toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

自民暴政の遺産「八ッ場ダム」と「マスゴミ」のトポロジー/「現にどうあるか」でなく「今、過去と未来がどう見えるか」の問題

toxandoria2009-09-28



[副 題] 政権交代の意義を考える/ブリューゲルフルトヴェングラーワルターからの連想


【画像0】topologyのイメージ1

・・・画像はウイキメディアより。


<注記1>トポロジー位相幾何学


“やわらかい幾何学”と呼ぶこともある“新しい位相幾何学”には、連続写像によっても変わらぬ性質を見つけ出すという目的がある。上の画像で、コーヒーカップを伸縮させつつ連続的に変形すると、ドーナツ形へ遷移できるが、このような連続的変形をホモトピー(homotopy/トポロジー概念の一つ)と呼ぶ。


<注記2>「現にどう“ある”か」と「今、過去と未来がどう“見える”か」の違い


「現にどう“ある”か」=「現在のまま」に身を任せる意識


・・・60年もの長きに及ぶ自民党の暴政(国民主権を無視した利権・徒党・世襲政治)が造った“八ッ場ダム”、それが象徴するグロテスクな日本暴政の病巣と地元住民らの苦境、その悪の胎盤は「自公政権の無責任で膨大なムダ遣い」と「それを見過ごしつつ親方日の丸に甘んじてきた受け身」の住民意識


「今、過去と未来がどう見えるか」=「過去と現在の実像」を深く自省しつつ、新たな方向へ弛まず行動するアクティブな市民意識


・・・総選挙の結果としての「政権交代」で自公政権(暴政)の“漆黒の霧”が薄れ始めたいま、漸く国民一般の目に見え始めた「国民主権の政治による市民社会と地域社会」のあるべき姿(≒正しい税金の使い方)へ向けて絶えず希望を繋ぐ、自覚的・主体的な市民意識


【画像1】P.ブリューゲル『狂女フリート』

・・・ Pieter Brueghel the Elder(ca1528-1569)「Dull Griet(Mad Meg)」 c.1562 c.1562 Oil on panel  117.4 x 162 cm  Museum Mayer van den Bergh 、 Antwerp ⇒ 大きな画像はコチラでどうぞ! ⇒ http://www.abcgallery.com/B/bruegel/bruegel34.html


【参考画像】P.ブリューゲル『雪中の狩人』

・・・「The Hunters in the Snow」1565. Oil on panel 、117 × 162 cm Kunsthistorisches Museum  Vienna 、 Austria


【参考画像】ウイーン美術史美術館

・・・画像はウイキメディアより。


・・・ウイーン美術史美術館(Kunsthistorisches Museum, Wien)は、自然史博物館と対になる建造物で、1891年開館した。現在、組織上はウィーン大学の一部門となっている。後述する中野考次(ドイツ文学者・作家)は、ウイーン美術史美術館で出会ったP.ブリューゲル『雪中の狩人』への想いが後に結晶して名著『ブリューゲルへの旅』が生まれた。


・・・オーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダの各地ハプスブルク家の領土を中心に生み出された400年間に亘る美術コレクションを中心とする美術館で、古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している。


・・・なかでもピーテル・ブリューゲルの作品数は世界最大を誇り、『雪中の狩人』『農民の踊り』『子どもの遊戯』など、美術全集でおなじみの傑作が1室に集められている。また、ハプスブルク家の人物の肖像画なども多数収められている。


・・・ピーテル・ブリューゲルは、ルーベンスより約半世紀前の時代のアントワープブリュッセルで活躍した画家。ルーベンスと同様に、当時流行りのイタリア旅行はしたものの、ルーベンスと異なり、ブリューゲルルネサンス・イタリア絵画の影響は殆んど受けなかった。


・・・むしろ、彼は、ロベール・カンパン(Robert Campin/ca1375-1444)に始まるとされる対象物を非常に精緻に描き込むフランドル・リアリズム絵画の伝統を一足飛びに「現代のリアリズムの視点」まで届かせてしまった。それは、多次元の時間をシンクロナイズさせつつ瞬時にすべての現実世界の諸相(社会的な格差と矛盾、権力者の驕りと腐敗など)を表現する「批判的リアリズムの手法」だ。


・・・彼が生きた16世紀前半は宗教改革と反宗教改革の嵐が吹き荒ぶ時代であったが、この時代のアントワープを中心とする一帯は、カール5世のハプスブルグ帝国を支えたため「スペイン帝国の財宝」と呼ばれた。


・・・しかし、この「アントワープを中心とする豊かなネーデルラント」は、スペインとフランスが血で血を洗う地獄絵図のような戦場でもあった。そのため、いたるところで『狂女フリート』の如く戦火に巻き込まれ、あるいは圧政に苦悶する民衆の悲惨が目撃されたはずだが・・・。カール5世(ハプスブルグ帝国)の廷臣(=「現にどうあるか」に身を任せる民衆を上から見下す立場の人々)らにとって、それは「スペイン帝国の財宝」にしか見えなかった。


