toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

チェコ『プラハの春』が透視する非民主的な『裁判員制度』の正体

toxandoria2009-05-23



<注記>この内容は「チェコ旅行記シリーズ/予告篇」の位置づけです。


【画像1】プラハ城からの眺望/ヴルタヴァ(モルダウ)川(2009.3.21、撮影)



(非民主的『裁判員制度』の正体)


ジャン=ジャック・ルソーらの18世紀の啓蒙思想家が主張し始め、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言で具体化したとする「天賦人権論」を疑う訳ではありませんが、傲慢にも、この「天」に代わって「お上」世襲化した“政治権力・官僚組織・財界・(暴)・マスメディア”の癒着構造体)が日本国民へ“偽装人権≒偽装民主主義”を下賜する体制となってしまったという意味で、現代の日本の“民主主義なるもの”は、世界の民主化への流れに逆行していることは明らかです。


そして、渦中の「裁判員制」という名の偽装民主主義制度こそが、その何よりの「証」(あかし)です。しかも、この制度が5/21から走り出したにもかかわらず、「裁判員制度を見直す超党派議員連盟」ができ、その活動が開始されていますが、なぜか主要メディアはこの動きに対し冷淡であるように思われ、この種の報道には一種の傍観者的な空気さえ流れているようです。


どうして、日本はこのように世界の民主化の流れと逆向きのベクトルに嵌ってしまったのか?・・・その訳を考える一つのヒントは、あの『プラハの春』に対する日本社会の特異な反応にあるのではないか、と思われます。具体的に言えば、それは当時の日本が『プラハの春』をどのように受け止め、それを自らの民主主義の“深化”のために生かせたかどうか、ということです。


周知のとおり、『プラハの春』とは、1968年の春から夏にかけて、当時のチェコスロバキアドプチェク党第一書記の下でとられた一連の自由化政策のことですが、同年の8月20日の深夜、ソ連が率いるワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキア全土に侵入して、この『プラハの春』を軍事的に制圧しました。無論、このプロローグに位置づけるべき出来事が1956年の「ハンガリー動乱ハンガリーでは“1956年革命”と呼ぶ=ソ連支配に対する全国規模の民衆蜂起)であることは言うまでもありません(参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090516)


しかし、この事件の余波は、その後、ポーランドの「連帯」、そして最終的には1989年の「東欧革命」へ結びつきます。ともかくも、この事件の意義は“政党や国家とは異次元にある市民社会市民意識の中にこそ政治変革の芽が隠されている”という現実を世界中に知らしめたことにあります。そして、ドイツ・フランスなど西欧諸国への影響(例えば、ドイツの「1960年代以降の司法改革」)にとどまらず、ここから得られた知見はEU欧州連合)の理念部分などへも大きな影響を与えています。


つまり、『プラハの春』の貴重な教訓を見逃してきた我われ日本国民は、1960年代以降から現在に至るまでの貴重な歴史時間を、ひたすら「お上」(世襲化した“政治権力・官僚組織・財界・(暴)・マスメディア”の癒着構造体)の病巣が異常増殖するがままに任せてきたため、その大きなツケ(ご褒美?)として「偽装民主主義の重宝な道具として有効な“偽装”裁判員制度」を“有難いお上”から下賜される羽目となった訳です。


<注記>


我われ日本国民が、このような意味での「偽装民主主義の道具たる偽装裁判員制度」を下賜されることになった背景について、「権利保護の歴史」と「独仏・参審制との対比」を参照しつつ分析した記事(下記◆)がありますので、こちらもご参照ください。


◆法(権利保護)の歴史を軽視する酷薄な『裁判員制度』/日本国民の無辜の涙、自滅へ流れ・・・・・、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090521


(『プラハの春』の残照・・・2009年3月、プラハの風景)


【画像2】聖ヴィート大聖堂(Katedrala svateho Vita/ 2009.3.21、撮影)


・・・プラハ大司教の主座でプラハ城の内側にあるこの大聖堂は、多くのボヘミア王が眠っているチェコで最も大きい重要な教会です。創建は923年とされていますが、11世紀にロマネスク様式に改装され、1344年以降の改装工事で現在のゴシック建築となっています。二枚目の画像は、その大聖堂内にある美しいステンドグラスです。


【画像3】ヴァーツラフ広場(Vaclavske namesti)の風景1(2009.3.21、撮影)


・・・ヴァーツラフ1世(Vaclav1/ボヘミア公チェコ守護聖人ともされる/位:921 - 935)の名に因むこの広場は、事実上は大通りですが“広場”と呼ばれており、『プラハの春』では、ここに多くの人々が集まりデモと街頭演説が繰り広げられました。


・・・しかし、ソ連軍の戦車が広場に入り込む事態となり、多くの犠牲をもたらしました。1989年の『ビロード革命』のときも、多くの人々がここに集まり「ハヴェル(反体制運動の指導者)を城へ」と叫んだことは余りにも有名です(参照 → http://www.revo.uh-oh.jp/revo/b.html


・・・二枚目の画像は、この広場の突きあたりにある国立博物館(Narodoni Muzeum)とその前に立つヴァーツラフ1世の騎馬像です。


【画像4】ヴァーツラフ広場の風景2(2009.3.21、撮影・・・二枚目の画像のみウイキメディアより)



・・・一枚目の画像は、ヴァーツラフ1世の騎馬像の辺りにある、「第一次世界大戦後、チェコスロヴァキア共和国が成立(1918)するまで犠牲となった人々のためのメモリアル・プレート」です。


・・・二枚目は、1969年にソ連の侵攻と占領に抗議してヴァーツラフ広場で焼身自殺した「プラハの春」の英雄ヤン・パラフ(Jan Palach/カレル大学学生)のメモリアル・プレートです。なお、このヤン・パラフの焼身自殺に衝撃を受けた20人ちかい若者たちも尊い命を絶っています。


・・・三枚目は、たまたま、この広場でキャンペーン活動を行っていた「World March for Peace and Nonviolence(平和と非暴力のための世界行進)/参照 → http://hodanren.doc-net.or.jp/hankaku/others/WMPN-1.htm」のメンバー(おそらく学生たち?)の風景です。


【エピローグ】Canto Della Terra Sarah Brightman Alessandro Safina Vienna

・・・当記事の内容と直接の関係はありません。オーストリア・ウイーンの聖シュテファン教会で行われたサラ・ブライトマンのパフォーマンスの一コマです。