toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

点描ポーランドの風景/クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)

toxandoria2010-08-03



ポーランド主要都市一覧(下図の赤丸がクラクフマウォポルスカ県の県都
…これらの画像はウイキペディアより




【参考画像1】Chopin - Valentina Igoshina - Étude Op. 10, No. 3


(プロローグ)開かれた歴史としての「ポーランド史」の視点と古都クラクフの役割


中〜近世におけるポーランドリトアニア国家(1386〜1569ポーランドリトアニア連合王国、1569〜1795ポーランド・リトアニア共和国)では、ポーランド語以外の言語を母語とする住民が6割、カトリック以外の信仰を持つ住民が5割を占める多民族・多言語・多宗教国家であった(現在はポーランド語が圧倒的多数派でカトリック教徒は9割を超える)。


しかも、そのポーランドリトアニア国家が1795年の第三次ポーランド分割で消滅し、今度は独立を果たしたポーランド第二共和国(1918〜1939)がナチス・ドイツの侵攻で崩壊・消滅(残った東部地域もソビエト軍の侵攻で1941年までに消滅)したことは周知のとおりだ。


従って、ポーランドの文化そのものと言ってよい「ポーランド語」自体が歴史の流れの上で何度も消滅の危機に瀕してきた。しかし、最後のポーランド分割でオーストリアハプスブルク)領とされたクラクフだけはドイツ(プロイセン)やロシアに併合された他の地域と異なり、唯一ポーランド語の使用が許された。


第二次世界大戦ナチス政策)で300万人居住していたとされるユダヤ人は壊滅し、ポーランドの領土はテヘランポツダム両会談で両大戦間期より縮小され西方(ドイツ寄りのシロンスク/ポーランド語系が約7割、ドイツ語系が3割の地域)へやや移動し東部のウクライナベラルーシ西部をソ連に割譲した。つまり、歴史的に見ればポーランドと呼ばれる地域は固定的でなく伸縮する空間であったと言うことになる。


一方、18世紀後半に支配身分であったシュラフタ(士族)層の中で「ポーランド国民」の自覚と意志(シュラフタ民主主義と呼ばれる一種のナショナリズムの意志)が芽生え、第一次ポーランド分割(1772)の直後に「国民教育委員会」が創設され、<ポーランド語を教育言語とする学校改革>が行われた。


そして、このことが現代の民主国家ポーランド誕生の基盤的意味での布石となったのだ(このことには、ポーランド国家づくりの主柱(国民主権地方分権、弱者救済)を支える必須条件として教育を最重視するよう勧めた仏の啓蒙思想家J.J.ルソーの貢献も大きいと考えられる(参照、下記◆)


◆[机上の妄想] 点描ポーランドの風景、2010.7、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100724


このような流れを俯瞰すれば、古都クラクフの歴史的役割が極めて重要であったことが理解できる筈だ。のみならず、それは過去の歴史レベル(過去形の出来事)であるに止まらず、今もクラクフのヤギエウオ大学などを中心に、EU加盟を果たしたヴィシェグラード・グループ(ポーランドチェコハンガリースロバキア)の盟主たるポーランドの新しい開かれた歴史を刻みつつあるようだ(ヴィシェグラード・グループおよび古都ヴィシェグラードの現代的意義については下記★を参照乞う)


★ヴィシェグラード・グループとは、http://hiki.trpg.net/BlueRose/?VisegradGroup


ハンガリーの古都・ヴィシェグラードについて(民主化の象徴的トポス、ドナウ・ベントに共鳴する伸びやかなララ・ファビアンの歌声、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090429


★ヴィシェグラード、http://www.szagami.com/cities/al-visegrad.htm


ともかくも、古都クラクフを中核とする世界に向かって開かれたポーランドナショナリズムの歴史には、グローバリズム市場原理主義という名のいわば象徴的な意味で異民族どうしが“ソブリン危機を煽りつつ国家領域の占領を競う新たな植民地主義の時代”を力強く生き貫く歴史経験的な知恵に満ちていると思われるのだ。


この点、批判権力であるべきメディアまで巻き込んだ実効(既得)権力グループと内向的な極右勢力が“ネオリベ+極右”という異様な形で野合(談合)しつつあるかに見える我が国の閉鎖的なナショナリズムのあり方はポーランドを他山の石とすべきであろう。なお、現代のポーランドの言語事情は、ポーランド語を必須としつつ英語・ドイツ語・ロシア語・フランス・イタリア語を学ぶマルチリンガル化へ進みつつあり、例えば、テレビはこれら各国語の番組をそのままの形で放映している。


1 クラクフの概要


クラクフ中央市場広場の全景…この画像はウイキペディアより



ポーランド南部の都市クラクフポーランドで最長のヴィスワ川の上流に位置する人口約76万人の古都で、その都市の性格は日本での東京に対する京都のイメージでとらえると分かり易い。


