toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

米国の“ダブルスタンダード人権主義”も驚く「日本・民主党vs検察・司法取引」の裏シナリオ

toxandoria2009-10-15



<注記>初出(2009.10.12/05:29:32)の表題が不適切だったので改題し、若干の修正を加えて再UPした(2009.10.13)。


【プロローグ画像1】ミレー『晩鐘』

Jean-Francois Millet (1814-1875)「Abendgebe」Oil on canvas 1857-1859 83.5×110cm Musee D'orsay 、 Paris


<注記>


…ミレーの絵画の歴史的意義については、下記▲を参照乞う。


▲2009-10-12toxandoriaの日記/ [暴政の予兆]朝日新聞が騙る鳩山個(故)人献金はそんなに感動的な国会の争点か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091012


【プロローグ画像2】Lara Fabian A Göttingen -Les annees bonheur



(現代世界における普遍的な人権の根拠)


世界人権宣言(第3回国際連合総会で採択/1948)


1経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約/1966)


2市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約/1966)


  第1選択議定書(人権侵害を受けた個人による救済申し立て/1966)


  第2選択議定書(死刑廃止/1966)


・・・以上の全体が「国際人権章典」を構成する。


(“民主党vs検察・司法取引=情報の非対称性”が蹂躙する日本国民の人権)


周知のとおり、少なくともブッシュ政権までの米国の伝統は、上の「国際人権章典」を世界秩序の基本原理である姿勢を示しながらも、“二重基準人権主義”(ダブルスタンダード人権主義)を採ることであった。そして、これが2001年9月11日に米国で起こった「9.11NY同時多発テロ」の淵源になったと見なすこともできる。


なぜなら、毎年、米国政府は世界中で人権が守られている程度についての実態報告を行いつつ、人権蹂躙が行われていても、ユニラテラリズム的な国益絶対主義の観点から「米国の国益にかなう国」は批判せず、その「国益が殆ど感じられない国」は厳しく徹底的に批判してきたからだ。


しかし、このたびノーベル平和賞を受賞することになったため(そのこと自体の是非論は置くとして・・・)、愈々、オバマ大統領の“チェンジ”の真価(=伝統のダブルスタンダード人権主義からの脱皮がなるか?)が問われようとしており、政権交代の旗印の一つと掲げた日本・民主党の「対等な日米関係」も、その絡みで大いに期待されるところである。


なぜなら、既に、この「国際人権章典」を世界秩序の基本原理する方向で進むEU欧州連合)も、自らのその基本原理の世祖にあたる「フランス人権宣言」(Declaration des Droit de L‘Homme et du Cytoyen/1789)における人権思想のルーツが米国のヴァージニア州憲法を始めとするアメリカ諸州憲法の「権利の章典」(Bills of Rights)であることを十分承知しているからだ。


然るに、我が日本では、民主党が“新世界秩序”(プラハ核廃絶宣言で米国オバマのチェンジが目指す方向=“二重基準人権主義”の修正方向)との調和を期待させる「対等な日米関係」を宣言する一方で、「鳩山個人(故人)献金問題」をめぐる“民主党vs検察の司法取引”という驚くべき「人権無視・捜査劇場」が演じられつつある。


今まで、この問題についてメディアが報じる関連情報は余りにも少なく、今回の「鳩山個人(故人)献金問題」を検察が捜査する根拠となった「鳩山由紀夫を告発する会」についての“素性の得体の知れなさ、不気味さ”(自民党のダミーとの噂もある)だけが堂々と独り歩きするという、まことに奇ッ怪で異様なありさまが続いてきた。


しかも、今まで推理されるその背景の中では、表記の「鳩山由紀夫を告発する会」のほかに、民族派右翼団体「正氣塾」(総本部・長崎市)も同様の告発をし、それも受理されたらしいことが漸く報じられている(情報源:10月23日号・週刊朝日)。


