toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

今こそ民主党に求められる「記者クラブ制」全廃への勇気ある決断力

toxandoria2009-09-20



[副 題]民主主義の深化のため、今こそ凝視すべき三つの視点(2/3)/政治における逆選択現象(情報の非対称性/ Adverse Selection)の問題
・・・同表題(1/3)の記事はコチラ → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090903


【プロローグ】チェコ・オペラ、スメタナの『ダリボル』公演(2009年10月25日)のご案内


♪開催日 2009年10月25日(日)⇒ (巡演)2009年10月31日(土)15:00開演 会場 長岡市立劇場 大ホール(http://www.nagaoka-caf.or.jp/revue/gekijo_revue/3291.html


♪場所  所沢MUSEマーキーホール


♪はるもにえ・所沢市文化振興事業団 共催



・・・チェコ、ドナウ・ベント辺りの風景(2009.3.24、撮影)


(関連参考情報)


『ダリボル』は「プラハ国民劇場」(チェコ民族劇場/1883年、完成)の“こけら落とし”で初演された・・・関連記事、2009年春/チェコプラハの印象(3)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090804


歌劇「ダリボル」の概要、http://www.tokomen.jp/dalibor.html


スメタナオペラ「ダリボル」日本初演http://8329.teacup.com/kaze/bbs/143


ピアニスト NPO法人はるもにえ代表 中島 昌子さん、http://www.joso.net/archives/2009/08/-npo.shtml


大須賀鬨雄氏演出の「夕鶴」がチェコで初公演、http://www.kek.jp/ja/news/topics/2007/Opava.html


チェコ日本大使館情報「夕鶴・初演 カーテンコールの様子」、http://www.cz.emb-japan.go.jp/jp/bunkanewsjp05.html


(概観ヨーロッパ法制史に見る権利保護の歴史と普通選挙の意味)


人間以外の動物の世界では見られぬという意味で「法」と「人間の権利意識」についての発展史は紛れもなく一つの文明現象である。例えば、「新しい人権」の一つとされる「環境権」は、その典型的な意味での事例になると思われる。ただ、環境権の場合は地球温暖化にかかわるエコファシズム、あるいは限られた狭隘空間に非常に多様な生命連鎖が存在する輻輳多様系としての地球についての理解の観点などから、再考すべき難題が次々と湧出しつつあることに留意しなければならない。


ともかくも、「法と人間の権利の発展史」という観点からすれば、我われ人類の「権利」と「権利保護」のコンセプト(概念)は、多様な次元における人間社会についての学習・変化・発展を伴いながら様々な意味で「基本的人権」の新たな領域を発見・開発・創発してきたと見なすことができる。


例えば、通常の歴史観では、東方の国制に倣った専制的なビザンツ帝国の最盛期を画しつつ『ローマ法大全』(古典古代のローマ法と近代ヨーロッパの各法体系を結ぶ重要な法典)を集大成(編纂)したユスティニアヌス帝(Justinianus 1/位527-565)の時代においても、不当に徴収された租税についての訴え、職業身分団体内部の紛争、官吏の職権乱用などから、無防備で丸裸同然の下層民らを守るために準裁判的役割を果たす「市民保護官」(defensor civitatis)の制度が存在したことが知られている。


このため、特にユスティニアヌス帝の時代のビザンツ帝国には専制国家的であるとともに福祉国家的な性格も垣間見ることができる。それどころか、別記事でも触れたが(参照、下記◆)ユスティニアヌス帝の時代から約600〜1,000年も遡る「共和制ローマ(BC509の王制打倒からBC27の帝政開始までの古代ローマにおいても、「査定官」(censor)の名で「倫理裁判」が機能し、共和制ローマで最も権勢を誇る元老院議員らに対して、適正と適性および日常行為についての厳しい査定(監視)が持続的に実行されていた。


◆『自民党元職員の政治献金着服問題に透ける“共和制ローマ”にも劣る日本・民主主義の悲惨』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080528