クラクフの名はヴァヴェル城(ヴァヴェルは“川の近くにある高台の要塞”の意味)に住む竜を退治した伝説上の人物クラク公に由来する。


9〜10世紀にチェコの影響下でビスワ族が城塞を築いていたが、10世紀末のボレスワフ1世(ビヤスト朝/創始者は最初のキリスト王、ミエシコ1世)の時代にポーランドに帰属し、1000年には司教座が置かれた。


今みられるようなクラクフの都市フレームは、3回に及ぶモンゴル軍の襲来(13世紀中頃)後に始まるドイツ人ら入植者たちの都市建設で形成された。


14〜15世紀にクラクフは最盛期を迎えることとなり、ヤギエウォ大学が創設され、織物会館とマリア教会、堅牢なバルバカン要塞などの建設が行われた。そして、14〜16世紀のヤギエウォ朝の全盛期にクラクフポーランドの首都であり続けた。


16世紀に入ると、ポーランドリトアニアとの連携を強めるようになり首都の地位は徐々にワルシャワへ移行するが、1611年にスウェーデン王を兼ねるジグムント3世は“北のパリ”と呼ばれるワルシャワへ正式に遷都した。


18世紀末のオーストリアハプスブルク)、ドイツ(プロイセン)、ロシア3国によるポーランド分割によってクラクフオーストリア領とされる。しかし、クラクフはドイツ(プロイセン)やロシアに併合された他の地域と異なっていた。


つまり、クラクフは旧ポーランド内で唯一ポーランド語の使用が許されたため、ここはポーランドの伝統とハプスブルク王朝の二つの文化が融合し独特の魅力ある芸術文化都市(ウイーン、プラハと並び中欧を代表する文化都市)となった。


しかも、第二次世界大戦の戦火も奇跡的に免れたため100に近い教会を始めとする美しい中世の建造物が今でも数多く残っており、町全体が博物館のようなクラクフは歴史地区として1978年に世界文化遺産に登録されている。


2 クラクフの見所(画像ギャラリー)撮影、2010.7.15


ヴァヴェル城の全景・・・この画像は公式HP(http://www.wawel.krakow.pl/pl/)より



ヴァヴェル城の風景1





[:]


ヴァヴェル城の風景2



・・・ヴァヴェルは“(ヴィスワ)川の近くにある高台の要塞”の意味であるが、この画像はその名の起こりのイメージを彷彿とさせる。


ヴァヴェル城の風景3



・・・城内の一室を訪れたとき、彼女たちは16世紀ルネサンス期の世俗曲を演奏し歌い聞かせていた。


・・・なお、現在のヴァヴェル城は殆どが16世紀のルネサンス様式だが、部分的にはロマネスク様式、ゴシック様式などの古い部分も残っている。


Paradise Bliss tapestry(Brussels, c. 1550) ・・・この画像は王宮宝物館のHP(http://www.wawel.krakow.pl/en/index.php?op=22)より



・・・王宮内の宝物館には国宝級の家具・調度・武具類および豪華なフランドルあるいはフランス産のタペストリーなどが展示されている。


王宮(ヴァヴェル城)付設ジグムント礼拝堂




・・・王宮の隣にある付設大聖堂(最初の建造は1020/最初に戴冠したポーランド王ボレスワフ1世の時)は代々ポーランド国王の戴冠式が行われた所であるが、ルネサンス様式の黄金ドームが目印のジグムント礼拝堂(16世紀初頭の建造者ジグムント1世に因む命名)は特に美しい建造物だ。


・・・また、この礼拝堂内にある重さ11トンのジグムントの鐘(鋳造、1520)には、鐘の中心を左手で触ると再びここへ戻れるという伝説がある。


カノニチャ通りの風景1



・・・旧市街地の南端にあるヴァヴェル城から北方向へ下り、中央市場広場へ向かうのがガス灯や真鍮の飾り看板が中世風の空気を醸すカノニチャ通りである。


・・・その一角にあるヨハネ・パウロ2世 (在位1978年-2005/ポーランド・出身の第264代ローマ教皇)の像だが、同教皇クラクフ中央市場広場の北側にある聖マリア教会の大司教であった。


カノニチャ通りの風景2






聖ペテロパウロ教会



旧市庁舎の塔



・・・織物会館の隣で広場の一角に建つのが旧市庁舎の塔、19世紀に旧市庁舎が取り壊された時に、この塔(建造、1383)だけが残った。


織物会館




・・・中央市場広場は14〜16世紀頃の貴族や大商人の建物に取り囲まれているが、その中央で偉容を誇るのが16世紀にルネサンス風に改修された織物会館(創建、14世紀)だ。


