toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

映画『正義のゆくえ』で共鳴する反人権的な日米“超国策司法犯罪”の実相

toxandoria2009-10-21



<注記>超国策司法犯罪


・・・「9.11同時多発テロ事件」を受けた「米国愛国者法」(USA PATRIOT Act/2001.10.26、ブッシュ政権下で発効)の成立後に超法規的で過酷な手法の捜査が行われるようになった米国司法の現実、および国民主権を無視する形で行われつつある我が国における“時の政治権力と司法・検察の裏取引による捜査という疑惑”を表すためtoxandoriaが造語したコトバ。


【参考画像1】映画『正義のゆくえ』(原題:Crossing Over)


監督:ウェイン・クラマー(ワイルド・バレット)
出演:ハリソン・フォードインディ・ジョーンズシリーズ)、レイ・リオッタ(グッド・フェローズ)、 アシュレイ・ジャッド(五線譜のラブレター)


<あらすじ>


ロサンゼルス―南北アメリカの国境に近く、東洋と西洋が交差するこの街には、夢を追って来た若者、一家で移住してきた家族、そして無断で国境を越えてきた不法就労者まで、あらゆる人種が集まる。マックス(ハリソン・フォード)は「移民・関税執行局(ICE)」のベテラン捜査官。不法滞在者の取り締まりが任務だが、正義感が強く彼らの立場に同情的だ。母親の逮捕後に取り残された幼い子供が気になりメキシコへ送り届けるなど、つい彼らの面倒をみてしまう。そんなある日、同僚の捜査官の妹が殺される。遺品の服に偽造グリーンカードを発見したマックスは、独自に調査を始めるのだが・・・


(上の画像、および粗筋などは下記◆より転載/この映画が取り上げた個々の移民問題については、この◆に詳細な記述がある)


正義のゆくえ ICE特別捜査官(「しむしむ」の身勝手な映画評などなど)、
http://ameblo.jp/hidechin0721/entry-10341640011.html


(関連参考情報)


民主党政権で入管政策と司法判断はどう変わる?(カルデロン問題に透ける、外国人や移民に対する憎悪感・警戒感が無知から起こるという現実)、http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1821


【参考画像2】チェスキー・クルムロフの風景(2009.3.22、撮影)










(参考関連情報)チェスキー・クルムロフのドイツ系住民追放問題


・・・第一次大戦後、少数民族の立場に立たされたチェコスロバキアのドイツ系住民・約300万人の政治的不満が高まっていた。1938年、ナチス・ドイツはこれに乗じてチェコスロバキアのドイツ系住民の権利保護を名目にズデーテン地方の併合を強行した。これにより、チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となる。


・・・ドイツは第二次世界大戦に敗北し、1945年にチェスキー・クルムロフはチェコスロバキアに復帰した。しかし、ドイツ系住民は、ベネシュ大統領の布告によってチェコスロバキアの市民権と私有財産を没収された。


・・・チェスキー・クルムロフの住民の多くはドイツ系であったため、このベネシュ布告により、多くの住民は市民権と私有財産を没収され、故郷であるチェスキー・クルムロフから追放された。→ この問題の顛末と現況は下記「アメリカ型“ランディアンカルト感染症への警戒”の勧め」の末尾に続く。


【本 論】


アメリカ型“ランディアンカルト感染症への警戒”の勧め)


オバマ政権の中枢には「国家経済会議」(NEC/National Economic Council)委員長のローレンス・ヘンリー・サマーズ(首尾一貫してグローバル市場原理主義を強く主張してきた人物)に限らず“国家的ポンジー・ビジネス(リーマンブラザーズ、小泉=竹中劇場、ホリエモン村上ファンドらが囃したネズミ講型詐欺ビジネス)の考案者”と思しき人物らの多くが巣食っており、経済回復への兆しの有無を問わず、必ずメディアが先導する形で、これらネオリベ新自由主義思想)派の蘇生と「小さな政府」への揺り戻しが必至と見るべきである(参照、下記事例★)。


★[2009.10.21朝日新聞、全紙オピニョン・インタビュー記事]“司令塔なき民主党経済政策への警告(?)”=『竹中平蔵さん・・・規制緩和が雇用生む、結果責任の筋道示せ!』  ← 朝日新聞は、間歇的に、相変わらず竹中平蔵(=現代日本の混乱の元凶)の無責任な戯言を異様に大きく担ぎ出している。


