も遅れており、現在も再 処理を国外に依存しています。 再処理後に出る高レベル放射性廃棄物の最終処分施設は設置のめどすら立っていません。


問題点 :


1.核燃料サイクル、及び、高速増殖炉は、現実的にはほとんど不可能です。(高速増殖炉の冷却材の金属ナトリウムは、安全管理が極めて難しい。)
http://www.gensuikin.org/npp/aomori49.htm


2.プルサーマル原発はMOX燃料の製造、輸送で多額に費用がかかるためにウラン燃料を燃やす通常の原発より割高であり、存在価値自体が疑わしい。


3.高レベル放射性廃棄物を増やしつづけるのは、将来に禍根を残します。
http://homepage3.nifty.com/ksueda/waste0000.html


核 燃料サイクルや高速増殖炉など、技術的に不可能と考えられる計画には、国家的詐欺と言える嘘があります。既に、1兆数千億円の開発費が使われてきました が、何の成果も出ていません。 今のところ、莫大な予算が使われる「国策」に変更はありません。ちなみに、核融合炉も実用化の見通しは立っていません が、これも成果が出せるかどうかまったく分りません。


これらのアカデミズムの劣化は、すべて公金への癒着か私物化に過ぎません。 関係す るお抱学者・技術者、或いは、政治におもねる竹中平蔵ら御用学者は、別にお金に転んで良心を売ったのではなく、最初から飯の種にしているわけです。ですから、彼らには最初から学識も誇りもないと言えます。


下らないのは、建物耐震構造計算の問題でしょう。これは単なる(民間部門の)犯罪です。


toxandoria 2009/03/01 21:48


“もえおじ”さま、こちらこそです。


アメリカのマンハッタン計画」で米国の先端的科学者たちの多くが“国家(政府)の下請け機関化”し、その傾向が1980年代の「中曽根政権下(前川リポー ト)による米国流ネオリベ規制緩和)政策への没入」によって“日本の科学界全体へ感染”したことが、現代日本の「アカデミズムの劣化」の直接的な原因で はないかと思います。やがて、新自由主義思想(ネオリベトリクルダウン理論)が蔓延るなかで、その傾向は特に小渕〜小泉政権以降において人文・社会科学 全体へ拡散したようです。


源流を同じくする今回の「米発金融・経済大パニック」の逆風に晒されながらも、欧州では十分に実証科学的・合理 技術的な立場から様々な優れた中立的知見が現在も提起されつつあるようです。例えば、その一つが、当日記でも取り上げた仏クロード・アレグレの『環境問題 の本質』ではないかと思います(参照 →  http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080805)。


アカデミズムが<権力側の論理に染まる(=おもねる)ことの危険性>は、特に下の二点にあると思います。そして、これがジャーナリズムの劣化と呼応する事態 は最悪です。しかも、今の日本は、まさにこの最悪へ向かいつつあるので不気味です。<小泉・竹中ポルノ劇場の毒>は、まさに、この傾向から生まれた『悪の 華』です。例えば、2009.2.27の朝日新聞は、<小泉氏「過去の人」?>という、やや控えめな見出しの記事で“自民党を蘇生させるのは、やはり小泉 氏しかない!”という擬装チェンジ・ネオリベ一派(下記◆参照)の想い(=狂気の如き情念)を滲ませています。


◆武部氏「衆院選前に新リーダー(中川(秀)、マダム回転寿司)を」 議員グループ結成を検討、http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090227/stt0902271137002-n1.htm


(1)政治権力が、社会生活の主人公であるべき一般市民の内的論理(外部経済)を捨象・軽視する傾向が強まる。


(2)非倫理的・美的・情念的・欲望的論理に歯止めが利かなくなり、自我分裂の不安に囚われた政治権力者がファシズム化する。


一度、欧州での原子力事情を調べたことがありますので、関連すると思われる部分を下に再録しておきます(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070801より)。


『・・・・・ 電力の約8割を原発に依存するフランスの事情は第二次世界大戦後の敗戦国ドイツとは異なります。フランスの電力事情が原発利用へ極端に傾斜するようになっ た契機は、1970年代のエネルギー危機です。しかし、それだけではなく、第二次世界大戦後のフランスが国家戦略として核戦力を保持しつつ米ソの二大国に 次ぐ第三勢力となることを目指してきた点にこそ、現実的な契機があります。そして、ウラン濃縮及びプルトニウム関連の技術が核戦力の保持能力と通底してい ることは周知のとおりです。つまり、世界第一級の原子力利用国になることは、核戦力も保持するフランスの原子力大国としての国家威信がかかってきたという 現実がある訳です。


