toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

点描ポーランドの風景/ポズナン編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)

toxandoria2010-09-01



【プロローグ画像】F.CHOPIN:"Grande Polonaise Brillante" Op.22(1836) - K.ZIMERMAN(1979 Perfect version-Poland photos)】



美しい森、緑の平原、ライ麦畑や果てしない“ひまわり”の景観が広がるポーランドは南北の軸に沿って幾つかの帯状地域に分けることができる。


それは北端のバルト海沿岸地帯、湖沼地帯(ポモージェ湖沼地帯・マズーリ湖沼地帯等)、中央ポーランド低地などで、南部の山岳地帯には1千〜2千メートル級の山々が連なっている。


ところで、「ピアノの詩人」として知られるショパンだが、彼にはポーランド人としての愛国者的な激しい独立革命(主権回復革命)への意志と情熱があったことも忘れるべきではないだろう。


【プロローグ画像【画像1】ポズナン、古地図・俯瞰全景・旧市街広場




・・・これら三枚の画像はウイキメディアより



・・・画像はhttp://frm1.net/archive/index.php/thread-24684.htmlより


1 ポズナンの概要


ポズナン(又はポズナニ/Poznań)は、ポーランド中西部のビエルコポルスカ県の中心都市であるとともに、ポーランド最古の都市で中世「ポーランド王国」最初の首都である。ワルシャワが東京、クラクフが京都とするならポズナンは奈良に喩える(もっとも、現代都市ポズナンの性格は奈良と大きく異なるが…)と理解し易く、ヴァルタ川に臨む河港市でもありポーランド最古の歴史的中心地の一つである。


ラテン語名はポスナニア(Posnania)、ドイツ語名はポーゼン(Posen)、人口は約58万人で、これはポーランドで5番目の規模である。8〜9世紀に形成されたスラヴ人の城塞集落が都市としてのポズナンの起源とされるが、10世紀に入るとここを拠点とするポラン族(=ポラニー族)の勢力が周辺に拡大しポズナンはその中心都市となった。


ビヤスト朝の中世ポーランド王国を創設しキリスト教に改宗(966)したミェシュコ1世(位960〜992)は968年にグニェズノ(ビヤスト朝揺籃の地、ポーランドの聖地)から遷都しポズナンを首都に定めた。が、11世紀後半に王室の内紛が起こり王権が衰退し始めたため1039年にクラクフへ遷都された。ポズナンポーランド王国発祥の地といわれるのはこのような事情による。


ヴァルタ川に臨む河港都市でもあるので、ポズナンは古くから商業中心地(150キロ南にヴロツワフ、250キロ西にベルリンがある)としても栄えてきており、ポズナン大学・劇場・美術館などが立地する文化学術都市でもあり、毎年6月上旬には国際産業見本市(Innovations-Technologies-Machines ITM Poland、http://www.mtp.pl/pl/)が開催されるが、2004年のEU加盟以降、この見本市の規模は年々拡大している。


モンゴルのポーランド侵攻(1340-41)後、ポーランド国内の復興が必要になると西方からドイツ人らが多く招かれ、彼らは主にシロンスク、モージェなどポーランドの西部〜北西部地域に入植した。それに伴ないドイツ騎士団も元の拠点のハンガリーから移って来た。


ポズナンは昔からの交通の要所であり、14〜16世紀はハンザ同盟の加盟都市として繁栄した。やがて、ポズナンは、17世紀の三十年戦争、18世紀の北方戦争に巻き込まれ荒廃することになるが、その後、1793年の第2次ポーランド分割ではプロイセン王国に併合された。


なお、それから2年後の1795年、プロイセンオーストリア、ロシア3国は第3次ポーランド分割を行いポーランドは中央部に陸上の孤島のように残った領土の全てを奪い尽くされて滅亡した(画像はウイキメディアより…中央の白い部分が第2次次分割で取り残された最後のポーランド国家)。