その証拠に、アメリカの内政面では、オバマ政権が、今や「医療保険改革=国民皆保険制度の導入・案」に対する予想以上の国民(=製薬会社等のロビイスト活動とネオリベ派の先導に乗せられた国民層)からの猛反発で窮地に立たされていると伝えられており、ここには建国時いらいのアメリカン・ポピュリズム(自由原理主義)の根深い伝統が影を落としている(関連参照、下記◆)。


◆【緯度経度/産経新聞】ワシントン・古森義久/医療保険改革 オバマ支持を減らす、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090822-00000056-san-int ← この記事は、ネオコン支持派の古森記者が、いつものごとく「オバマ政策への批判」のスタンスで書いているが、却って、その奥底に潜む“ネオコン派の自縄自縛的な矛盾”が垣間見えて興味深い。


◆[2009.9.15・朝日新聞、2009.10.20・日本経済新聞]オバマ医療保険改革 米議会で関連法案出そろったが・・・公的制度の是非が焦点/次は、11月下旬・上下院の法案一本化がハードルだが「公的保険(国民皆保険制)」の新設は困難か?/公的関与の過剰に対する共和党保守派(“ネオコンランディアン・カルト”派)の反対が根強い


◆[2009.10.20・NHKニュース]ノーベル平和賞の受賞でもオバマ大統領の支持率回復せず57%(戦後のアメリカ歴代大統領の就任後9か月の時点の支持率は平均で63%)http://www3.nhk.or.jp/news/t10013230601000.html#


アメリカン・ポピュリズム(自由原理主義)の根深い伝統とは、言い換えれば『私的所有権の最優先、利潤動機(市場における限界効用)の最大限の肯定、自由な個人経済活動の最大限の評価』の三つの価値観を徹底的に追及するという「アメリ保守主義」の特異性であり、これがアインランド哲学と融合して過激化したのがネオコンである。従って、それは欧州伝統のメジャーな保守主義(conservatism≒ドイツ型の社会的市場経済 or フランス型リスクコミュニケーション重視社会など)と全く異質な地点に立つ精神環境である。しかし、この点こそが一般の日本国民にとっては最も分かりにくいところであろう。


言いかえれば、それはアメリカン・ポピュリズム(自由原理主義)が『平等と効率のトレードオフ』(個人の能力を過剰に無視すると悪平等が生まれること)への危機感を過大評価するのに対し、欧州伝統のメジャーな保守主義は、富の独占による格差がもたらす『不平等と社会全体の非効率のトレードオフ』への危機感を重視することの違いといえるだろう。しかし、直近の「日本の「貧困率」15・7%は、メキシコ、トルコ、米国に次いでOECD中4位/初めて日本政府が算出したデータ」(参照、下記▲)が示すとおり、特に「小泉=竹中劇場」以降の野放図な規制緩和が日本社会の格差を拡大したことが明らかだ。竹中平蔵のズルさ、狡猾さは、自らが経済学者であることを棚上げにして、このような経済学的事実に口をつぐんでいることだ。


▲日本の「貧困率」15・7%、OECD中4位、http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091020-OYT1T00665.htm


相対的貧困率の国際比較、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4654.html


つまり、「私的所有権、利潤動機、個人経済活動」の三つが“各国政府による一定の適正なガバナンスの範囲で節度よく実行される”のであれば、それはむしろ望ましいことなのだが、市場を介しつつ強欲ハゲタカらの為すがままにこれらを投機方向へ無限大に拡張できるとする傲慢な暴走思考がアメリカン・ポピュリズム(自由原理主義)の問題点なのだ。そして、それを根底から支えるのが、『徹底した利己主義、差別主義、歴史的近代性の否定』を強化したアイン・ランド(Ayn Rand、本名Alisssia Zinovieva Rosenbaum/1905-1982)の「客観主義哲学」(Objectivism)である。


