toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「日本核武装論と日本政府」の背後に潜むヤクザ・暴力団(ゴロツキ徒党政治)の伝統

toxandoria2009-08-16



【画像】仙台近郊、夏の風景(2009.8.15、撮影)





(日本核武装論の背後に潜むヤクザ・暴力団(ゴロツキ徒党政治)の伝統)


toxandoriaは、陰謀論ないしは暗黒政治論を支持する立場ではないが、日本政府と一般国民の感覚的なものの奥深くで得体が知れぬヌエの如き存在に対するシンパシーが観察されるの(=政治的な衛生観念が不在であること)は、残念ながら事実である。


例えば、それは、広島・長崎における悲惨な「被爆体験者」(これらの人々の殆どには直接的な戦争責任はない)とヤクザ・暴力団(ゴロツキ徒党政治)の伝統(それを右翼あるいは国士と呼べば聞こえが良いかも知れぬが・・・)との親和力を保った軍事国家主義的な直情感情から説く「核保有論者」を全く対等な立場として一括りにするメディアの立場に見られる(参照、下記◆)


◆8/15放送:NHKテレビ『核、日本のこれから』、http://www.nhk.or.jp/korekara/


NHK:核、日本のこれから、
http://tv.nikkansports.com/tv.php?site=007&station=0031&mode=14&sdate=20090815&shour=19&lhour=1&category=g&sminutes=30&arg=06&template=detail


NHK「核、日本のこれから」を視聴しました!(ブログ記事)、http://www.accessup.org/pj/6_A5ABA5A4A5CDA5EBA1A6A5C9A5A5A1A6A5E9A5D5A5A1A5C6A5A3/20090815.html


◆NHKの世論誘導目的の謀略に嵌められてはならない(山崎康彦2009/08/17 、JANJAN)、http://www.news.janjan.jp/government/0908/0908178828/1.php


詳細は省くが、軍事国家主義的な直情感情で「核保有論」を説く立場の誤りの根本は、歴史経験も自らの支配に置くことが可能(“歴史”時間は可逆的←こんなバカゲタことはあり得ない!)だと誤解している点であり、それは「オバマのCHANGE」を誤解していることにも通ずる(関連参照、下記▲)


▲[暴政]『推定無罪の逆説』による自民党暴政(司法・行政癒着)への有罪宣告(Guilty)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090809


これから核保有の是非を論ずること自体はむしろ必要だと思うが、明らかに“一方的な犯罪の被害者”と、“それを必要悪と見なす犯罪是認の立場”(=地球破壊的な極悪犯罪の道具を支持する立場!)を、たとえ見かけ上にせよ、対等の場に置くべきではない。


先ず、このような問題点の根本を冷静に見据えるべきである。さもなければ、これは、恐るべきほどの誤解を国民一般の伝統感覚の奥深くに潜むヌエの如き部分に対し注ぎ込む、つまり皮相的で感覚的な誤ったシグナルを注入する恐れがある。


従って、我われ日本国民とメディアは、上で述べた如き“適切な民主主義のルール”の中で核保有の是非を論ずるとともに、日本政府と日本人の感覚的なものの奥深くに潜むヤクザ・暴力団(ゴロツキ徒党政治)の伝統を避けずに直視し、それを厳しく批判するという訓練を同時並行的こ実行すべきだ。特に、メディアはそれを率先実行すべきだ。


なぜなら、今のままでは、たとえ今回の総選挙(8/30)政権交代が実現したとしても、日本国民のヌエ感覚的な部分におけるシンパシーの対象が、稲川会(特に、小泉政権を担いだヌエ的存在?)山口組民主党政権を支えようとするヌエ的存在?)へ代わっただけという、まことにお粗末な事態になる懸念があるからだ。


このような角度から見ると、TVワイドショー総がかりの“酒井ノリピー&押尾事件”にかかわる一連のバカ騒ぎも、『東国春・助平劇場』に続く『ブラックお笑い劇場』であることが窺われる。つまり、その背後には政権交代を睨んだヤクザ・暴力団・ゴロツキ徒党集団の影がチラつくという訳である(関連参照、下記▼)


▼稲川会+自民党シティバンクVS山口組民主党+ゴールドマンサックス/押尾の所属だったエイベックスは稲川会と近く、野口美佳の夫は稲川会系、http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/2ba35ff3744184a852434190146bb956


(関連参考情報:映画『ワルキューレ作戦』について)