ちなみに、陪審裁判所と陪審員制の起こりも共和制ローマの時代まで遡り、この時代には最高権威を誇る「元老院決定」(senatus consultum)に対する拒否権(intercessio)を持つ「護民官(tribuni prebis)の制度が機能していた。更に、その起こりを「探ると王政古代ローマ」(建国伝承BC753〜BC27)時代の「貴族・豪族vs平民」の闘争史まで遡る(以上、市民保護官、査察官、護民官の記述にかかわる出典:クヌート.W.ネル著、村上純一訳『ヨーロッパ法史入門』(東大出版会))


言い換えるなら、たとえ欧州における17〜18世紀、いわゆる啓蒙主義の時代が明確な画期であったとしても、突然に、その中から“現代的意味の人権と人権保護の観念”が出現した訳ではない。また、近世以前の封建制または絶対王制下で全く「人権保護の観念」が存在しなかったのではなく、ギリシア・ローマ古典古代〜中世〜近世に跨る非常にロング・スパンな人類文明史を覆う法概念の特徴は別の所にあったということになる。つまり、その長い時代には「身分制」が歴然と存在し、それを不自然なこととは誰も思わぬという厳然たる事実がある一方で、国民一人ひとりの権利を守るべきだという観念がマイナーながらも併存してきたといえるのだ。


しかしながら、15〜17世紀の「啓蒙期に先立つころから啓蒙期」にかけてトマス・モア(Thomas More/1478-1535/イギリス・ルネッサンス期の法律家・思想家)スピノザSpinoza/1632-1677/オランダの哲学者・神学者らの「寛容(tolerance)」の思想が生まれるが、未だそれは現代的意味での「身分平等や人権思想」に直結するものではなかった。この寛容と人権思想が現代的意味を帯びるのは、漸く、民主主義国家における主権者としての国民意識が確立される17〜18世紀の市民革命時代を経てからである。そして、この市民革命に代わる正当な政権選択の手段として定着したのが、一定年齢に達したすべての国民に対し、主権を行使するための“最重要手段としての選挙権”を与える「普通選挙制度」である。


(政権選択=普通選挙における逆選択現象の問題)


さて、この「普通選挙制度」で最も重要な条件となるのが「政権選択に資する良質な情報」である。今回の総選挙で注目された各政党のマニフェストは、「政権選択に資する良質な情報」の問題の典型であるが、ここではそのマニフェストなどを正しく評価するための基本情報という角度から、その論点をより広く一般化して「メディア情報の評価」の問題について考察する。


一般的な意味でメディア情報の「情報源(発信源)」を整理すると、それは「政府、行政官庁、政党、アカデミズム(学会、研究機関)など狭義のインスティテューション(Institution)シンクタンク・NGO・NPO・市民団体・各種評価機関等広義のインスティテューション、企業・財界ほか」ということになり、一方で、我われ一般国民は「政権選択に資する良質な情報」に接する「情報の利用者」の立場に立つことになる。そして、このとき我われ「情報の利用者」は「情報源(発信源)」について次のような現実を理解しなければならない。


例えばそれは、環境問題などの場合には政府・企業・科学者・NG0・NPO・市民団体などの様々な「情報源」が、実は複雑な利害関係のネットワークの中に存在しているという現実があることだ。しかも、真偽やコトの是非はともかくとして、各「情報源」はそれぞれの立場に応じて積極的、あるいは戦略的にメディアを通して自らの立場をアピールするのが普通である。このため、環境問題の報道に取り組むメディアは、特に以下のことに留意しなければならない。


(1)取材対象(情報源・発信源)、取材方法、取材プロセスについての妥当性の事前評価 


(2)取材対象(情報源・発信源)、取材方法、取材プロセスについての客観性保全ヒアリング、アンケート調査、活動実績収集など)の検討


また、公正で客観的な情報提供を期すため、マスメディアは我われ「情報の利用者」についての事前評価の問題も意識しなければならない。ユビキタス下の多様な情報ツールが普及する時代より以前の「情報の利用者」については、“基本的に彼らは受身である”と想定されてきた。しかし、今や我われの時代ではインターネットが普及し、やがて凡ゆる情報ツールがオンディマンド時代を迎えようとしている。


このため、例えば情報の受け手である「利用者」サイドでは、情報経済化とデジタル・デバイドによる一定の階層化と格差の発生が予測される。つまり、従来どおり“受身の立場”に甘んずる「利用者」(無関心層)と積極的に情報を評価し、活用しようとする「利用者」(積極層)の二極分化ということだ。このため、環境問題に取り組むメディアは、特に以下の点に留意しなければならなくなる。