ポズナンは、19世紀初頭には一旦ナポレオン1世が創ったワルシャワ公国(1807-1815)の領土に含まれるが、ウィーン体制下でポズナン大公国(1815-1848)として再びプロイセン支配下に入った。そして、第一次世界大戦後にポーランドの独立(1918)に伴いポーランド領となった。


第二次世界大戦では、ドイツ軍とソ連軍の激しい戦闘によりポズナン市街地全体の半数以上が破壊された。特に旧市街はその90%以上が破壊されたが、戦後になってから残された資料を元にポーランド人の手により市街地の歴史的建造物はほぼ完全に復元された。


また、現在のポズナンポーランド中西部の大工業都市でもあり機械工業が最も重要な産業となっている。古い歴史をもつツェギエルスキ機械金属コンビナート(1846設立)はディーゼル機関車鉄道車両、農業機械、工作機械、船舶用エンジなどを生産する総合機械工場群である。


【画像2】アダム・ミツキェヴィチ大学(Adam Mickiewicz University、http://www.amu.edu.pl/en)



…画像はウイキメディアより


アダム・ミツキェヴィチ大学はポズナン大学とも呼ばれ、1919年に設立された。設立当時はビヤスト朝にちなみビヤスト大学という名称であった。


1955年からはポーランドの詩人でポーランド愛国者の象徴的存在であるアダム・ミツキェヴィチの名を採り現在の名称になった。医学部はポズナン医科大学として独立(1950)したが、今は13学部で5万人の学生が学んでいる。


【画像3】アダム・ミツキェヴィチ(Adam Mickiewicz)


…画像はウイキメディアより


アダム・ミツキェビチ(1798‐1855)は、ポーランドにおける愛国者の象徴的存在とされる国民的詩人である。リトアニアの貧乏貴族の家に生まれ、ナポレオン戦争を故郷の村で経験したのち、ビルニュスの大学に進み、愛国主義的秘密結社に籍を置きながら詩作を開始した。


初期の詩は擬古典的な作風であったが1820年に書かれた『青春頌歌』には若き詩人の精神的高揚が高らかに歌われている。1819年から教職に就いたが、彼はドイツやイギリスのロマン派の詩に深く親しみ、1923年に『グラジーナ』と『父祖の祭り』からなる詩集を刊行した。


前者は政治的主張を盛り込んだ民族叙事詩で後者はスラブの土着信仰やスラブ演劇の諸要素を斬新に取り入れた韻文の夢幻劇である。この後、分割時代故にプロイセンオーストリア側から秘密結社との政治的結びつきを厳しく問われロシアでの生活を強いられることとなり、ここから彼の流浪人生が始まる。流浪の途で発表した『クリミアのソネット』(1826)は東方の大地を目にした詩人の使命感と流離の苦しみを歌った典型的なロマン主義作品である。


1829年、ロシアを離れたミツキェビチはドイツ、イタリアを流浪するが「十一月蜂起」(1830)失敗の報を聞き途方にくれポーランド人亡命者の一団とともにパリに本拠を置くこととなり、ここでポーランド独立革命の夢を追い求めた。彼の生涯の遍歴はショパンとの友情のかたちでも後世に知られており、ミツキェビチは今なおポーランド愛国者の象徴的存在となっている。


なお、「ピアノの詩人」として知られるショパンだが、彼には「英雄ポロネーズ(Grande Polonaise brillante As-Dur Op.53)」、「大ポロネーズ(GRANDE POLONAISE BRILLANTE preceded by ANDANTE SPIANATO Opus 22)」などに見られるようなポーランド人としての愛国者的な激しい独立革命(主権回復革命)への意志と情熱があったことも忘れるべきではない。


【画像4】ポズナン・グランドシアター(ポズナン・オペラ大劇場)



・・・画像はhttp://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en|ja&u=http://www.panoramio.com/photo/34340448より