・・・ハンガリーボヘミアチェコ)の王を兼ねた神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(Rudolf 2/位:1576 – 1612)は、政治的に無能であったが学問と芸術を好んだとされ、ウイーンよりチェコを好みプラハに居を定めていた。そのため、この時代のプラハにはヨーロッパ中から学者や芸術家が集まっていた。


・・・例えば、それはG.アルチン・ボルド(G.Arcimboldo/ミラノ出身、マニエリスムの画家)、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe/デンマーク天文学者)、ヨハネス・ケプラー(Jahannes Kepler/ドイツの天文学者)らであった。デューラーのドイツ・ルネッサンス絵画、ブリューゲルのフランドル絵画をルドルフ2世は特に好んで収集していた。自らが、これら画家たちによる批判の対象とされていたことに、おそらく気づくこともなく・・・。


【画像2】ウイーンの風景(2009.3.23、撮影)


ウイーン大学



ヴォティーフ教会


カール教会


カフェ・セントラル


ブルク劇場


リング通り(市庁舎公園辺り)


レストラン・アインシュタイン



(プロローグ)


『暴政の画家、P.ブリューゲル』・・・「現にどうあるか」から「今どう見えるか」を凝視する透徹したリアリズム


(中野考次著「ブリューゲルへの旅」(河出文庫版)、“狂女フリート”の章より抜粋(部分))


・・・前、略・・・ブリューゲルの絵がなぜわたしに働きかけてくるのかという点については、知識はなんの手助けもしてくれなかった。ある研究者はそれをマニエリスムとして様式的に説明し、ある人は近ごろ流行のイコノロジーから個々の形象の意味を解明していた。・・・中、略・・・絵といえば印象派、文学といえば近代文学の個性の劇、大事なのは独創的個性である。芸術は実人生から独立した価値である、詩は純粋に詩であればよく、絵画はひとえにただ色彩、つまり視覚的な感覚だけにまで純化されねばならぬ。芸術家とはそういう純粋な価値の世界に身をささげ、実人生の外に個と普遍とを追及する者だ、云々。どうしてああいうくだらない考えにとりつかれてしまったのだろう。・・・途中略・・・結局、そんな近代的芸術観にたいしあの画家はまったく違う世界を提示しているわけだ、と思う。たしかにあそこではもはや中世的な神の秩序は壊れてしまっている。それは疑いえない。だが、画家の個性とか主観が画面を構成しているのでもない。ディテールはすべてそれだけで明確な物としてそこにある。にもかかわらず、明確なそれらの形象が集まって一つの大画面を構成するとき、それは互いが互いに無限に関わりあいつつ、こっちが他を規定し他がこっちを相対化し、行く目と帰る目が行違い、物をイロニー化し、全体を見方によっては緑にも赤にも光る玉虫色の複合体にしてしまう。あの目の働きは一体なんなんだろう。一人の目が世界を見、表現しているのではない。まるで描き手までが、見る者でありつつ見られる一個のものとなって、画面の中に飲み込まれているかのようだ。狂女フリート、あの力強い魔女も全体の一部にすぎず、彼女も関わりの相対化に犯されずにいない。ともかくたしかなことは、とわたしは打ち切るように呟く。この画家は主観対客観、自己対社会、自然対人生というような一筋縄の対比で割り切れる人物ではないということだ、と。そういう近代的二元論の発生する元まで彼の目はとどいてしまっているかのようだ。彼の目は同時にすべての層を見る。その言葉にまず耳を傾けねばならぬ、と。・・・後、略・・・


(同上、“傲慢”の章より抜粋(部分))


・・・前、略・・・近代世界は、自然的な世界を改造して歴史的な世界をつくり出す。そして歴史的世界のみが、始めと終わりをもつのである。自然はくりかえす。しかし<自由>はそこから脱却して目的をめざす。科学技術の進歩にしたがって世界が自然状態から文明社会へ改造されていくに従って、歴史的性格は深まっていき、そしてその内面構造を観察すれば、世界は自然のまま横たわっているのではなく、<自由>の上にもち上げられているように見えてくるにちがいないのである。世界が人間のかたちに似せて改造されてくる。そこに人間の知性には深い崩壊の予感があらわれてくるのである。この状況が、現代人をして終末論に直覚的に親しましめるものを生み出したと思われる。近代世界が古めかしい聖書的終末論になじむのは、近代社会の構造が終末論的になってきているということにほかならない。・・・後、略・・・(注)これは、中野氏が“大木英夫『終末論』から引用した部分である。


・・・・・・・・・・


上に部分転載した中野考次(ドイツ文学者・作家)と、中野が引用した大木英夫(神学者)の文章で驚くのは、それがソックリ『2009.8.30総選挙』前後の<新自由主義思想=小泉・竹中的なるもの>に感染し重症化した<自民党政治的なるモノ(暴政)の病巣>に徹底的に食い尽された日本社会のグロテスク(=悲惨の核心)を抉っているかに見えることだ。