一言でいえば、アイン・ランドの精神環境とは「人間の傲慢で独善的な利己意識を究極まで濃縮したカルト」であり、その「客観主義哲学」なるものの主柱は次の六本である。


●社会など或る集団の上に立ち、人々の上に君臨する「共通善」なるものは「偽善」に過ぎない


●歴史的に見ると、平和主義・博愛主義・利他主義の宣言によって行われた革命なるものの行く末は血の海であった


●他人に対して行い得る唯一の「善」は「触れるな!干渉するな!」ということである


●人類の歴史は、人間が独創(創造)したものを自然に対して付け加えることで進歩してきた


●この人間の独創は“良きものを創造したい”と願う人間の「個人的欲望」から生まれる


●「自分中心主義」は「偽善に満ちた利他主義」より優れている


このため、アメリカでは共和党アメリカン保守)、民主党(リベラル)の別を問わず、ランディアン・カルトと呼ばれる「客観主義哲学」(Objectivism)に深く毒された人々が数多く存在しており、ブッシュ政権に巣食ったネオコンはそのような精神風土から巨大化して生えた「怪異な毒茸(ドク・キノコ)」のような存在である。しかも、このランディアン・カルトの恐ろしさは、先ずはとりあえずヒッソリと物静かに恰も皮膚感覚を通すかのように普通の人々の心身へ浸透するところにある。


我われは、“オウム真理教統一教会・真光教”あるいは“KFの科学”や“SK学会”らの如くにケバい「ヒカリもの」だけが必ずしもカルトとは限らぬことに留意すべきである。今、わが国は「8/30総選挙」で漸く“カルトに過剰に浸食された自民党からの政権交代”が実現したばかりであるが、ここで肝要なのは、「小泉=竹中劇場」がもたらした<偽装改革劇の真相>が実は日本社会への<米国型ランディアン・カルト>の「年次対日改革要望書」を介した注入であったという現実を再認識することである。そして、“とりあえず今のところは物静かそうに見えるランディアンカルトの信者・信奉者・シンパ”たちが民主・自民両党の奥深くにヒッソリ潜伏していることを忘れるべきではない。つまり、我が国は、悪意に満ちたポリオ・ウイルスが潜伏する「帯状疱疹」未発症状態のようなものなのだ。


この視点を忘れると、再び、わが国で「過剰な規制緩和を振りかざす強欲資本主義」と「社会保障(≒国民皆保険制度)破壊主義&格差拡大主義」の嵐が吹き荒ぶ恐れがある。つまり、米オバマ政権が「医療保険改革(国民皆保険制度の導入プラン)」に対する米国民(=民間保険業界・製薬業界等のロビー・広報活動で洗脳された多くの一般国民層)から予想以上の猛反発を受けて立ち往生していることをアメリカの出来事と看過すべきではない。そして、竹中平蔵らの詭弁に誑かされてアメリカを手本とする「社会保障破壊主義と格差拡大主義」を日本に招き入れることだけは絶対に許すべきでない。


また、このような観点からすれば、先に指摘した如き「朝日新聞による竹中平蔵の担ぎ出しキャンペーン」(表記★=[2009.10.21朝日新聞、全紙オピニョン・インタビュー記事:“司令塔なき民主党経済政策への警告(?)”=『竹中平蔵さん・・・規制緩和が雇用生む、結果責任の筋道示せ!』])は、『郵政民営の雄、西川社長が辞任』のトップ・ニュースへぶつけて、朝日として中立的バランスを取ったつもりなのだろうが、これは一般国民をヌケヌケと小バカにした“噴飯物”以外の何物でもない。


因みに、“ランディアンカルト感染”についての自覚が希薄だということからすれば、文化環境(一般国民の皮膚感覚)を通して、つまり“政治的衛生観念の希薄さ”を侵入口として密かに心身へ深く浸透する類のカルトへの免疫効果が期待されるのは、現在も、チェコボヘミア)文化に確固として息づく15世紀「ヤン・フスによる強烈な批判精神の伝統」である(関連参照 ⇒ [2009年春/チェコプラハの印象(1)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090620 ])。


(関連参考情報)


◆漸く、チェコEU新条約への署名を示唆、2009.10.19・日本経済新聞


・・・チェコのクラウス大統領は、第二次大戦後に旧チェコスロヴァキアから追放されたドイツ人の没収財産返還請求に絡む訴訟問題についての例外規定を「リスボン条約」へ盛り込むことを要求していたが、チェコに有利な条件を引き出せる感触を得て、漸くのことで署名する可能性を見せた。


・・・ただ一国、未批准で残っていたチェコが署名すれば、「EU新条約(リスボン条約)」が発効して、いよいよ「拡大EU」が本格的に前進する運びとなる。社会的市場経済をべ―スとする「拡大EU」への参加についてすら、ここまで慎重な交渉を続けるチェコの深謀遠慮ぶりには驚かされるが、これは「ヤン・フスの強烈な批判精神の伝統」と無縁なことではないと思われる。