【画像5】ポズナン国立美術館


…画像はウイキメディアより、公式HP → http://www.mnp.art.pl/index_a.html


【画像6】旧市庁舎・・・四枚目はポーランド政府観光局公式サイトより






かつて旧市庁舎として使われていたルネサンス様式の美しい建造物で創建は13〜14世紀にまで遡るが、第二次世界大戦で破壊され戦後になり再建された。


【画像7】旧市街広場の風景、ア・ラ・カルト












【画像8】旧市街広場の夜景



・・・これらの画像はウイキメディアより


【画像9】ポズナン大聖堂の風景


















中心からやや離れたヴァルタ川の中州にある大聖堂島(Ostrów Tumski)はポズナン最古の地区で、そこにポズナン大聖堂(katedra Poznański)がある。



これは10世紀の創建でポーランド最古の教会として知られてきた。しかし、残念ながら第二次世界大戦で破壊されたため、戦後になってからゴシック様式で復元・再建された。


地下には、クリプタ(初代ポーランド王ミェシコ1世の墓所)と呼ばれる地下礼拝堂の一部が10世紀当時のまま残されている。


【画像10】ポズナンの風景、ア・ラ・カルト








[1] 全国へ波及したポズナン暴動=ソ連支配下共産党独裁政権崩壊への嚆矢


【画像11】ポズナン暴動記念碑ポズナン・グランドシアター(オペラ)劇場の近くにあるアダム・ミキエヴィッチ公園内)


・・・画像はhttp://blogs.yahoo.co.jp/kn_hosoi_hue/36579134.htmlより


ソ連支配下の東欧における「共産党一党独裁制に対抗する最初の民衆暴動」が、1956年に、このポーランドポズナンで起こり、当局の激しい弾圧を受けたが、結果として「10月の春」とも呼ばれる大幅な政治体制の自由化をもたらすことになり、それは1989年の「東欧革命」を予兆する重要な出来事となった。


1956年6月、ポズナン市の自動車エンジン工場「ツェギエルスキ」の労働者が待遇改善を求めてストライキに入り街頭デモを行ったのが発端となる。これに対する独裁共産党政権下の治安部隊の発砲でデモは激しい暴動と化し、監獄・警察・共産党支部・外国放送妨害電波発信所等が襲われた。


公式発表に従えば、この時の死者が53名、負傷者は約300名であった。しかし、この事件の全容は、たまたま開かれていた「国際産業見本市」のためにポズナンへ来ていた西側諸国のジャーナリストによって世界へ向け詳しく報道・発信された。


そして、ポーランド国内でも、第20回ソ連共産党大会以来高まりつつあった共産党独裁政権への批判的空気が一挙に先鋭化して対ポーランド共産党政権への抗議デモが全国に拡がった。同年10月にはポーランド共産党の指導部が更迭され、ヴワディスワフ・ゴムウカ(詳細参照⇒http://www.pl.emb-japan.go.jp/seiji/j_sengoseiji.htm)が政権に復帰した。


ソ連の軍事介入を招く恐れがあったが、ゴムウカ新政権は国民に一定の範囲での言論の自由を与え、消費物資の供給改善、外国旅行の自由などを約束した。しかし、一方では共産党単独支配とワルシャワ条約機構体制下の大枠は堅持して、ポーランド共産党政権崩壊の危機を切り抜けた。


[2] 日本が学ぶべき、解放&EU加盟で“貧農国・欧州の片田舎”の偏見を払拭した現代ポーランド人の冷静な歴史観国民主権意識、少数意見尊重


(1)解放後、一貫して好調な現代ポーランド経済の核心にあるモノとは何か?