(1)利用者(一般国民)の立場に立つ想像力の意義についての理解


(2)利用者(一般国民)の特性変化についての調査(ライフスタイル、価値観の変化など)


(3)利用者(一般国民)のメディア・コントロールに対する感受性の有無についての判断


(4)利用者(一般国民)の環境問題についての意識と理解の変化


(5)積極的な環境教育の意義についての理解


以上のような地球環境問題についての報道にかかわる論点を集約的に表現すると、それは関連情報の発信者と受信者の双方レベルで『現実界における因果律』と『抽象論理』の混同を避けるという科学的スタンスを厳格に維持すべきだということだ。そして、いうまでもないが、因果律は出来事が連続的に見える現実の現象世界のことであり、論理は例えば数学式で表現される如き抽象ロジックの世界である。


この両者は、見かけの上で似て見えることもあるが、 それは根本的な誤解である。突き詰めれば、論理は思考の道具で、あくまでもそれは定理や仮説にとどまるべきものだ。そして、現実世界で起こる因果律と照らしつつ、それは修正されるか取捨されることになる。あるいは、一定のより厳しい条件下で行われる観察・実験の結果として、その何れかになることもある。


梃子でも動かぬほど頑迷固陋に仮説論理にこだわる科学原理主義(=科学ファシズムは、実はそれこそが非科学的態度であり、その一歩先では中世キリスト教世界の異端審問・魔女裁判悪魔崇拝と同じ類のもの、つまり決定的虚偽の上塗りと誤謬の罠が大口を開いて待っていることになり、それは宗教原理主義・金融市場原理主義などのカルト・狂信と何ら変わることはない。


これらを具体的に見ると、例えば過剰な炭素還元主義へ傾きつつ地球温暖化問題を解決しようとするエコファシズムなどの問題がある。この問題で肝要なのは、“二酸化炭素がもたらす温室効果なる現象が果たして現在の異常気象を決定しているのか?”という素朴な科学的命題(疑問)を現代先端科学への大なる挑戦と受け止めつつ客観的スタンスを保持することである。


アルキメデスの原理で考えれば、北極海で浮遊する海氷の温暖化による融解で海面上昇は起こり得ないと見なせるし、あるいは地表に存在する南極または山塊氷河等の氷が融解すれば海面上昇が起こり得るが、今度はその地球上における山塊氷河等の全量が正確に把握できていないことが問題となる。個々に、かつ局所的に見れば、これらの知見は科学的に有意であるが、それら相互の関連性・地表氷塊等の全量把握あるいは決定的な意味での地球温暖化とのそれらの関連については未解明である。


しかし、だからといって地球温暖化や環境汚染問題に我われが無関心でもよいということにはならない。むしろ、大気汚染や公害・薬害・資源問題なども視野に入れつつ、より広範な角度から地球環境問題を理解して、我われが出来得ることから地道に対処し努力するというスタンスこそが重要である。従って、炭素還元主義に基づく排出権取引脱原発についても、その有効性について十分検証し直すことが肝要だ。そして、欧米で沸騰中のリーマンショック後の金融規制強化の議論と同じく、排出権取引脱原発が過剰な市場原理へ急傾斜したりマネーゲーム化することへの警戒を政治的に十分担保する観点が必須となる。


そして、最も重要なのは「多様な科学的根拠や立場を分かりやすく国民一般へ開示し説明する」とともに、「諮問会議や専門委員会が関連業界・利権団体・御用学者らによって牛耳られることがないようメディアが厳しく監視する」ことである。


(関連参考情報)


民主党マニフェストに掲げた政権公約「2020年までに90年比25%削減をめざす」(毎日社説/25%削減目標 米中動かす戦略も大事)、
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20090909k0000m070111000c.html


金融危機、再発防止へ規制強化 米大統領、国際協調訴えhttp://www.nikkei.co.jp/news/main/20090914AT2M1403614092009.html


◆独仏首脳 G20提案で共闘 金融機関の巨額ボーナス規制強化http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200909020085a.nwc