しかしながら、漸く政権交代が実現したとはいうものの、60年以上になんなんとする<自民党政治的なるモノ=暴政>の被害の大きさと、その<民主党への感染症状>が明らかとなるのは愈々これからであることを我われは覚悟すべきだ。それは、これから民主党議員についてのスキャンダル暴き(政権交代への“汚い”反動と意趣返し工作)が本格化するということだけに留まらない。


そこで、いまこそ想起すべきことがある。それは、この中野考次の名著(単行本の初版は1976年刊、最終的に「エッセイスト・クラブ賞」を受賞)が出版されたばかりのとき、『雑誌ユリイカ』の鼎談批評で、高階秀而、中村雄二郎山口昌男ら美術アカデミズムと日本文化界の泰斗たちが殆んど罵倒に近い批判とバッシングを中野へ浴びせたという事実があったことだ。


これは、「官僚」と「その官僚システムの上に君臨してきた自民党による暴政」だけでなく、アカデミズム・メディア・財界など日本社会の凡ゆる特権階層の人々が“超高級官僚化病”に冒されると、もはや「現にどう“ある”か」の立場でしか目が利かなくなり、実際には「今どう“見える”か」で深く自省し、“だから”どうあるべきかの方向を“凝視”しつつ新たに行動することが困難になってしまうという現実を示している。


そして、何よりも、60年以上になんなんとする<自民党政治的なる長いモノ>に“騙されつつ巻かれてきた”日本国民自身の知力と感性が「超官僚化の業病」冒され、それに飼い馴らされてしまったため、我われは、本来あるべき<市民社会と公共意識>の水準から余りにも遠くかけ離れた所へ来てしまっていることを、先ず自覚すべきである。


おそらく、『雑誌ユリイカ』で中野を激しくバッシングした日本文化界の泰斗らは、彼らの精神が、遥か上の高みから一般国民を見下すアカデミックな権威筋の立ち位置へ過剰に舞い上がるまで“超官僚化”していたため、一介の市民・国民として自らの人生とブリューゲルの透徹した眼を重ね合わせ凝視する“中野考次の「日本の30年先まで見透した民主主義のリアリズムについての炯眼」を理解できなかったのであろう。


(関連参考情報)


機密文書、溶かして固めてトイレットペーパーに 外務省http://www.asahi.com/politics/update/0711/TKY200907100424.html


マスメディアの行き詰まり、http://nuttycellist.blog77.fc2.com/blog-entry-1222.html


郷原信郎(元検事、弁護士、名城大教授)―鳩山内閣発足について、初閣議後会見での千葉法務大臣の指揮権に関する発言について(定例記者レク情報)http://www.asyura.com/09/senkyo71/msg/828.html


民主・下条議員(世襲議員/構造計算書偽造問題についての証人喚問などで同じ民主党馬淵澄夫長妻昭らとともに厳しく追及した人物)による「秘書給与、建設会社払い」が発覚http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090926-00000044-yom-soci


(芸術至上主義の天才“フルトヴェングラーの限界”が意味すること)


・・・当内容は、下記◆から「ナチ・ドイツとフルトヴェングラー」(p8〜27)の部分をアブストラクトしたもの・・・


◆将基面貴巳・著『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ

・・・将基面貴巳氏は、ケンブリッジ大・クレアホールのリサーチフェロー、英国学士院・中世テキスト編集委員会専属研究員、ヘルシンキ大学客員教授を歴任し、現在はニュージーランド・オタゴ大学専任講師を務める気鋭の政治思想史学者。主著『反暴君の思想史』、共訳書『十二世紀ルネサンス』などがある。


・・・・・・・・・・


世界的に名声が高く、バッハ、ベートーヴェンブラームスらを生んだドイツ伝統文化の保守と継承に情熱を注いだ天才音楽家ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwaengler/1886-1954/今も、そのCDが発売されるとマニアが殺到するドイツ・クラシック音楽の教祖的存在)は、ヒトラー第三帝国下のドイツに留まり音楽活動を続けることでこそ、ナチスへの批判力を発揮できると考えていた。


しかし、ナチスの側からすれば、彼らは、“そのように世界的名声が高いフルトヴェングラーの政治的な利用価値”を十分に知悉していた。このため、1930年代ナチス支配下のドイツでベルリン・フィルハーモニーの芸術監督を務めたフルトヴェングラーが、第三帝国崩壊後の混乱を乗り越えて演奏活動に本格的に復帰し、シカゴ交響楽団フルトヴェングラーを常任指揮者へ招聘しようとしたとき、大きな問題が起こった。


それは、フルトヴェングラーナチスに加担した人物と見なす有名な音楽家たち、例えばトスカニーニ(イタリアから米国へ亡命した指揮者)、ルービンシュタインユダヤ人亡命者、ピア二スト)らがフルトヴェングラーシカゴ交響楽団とは一切共演を拒否するというボイコットの挙に出たことである。


これに困惑したフルトヴェングラーは、先輩格の指揮者・作曲家・ピアニストであるブルーノ・ワルター(Bruno Walter/1876-1962/ドイツから米国への亡命者)宛てに、“第三帝国時代、あらゆる音楽家にもましてユダヤ人のために力を尽くした私に対し、かくも不穏なことが起こるとなれば、いよいよ奇異の念を新たにせざるを得ない。”という趣旨の手紙を書いた。そこで、ワルターは次のように回答している。