既に書いたが、毎年6月上旬にポズナンで開催される国際産業見本市(Innovations-Technologies-Machines ITM Poland)は、2004年のEU加盟以降、その開催規模が年々拡大している。そして、このことは近年におけるポーランド経済の好調と無関係ではない。


つまり、1990年の解放(共産主義から自由主義経済へ体制転換する)以前に民間企業がポーランドGDPに占める割合は僅か7%で残りの93%は国有企業であったが、それから約20年を経て、今漸くその民間比率が70%程度に達したところだ(情報源、http://www.jetro.go.jp/jfile/report/05000492/05000492_002_BUP_0.pdf)。


これは東欧諸国のなかで最も遅い達成率であるが、その間、シュラフタ民主主義の伝統たる少数意見を尊重するコンセンサス重視型のポーランドの政治状況は外部から観察する限りでは一進一退で殆ど停滞し続けているように見えた。にもかかわらず、世界不況に見舞われた2009年の経済成長率1.2%は、ポーランド欧州連合EU)の中で唯一成長を達成した国であることを明確に示し、同国の1人当たりGDP国内総生産)も2009年の「EU平均の50%相当額」から56%レベルへ拡大しており、これは過去最高の伸びとなった。


経済協力開発機構OECD)の発表でも、経済成長率は大方の予想をはるかに上回る1.8%と判明し、ポーランドは2009年の欧州連合EU) 加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国となった。OECD加盟国でポーランドの他にプラス成長を達成したのは韓国 (0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2カ国のみで、2009年のポーランドOECD加盟国の中で最高の成長率を見せた。


また、ポーランド国立銀行中央銀行)は、世界金融危機リーマンショック)前の非常に早い時期(2001年頃)において既に深刻なバブル崩壊(世界的金融パニック)の到来を察知・予想しており、既にその頃からポーランド国立銀行市中銀行に対し様々な貸し出し規制策を導入してきたことが知られている。


更に、物価下落から生じる購買力拡大を調整した1人当たりGDPで見ても、今のポーランドは欧州で6番目に大きな経済規模を誇る国となっている。そのうえ、ポーランド経済の明るい要素として、もう一つ挙げておくならば、それは国民の間で起業(ベンチャー)精神が旺盛になっており、それが益々活発化していること、そしてベンチャー企業に対する国の支援体制が非常に充実していることだ。


実は、このように凡そ解放後20年目にあたる今のポーランド経済が好調であることの深奥には、大方の“悲観的な予想”に反した「ポーランド農業問題の好転」という事実があるのを見逃すべきではない。我々は、旧共産党政権時代の、あるいは第二共和国時代(20世紀初頭)の、あるいは更に遡りポーランド分割時代(18〜19世紀頃)の“貧農国・欧州の片田舎ポーランド”というドグマを今や払拭
すべきなのだ(この類のドグマに囚われた“悲観的予想”の実例には下記★がある)。


★森本暢:ポーランドの農業問題/EU加盟に向けての課題、http://www.polinfojp.com/kansai/moriki1.htm


現代の日本人の多くは、“理念追求と客観性の保全”そして“本来の責務である検証義務”まで放棄して“サルのマスタベーション(エンドレスの自画自賛マッチポンプ常習犯)”状態と化したテレビ・新聞等の“ヤラセ型マスゴミ”に日々に洗脳されている。そして、日本における「国民の一般意志」はポーランドと対照的にひたすら流動化し劣化(衆愚化)するばかりである。


かくの如く、今や東アジア辺境(極東)の“閉鎖的で貧相な片田舎”と化しつつある我が日本は、“貧農国・欧州の片田舎と揶揄された”時代から現在に至るまでの「ポーランドの政治・経済・言語・文化の並々ならぬ過酷と苦闘の歴史」を凝視し、それを他山の石とすべき時なのだ。


まして、ポーランドは未だに“貧農国で欧州の片田舎”との時代錯誤の観念にドップリ浸かる向きは、その目を覆う暗いドグマの薄皮をひんむき、同じく剛毛が覆い尽くす暗い耳アナの奥から巨大なドグマの耳垢をかっぽじり出すべきだ。


(2)ポーランド分割時代〜旧共産党政権時代ポーランド農業の概観


ポーランドが“貧農国・欧州の片田舎(者)”だというドグマ(余りにも単純で表層的なポーランド史についての誤認・誤解)の元にあるのは、おそらく18〜19世紀・ポーランド分割時代におけるポーランド住民の階層別構成データに基づく「ポーランドは、所詮、その殆どが農奴化した農民の国だ」という強烈な負のイメージの刷り込みによるもの(無論、それは社会現象的な意味でそれまでの時代のポーランドの過半以上の歴史的現実ではあったのだが…)である。