・・・もともと新自由主義思想の信奉者と目されてきたクラウス大統領だが、EU欧州連合)の現況が、市場主義へ傾斜しつつも「戦時を含む凡ゆる条件下での死刑廃止を規定する欧州人権条約・第13議定書の署名国であることがEU加盟の条件になっている」ことに象徴されるとおり、<資本主義の有効なツールとしての市場主義>と<人権意識と生命倫理の確保・保全>との絶妙なバランスを維持しようと努力する、いわゆる社会民主主義的な考え方をベースとするEU欧州連合)への本格参加は望むところのはずであった。


・・・しかし、実は、チェコ国内には国民レベルで根深い“反EU感情”(=超官僚組織化への懸念があるEUへの警戒心)と“EU加盟なくしてチェコの経済社会の将来発展はあり得ない”という知識人主導型の理念型思考との歴史的な葛藤がある。そこへ、昨年秋以来の米国発金融・経済パニックが襲ったので、チェコのみならず、なべて中・東欧諸国が海外からの債務額が大きいことを考慮するならば、今回の異常事態(パニック)への対処が如何に困難であるかが理解できる。


・・・このように責任感旺盛な、そしてフスやコメニウスらの先見性(=アンチ・カルトという意味で健全な合理主義)の伝統を引き継ぐチェコ知識人の存在は羨ましい限りで、それは日本における竹中平蔵田中直毅らの如き無責任で軽薄で“さもしい”詭弁型御用学者連中の口先「ヘラヘラ」の比ではない。


・・・なお、ズデーデン地方から追放されたドイツ人が没収財産の返還請求訴訟を欧州人権裁判所に起こす恐れがあるとして、同裁判所の適用除外をクラウス大統領がEUに求めていたことについて、EU側は、事後立法のリスボン条約が60年以上さかのぼって適用されることはないとの見解を持っていると伝えられている。


現代日本“暴政”の特徴・・・背後で“超法規化=人権否定主義化した司法と行政“が密かに癒着)


思うに、『宿命=運命の力』(fate)の意味するところは、西欧における市民革命(啓蒙思想の定着)期の前後で異なっていたはずだ。つまり、市民革命(啓蒙思想の定着)期より前における“宿命”の意味では、“天命”(神の摂理、神意/Providence)と“権力者の意志”(Sovereign‐Power)の間で明確な意味上の区別はつけ難かった。しかし、市民革命(啓蒙思想の定着)期を超えた頃になると、“天命”はともかくも、現実的政治の世界における“権力者の意志”の行使では国家の主権者たる国民一般によって一定の民主的手続き内で制御されて然るべきと理解されるようになった。それが政治権力にかかわる「基本法憲法)」による、「権力機構に対する授権規範(意識)」の問題である。


従って、現代における「暴政」とは、普通の意味では、政教分離三権分立が確立した現代民主主義国家において、“国民主権を無視する形で政治権力が暴走する”ことを意味する。ゆえに、その暴政なるものの本性は、人間にとって不可抗力な古典的意味での神意に流されたり、その神意と融合して天空高く飛翔する類のものではなく、普通の人間である我われ一般国民の意志が制御可能であるはずのものである。言い換えれば、それは、一定の理性的判断に基づく国民の総意が制御できるものであるはずだ。


然るに、我が日本では“超法規化=人権否定主義化“した司法と行政が密かに一般国民があずかり知らぬところで癒着しつつあるようだ。特に、司法・検察の周辺には一種の“ロベスピエール現象”(ロベスピエールは、政治的・社会的デモクラシーの先駆者に相応しく高い理念を掲げたフランス革命史の初期プロセスにおける指導的政治家だが、最後には、掌握した司法権に溺れて恐怖政治による政敵抹殺のジレンマのループに嵌り、遂には自らが断頭台の露となった)とでも呼ぶべきような、まことに不気味で不可解な空気が立ち込め始めている(この詳細については、下記★を参照乞う)。


★2009-10-15toxandoriaの日記/米国の“ダブルスタンダード人権主義”も驚く「日本・民主党vs検察・司法取引」の裏シナリオhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091015