・・・ご考慮願いたい儀は、・・・中、略・・・あなたのような一流芸術家の健在と活動が、ドイツ(国内)においても、あの恐るべき犯罪者どもを助けて、彼らにまで文化的・道徳的信用を得させたか、(あるいは)少なくとも相当これに貢献したことであります。さらにご考慮願いたいのは、結局、12年にわたりナチスの帝国で暮されて、そこで起きたことに恐怖を覚えながら、極端に駆り立てられもせず済まされたこと、あなたが国から肩書きと官職を得られたことです。・・・途中、略・・・世人が判断し得るのは、ただ「人が現に“見える”もの」(=今、これから未来がどう見えるか)によるのであって、「人が現に“ある”もの」(=現にどう“ある”か)によるのではないのです。


それでも、“ユダヤ人に対し熱心に救いの手をさしのべ、「真正のドイツ文化」を守り抜くことに務めた自分(フルトヴェングラー)がボイコットされるのは解せない”と訴えるフルトヴェングラーに対し、ワルターは、更に別の書簡を書いて、次のように説明している。


・・・我われの道が最も分かれるのは、あなたが「真のドイツ人」について述べられるときです。先には戦争を国民的対立として誤って特色づけられたのが、ここで国家主義の信奉に移行します。「真のドイツ人」とは、賞賛の意味で言われておりまして、そこから響いてくるのは、かの国家主義、かの愛国心であり、これを強調し高揚するところに災いが生じるのです。かように偏狭な国家主義を克服し、世界市民的感情に馴染むことによってのみ、事態の改善を果たし得るものと信じます。


・・・・・・・・・・・・・


これは、まさにフルトヴェングラーの悲劇的な立場を浮き立たせる出来事であるが、コトはそれに留まらない。フルトヴェングラーの主観的な意識(=自分は自分なりにナチスの不正に抵抗したという意識)は、彼が犯罪国家ドイツの中に留まったという事実によって、ナチスの不正政治(=暴政)を許した国民・国家もろともに連帯責任を問われることになったのだ。


“真正なドイツ人”はナチスのカルト的世界とは違うというフルトヴェングラーの主張は、「冷厳な政治的リアリズム(“国民主権世界市民意識、公的責任”の原則)が支配する現在(=第二次世界大戦後)の民主的な世界」では通用しないということだ(約60年ぶりの本格的な政権交代による民主党政権の誕生で、漸く一般国民層が“正気と健全な市民感覚”に立ち戻りつつあるかに見える現在の日本でも同じことが言える、例えば“安倍の美しい国”の如き偏狭でアナクロ国家主義はナンセンスということになる・・・)。


つまり、ワルターは、“正気と健全な市民感覚”に立ち戻った現在の世界において、世人は人を「現にどう“ある”か」ではなく、その未来へ向かう姿が「どう“見える”か」で判断する、そして、そのクライテリア(criteria/基準(複数)/単数はcriterion)は「国民主権世界市民意識、公共=公的責任」であることをフルトヴェングラーへ説いたと見るべきなのだ。


(自民暴政の遺産“八ッ場ダム”の深層に沈んでいるもの)


将基面貴巳・著『政治診断学への招待/政治症候学としての暴政理論』(p186-195)から、「暴政」なるものの特徴を抽出し、列記すると以下のとおりである。


(1) 政治社会内部において内部分裂を惹起する


・・・正当な理由なしで有力者を失脚させる、同じく賢人を追放する、そうすることで彼らが、「暴政」の実態を暴き、民衆を動員した「暴政」打倒の動きを未然に封印する。現代で言えば、有望な政治家や有力者の唐突な変死事件、正体不明の勢力による謀略的なスキャンダル暴露や風聞の仕掛けなど。または、中立・公正な立場の学者・知識人や有能で真剣なジャーナリスト、あるいは教育現場への排斥・圧力・弾圧などの横行。


(2) 市民生活を低下させ、市民とその財産を濫用(搾取、浪費)する


・・・「暴政」は、社会を格差拡大で分断し腐敗・混乱させることでその命脈を保つ。それは、社会を構成する集団の間に意図的に対立関係をつくり社会全体の市民共和制的な意味での連帯を困難にする。物質的にも、市民生活を可能な限り貧しい状態にする。そうすれば、過半の市民は日々の糧の入手で忙殺され、「暴政」を批判するゆとりがなくなる。さらに、過酷な経済競争(限られたパイの争奪競争、過剰な市場原理主義による弱肉強食状態)や戦争を引き起こせば一層「暴政」の効果が大きくなる。


<注記>


(1)、(2)は14世紀前半に活躍したローマ法学者バルトルス・サッソフェラート(Bartolus de Saxoferrato/1313‐57/近代国際私法理論の淵源たるローマ法大全への注釈で名高く、それは18世紀まで全ヨーロッパの共通遺産としての地位を保った/バルトルスのローマ法・注釈は、公・私法のさまざまな分野で北イタリアの市民生活に効果的解決をもたらし、1544年にはパドバ大学にバルトルスについての講座がおかれ、ヨーロッパ中の大学がこれに倣った。バルトルスは、北イタリアの市民共和制(コムーネ/comune)的な価値観がヨーロッパ中で共有されるルートを提供したと考えられる(参照 ⇒ http://www.yushodo.co.jp/ypc/y06064/no2.html)。