それはともかくとして、そのフランスが今や最も腐心しているのが「高レベル放射性廃棄物の最終処分場の確保」と「次世 代型の原子力発電技術の開発」ということです。なぜならば、この二点のリスクの大きさについてフランス国民の議論が今や二分されつつあるからです。つま り、今までどおり国家の威信をかけた原子力政策について国民の信任を確保するには、多くのフランス国民からこの二点について十分な理解を得る必要がある訳 です。しかも、そこには表記のとおりの「ドイツにおける特殊事情」(原発の段階的廃止か、原子力利用ルネサンスかについての国民的議論)が、EU(欧州連 合)の結束とグローバリズム市場経済という共通フレーム(=一心同体化しつつある市場経済の枠組み)を介して徐々に影響を与えてくるはずです。


このため、フランスでは、より広い観点から、これからの原子力利用の問題を「環境リスク・コミュニケーション」という概念によって政府・行政・研究者・企 業・一般国民が関連する情報を共有し、スムースに相互理解できるようにするための制度化についての議論が進められています(参照、http://e- public.nttdata.co.jp/f/repo/402_e0608/e0608.aspx)。また、以前から、フランスでも「緑の党」や中立 的な評価機関の役割が重視され、それが政府によって公認されてきています。例えば、原子力利用についての中立的な評価機関(NGO)である ACRO(Association pour le Controle de la Radioactivite de l'Ouest 、http://www.acro.eu.org/accueil.html)は、1994年に閉鎖された「ラマンシュ核廃棄物貯蔵センター(CSM)」 の調査のためにフランス政府が組織したCSM調査委員のメンバーに任命され、その調査結果を情報開示しています。


残念ながら、このような 独・仏の現況とわが国の原子力を巡る事情は、本質的なあり方そのものの次元への理解がかなり異なるようです。例えば、日米英仏などが2001年に結成した 「第4世代国際フォーラム」(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2001 /siryo55/siryo2_2.htm)は、「第4世代原子炉(GEN-4)」として超臨海圧軽水冷却炉、ナトリウム冷却高速炉、トリウム溶融塩炉 など6つの概念(今回の地震で大きな被害を受けた東電柏崎刈羽原発は第3世代の改良型軽水炉)を選定していますが、今になって、これらの中でかなり有望視 されているトリウム溶融塩炉(この関連の研究業績を積み重ねてきたのが日本の古川和男・博士/参照、http://d.hatena.ne.jp /toxandoria/20060720)の積極推進論への提言(1980年代において、同実験炉等による基礎データ・実証研究について関係科学者・財 界人などが出した要望)が、一種の政治的・権力的バイアスで殆ど一般国民の知るよしもないまま雲散霧消させられた(闇に葬られた?)という現実があるようです。


周知のとおり、1940年代におけるアメリカの「マンハッタン計画」(枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカが原爆開発・製造のため亡 命ユダヤ人らを中心とする科学者、技術者を総動員した国家計画)は、一般的な意味で科学者の立場を政府の下請機関と化すことになる歴史的契機であったと見 做されています。ズバリ言えば、この時から大方の従順な科学者たちは“国家(政府)の下請け機関”と化してしまった訳です。特に日本の場合は、旧・日米原 子力利用協定(1968〜 )及び新・日米原子力協定(1982〜 )の下での強い縛りということがあるようです。しかし、これからの日本で大切なこと は、例えばフランスの「環境リスク・コミュニケーション」のように“一般国民の立場(基本的人権法の下の平等)へ十分に配慮”して、風通しがよい「コミュニケーション環境」を創ることが大切です。無論、それを支えるのは中立的で科学的な評価、情報公開などの公正原則であり、ゆめゆめ政治的バイアスなど 権力的立場や偏向・屈折した観点によって科学的真理と客観データが捻じ曲げられるようなことがあってはなりません。


もし、今のグローバリ ズム時代を肯定的に見做すならば、それは、地球上の人類は否応なく限られた地球の環境・資源の中で生きざるを得ない運命共同体の一員であることが、漸く、 世界中の人々によってリアルに認識される時代に入ったということです。これは恰も、「ワイマール憲法」(1919)で書かれた先鋭的な民主主義の理念が 30年の時間と多くの悲惨な犠牲を費やして「ドイツ連邦共和国基本法」(1949)としてやっとのことで結実し、更に、それから約70年の歳月を経て、そ れが今まさに「EU改憲条約」の形で、民主主義を支える「中間層の没落と格差拡大」を防ぐべきだという意思(=グローバル市場原理主義の負の側面である右 翼ポピュリズムの台頭を抑制すべきだという知見)が全ヨーロッパで共有されつつあるという歴史の流れに重なります。つまり、「ワイマールの理想」は、人命等の膨大な犠牲と100年の時間を費やして、今や世界の人々に漸く認識されようとしている訳です。