ともかくも、「小泉=竹中劇場」が善良な過半の日本国民を体よく騙しつつ謀った「ネオリベ型司法改革」の悪影響かどうかは知らぬが、我が国の司法・検察の周辺には「国家の主権が一般日本国民にある」という<日本国憲法が規定する当然の現実>をすら無視すべきだとでも言いたげな異様な空気が充満しているように見える。


つまり、自らが“超法規化=人権否定主義化する“ことを当然視するという意味で「ロベスピエール型のカルト」、ないしは儒家の「仁」を差別愛だと否定して「兼愛」(無差別愛)と「交利」(相互扶助)及び「非攻」(先制攻撃否定)を主張しながら、最後には(アヘン戦争後あたりから)過激な武装集団化のジレンマに嵌った「墨家の自己矛盾」の如き異臭が漂うということだ。


敢えて喩えるなら、それは、<日本の司法・検察官僚組織>が、「日本国という、一般国民の総体から成る生命個体」にとって、もはや役立たずどころか、その生命個体の命取りになりかねない<ガン細胞化=超国策司法犯罪化>したようなものである。


(映画『正義のゆくえ』を観て、toxandoriaの感想)


・・・以下は[2009-10-15toxandoriaの日記/米国の“ダブルスタンダード人権主義”も驚く「日本・民主党vs検察・司法の裏取引、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091015]に対するコメント&レスの転載・・・


・・・「toxandoria」 → 「如意輪観音さま」へのレスの部分が[映画『正義のゆくえ』を観て、toxandoriaの感想]となっている・・・


如意輪観音 2009/10/18 13:50


一 瞥しただけで何となく分かった気分になったり、あるいは逆に、何だかさっぱり分からないと首をかしげて、反発したくなったりする絵画がある。また、このブロッグで味わうようにアレゴリーの持つ深い意味を教えられ、初めて意図が理解できる深遠な思想を秘めた絵もある。


美術史に精通したタクサンドラ先生には 「釈迦に説法」だが、見る人の心理を読みぬいた上で作者と観察者の間で、解読のゲームを楽しむ技法を駆使する伝統がアートの世界に生きている。それは技芸の分野でトロンプイユと呼ばれており、遠近法の普及がその工夫を促したこともあり、バロックからロココ時代が全盛期だという。


だが実は、これは熟達した芸術家にとっては、アートとテクネにおける一種の隠し味なのであり、ラファエル、ダ・ヴィンチ、ベラスケス、フェルメールゴヤなどの作品には、時代を超えてメッセージを伝える技法として見事に生かされている。だが、それぞれの時代におけるタブーとの関連で、迷彩や偏光工作が巧妙に施されていること が多く、それを乗り越えて初めて真の意図にたどりつける。


これが裏読み趣味にし、隠し味を探る人にとっての醍醐味なのだが、それは『さらば暴政』を何度か読み返すことで発見できる。一度目に普通に読んだときには、救い難い政治の混迷と支離滅裂な亡国現象に対して、タブーの「暴政」という言葉を鍵語 に使い、狂った時代のクロニクルを通読しているとの印象を持った。あるいはまた、スタンダールが時代批判に活用した、年代記を読む時と同じ感じがした。


同時に「日本ではジャーナリズムが死滅」という記事だけでなく、日本の主要雑誌の編集長たちの実名とともに、彼らがいかに弱腰で無責任であるかの記述があった。だから、これでは虚妄の言葉の切り売りを生業にし、仲間で傷を舐めあう日本のメディアが黙殺するのは、火を見るより明らかだと思った。


更に二度目に読んだ時に、「現代日本における暴君が持ち合わせていない、真のリーダーシップについて検討することであり、現実に欠けているものに注目するととも に、・・・リーダーシップ論を読む読者に対して、心からの共鳴を分かち合うことにしたい」というメッセージに気づいた。


お陰でこの本がリーダーシップ論だと直ちに納得できた。そうなると裏返しに書かれた『君主論』に対し、リーダーシップの片鱗も持ち合わせていない、日本のジャーナリストや評論家が書評をやれるはずがない。そうなれば黙殺されるのは当然ということになる。だから、黙殺が『ファウスト』と逆の裏返しの封印に相当し、ゲーテスタンダールが将来の読者と呼ぶ、読者の遠近法があるという直観になる。