(3)ある政治体の“体液”の均衡が崩れると富の一極集中が起こり、その国の政治はモンスター(暴政)と化す


・・・ここでいう“体液”を“富の流れ”(現代風に言えば、経済活動で創造された付加価値分配の流れ)に読み替えれば、新自由主義思想と市場原理主義が我が世の春を謳歌し、強欲(ハイエナ)資本主義が跋扈する現代世界にそのまま当て嵌まる。


<注記>


(3)は、14世紀の哲学者・天文学者ニコール・オレーム(Nicole Oresme/ca.1323-1382/ アリストテレスの著書をフランス語に訳したことなどで知られる/参照 ⇒http://www.medieviste.org/scr1/archives/000380.htmlが著書『貨幣論』で分析した「暴政」の特徴。


将基面貴巳氏がここで指摘する「暴政」の特徴を概観して驚くのは、これら“暴政の徴候”が自民党政権時代の日本の社会状況、特に「小泉政権〜安倍政権〜福田政権〜麻生政権」下の惨憺たる社会状況(暴政の悪影響)にピタリと重なることである。なぜ、そうなったかについては、もはや多言は必要とするまい。ただ、留意すべきは、いま漸く民主党への政権交代が実現したからといって、即、その“クサレ自民党”型の「暴政」がもたらした悪徳の流れが止まった訳ではなく、止まる訳でもないということだ。


それどころか、自民党政権時代に噴出した「暴政」の汚泥でドス黒く染まった地下水脈の奔流は、その激しくオドロオドロしい勢いを増すばかりであり、それへの厳しい批判を怠けてきたマスメディアは、政権交代後の自らの本来の役割に怖じけついたのかどうかは知らぬが、今や見当違いと心得違いの、というよりも「暴政」の継続を願う一派の謀略への加担ではないかと見紛うほど低劣な報道や主張を垂れ流すばかりだ。そして、その典型事例の一つが「八ッ場ダム」問題についての「読売・社説」(下記▼)である。


▼(9月24日付・読売社説)八ッ場ダム中止 民主党の公約至上主義には無理があるhttp://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090923-OYT1T00946.htm


残念ながら、「八ツ場ダム」に限らずダム問題についての専門的・技術的知識あるいは詳細な諸データをtoxandoriaは持ち合わせていない。しかし、常識に照らして.見て、これは“オカシイぞ!”と思われる点は幾つも湧き上がってくるので、代表的なものを列挙してみる。


●予算規模・完成時期・進捗率など
●ダム建設の影響(効果、環境問題、ニーズの変化など)
●関係する住民意志の所在


まず「予算規模・完成時期・進捗率」などであるが、総事業費4600億円のうち70%に相当する3200億円を既に投入し(ダム本体の工事が計画策定の1986年から23年経過で・・・)、それにもかかわらず関連工事が10%程度しか終わっていないというのは、諸般の事情があるとしても余りに杜撰過ぎる。しかも、工事進捗率については30%とのデマが“公表”と称して堂々と流れているようだ。


また、2010年度(平成22年度)の完成時期とされているが、既に総事業費が当初見積2110億円の2.1倍であることからすれば、また他のダム工事での竣工遅れの実績から推し量ると、更に2倍以上の総事業費に膨れ上がる可能性が大きい。まさに“恐るべき怪物”の如きムダ遣いのダム計画ではないか。


因みに、下記ブログ▲のデータによると、「当初見積→最終事業総額」の倍率が次のように驚くべき大きさ(15.8倍、10.6倍)となったケースがあるうえ、倍率2.0〜2.1は見積もり誤差が少ない方だというのだからビックリ仰天である。前原・国土交通相が“暴走機関車”という表現を使っていたが、“暴走”どころか、これはまるでナチス政権が掲げて突っ走った到底実現不可能な『生存圏(Lebensraum)』拡大というヒトラーの“狂気”そのものではないか。


▲読売新聞はもはや寿命を終えたか(A Tree of Ease)http://luxemburg.blog112.fc2.com/blog-entry-146.html


八ツ場ダム(群馬/2.1倍/2110 → 4600) 大滝ダム(奈良/15.8倍/230 → 3640)
徳山ダム(岐阜/10.6倍/330 → 3500) 川辺川ダム(熊本/7.5倍/350 → 2650)
滝川ダム(埼玉/3.8倍/610 → 2320) 湯西川ダム(栃木/2.0倍/880 → 1840)
志津見ダム(島根/2.1倍/660 → 1450)     ・・・単位:億円・・・


「ダム建設の影響(効果、環境問題、ニーズの変化など)」で最も気がかりなのは、時代の変化にともなうダム効果の陳腐化ということもあるが、「八ツ場ダム」による深刻な環境破壊の問題である。下記ブログ★によると、もともと「八ツ場ダム」の事業地域にあたる草津温泉上流の水質は強酸性なので飲用などには適さない。