しかし、一方ではそれがたとえ一握りのエリート層に芽生えたものであったにせよ、フランス革命を遥か300年近くも遡る16世紀のポーランドで “王権に対する授権規範的意識と二院制(立憲議会民主制)原理=シュラフタ民主主義”についての明確な意識が芽生えていた(1505年、アレクサンデル・ヤギェロンチク王・治世下のRadom議会で制定されたニヒル・ノヴィ法で国王による上・下両院同意なしの課税のみならず法制定一般が禁止された)のも歴史的現実である。


たしかに農地面積の広さで見るかぎり、現代のポーランド共和国(1,914.8万ヘクタール)も、EU欧州連合)の中ではフランス(約2,800万ヘクタール)、スペイン(2,500万ヘクタール超)に次ぐ第三位の“農業国”ではある。しかし、これは見方しだいだが、これらの国々は国民の生命を守るための最低限の条件である大変豊かな自然資源(自然地理環境)に恵まれているともいえるのだ。


18〜19世紀の“ポーランド農業”についての正確な統計データを詳細に把握するのはなかなか難しいことであるが、たまたま入手した下記資料◆で18世紀末〜19世紀初頭(ポーランド国家が消滅したポーランド分割時代)の“ポーランド住民”の階層別データ等を知ることができたので、それを下に転載しておく。


●農民は全住民の約72%を占めている。ただ、この農民は必ずしも自立農耕者とは限らず領主邸の使用人、領主マニュファクチャに雇用されている農奴的農民、その他の農村居住者らが含まれている。


●都市住民は約17%を占める。ただ、ワルシャワなどの大都市(高々で数万〜数千人規模)は少なく、殆どの都市(六百数十カ所)は事実上の村なので、これらの都市住民の中にも農業従事者が数多く含まれている。


ポーランド社会の指導者たるシュラフタ(士族)層の住民は全ポーランド住民の8%を占める。しかし、その約半数は、事実上、農民と変わらぬ“農業従事者”であった。


◆坂東宏著『ポーランド革命研究』(青木書店


たしかに、このデータからすれば、当時のポーランド住民(分割時代はポーランド国家が消滅していたので、旧ポーランド・リトアニア共和国の領域内に住む住民)の少なくとも9割程度は“事実上の農民”であったので、一握りのシュラフタ層が先に述べた欧州内随一の先進的な民主主義意識を持っていたという歴史的事実が見過されるならば、十把一絡げで、しょせんポーランド(人)は “貧農国で欧州の片田舎(者)”だと理解・揶揄されたことは、あながち見当違いとは言えぬのかもしれぬ。


しかし、一方には、「そのような絶対王権神授説的立場を規制しようとする先進的なポーランドシュラフタ民主主義意識が大いに危険視されたからこそ、プロイセン(ドイツ)・ロシア・オーストリアハプスブルク)による“過酷で非国民主権的なポーランド分割”が断行され、国家ポーランドが消滅してしまった」ことも、歴然たる重い歴史的事実である。従って、所詮ポーランド(人)は “貧農国で欧州の片田舎(者)”だと表層的に理解し、そのことだけでポーランド(人)を揶揄するのは、やはり短絡的で誤った歴史認識であるというべきだ。


しかも、当時のフランス、スペイン、ドイツあるいは英国でも、それらの国々の都市住民と支配貴族層を併せた数字が、それぞれ全国民数の2割程度以上を占めるのは考えにくいことhttp://www.polinfojp.com/kansai/moriki1.htmなので、おそらく、これらの国々でも農業に従事する国民層が8〜9割を占めていたという意味で、少なくとも産業革命以前においては、その他の欧州諸国といえども、個別に見れば濃淡分布の程度差こそあろうが、これらポーランド以外の国々も“事実上の農業国”であったといえる筈なのだ。