そういえば幻のベストセラーだった『小泉純一郎と日本の病理』は、改訂版として英訳されて 「Japan’s Zombie Politics」が生まれている。しかも、副題が「A Tragedy in Four Parts」であることが『ファウスト』の悲劇のもじりならば、これまた逆遠近のトロンプイユだ。さらに『さらば暴君』の英語の副題であるトランプ・ティラニイが、フランス語ではラ・マルセイエーズにも出てくるティラニイユで、ウイユという神秘の一つ目と地口の形で照応して、映像と音までが響き合っているのかと勘ぐりたくなるわけである。


toxandoria 2009/10/20 05:36


如意輪観音さま、コメントありがとうございます。


たまたま下記◆の映画鑑賞から帰ったばかりのためか、或る【机上の妄想】が浮かんだので、頂いたコメントへのレスのつもりで書きとめておきます。


◆『正義のゆくえ』(南ア出身、ウエイン・クラマー監督、ハリソン・フォード主演/有楽町、シネ・シャンテ、上映中)、http://www.seiginoyukue.jp/


この映画は、1,100万人以上の不法滞在者がいるとされるアメリカが抱える移民問題の過酷な現実を極めてリアルに描写したものです。官僚(ICE捜査官)としての職務への忠誠と正義との間で苦悩するICE捜査官を、老いて一層ヒューマンさを醸すハリソン・フォードが好演しています。


移民と不法滞在者に対する“アメリカ合衆国による国策犯罪”といえるほど苛烈なICEの“司法取引的”、というより“超国策司法犯罪的”でドライで苛烈な捜査手法と併行して、テロ実行犯の立場も十分認めるべき根拠があると主張する少女(バングラディシュ系イスラム教徒)の発言についての中立的描写など、不法滞在者とその家族らについての複数の悲劇的エピソードが同時進行するドキュメンタリー・タッチの映画です。


従って、この映画には、推理ドラマ風に意外性が隠された結論を追うような楽しみ方は通用しません。しかし、この種の映画が一般のアメリカ人によって概ね受け入れられたからには、「アメリカ人の良心」というか、いわば ごく平均的な普通のアメリカ人の意識が、今や、ここにきて漸く、かつてのブッシュ政権下で特に目立った「ダブルスタンダード(二枚舌)人権主義」、排他的 な「ユニラテラリズムネオコン的発想)」、あるいはその根源となった「ランディアン・カルト」を深く反省しつつあるのではないかと感じました。


考えてみれば、アメリカ発のグローバリズムは、例えば日本の「小泉=竹中劇場」下における暴政の本性たるグローバル市場原理主義(限界効用カルト=“限界効用関数の微分係数”へのカルト的信仰・・・、地球上にふんだんにある筈の水ですら稀少になりつつあるというのに!!)の如き害毒を世界中へ撒き散らしてきました。


が、今やそれは、その発信源たるアメリカ自身へ「大きな自己矛盾の存在」と「チェンジへ向かう努力の必要性」を突き付けています。もはや、アメリカという名の唯一の超大国だけに資源を浪費して甘い汁を吸い続けることを許すゆとりは、この地球上から消えつつあるのです。無論、アメリカ国内における保守派(ランディアン・カルト&ネオコン)の隠然たるパワーは、表記の【本論】で述べたとおり、今や期待のオバマがたじたじさせられるほど手強い存在ですが・・・。


そして、ここで思い出すべきは、オットー・ノイラート(Otto Neurath/1882-1945/オーストリア・ウイーン学派(論理実証主義)の指導者の一人、科学哲学者・社会学者)がかつて提唱した『“科学的検証の全体論的本性”を海上に浮かぶ船の改修に喩える』という知見です。このことについて、オットー・ノイラート一は次のように語っています。


・・・ 海に浮かぶ船(≒グローバリズム時代の地球)に乗った我々は、その乗船中の船を大海原の中で改修し続けなければならい。その時、一から組み直すこと(≒政 治権力と癒着しカルト化した科学やマスコミが、乗船中の人々へ向けて、利益誘導の意図を隠しつつ、もっともらしくプレゼンテーションする<偽のシナリオ>の採用)などできる余裕はなく、梁を外したら間髪入れず新しい梁を取り付けねばならない。そして、そのためには船体の残りの部分(≒社会的排除や差別を受けてきた下積や弱者の立場の人々の力や知恵)をも支保工(サポート型枠)に利用するしかない。このように、我々は古い梁や流木などを使って船体のすべてを 改修的・修復的に作り上げることはできるが、そのゼロからの再構成は徐々にしか行えないのだ。