八ッ場ダム、とめどなく溢れる思考停止報道(保坂展人のどこどこ日記)http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/7eaba4bbf3409d6bf7151d9501304ff2


このため、「品木ダム」(参照、http://www.ktr.mlit.go.jp/sinaki/)という“中和工場”目的のダムが完成している。しかも、首都圏の飲用利水のニーズがなくなったため、治水目的だけで、このような“環境破壊”と見なすべき中和工場関連の作業がエンドレスで続き、そのためにも税金の投入がエンドレスで行われている。


この深さ40メートルの「品木ダム」にはヘドロ状の中和生成物と土砂が溜まり7〜8メートルの水深となるので、そこに石炭浚渫船を浮かべ1日あたり60トンの土砂とヘドロを浚渫して、それを毎日のように“美しい自然が残る山中”へダンプで運び捨てている。おそらく、このエンドレスの“環境破壊”と”税金ムダ遣い“の作業は治水面での逆効果と山地・自然環境の破壊(動植物生態系のバランス撹乱)に留まらず、永いタイムスパンで見れば日本周辺の海洋生態系への悪影響も想像される。まさに、これは「環境破壊版・バベルの塔」づくりではないか?


また「関係する住民意志の所在」についても、我われ部外者には真相が殆ど分からない。ここ1週間ほどのテレビ・新聞などが報じるところでは、前原・国土交通相の「八ツ場ダム」建設中止宣言で地元住民が大いに困窮していると報じているが、果たしてプラスとマイナスの実状はどうなのか? 一部ではヤラセ的な怪しい動きまでもが伝わっている。小泉劇場時代のヤラセ・タウンミーティングの再現だけは御免を蒙りたい。無論、悲惨な生贄が奉られるような事態は避けるべきだが、中立的・合理的で冷静なメディアの報道が求められる。


ともかくも、「八ツ場ダム」に限らず、ダム建設問題の背後には「自民党による“暴政遺産”の連山」が透けて見えていることは間違いがない。しかも、この「自民党による“暴政遺産”の連山」は、国土交通省に限らず他省管轄の殆ど全ての分野に拡がっている。例えば、原子力行政の分野では「推進機関と規制機関の分離の問題」ということがある。


この原子力行政にかかわる「分離の問題」は世界の常識となっていることだが、日本だけが「原子力安全条約(1996発効)」加盟国(参照、http://www.houko.com/00/05/H08/011.HTM)の中で実現できない恥ずべき状態にある。いま「尼崎脱線事故関連で、元委員がJR西日本の社長へ事故調査報告案を漏らしたこと」が明るみに出て大騒ぎだが(これは民間絡みの問題とはいえ・・・)、これなども原子力の「推進機関と規制機関の分離の問題」の不徹底と根は同じである(関連参照、下記◆)。


◆尼崎脱線:事故調報告案漏らす 元委員がJR西の前社長にhttp://mainichi.jp/select/today/news/20090925k0000e040069000c.html?link_id=RTH01


◆事故調部会長にも接触 JR西、会社ぐるみかhttp://www.47news.jp/CN/200909/CN2009092601000824.html


◆事故調漏えい:委員との面会、JR西の事故対策室が指示http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090927k0000m040111000c.html


日本人好みの馴れ合い体質といえば、それまでだが、日本の「行政・官僚絡みの監査・評価システム」では“ドロボー役と警官(又は検察)役が交替しつつ仲良く共演する”という異常さが根付いているのだ。これは、将基面貴巳氏も指摘していない、“世界の中で余りにも特異な日本の暴政の姿”であるのだろうか? しかも、なぜ日本はこうなってしまったのか? 昔から「親方日の丸」という重宝なコトバがあるが、果たしてそれだけが原因なのか?


しかしながら、これはどうやら必ずしも日本だけの特殊性ということではなさそうだ。かつて、アリストテレスは「暴政」の下では、ご機嫌取りのため市民へ様々な娯楽や見世物(“パンとサーカス”はローマの風刺詩人の言葉だが、将基面氏によればアリストテレスが既に似たことを記していたらしい)が提供されることを指摘している。例えば、ムッソリーニによるファシズム政権下のイタリアでは、娯楽に興じる「おセレブな社交クラブ」への参加が国家によって奨励された。


この傾向が高じると市民の道徳レベルが劣化して、市民の方から政治権力(国家)に対し何らかの“饗応”を強く求めるようになる。その結果、かように忌まわしい暴政が蔓延る国では、理想や偉大なものを求める意識が希薄化して、国民一般の意識が矮小・低劣化し、遂には権力者の意のままに動くよう洗脳された愚かな国民(小泉・竹中らが好む言い方にすれば“B層”?)が増えてくる。そして、現代日本では、相も変わらず、民放テレビがこの忌むべき役割にセッセと勤しんでいる。