ところで、現代ポーランドの「農林業就業者数が全就業者数に占める割合」と「全産業GDPで農業生産が占める割合」について、共産党一党独裁が終わる直前の1989年と、解放・自由化(1990〜)後の2000年を対比したデータがあるので下(●)に引用・転載しておく(出
典:和田正武『移行経済下における産業構造の変化/ポーランドのケース』、http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaces/40-1wada.pdf)。


●農林業就業者数が全就業者数に占める割合;1989年(27.7%) → 2000年(28.4%)


GDPで農林業生産が占める割合:1989年(12.9%) → 2000年(3.3%)


<関連参考>日本の農業就業人口等のデータ(出典:総務省・国民経済計算http://www.stat.go.jp/data/sekai/03.htm/労働産業省・主要労働統計表、
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/06/dl/07.pdfより


A 日本の農業就業者数:2006年(262万人)、B 日本の全就業者数:2006年(6,657万人)
→ Aの対B占有率:2006年(3.9%)


日本の農林業活動がGDPに占める割合:2006年(1%)


これらのデータだけで短兵急に結論付けるのは危険ではあるが、少なくとも「GDPに農業が占める割合」を見る限りでは、ポーランドの産業構造が日本を含めた欧米先進諸国型の“産業構造”へ向かって急速に変貌・接近(産業構造が第三次産業へ傾斜して“効率化”)しつつあることが窺われる。


しかしながら、「農林業就業者数が全就業者数に占める割合」が、解放・自由化後の10年間を経ても、いまだに約3割弱程度(全就業者の3〜4人に一人が農業関連産業に従事する状態)を維持している点にこそ “農業国ポーランド”のプラス面の特徴が明快に現れていると考えられる。言い方を変えれば、それは、現代ポーランド農業にはGDP等の国民経済計算で把握できない外部経済(的価値)が内包されていると見なすべきということだ。


一方、ポーランドにおける「商業・金融・不動産等のサービス業」がGDPに占める割合では、「34.8%(1989年)→66.0%(2000年)」という驚くべきほど急速な「ぺティ・クラークの法則」に沿った定石どおりの変化が見られ、その裏側には鉱工業の急速な縮小が伴っている訳だが(建設業のシェアは8%程度で横這い)、やや第三次産業(ソフト)化への構造変化が拙速過ぎ(他の東欧諸国と比べて自由化のスピードが相対的に遅かったにも拘わらず)とも思われる(出典:和田正武『移行経済下における産業構造の変化―ポーランドのケース―』、同上URL)が、これはグローバル市場原理の負の側面と見なすことも可能なので、政策面の変化と併せ今後の関連動向を注視する必要がある。


ポーランドでは、特に高付加価値の二次・三次産業のベンチャー企業を育成し、それらを<伝統の農業力(パワー)>とともに「ポーランド経済の比較優位の柱」とすることが企図されている。このため、欧米諸国で成功したポーランド人の優秀なビジネスマン・技術者らをポーランドへ呼び戻す活動が積極的に展開されつつある。


(3)ポーランド欧州統合委員会評価レポートによる「ポーランド農業の現在」


因みに、「ポーランドの欧州統合委員会、UKIE」が2008年6月に出したレポート『ポーランドEU加盟の4年間(2004.5.1〜2008.5.1)、欧州連合加盟による社会・経済的利益とコストのバランスシート』から<農業近代化と農業構造変化等の農業に関連する内容>についての評価を要訳・抽出すると以下(●)のとおりである(出典:田口雅弘『ポーランド欧州統合委員会評価レポート』<注>当委員会はEU内の組織ではなくポーランドの評価機関である、http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/journal/14105)。


ポーランドEU加盟の果実を最も多く享受し、かつそのことを良く認識しているのは、当初はEU加盟に最も懐疑的であった農民(層)自身である。なぜなら、ポーランドEU加盟は、明らかに農村のプラス方向への変化と振興を促すとともに、その近代化と農業構造の変革を確実に促進したからだ。