<注記>  )内はtoxandoriaが加筆したもので、[2008-01-07 toxandoriaの日記、“政治と業界の癒着による「作為が権力を偽装」する恐怖の電子投票法案、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080107]から部分転載。


然るに我が国の政治状況を顧みると、国民の圧倒的支持を得た民主党政権は、米軍基地問題などでは難渋するものの、EU欧州連合)の動向を見ならいつつ、まず基本的にオバマ型の「アンチ暴政理念」(=例えば、フランス革命の人権宣言に先立つ近・現代人権思想の原点たる“ヴァージニア人権宣言(ヴァージニア権利章典/Virginia Declaration of Rights)”への回帰努力、あるいは同じくオバマ大統領の“プラハ核廃絶宣言”など)へ接近することに努力中であると見なせます。


(関連参考情報)『ヴァージニア人権宣言』・・・部分抜粋(ウイキペディアより)


第1条 全ての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、ある先天的な権利を持っている。それらの権利は、人々が社会のある状態に加わったときに、いかなる盟約によっても、人々の子孫に与えないでおいたり、彼らから奪うことはできない。すなわち、財産を獲得して所有し、幸福と安全を追及し獲得する手段と共に生命と自由を教授する権利である。


第2条 あらゆる権力は人民に与えられそれ故に人民から得られる。行政官は人民の被信託者であり僕であって、常に人民に従うものである。


第3条 政府は人民、国家あるいは社会の共通の利益、保護および安全のために制度化されるものであり、あるいはされるべきである。様々な様式や形態の政府の中でも、最大限の幸福と安全を生み出すことができ、悪政の危険に対して最も効果的に防御されているのが最善である。いかなる政府もこれらの目的について不適切であるとか反していると認められたときには、公共の福祉に最も資すると判断される方法で、政府を改革し、置き換え、あるいは廃止する疑いも無く、不可分で剥奪できない権利を社会の多数派が持っている。


一方、この動きを何とか巧妙かつ狡猾に阻止しようとするのが、未だに“小泉=竹中劇場”(=アメリカ型保守主義ネオコン派の亜流)へのノスタルジーに耽る過半の日本マスゴミの本音であるように見えます(例えば、下記・朝日新聞の事例★・・・既出から再録)。あるいは、我が国の司法・検察官僚制度は、本質的な意味で“ロベスピエール型のカルト的司法組織化”への危険な誘惑に身を任せつつあるかに見えます。果たして、これは単なる杞憂と言いきれるでしょうか?


★[2009.10.21朝日新聞、全紙オピニョン・インタビュー記事]“司令塔なき民主党経済政策への警告(?)”=『竹中平蔵さん・・・規制緩和が雇用生む、結果責任の筋道示せ!』  ← 朝日新聞は、間歇的に、相変わらず竹中平蔵(=現代日本の混乱の元凶)の無責任な戯言を異様に大きく担ぎ出している。


(関連参考情報)


ベルギー議会に非核法案 NATOのおひざ元で、
http://www.47news.jp/news/2009/10/post_20091015222405.html


ベルギー:戦術核、米に撤去要請 議会が書簡、http://mainichi.jp/select/world/news/20090923ddm007030104000c.html


【エピローグ】ヘンリー・デンカー著、中野圭二訳『復讐法廷』(文春文庫)より、陪審員の一人ウオールター・グローヴの発言の部分引用


<注記>この本は、形式化・形骸化した法解釈を当然視するまで疲弊したアメリカの司法官僚制度の根本的な誤謬を陪審員の一人が鋭く徹底的に突き崩し、裁断するというシナリオの“傑作・法廷小説”である。


「・・・わたしたちは何を恐れているのか。わたしたちの政府(と司法)をだろうか。しかし、その政府(と司法)とはわたしたちなのだ。そして、政府(と司法)のやることが間違っていると思えば、それを指摘するのがわたしたちの権利であるばかりか、義務でもあるのだ。さよう、ジェイスン判事のルールを適用して、わたしたちの評決を実際的であるだけでなく、筋道のとおった公平なものにし、わたしたちの裁判所が「国民の尊敬を繋ぎとめる」のを助けるのが、わたしたちの義務なのだ。」 彼は、長いテーブルの回りを見まわして、11人の陪審員の顔を観察した。ほとんどの者は、彼の考えに同調しないか、あるいは彼の提案の重大さにどうしていいかわからなかった。


【エピローグ画像】Lara Fabian Adagioin Italiano