toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

点描ポーランドの風景/クラクフ編(1)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)

toxandoria2010-07-31



ポーランド主要都市一覧(右図の赤丸がマウォポルスカ県の県都クラクフ



…この画像はウイキペディアより


【プロローグ画像】レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂(てん)を抱く貴婦人』

Leonardo da Vinci (1452–1519)「Lady with an Ermine」ca1490 oil and tempera wood panel 40.3 × 54.8 cm National Museum, Czartoryski Collection 、Cracow


・・・古都クラクフの文化的ハイライト施設の一つがチャルトリスキ美術館で、その所蔵を代表するのがレオナルド・ダ・ヴィンチの『白貂(てん)を抱く貴婦人』である。


・・・同美術館は、第三次ポーランド分割後のハプスブルク=ロートリンゲン家による統治下の1801年にイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人が設立したポーランド最古の美術館であるが、第二次世界大戦後の共産党政権下では国立博物館となっていた。


・・・やがて創設時にレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)が貢献した「独立自主管理労働組合・連帯」が政権を握り共産党独裁が終わった直後の1991年に、ポーランド政府はその施設と所蔵品の全てをチャルトリスキ家の当主アダム・カロル・チャルトリスキ公爵に返還した。


・・・そのため今はチャルトリスキ家が同館を保有し同公爵が理事長を努める私立美術館である。なお同美術館の収蔵品コレクションは私立美術館としてはヨーロッパ有数の規模を誇っている(画像はウイキメディアより)。




・・・『白貂を抱く貴婦人』(現在、ワルシャワ王宮で展示中)は第一ミラノ時代(1466-1499)のほぼ半ば、つまりダ・ヴィンチが38歳頃(1490)に完成した作品で、その時のレオナルドはミラノ公ルドヴィコ・スフオルツァ(通称、イル・モーロ)の宮廷で過していた。


・・・右手で優しく白貂の背中を愛撫する若く美しい女性像のモデルについては諸説あるが、ミラノ公の愛人でありながらも“知性と教養が高く、しかもフローラ(花)のように美しい”と人々から称えられたチェチェリア・ガルレラーニであるとの説が有力だ。


・・・ルネサンス精神に基づく人間への深い関心と人間研究のための自立した芸術として自画像の価値を認める感情が漸く芽生えたのは15世紀(初期ルネサンス)のフランドルと北イタリアに於いてだが、その頃の肖像画は無地のバックと横顔(プロフィール)で描かれることが普通であった。


・・・が、やがてフランドルで始まる斜め向きの肖像画(嚆矢はヤン・ファン・エイク)と肖像画に何らかの意味を象徴する背景を描く手法がレオナルドの頃の北イタリアでは混在するようになるので、あの『モナ・リザ(1505)』ではジョコンダの謎めいた微笑に負けぬほど深みのある背景が描かれているのだ。


・・・ところで、現存する限りで最も美しいレオナルド・ダ・ヴィンチの女性肖像画とも言われる、このチャルトリスキ美術館の『白貂を抱く貴婦人』の斜め左へ向かう視線は何を見つめているのだろうか?その美しく理知的な視線の先にあるものは何であるのだろうか?


・・・一説では、レオナルド独創のスフマートによる陰影表現の肖像を敢えて漆黒の背景に明瞭に浮き立たせることで、理知的な美しい女性による預形論(タイポロジー)的な意味での人間愛の結晶の如き至上の内面描写の完成を試みたのではないかとされている。


・・・つまり、今も変わらぬ残忍な動物的野性と人間社会や政治世界も含む森羅万象の不条理の象徴が“美しい貴婦人の胸に抱かれた(見かけにそぐわず実は獰猛な)白貂”であり、とても繊細ながらも力強く描かれたチェチェリアの右手の愛撫(愛撫の仕草の理知的な工夫)こそ、その<森羅万象の残忍な野性と不条理>を見事に制御できると言う訳だ。


・・・やがて、英国市民革命・米国独立革命あるいは仏大革命にすら先駆ける民主主義の根本に関わるポーランド人の先進的な経験知の存在をポーランド史の概観(当記事の第3章で、その一部を記述する)の中で我々は発見する筈だ。


・・・美しく理知的な『白貂を抱く貴婦人』の左方向への視線の行き先を想うとき、この<クラクフ・チャルトリスキ所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作肖像画>と<政権交代を掲げて圧倒的な国民の支持を得た筈の民主党が、菅政権の下で、実効権力と交尾(まぐわ)うまで堕落したメディアの姦計に見事に嵌りつつ結果的に肝心要の民主主義の基盤破壊という衆愚政治故の愚行へ向かって激しく急降下(フリー・フォール)しつつある現代日本からやってきた我々自身>との邂逅そのものが余りにも預形論的な出来事に思えてくる筈だ。


(参考/白貂についての関連妄想)ホテリング現象論の欠陥


・・・いま証券業界などで「ホテリング現象論」なる思考実験が注目されているらしい(情報源、http://pokoapokotom.blog79.fc2.com/blog-entry-1266.html)。この「ホテリング現象論」の詳細をここで書く暇はないので、その具体的内容については下記◆を参照乞う。


◆ホテリング現象とは、http://blogs.yahoo.co.jp/orenohanashiokike/60216445.html


・・・これは、一種のゲーム論的な論理だが、現実的なビジネス環境・条件を余りにも単純化し過ぎたモデル故に深刻な「パラメータ(複眼)的視点の欠落」(=非現実的な欠陥)があるようだ。そして、その欠陥とは以下の3点である。