その一方で、民主党が主張する「取り調べの可視化」(検察が最も忌避する問題)をめぐり、検事総長クラスの上層部が絡む「民主党vs検察の司法取引」(検察の懸案事項がらみで民主党の譲歩を引き出す、検察自身による一種の禊(みそぎ)行為)が水面下で進みつつあるという情報が流れ始めている(情報源:同上、ほか)。


(関連参考情報)


取り調べ可視化:法務省が勉強会 法相表明、来週から、http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091013dde001040083000c.html


鳩山家資産の資料入手 東京地検献金の原資解明へ、http://www.asahi.com/national/update/1014/TKY200910140517.html


<注記>今まで報じられた限りの情報に基づく、当問題の背景(=時の政治権力・直下の有効かつ有能な捜査機関としての検察自身による一種の禊(みそぎ)行為の意味)にかかわる推測・推理については、下記◆を参照乞う。


◆2009-10-12toxandoriaの日記/[暴政の予兆]朝日新聞が騙る鳩山個(故)人献金はそんなに感動的な国会の争点か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091012


仮に、この問題を日本に本格的な民主主義と人権思想を定着させるために回避不可能な“歴史的ワン・ステップ”だと見なすとしても、そのプロセスの中に甚だしい「国民主権の否定=人権の無視・蹂躙のファクター」が潜むという現実を我われ一般国民は絶対に見逃すべきではない。


仮に、この事態が暴走することにでもなれば、かつて、フランス革命のプロセスで起こった、あの余りにも悲惨で悪名高い「ロベスピエールによる最高存在の祭典」にも負けぬ「オドロオドロしい人権蹂躙劇」が、この日本で演じられる可能性も皆無とはいえぬからである(画像はウイキペディアより)。


<注記>ロベスピエールによる最高存在の祭典(1794)


ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の「市民宗教」の思想に深く啓蒙され一時は死刑廃止論を主張したことがある、しかも粛清による恐怖政治で名高いロベス・ピエール(Maximilien Robespierre)が主導し、画家ジャック・ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)が演出して行われた一種の血腥い「宗教祭典」である。


…その背景には「フランス人権宣言」の第十条(信仰問題に関する規定)が不備で未だ政教分離原則が不徹底であったことによるカトリック勢力・無神論の跋扈などとの葛藤があったとされる。が、その真相については未解明の部分も多い。ともかくも、この宗教祭典のため50万人を超えるパリ市民が動員された。


…なお、フランスで「政教分離」が本格化するのは第三共和制のもとであり、まず公教育機関の非宗教化がはかられ、1905年に「教会と国家の分離に関する法律(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat)」が成立した。それが現在のライシテ(laïcité/政教分離原則)へとつながっている。


・・・以下は[2009-10-12toxandoriaの日記/ [暴政の予兆]朝日新聞が騙る鳩山個(故)人献金はそんなに感動的な国会の争点か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091012]に対するコメント&レスの再録・・・


Platonette (115.178.25.218)


暴政に関しての本格的な著書として選挙前に出て、小池百合子候補などの落選に影響を及ぼしたといわれた藤原肇記者の「さらば暴政」は、活字メデヰアの新聞や雑誌から完全に黙殺されて書評は皆無だった。この著者の前著の「小泉純一郎と日本の病理」も書評がゼロだったので日本新記録だったと、「さらば暴政」の後書きに書いてあったので驚いたが、わが国では暴政を論じるとメヂアから総スッカンを食うことになるようだ。


このような卑劣で非理性的な日本のメヂアの態度について、歴史分析が得意なTOXANDRIA先生としては、世界史的な類比関係として一体どのような類例を知っているか。私の知識で暴政はそのまま独裁制や僭主制として書かれ、タブーとして忌避する国はないように思うのだが。その点で将基面先生の「政治診断学への招待」という題名の本は、暴政を題に使わないで暴政を論じている点で、実に見事なやり方だと痛感した次第である。


toxandoria


Platonetteさま、コメントありがとうございます。


たしかに我が国では暴政というコトバはアカデミズムとメディアから“市民権”を与えられていないようです。これは一種の“差別”か“苛め”あるいは“村八分”の類ではないでしょうか。