・・・現代日本における“暴政”の背後に潜む「暴力集団的でヌエ的なものへのシンパシー」を「ヒトラー崇拝的なものへのシンパシー」と見立てるなら、今の日本の政治状況がナチス・ドイツ時代の空気と酷似していることに驚かされる。つまり、“国家主義イデオロギーを掲げる暴政(悪徳)が君臨する官僚・司法・検察・警察・軍事機構の圧倒的ヒエラルキーの下で一回ぐらい政権交代が行われても何も根本的に変わらぬという状況(得体が知れぬヌエ的な空気が支配的)だという意味で・・・。因みに、ナチス・ドイツでは43回も行われたヒトラー暗殺計画が悉く失敗し、国民自身が漸く暴政の本性に気付き立ち上がる前にドイツ国家そのものが崩壊した。


・・・関心がある向きには、当映画の鑑賞をお勧めしておく。ナチス・ドイツ末期の実話(最後のヒトラー暗殺計画)をフィチャーした映画『ワルキューレ作戦』の公式HPはコチラ → http://valkyrie.unitedartists.com/


・・・戦後のドイツで“ナチス的なもの”が最も長く生きながらえたのは司法界であった。しかし、それは1960年代以降の「ドイツ司法改革」(“稲川会”系の小泉政権以降に日本で行われた新自由主義イデオロギー下の“偽装”司法改革とは根本的に異なる)で徹底的に除去された。この「ドイツ司法改革」の詳細については下記★を参照乞う。


★ドイツの裁判制度の現況/1960年代・司法改革の成果としての・・・、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090521


・・・また、映画『ワルキューレ作戦』の概要紹介は下記◆で。


◆作品解説・紹介:ワルキューレ
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14054/story.html


(日本政府の背後に潜むヤクザ・暴力団(ゴロツキ徒党政治)の伝統)


・・・以下は、[これぞホニャララの流儀! 麻生組長・談話“総選挙は組員一同一致団結して”シャンシャン、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090718]からの部分転載・・・


これは一部でよく認識されていることではあるが、特に我が国における「政党発達史」を顧みると、「政党」の前段階の存在と見なすべき「政治結社」と「任侠集団等の徒党集団」には、かなり重なり合う部分が見えている。この「任侠の精神」の原型は室町期のバサラ者まで遡ることができるが、彼らは暴力集団というより現代風に言えばパンク、ヤンキーなどに類する風俗・意匠的なアウトローたちであった。


彼らは、カブキ者とも呼ばれ、辻が花(室町中期〜桃山期に流行った模様染め)などの派手な衣装を身に纏い、キッチュ織部焼きの趣味をひけらかすなど前衛文化を好むパンクな輩でもあった。やがて、「大坂冬の陣(1614)と「大坂夏の陣(1615)が終わり、「元和偃武」期(1615〜)に入り、武士たちが幕藩体制に組み込まれ官僚組織化した武家階級が成立すると、そこからのはぐれ者たちで「旗本奴」と呼ばれるヤクザ集団が出現する。


また、ほぼ時を同じくして江戸・大坂・京都など都市住民のなかから、「旗本奴」の同類を偽装するかの如き「町奴」と呼ばれるヤクザ・徒党集団が現れてきた。やがて、彼らは自分たちの力(暴力や、もめごとなどの調停能力)に増長し豪商や町屋の大店(商家)から「お断り」と称する金品を巻き上げるようになる。


ここで留意すべきは、たとえ“はぐれ者”たちであるにしても、あくまでも「旗本奴」及びその同類を偽装するヤクザ・徒党集団は何らかの形で支配階層に連なる隠然たる由縁を持つ者たちであるか、あるいはそのことを得体が知れぬ闇の中で巧みに詐称する輩たちであり、彼らは、チラチラと偉いお上の権威を折に触れひけらかすことができる立場であったということである。


この辺りの事情は、近・現代の「政治結社」が何らかの権力的な威圧感を感じさせつつ民間企業から「裏政治献金」を掻き集める姿を彷彿とさせる。つまり、このような慣習と伝統の中で、安全な日常を確保する「寺銭(テラセン)としての裏政治献金は当然だという通念が培われてきたと考えられる。


やがて、元禄期(17C末〜18C初)になると「火消人足集団」が現れるが、これには「武家火消し」(旗本・御家人の次・三男出身)と「町火消し(町奴、鳶職人が混在)の二種類がある。そこで鳶の技術を活かし第一線の火消しに取り組む男たちは臥煙(がえん)と呼ばれ、全身に刺青を入れた彼らは飛び切りの威勢の良さを誇るとともに、彼らも、次第に傍若無人でありながらも、どこかで公権力との繋がりをチラつかせる威圧的な無頼漢集団と化していった。