実は、直近の記事(下記▼1)で取り上げた小泉某4世の如き『世襲シロアリor寄生虫議員』が増殖する問題(下記▼2)も、「八ツ場ダム」に限らぬ『ダム建設による膨大なエンドレスの税金無駄遣い』の問題も、その病根は同じである。漸く政権交代を果たしたとはいえ、今は未だ、この「国民意識と倫理感の劣化により、権力者の意のままに動くよう洗脳された国民(特定の地域住民ら)が異常繁殖する」という恐るべき病状が日本中に蔓延っているのだ。


▼1 メディア・イベント優先、重要動向カットの報道は民主主義の敵http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090922


▼2 懲りない“世襲シロアリ寄生議員のブログ”=衆院初当選(政治)より食べ歩きの日々(下記▼2)http://gendai.net/?m=view&c=010&no=22730http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/7a8668e41eb8fc601aa54ebc4b5691ff


(逃げるな!マスゴミ/マスメディアに期待されるトポロジー的・創造的破壊の役割)


結局のところ、このように低劣極まりないレベルまで劣化した国民意識を改革するには、“柔らかい幾何学”とも呼ばれる“新しい位相幾何学”的な意味での柔軟な発想転換が必要だ。言い換えればトポロジー的な「創造的破壊」(Creative Deconstruction/オーストリアの経済学者シュンペーターによって唱えられた考え方、新旧のアーキテクチャが新陳代謝的に交替することによる活力創造のメカニズム)に似たショック療法が必要となる。さもなければ、国民一般の心の中に<これからがどう“見える”かの視点で深く自省しつつ、新たな方向へ向かって行動する意志>を燃え立たせることなどは望むべくもないのだ。


そして、厳正中立で客観的立場を守りつつ新時代の活力創造を期して、そのトポロジー的な意味での柔軟かつ創発的パワーを「ペンの力」で実現するのが本来のマスメディアの役割である。ただ、そのように柔軟な発想力と創造的破壊力の可能性をジャーナリズムが秘めているとしても、“ジャーナリズム自身に“本来の中立・公正で地道な努力を積む意志”が存在しなければ、過半の一般国民が、現にどう“ある”かに身を任す受け身から脱出し、過去と現在を深く自省しながら、これから先はどう“見える”かという視点と主体的意志を帯びた本物の世界市民へ変身することなどは到底期待できそうもない。


従って、 旧自民党政権への未練を窺わせるばかりかナチスゲッペルス風の扇情プロパガンダをすら連想させる読売新聞の謀略論的社説(◆1)、あるいは、旧来の“記者クラブ制擁護論をヒタスラ墨守する思考退嬰型ジャーナリストの主張”(◆2)の如き甚だしいアナクロ・ジャーナリズムが跋扈する現状は嘆かわしい限りだ。


◆1 八ッ場ダム中止 民主党の公約至上主義には無理がある(9月24日付・読売社説)http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090923-OYT1T00946.htm(再掲)


◆2 記者クラブ制度批判は完全な誤りだ(花岡信昭・時評コラム)http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090924/183116/


また、日本新聞界の雄を自負する朝日新聞も相変わらず自民党“小さな政府派”への気配りからか「ネオリベ市場原理主義」の片棒担ぎに精を出している。例えば、2009.9.21『Globe、No.24』に年俸1億円の竹中平蔵パソナ会長(元経済財政担当相、慶応大教授)を登場させ“民主党は完全民営化を先送りし小泉・竹中改革が逆回転し始めた、まるで社会主義経済だ!”と、あたかも「オバマの公的医療保険プラン」を批判するサラ・ペイリンの如き“アジテート口調”で語らせ、これぞ斬新な紙面づくり『Globe』の第一歩!と“したり顔”だが、これも嘆かわしいことだ。


ならば、リーマン・ショック後の金融破綻で、暴走したウオール街が恥も外聞も捨てて米国政府へ巨額公的資金投入を懇願したのは何なのだ? これでは自民党の暴政をチャッカリ個人的に金蔓として利用したゼニゲバ学者・竹中平蔵が崇める御神体(=暴走ウオール街の強欲バンカー)らこそ“正真正銘の社会主義経済の信奉者”ではないか? これでは“新機軸”の『Globe』も、ジャーナリズム精神など“クソ喰らえ”で、実のところは自社生き残りのための『新たなメディア・イベント(ヤラセ報道)の場』にしか見えない。


ここには、国民主権への配慮など二の次で「記者クラブ制」に甘んじつつ、たとえ国民が民主・自民どちらの政権を選択しようが、先ずは“御身大事”という朝日新聞のグチャグチャした“内蔵(腹の底)”が醜悪かつ露骨に転がり出ている。太平洋戦争中は大政翼賛報道を率先し、戦後は逸早くそこからの路線転換を図った朝日らしく、その“自社利益第一主義”の徹底したカメレオンぶりには驚かされ目が白黒(シロクロ)してくる。やはり、朝日のホンネは“アホ臭いジャーナリズム精神”など“クソでも喰らえ”なのだろう。