見方を変えれば、これは、今の時代に なって漸く「劣等処遇の原則」の誤謬が多くの人々によってリアルに共通認識されつつあるのだということでもあります。まことに皮肉なことですが、グローバ ル市場原理主義の深化がもたらした<極端な格差拡大>によって、我われは漸く「劣等処遇の原則」の誤謬がリアルに認識できるようになったということです。 因みに、「劣等処遇の原則」とは、1834年の英国「救貧法」(及び1848年の同「改正・救貧法」)で定められた“福祉サービス利用者の生活レベルは自 活可能な勤労者の平均的生活水準よりも絶対的に低くなければはならない”という、18〜19世紀における救貧事業上の原則を再確認したものです。これは、 よく考えてみれば<驚くべきほど単純で明快な差別概念>であることが分かるはずです。このような誤謬への否定的理念(=基本的人権法の下の平等/日本国 憲法では第11条、第14条)が、形だけにせよ漸く実現したのがワイマール憲法においてです。


しかしながら、実は原子力利用についての情 報を隠蔽したり、政治的バイアスで関連する科学的真理を捻じ曲げたりすることは、国民の中における特定の利益享受者と不特定多数の被害者(または不利益 者)の存在という<人為的な格差発生>の現実を無視し続けることに他なりません。つまり、それは<立場の違いによる、原子力利用の利益享受に関する深刻な 格差拡大(=極端な意図的差別の発生)>を無視するということです。また、特に忘れるべきでないのは、今さら言うまでもないことですが原子力利用には絶え ず大きなリスク(地震・事故等による放射線及び毒性拡散の被害、同じく地球環境汚染の拡散、ゲリラやテロのターゲット化、核兵器拡散など)が付き纏うということです。


そして、リスク管理の問題については、十分に実証科学的・合理技術的な立場から様々な優れた知見が提起されつつあるようです が、最も肝心なことは素朴な「ヒューマン・エラー」を回避するために政府・行政・研究者・企業・一般国民が情報を共有し、コミュニケーションを深めつつ相 互の信頼感を高める工夫を永続的に進めることです。このような意味で、わが国は、本格的にグローバリズムが深化する時代を見据えた「EUにおける原子力利 用の動向」と「フランスの環境リスク・コミュニケーション」の事例を真剣に学ぶ必要があると思われます。なぜならば、『<果てしない危機の海の航海>で忘 れてならないのは人的なリスク恒常性の問題』、つまりヒューマン・エラーの問題であるからです。しかも、ヒューマン・エラーを最も有効に回避する究極の方 法は<双方向コミュニケーション>以外に見当たらないからです。・・・・・』


もえおじ 2009/03/02 14:58


toxandoria さま、とても参考になりました。少し追加させていただきます。


トリウム溶融塩炉 http://homepage2.nifty.com/w-hydroplus/info00b2.htmに関しては、私は詳しい文献を読んだ事がないので判断できませんが、欧州の「高レベル放射性廃棄物の最終処分場の確保」と「次世代型の原子力発電技術の開発」に関しては、昨年、英語文献を翻訳する内職をしたことがあります。


最も問題と考えられるのは、(1)他国が議論を重ねた上で断念した問題の多い高速増殖炉(ナトリウム冷却高速炉)とプルサーマルを日本だけが推進している。(2)日本における原子力利用が、事実上、原子力委員会・核関連科学者/企業・官僚による独占管理である。 の2点です。情報公開などの公正原則が守られていないだけではなく、中立的で科学的な評価が充分なされているとも考えられません。予算面においても、一種の聖域化がなされています。



地球温暖化問題に関しては、IPCCの中にも、「大気中の二酸化炭素の増加が温暖化の主原因である」という見方に否定的な研究者は、かなりの割合で存在しています。それでも、化石燃料の効率的な利用という観点からは、二酸化炭素などの温室効果ガスの削減は好ましく、「地球温暖化が人為的温室効果ガス排出によるものであることは、科学的に疑う余地がない」という意見統一には、大部分が消極的な賛成をしているとも考えられます。


しかしながら、現実には多くの人達が反対する文献を書いており、中には温暖化そのものを否定しているものさえ含まれています。
http://sun.ap.teacup.com/souun/484.html
http://sun.ap.teacup.com/souun/485.html
http://blogs.dion.ne.jp/spiraldragon/archives/7420225.html


ここでも、中立的で科学的な評価や情報公開などの公正原則が守られているか、予算面において聖域化がなされていないのかが、問題になります。


「温暖化防止のために何かをしなければならない」という空気が社会に充満することで、「二酸化炭素排出さえ抑えれば、温暖化は防げる」という俗説が生まれていますが、それを利用する企業や研究者(特に、原子力推進派や排出権取引を商売にしようとする人達)にとっては好都合なことです。