・・・往年は生地売買の取引所として利用されたが、市場と民芸品・琥珀などを売る土産物店などが入っている。


聖マリア教会1




・・・この広場で最も高い建物(最長の尖塔が81m)がクラクフのシンボルとなっている聖マリア教会だ。既述のとおり、ヨハネ・パウロ2世はこの聖マリア教会の大司教であった。


・・・元々、この場所にはロマネスク様式の教会があったが13世紀末からゴシック様式での建て替えが始まり、14世紀末に今の姿になった。


聖マリア教会2・・・この画像はウイキペディアより。




・・・教会の内部にある金箔貼りでゴシック様式の木造中央祭壇はヨーロッパで最大規模の巨大な木造彫刻であり、更にヨーロッパ随一の美しさだとされている。


聖マリア教会3



・・・聖マリア教会の塔の窓から一時間ごとに時を告げるラッパが吹き鳴らされる。が、その曲は必ず途中で突然に切れることになっている。


・・・それは、昔のことだが蒙古軍の襲撃を受けた時に敵の来襲を知らせたラッパ手が吹奏の途中で矢を射られて殺されたという故事に因んでいる。


バルバカン1





・・・旧市街の北端に、この旧市街を取り囲む城壁のうち唯一残された北の門の跡があるが、その近くで馬蹄形の要塞バルバカン(建造、1499)が堂々たる姿を見せている。


ロリアンスカ門



・・・このバルバカンの少し南には王道(王が通る道、現在のフロリアンスカ通り)の入口であった、ゴシック様式のフロリアンスカ門(建造、13世紀)が立っている。なお、この門には17世紀にバロック様式の屋根が付け加えられた。


中央市場広場の風景、ア・ラ・カルト







ヤギエウオ大学(織物会館の南側に位置する)・・・この画像はISORECEAのHP(http://www.isorecea.net/index.php?page=previous-conferences)より。



・・・1364年創立(創立者はピヤスト朝のカジミエシュ3世)のポーランド最古の大学で、1400年にパリ大学を範として改組されており、中欧ではプラハのカレル大学に次ぎ古く、通称はクラクフ大学で知られるがヤギエウォ朝の下で大きく発展したので現名称が正式とされている(参照⇒http://www.uj.edu.pl/start


・・・特に15世紀前半には法律学の分野ですぐれた教授陣を擁し、新しい学問的・哲学的潮流に開明的態度をとったため国際的に注目を浴びた。また、15〜16世紀初めにかけて高レベルの天文学、数学、地理学研究で実績を上げ全ヨーロッパ的な名声を確立した。この時期の卒業生の中に地動説の提唱者コペルニクス、近代ポーランド文学の創始者 J. コハノフスキらがいる。


・・・当時のヤギエウオ大学が国際的視野で活動していた逸話として、トルン(ドイツ騎士団入植地だが今はポーランド領)生まれのコペルニクスは、母がドイツ人、父がポーランド人であったが、貴方は何処の国の人か?と尋ねられると「自分は都市トルンの人だ」と答えたということが伝承されている。


・・・ポーランド分割でオーストリア(ハプスブルグ)領に編入後もポーランド人の学問活動の中心として発展し、1918年の独立後はポーランドの学界で中心的役割を果たした。しかし、ナチス・ドイツによる占領期間中は閉鎖され、多くの教官らがナチス強制収容所に送られた。


・・・今は、ポーランドを代表する総合大学でワルシャワ大学と事実上のトップ争いに立っており、その学生総数は約38,000人。現代に繋がる高名な卒業生にはスタニスワフ・レム(作家/邦題『惑星ソラリス』で映画化された『ソラリスの陽のもとに』で知られる)、レオ・スターンバック(ユダヤ系の化学者)、ヨハネ・パウロ2世らがいる。


カジミエーシュ地区の風景





・・・二〜三枚目はユダヤ博物館として利用されている元シナゴークの建物で、カジミエーシュ地区で今も現役のシナゴークは一つだけとなった。


・・・これは概数だが、第二次世界大戦までポーランド国内に約300万人いたとされるユダヤ人も、今ではせいぜい1万人足らずだが、ユダヤポーランド人の数はかなり多いらしい。


・・・同じく概数だが、19世紀後半〜20世紀初頭までの間にアメリカへ移住したポーランドユダヤ人は約100万人、現在のポーランドアメリカ人の数は1千万人弱という数字もある。


アウシュビッツの風景(クラクフから70km西に位置する)





・・・一枚目はアウシュビッツの入口の鉄門に掲げられた『Arbeit Macht Frei(働けば自由になれる)』という有名な標語の文字。三枚目は夥しい量の毛髪で織った“高級絨毯”、人体を焼却した多量の“灰”、各種記録文書などナチスによる大量虐殺の証拠品類が展示されている建物の入口。