<注記>朝日新聞『Globe』


・・・2009年3月中間期決算で103億円の純損失を計上した朝日新聞が紙面づくりで始めた新たな試み。月2回のペースで月曜日・朝刊に通常紙とは異なる複数の白い紙面を挟んだもの。国際情勢の分析、世界で活躍する日本人のインタビュー掲載などによる斬新な記事の創造を謳っている。


(関連参考情報)


“国家寄生虫”の如き自民党御用学者の実像=パソナで年俸1億円、竹中平蔵の不敵な笑み“自由は選挙の時だけ、それが終われば皆奴隷”エヘヘhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090914



(終章)


今、民放テレビを中心に「永田町(霞が関)文学」なる不可解なギョウカイ用語が持て囃されている。なんでも、民主党が対決する日本官僚組織の“秘伝の宝刀”らしく、その流れの奥には、9世紀から続く日本官僚主義の淵源であった「文章経国主義(もんじょうけいこくしゅぎ)」があるようだ。


更に、この「文章経国主義」のルーツは曹丕(中国・魏朝(220年 - 265年)の初代皇帝、曹操の子)の著書『論典』に現れる“文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり”で、それが9世紀頃の日本に伝わり、当時の律令制度下における官僚への学芸(漢詩文など)の勧めに繋がったものだ。これを現代風(西欧文化風)に言えばリベラル・アーツ、つまり、官僚らに対する「一般教養の修養による人間理解」の勧めということになる。


いわば、このように麗しい伝統文化が次第に曲解され「政治家と官僚の馴れ合いの道具」(人間理解ならぬ、善良な一般国民騙しのための屁理屈で使う駄文マニュアル)と化したものが「永田町(霞が関)文学」と理解できる。


従って、我われは、民主党の「次官会議廃止の方針」に合わせ9月16日付で辞任した漆間官房副長官(西松・小沢秘書事件で“捜査は自民党に及ばぬ”と宣った人物/9月14日、最後の次官会議で辞任)が、『国家・国民の利益にならぬことがあれば閣僚に対し厳しく物申すことも必要だ、次官会議がなくなっても別の形での横の連携づくりが必要だ』と述べ、民主党政権に対し<恫喝的な余韻>を残したことをシッカリ記憶にとどめるべきだ。


つまり、彼ら高級官僚のホンネ部分には、自らこそ最優秀な日本のエリート支配者だという自負心とともに“自らの立場を守るためなら、国民主権や人権などは二の次とし、自分たち高級官僚は何時でも両刃の剣へ変身するゾ!”という傲慢に満ちた自信が隠れていると見るべきだ。もっとも、それこそが彼らの<至福の生き甲斐>なのかも知れぬが・・・。


ともかくも、このように「“曲解された”文章経国主義」(永田町or霞が関文学)が有効である限り、ジャーナリズム活動と一般国民の厳しい監視の目が弱体化すれば、再び“新たな形での裏官僚組織連合”が、“文字通り”の“ウラ世界”をも巻き込んだ形で、国民一般が支持する民主党政権に対し“政治資金、下半身” スキャンダル絡みの圧力&恫喝攻勢を仕掛けるなどは朝飯前のシゴトと考えられる。


また、どれほど民主的に選ばれても、いささかでも周囲からの監視が弱まれば、その時の政権が腐敗し本来の民主主義に背くようになるのは、残念ながらこの世の真理である。従って、常に“より良い社会を目指す”という只一点をジャーナリズムと国民一般が共有できぬ限り、日本の民主主義には未来がない。マスコミに限らず、我われ一般国民も、“自らの立場を守るためなら両刃の剣へ変身するゾ!”という高級官僚らの隠れた傲慢さ(ホンネ)とともに、先に述べた意味での“政治世界の真理”を、ひと時といえども忘れるべきではない。


よりプラグマティックに考えれば、せっかく高級官僚は“自他ともに認めるほど優秀なエリートたち”なのだから、“何時でも両刃の剣と化すゾ!”と政治権力側を恫喝できる彼らの「傲慢で優秀な能力」を上手く活かしつつ、彼らの才能と技能を十二分に国家と国民のため“こき使い、使いこなすために必要な『もう一つ上の次元の知恵』こそが求められているのではないか。


そこで、必要となるのが、「倫理観」と「現用記録文書」を最重視することなどをも含めた市民と行政・官僚との間の「人権にかかわる基本契約」を日本社会に定着させ、一般の日本人(=日本の市民社会)が、このようなことも含意する「人権意識にかかわる強い連帯感を共有するという最低限度の条件づくり」であり、その事例は「欧州人権条約」などに見られる(参照、下記★)。


★欧州人権条約http://kotobank.jp/word/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%9D%A1%E7%B4%84


特に、ジャーナリズムを名乗りその仕事を自負するマスメディア関係者は、トポロジックで柔軟かつ破壊的な発想力を身につけるとともに、一般市民の「真剣さ(dignity)と慎み深さ(decent)」をこそ自らの自画像を映す鏡として、このような意味での「人権にかかわる契約意識」の条件づくりに全能力を捧げることで、マスゴミの汚名を晴らすよう努めるべきである。


【エピローグ】Lara Fabian - J'y Crois Encore(I Still Believe)