◆ドイツ総選挙(27日投開票):「脱原発」が争点に 市民団体が大規模デモhttp://mainichi.jp/select/world/news/20090907k0000m030065000c.html


1995年の『マルコポーロガス室の嘘)事件』で起こった“ホロコースト否定論”のような作為的プロパガンダについても同様のことがいえる。これは、人類史上でも最悪のユダヤ人への人権蹂躙と大虐殺であるホロコーストは歴史事実として存在しなかったと主張し、ナチスへ免罪符を与えようとする悪意に満ちた情報操作の問題である。この類のプロパガンダの特徴を端的にいうなら、それは“一般の人々の無知につけ込む”ということに尽きる。


考えてみれば、ホロコーストの現場に居合わせた訳ではない我われ一般人はナチスガス室がどのような構造であるか、あるいはどのような種類のガスがそこで使われたかなどの詳細は知る由もないのが普通なので、彼ら悪意に満ちた輩は“その無知”を突くための屁理屈と偽証を並べたてるのが常ということになる。つまり、ホロコーストが実際にあったと主張するなら、“お前たちは具体的にその内容を語れ!”と彼らは一般の人々に迫る訳である。


そして、この類の「一見すると真実が偽証より弱い」(=過去を改竄する歴史修正主義の“強み”と“ド迫力”)という“悪しき犯罪的状況”を覆すために必要なのが歴史的事実についての「正確・緻密なドキュメンテーション」と「客観的ジャーナリズム言説、研究論文など」の収集・集積・保存・管理ということになる。特に、この類のプロパガンダは、世代交代によるリアリティ(社会的な現実についての共有感覚)の希薄化を狙いつつ“ウソも百回いえば真実になる”という似非リアリズムをゴリ押ししようとするので要注意だ。日本における「被爆体験の悲惨」を伝える難しさも、このようなところに係る。


(持続的に国民主権を共創・保全する努力の重要性)


ところで、市場経済で想定される「逆選択現象」(Adverse-Selection)の仮説によると“買い手が商品の品質を信用できぬときには、品質の良い商品がその市場から排除され、品質の悪い商品が選択される”という好ましからざることが起こる。なぜなら、その時に、信用できぬからこそ買い手は“悪かろう安かろう”の心理から、より安いものを買おうとするからだ。そうすると、安価で陳腐な商品を供給した方が売れるので、生産者による安価な商品供給の傾向がますます強まることになる。そして、このような事実こそが「情報が信用できない状況=情報の非対称性」ということである。


この「情報が信用できない⇒情報の非対称性⇒逆選択現象」を先に揚げた一般的な意味でのメディア情報の場合に当て嵌めると、それは “ウソも百回いえば真実になる”タイプの粗製乱造された情報に近似することが理解できよう。つまり、このような状況下では、その真実性については二の次とされ、とにかくスピーディに大量生産される陳腐な、あるいは安っぽいガセ情報が“情報市場を刺激しつつ制する”という恐るべき事態となる訳である。民放テレビなど大衆メディアの堕落した放送コンテンツ(安っぽい“お笑い、ゲーム番組、芸能&政界スキャンダル・ゴシップ等”への過剰傾斜)の問題も、このようなことに係る。


このことは、これも既述のことであるが、高度なインターネット網が普及し、やがて凡ゆる情報ツールがオンディマンド&ユビキタス化する時代を迎えようとするからこそ、情報の受け手たる「利用者」サイドにおけるデジタル・デバイドによる一定の階層化の発生が、この恐るべき情報劣化状況を加速させることと繋がることになる。なぜなら、“受身の立場”に甘んずる「利用者」(善良な無関心層or無意識層)と積極的に情報を評価し、活用しようとする「利用者」(好奇心が旺盛で意欲的な積極層)の二極化では、明らかに前者の方が多数派となるからだ。


かつて、「小泉劇場」が根本的に誤った改革方向(=市場原理主義規制緩和原理主義、野放図な自己責任論、無定見な自由原理主義、超格差拡大主義、対米盲従主義)へ日本を強引に引きずり込めたのは、実は、この恐るべき情報劣化の加速的傾斜を悪用したからである。つまり、狡猾にも、竹中平蔵田中直毅飯島勲世耕弘成田原総一郎らナチ型ゲッペルス機関似の“メディア対策チーム&人的ネットワーク”が高度情報化時代におけるポピュリズムを十分にインフルエンシャル(Influential/感染力が強い)媒体として悪用したという訳である。