この種の無頼漢・徒党集団の中で「親分-子分の絆」が強く意識されるようになったのも、同じ元禄期の頃からであったが、このような流れの中で、江戸時代の後期頃から、専ら「鉄火場の博打」と「ゆすり・たかり」で生計をたてる「任侠ヤクザ・ゴロツキ連中」が登場してくる。


ところで、明治維新後の日本が近代国家へ向かう中の動きで見逃せないのが「自由民権運動」である。教科書的な説明によれば「自由民権運動」とは、藩閥政治に対抗する士族が中心となって取り組んだ民主化運動で、1874年の「民撰議院設立建白書」が口火になったとされる。


この運動は1889年に「大同団結運動」が分裂すると消滅し、やがて自由党立憲改進党など「政党」が成立する。しかし、近年の歴史研究では「自由民権運動と政党が成立する過程」における「任侠ヤクザ・ゴロツキ集団」の役割、いわゆる「民権博徒政治結社」の存在が無視できなくなっている。


従って、この辺りにこそ日本の「政党」と「任侠ヤクザ集団」の類縁性のルーツがあると考えられる。今でも我が国の「大政党」に一種独特の胡散臭さが漂っているが、そして、それは殆ど無意識であろうが、我われ日本人の精神の奥底には安全な日常のための「寺銭(テラセン=裏政治献金を当然視する“遺伝的庶民感覚”が残存していると考えられる。


なお、明治維新には、「任侠ヤクザ集団」との類縁性を窺わせるこの種の政党のほかに、立憲帝政党という「政府の御用政党」が創られたことも記憶に止めるべきであろう。現代ヤクザ(≒暴力団・ゴロツキ)のルーツは、国会議員であった吉田磯吉(北九州の筑豊炭田を仕切る大親分)であり、その門下から大阪・横浜・神戸・四国でヤクザ集団の分派が誕生している。


更に、神戸の分派から大島組を創設した大島秀吉は神戸市議会に介入し、一時期は神戸市政を牛耳っていた。そして、大島秀吉の子分の一人、山口春吉が創設したヤクザ組織が、いま全国に網を張るヤクザ業界で最大手の山口組である。


いずれにせよ、近代日本における、このような「任侠集団」の歴史を概観すると、いわゆるヤクザ・任侠集団・暴力団が、「政治結社」や「政党」と不可分の曖昧模糊としつつ渾然一体的関係を維持しながら明治維新以降の我が日本国の「保守政治」と「地方自治体政治」に深くかかわってきたことが理解できる。


そして、最も憂うるべきは、わが国における、このような政治権力・行政・財界(政・官・財)の歴史的・世襲的な非近代的ズブズブ性(癒着構造)をステップ・バイ・ステップで改善するための仕事へ取り組むべきジャーナリズム(マスメディア)の過半が、実はそれどころか、記者クラブ制度等の権力側との癒着的な既得権を介して「権力&ヤクザ・任侠集団・暴力団」サイドの仕事に加担している疑いが大きいことだ。


今回の「自民党による両院議員総会要求ドタバタ劇」の観察が我われ日本国民に知らしめたのは、実は、このように余りにもおぞましい「日本の民主主義政治の実像」ではなかったのか? 我われは、今こそ、「正統な政治権力であればこそ、そこには先ず鋭敏な人間観察(民主主義云々以前の問題!)という責任能力が求められるべきで、“癒着構造化・特権階級化した政治権力”が主権者たる民衆からの批判を一切許容せず、ひたすら閉塞的に過剰なまで官僚政治化したものは最悪の権力装置だ」とするチェコ人の基層に根付く、強固な伝統意志を学ぶべきであろう。


序に書き加えるなら、東国原・宮崎県知事の「日本国民を小ばかにした淫行スケベ“性事劇”の公演」は、このような観点からすれば、まさにそれがヤクザかゴロツキの使いっパシリ(走り?)に過ぎないものであったことが分かり、この関連の低劣な映像を「地方分権の希望の星」などと称して怒涛の如く垂れ流し、“たけしの恫喝劇”による大団円までのプロセスで視聴率の荒稼ぎに突っ走った民放テレビ局を始めとするマスゴミの堕落ぶりも浮き彫りになった。


Disinfection: Soleil soleil (Lara Fabian