 ユーザー(顧客)の権利(国民主権、雇用環境・条件、弱者救済など)を軽視・無視している。


 行政ならびに政治的役割の不在と無責任、つまり立法・行政・司法(第1〜第3権力)の役割が不在で、“小さな政府論”どころかホテリング現象論では“ゼロ政府論or政府無用論(超自由原理主義)”となっている。


 1と2に対する授権規範(国民主権を前提とする民主憲法的な意味での最低限度の諸基本ルール)を監視・評価すべきマスコミの役割が無視(第4権力の不在、というより機密費の授領等でマスゴミ(増塵)まで身を堕しめ超腐敗した故の責任放棄)されている。例えば、菅総理らが主張する単純な議員定数削減は少数意見の排除に繋がるし、本来なら選挙制度そのものの見直し論となるべきところで、1票格差の放置や比例区削減などのアイデアは欠陥選挙制度の歪みを更に助長するだけで憲法違反だ。


(関連参考情報)


一票の格差」は憲法が禁じる「差別」、裁判しないとお政府様には理解できない?(村野瀬玲奈の秘書課広報室)、http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1900.html


オーストラリアの選挙制度「ヘア・クラーク制」について学ぶ(toxandoriaの日記)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050507


有権者数は1億451万人 参院1票の格差は5倍超に、http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010062401000882.html


人口最少の高知3区(24万9624人)を1とした場合の「衆院1票の格差」を試算した<1票の格差>「2倍超」増え65選挙区 最大は千葉4区、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100731-00000047-mai-pol


・・・極言すれば、このような「ホテリング現象論」の如き<市場原理主義型のゲーム論的机上の空論>から導かれる愚論(暴論)の典型が<野合的な意味での与野党大連立構想>なる、国民主権を徹底的に無視した<実効権力グループの御仲間たち>による<大談合政治歓迎論>であり、これこそ『狗尾続貂(くびぞくちょう)』の故事が教える堕落・腐敗した政治現象の極め付きだ。


・・・因みに、狗尾(くび)は駄犬の尻尾、貂(ちょう、てん)は【プロローグ画像】で取り上げた“獰猛だが愚かな、しかもペット的視点では一見可愛子ちゃんでコケティシュな小動物”のことで、狗尾続貂の直接的意味は、駄犬の尻尾のように“つまらぬ能力もない人物”たちが次々と管理職やリーダー的役職に就く風潮のことだ。


・・・より具体的に言えば、『狗尾続貂』とは人間的に信用できぬ駄犬の尻尾の如く軽薄でつまらぬ輩が、例えば民主党の口先男・枝野幸男自民党の超世襲人寄パンダ・小泉進次郎みんなの党の偽装ネオリベ詐欺師・渡辺喜美のように実は軽薄短小な輩や人気タレントや元スポーツ選手らが次々と実効権力の御仲間らのリーダー又はシンボルとして雛壇に登場し、目先・甘言&見栄えに弱い一般国民・一般大衆を体よく誑かしつつ少数意見無視の暴政を推し進めようとする現象が我々の人間社会では常に起こりがちであるという現実を警告し対処すべき心構えを戒めた格言だ。


・・・そして、日本におけるかくの如く恥ずべき衆愚政治の対極にあるのが<ヨーロッパの心臓>とも呼ばれるポーランドの「苛烈を極める歴史経験」から得られた<民主主義の深化についてのユニークな経験知>ということだが、その詳細については次回以降へ譲らなければならない。


【参考画像】Sunflower (I Girasoli : 1970) - Opening & Ending


およそ15〜17世紀のポーランドリトアニア連合王国〜連合共和国時代のポーランドの領土について見ると、その最大時期では現在のウクライナベラルーシリトアニアを含みバルト海から黒海にまで及ぶヨーロッパ一の大国であった。


以前から気になっていたイタリア映画『ひまわり』(監督:ヴィットリオ・デ・シーカ、主演:ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ、1970)の茫漠たる<ひまわりの咲きほこる平原>のロケ地が何処かを調べたところ、それがウクライナ(15〜17世紀のポーランド領)であることが分かった。


ひまわりの種が好物とされるポーランド人だが、現在のポーランド共和国の平原でも、丁度今ごろから真っ盛りとなる“ひまわりの季節”になると、おそらく映画『ひまわり』のように果てしなく茫漠としつつも美しい光景が見られるはずだ。


なお、ポーランドの農業は共産党政権下でも大規模化・国有化・集団化されておらず、一種の先見の明があったといえるようだ。このため、今でもポーランドでは約90%が個人農家であり、国土面積のうち農地が占める割合は42.1%となっている。


因みに、ポーランドの国土面積は凡そ日本の8割程度だが、その90%以上は全体が非常にゆるやかな丘陵地帯または平坦地となっていて独特の果てしなく拡がる景観を保持している。


しかも若者が非常に多いのがポーランドの特徴で人口の50%が35歳以下(35%が25歳以下、20%が15歳以下)となっており、この点は他の欧米諸国や周辺諸国と著しい違いがある、従って、今後とも工業国のみならず農業国としての発展可能性も非常に高いといえる。


また、ポーランドの小規模農家はコスト効率が悪い反面で近年のオーガニックブームで付加価値が高い作物を作るのに適しているため高品質の有機栽培作物がヨーロッパ諸国へ輸出されている。


このためか、今回のポーランド旅行でも特に印象に残ったのは、毎日まいにち大量の新鮮な野菜を食べることが出来たということだ。