それは、外国でご活躍される将基面貴巳氏が指摘するとおり、我が国のアカデミズム(及び、その受け売りで糊口をしのぐマスゴミ)が、産学協同・国際競争力の強化のキャッチフレーズに隠れて、国家権力にひたすら奉仕する“事実上の奴隷商人的な存在”と化しているからではないでしょうか。その奴隷商人の典型が竹中平蔵ということになります。


これも将基面貴巳氏の受け売りですが、暴政を定義したのは14世紀イタリアのローマ法学者バルトールス・サッソフェラートの『暴政論』で、下記の二つの条件●を挙げています。纏めれば、市民の連帯の解体と市民に対する権力者による搾取ということです。


●政治社会の内部に分裂を惹起すること


●市民生活の水準を低下させ、市民とその財産を濫用すること


無論、ここで言う「市民」はミレーが生きた19世紀(本格的な「人権意識」が萌芽する頃)より前の時代の自治都市の市民のことですが・・・。


いずれにせよ、政治体制の如何を問わず「暴政」は現れるというのが将基面貴巳氏の立場であり、この点についてtoxandoriaも共鳴しています。


そういう意味で『暴政』の事例を探せばいくらでも出てきますが、買弁政策つまり外国政府あるいは外国金融資本等に隷属して中間利益を得たり、自国と自国民の利益を抑圧する売国ビジネスが跋扈する資本主義という意味言えば、その典型と思われるのは16〜17世紀にエンコミエンダ(encomienda)政策を採ったスペイン帝国”(スペイン・ハプスブルグ王朝)、帝国主義時代の西欧諸国、清朝末期〜人民共和国成立期までの中国などを挙げることができそうです。


もえおじ 2009/10/13 21:40


私 の書き方では解り難かったかもしれませんが、新自由主義的なマスコミ経営と高度IT化の問題は、「視聴率、スポンサーの利益、政治的圧力」という次元でし か情報発信を考えられない事と同義語と考えます。 つまり、1.新自由主義=政治的圧力 2.マスコミ経営=スポンサーの利益、視聴率 3.高度IT化 (大量の情報を集めて、都合の良い情報だけを選別・報道し)視聴率向上を目指す からです。


その結果として、報道は「情報」を単なる消費物として垂れ流す(再び高度IT化の問題)ことになります。 あからさまに体制批判を行なわない(再び、政治的圧力の問題)のなら、暴政を論ずることはご法度です。


さらに深刻なのは、高度IT化の問題や政治的圧力が教育の分野にも及んでいる事です。 これが、情報の非対称性を取り除くことを難しくしています。


toxandoria


“もえおじ”さま、ありがとうございます。


前のPlatonetteさまへのレスで買弁資本主義のことを書きましたが、小泉劇場をピークとする現代日本「暴政」のプロパガンダ機関と化しているのが日本マスゴミ&低俗出版界の実相だと思います。無論、マスコミ&出版界の全てがそうだとは思いませんが・・・。


だから、体制批判はできないとも見なせるようです。例えば、民放各社の放送内容は殆どが「低俗・三文週刊誌」以下の有様で、ひたすら芸能ゴシップとビンゴ・ゲームの如き無意味な時間潰しコンテンツを垂れ流しています。


教育も、もはやコメニウス(Johann Amos Comenius/1592‐1670/現代的な意味での公共知に支えられなければ存在し得ない民主主義社会を維持するために必須の義務教育の意義(同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業により、自律的な市民を育てる基礎教育の重要性)を発見したチェコモラヴィア生まれの教育思想家)の理想からは程遠く、暴政化した体制維持に役立つ“精神的な意味において文盲で善良な大衆”(一切の歴史的・経路依存的な批判力を喪失し心底から放心した大衆=情報の非対称性を消費する人々)の製造プロセスと化しています。


【エピローグ画像】Lara Fabian Demain n'existe pas (New Wave 2009)