・・・1940年に造られたアウシュビッツポーランド語ではオシフィエンチム強制収容所の元々の目的はポーランド人の政治(反ナチ活動)犯の収容であったが、次第にユダヤ人、ロマ人(ジプシー)、ソ連軍人などへ対象が拡大し遂には大量虐殺の場へ変質したとされる。


・・・アウシュヴィッツ(第二収容所=ビルケナウ)、ヘウムノ、ベウゼツ、マイダネク、ソビボル、トレブリンカ、これらは所謂ホロコーストの場とされる「絶滅収容所」の六ヶ所で、その全てがポーランドに造られた。トレブリンカは「コルチャック先生と200人の子どもたち」の悲劇の現場(コルチャック先生と200人の孤児たちがガス室で殺された)でもある(関連、下記★を参乞う)


★コルチャック資料館、http://www5.ocn.ne.jp/~jkmc/jkmc_shiryo.html


・・・アウシュヴィッツ(第二収容所=ビルケナウ)の概要については下記◆の見聞録が優れているので参照願いたい。


◆青山貞一、ポーランド現地調査・クラクフからアウシュヴィッツへ、http://eritokyo.jp/independent/aoyama-poland07.htm


・・・因みに、toxandoriaが大変な臆病者であるが故に予防線を張るという訳ではないが、「ホロコースト否認論」等の立場からのコメント等は一切受け付ける意志がないので此処で事前にハッキリお断りしておく。無論、このことに関する不毛な議論を闘わすつもりは毛頭ない。


・・・特に、近年の我が国において急増殖しつつある<この類の過激歴史修正主義あるいは単純素朴陰謀論>の立場をtoxandoriaは採っていない(驚くべきことだが、高い教養を身につけた筈と思われる国会議員の先生方の世界でも、民主・自民ら与野党の別を問わずコノ類のトンデモ環境汚染が拡がりつつあることは嘆かわしい)。


・・・突きつめれば、これらの“一見過激で恰好よいが、実は余りにも超単純で余りにも素朴な立場”は未だ潜在的に閉鎖的な皇国史観の影響下にある一般の伝統的日本人が好みがちな初心(うぶ)で素朴な<水戸黄門の印蘢を振りかざす勧善懲悪主義>のように低劣で幼稚な一種の堂々巡りのトートロジー的思考回路(ポーランド民主主義意識の対極にある無意味で発展性がない精神環境)ではないかと思っている。


・・・何事もそうだが、要は可能な限り自分の足で調査・見聞し、出来得る限り自分の意志で多角的に様々な本・資料を読み漁り、他の様々なジャンルの方々の話をよく聞き、その上で、とにかく自分の頭で証拠・固着論理・推論を咬み合わせ咀嚼しつつ徹底的にかつ客観的・相対的に考え抜くことが肝要なのだ。


・・・さもなければソレは、財務省とともに“今や民主憲法の授権規範の意義を忘却し劣等処遇の価値感で一般国民層を傲慢に見下す無能力&無教養&世間知らず化した官僚組織の代表だと批判・揶揄される検察・特捜部の思い込み型の超閉鎖的な捜査手法(シミュレーション論理偏重主義)と全く同じ思考回路ではないか。


・・・否、それどころかソレは一層低劣な仲間内か非仲間内かの基準だけでいがみ合い排除し合いつつ直ぐ頭に血がのぼり過激な暴力沙汰に突っ走る極道ヤクザか、あるいは井戸端会議か悪餓鬼らの陰湿な苛めグループと同じ精神環境ではないか。


ビルケナウの風景(アウシュヴィッツ第二収容所)






ヴィエリチカ岩塩鉱山の風景(クラクフの南東13km、カルパチア山麓に位置する)






・・・ヴィエリチカには約1千年前から採掘が続いてきた(1950年代まで採掘されたが現在は中止)ヨーロッパ最古の岩塩採掘坑があり、世界遺産に登録されている。また、ヴィエリチカ岩塩鉱の採掘技術は常にヨーロッパの最先端を走ってきており、ヨーロッパ全体への岩塩の供給基地でもあった。


・・・鉱山用の狭いエレベーターで63mの地下まで一気に降下し、更に400段近い階段を下ると地下101mに信仰の深い工夫たちが掘り抜いて造った聖キンガ礼拝堂(ボレスワフ5世(1226 - 1279)と結婚したハンガリー王女(ベラ4世の娘)が岩塩鉱の在り処を教えたとの伝説から、聖女に列せられた彼女を称える礼拝堂)がある。


・・・画像にある大シャンデリアや彫像類は全て岩塩を彫ったものであり、その見事さに驚嘆させられる。そして、何よりも印象深いのはこの巨大な礼拝堂自体が岩塩層を掘り抜いて造られていることだ。


・・・岩塩坑全体は9層になっており、最深部は327mで坑道の総延長は300kmにもおよび、見学できるのはその1%未満の部分に過ぎない。


【参考画像2】平原綾香 ノクターン