従って、民主党を中心とする連立政権も、鳩山首相のスローガンである“国民の目線”の次元に留まる限りでは「小泉劇場」亜流の“一般国民による逆選択現象=劣等ポピュリズム現象”に流される懸念がある。従って、より重要なのは先ず“国民主権の重視”へ一層積極的に、かつ果敢に踏み込むことだ。いい換えれば、それは下記の7点(●)を客観的に評価できるようにするため、欧州における「報道評議会」(プレス・カウンシル/Press Council)に相当する第三者的な情報評価機関への道を開くことである。


●過剰なイデオロギー傾向の抑制(市場原理主義、格差拡大主義、過剰な自己責任論など)


●偏向的なプロパガンダの抑制


●健全な公共意識の育成・強化


●官僚的・警察的国家権力への傾斜の抑制


言論の自由の保持


核武装論など先制攻撃的あるいは好戦的な国家主義の抑制


基本的人権福祉国家保全


そして、鳩山首相が言明したにもかかわらず、いま民主党政権が見苦しくも躊躇している「記者クラブ制の廃止」(=政府に奉仕するジャーナリズム制度の廃止)こそが、上で述べたような意味で鳩山政権が“国民主権の重視”へ積極的に踏み込むための第一歩であるはずだ。外務省・岡田外相が“全メディアに記者会見を原則開放する方針”を示したようだが、これだけでは不十分であり、いま求められるのは全面的な「記者クラブ制の廃止」だ。


今のままでは、次の総選挙においても“記者クラブ制に安住する”永遠の御用マスメディアに煽られた低劣なポピュリズムが「暴政・アナクロニズム新自由主義思想が奇ッ怪に癒着し爛れ切ったゾンビ自民党政権」をリバイバルさせることになり、我が日本では全く不毛な“形だけの政権交代”が延々と繰り返される懸念がある。


このザマでは、いつまで経っても日本の民主主義は、あの「共和制ローマ(BC509の王制打倒からBC27の帝政開始までの古代ローマにおいて、最も権勢を誇った元老院議員らに対し適正と適性および日常行為についての厳しい査定(監視)で睨みを利かした「査定官」(censor)による「倫理裁判」よりも“遥かに劣る人権感覚”が日本(日本政治)を覆い尽くしていることになってしまう。日本は、先進民主主義国家を標榜するにしては余りにもお粗末な体たらくである。


『人間以外の動物の世界では見られぬという意味で「法」と「人間の権利意識」についての発展史は紛れもなく一つの文明現象である。』・・・これは当記事の書き出し部分「概観ヨーロッパ法制史に見る権利保護の歴史と普通選挙の意味」の冒頭の再録である。つまり、政治権力者となった者らは、一般国民の存在を決して軽々しく見るべきではない、ということだ。ましてや、自民党の“世襲・寄生議員”や竹中平蔵ら“国家寄生虫”の如き御用学者は、このコトバを心して聴くべきだ。


(関連参考情報)


岡田外相 全メディアに記者会見を原則開放http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090918119.html


記者クラブ廃止を民主党が中止することの罪(村野瀬玲奈の秘書課広報室)http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1424.html


マスコミ「メディアを敵に回すと政権が長く持ちませんよ」→民主党記者クラブ制度廃止」直前撤回→大手マスコミ完全黙殺、報道一切なしhttp://bakusyouten.blog92.fc2.com/blog-entry-3839.html


記者クラブメディアを排除した鳩山首相初会見への落胆(上杉 隆)http://diamond.jp/series/uesugi/10094/


懲りない “世襲寄生議員のブログ”=政治より食べ歩きの日々http://gendai.net/?m=view&c=010&no=22730http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/7a8668e41eb8fc601aa54ebc4b5691ff


“国家寄生虫”の如き御用学者の実像=パソナで1億円、竹中の不敵な笑み“自由は選挙の時だけ、それが終われば皆奴隷”エヘヘhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090914


【エピローグ】Lara Fabian -Caruso