EUの共通農業政策(CAP=Common Agricultural Policy、http://www.deljpn.ec.europa.eu/union/showpage_jp_union.afs.agriculture.php)の機能と活動は生産体制の安定化をもたらし、投資活動の資金を提供して農村のイメージと機能を変化させた。


●共通市場への参入により、ポーランド農業は、EU15および「新」加盟諸国に対し「安全で高品質なポーランドの農産物が持つ比較優位」を利用することが可能となった。


<注記>EU15=フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イギリス、デンマークアイルランドギリシャ、スペイン、ポルトガルフィンランドスウェーデンオーストリア


ポーランド農業分野の好景気とEU予算および国内予算からの支援は、2007年のポーランド農民の所得を13.7%(EU27平均は5.4%上昇)引き上げた。また、2007年および2008年前期の農産物価格上昇は、生産財価格の上昇分の補填を可能とした。


<注記>EU27=EU15 +2004年加盟の12カ国(ブルガリアチェコエストニアキプロスラトビアリトアニアハンガリー、マルタ、ポーランドルーマニアスロヴェニア、スロヴァキア)


(同じく、これらポーランド農業部門の好調を基盤とする、その他のEU加盟効果を抽出すると以下のとおり)


ポーランドEU加盟に対しては約8割の国民が評価している。また、直近の世論調査では、これまでの肯定的な評価が持続しており、国民は統合後のポーランドの将来を肯定的に評価しており、約7割の国民が、今後10〜20年の間はEU加盟による利益を得ることが可能だとと考えている。


●2007年5月〜2008年5月の期間に、加盟について初めての中・長期的効果が見えた。つまり、経済成長が2007年末には6.5%を記録し、これで6%を超える成長が2年連続となり、同時に、この間の消費は年平均で5.2%伸びた。


●失業率が半減し、給与が上昇した。2003年には失業率が20%の水準であったが、FDI(海外からの直接投資)が3倍以上となった結果、11.4%の失業率と平均給与水準850ユーロを記録した。このことは、EU加盟4年足らずで失業が半減し、名目給与が58%増となったことを意味する。


無論、これらの効果の背後にはEU予算からポーランド向けに支出される構造基金や海外からポーランドに対する投資(FDI)の活発化という現実がある。そもそもEU理念の根本には、共通基盤構築による地域共同体としてのEU全体の発展を促すという意図があるので、これら支援活動と投資市場機能の活用は不思議でも不埒なことでもない。また、従来のFDIが国営企業民営化(現在の民間(営)化率は約70%)を対象としていたのに対し、直近の傾向では純然たる民間企業や個人企業向けFDIが殆どを占めるようになった。


ところで、「ポーランド農業の現在」には、もう一つの特徴がある。それは、前にも指摘したことだが、ポーランド農業のGDP構成比は殆ど先進諸国並みへ近づきつつあるのだが、驚くべきことに農業就業人口が未だに多く、総労働人口の3〜4人に一人が農業就業者という現実があることだ。


それを詳しく見れば、農地の95%以上は民間部門が利用しており、そのうち87.7%は個人農家(家族経営)による利用で、個人農家の比率が圧倒的に多く、これらは殆どが小規模農家(2004年データは約285万戸)である。なお、小規模農家の多くは中央部〜東部地域に多いが、その発端は19世紀の「ポーランド分割時代」における宗主・ロシア帝国の農地解放を大義名分とした農地細分化政策にまで遡る。


つまり、解放・自由化後のポーランド農村地域の人口は2001年頃から増加傾向が見られるが、その理由として、農村部であれば日本円換算1.0〜1.5千万円程度の費用で少なくとも300坪程度の大規模邸宅が入手可能である故の「美しく豊かな田園生活に憧れる都会人の意識的移住」と「都会における失職者らの農村への帰郷=就業についての外部経済効果による受け皿機能への期待」などの要因が挙げられている。また、同年の農村人口1,470万人は全人口の38.5%で、そのうち20歳以下が28.5%、60歳以上が17.1%で、都会(20歳以上が22.8%)より農村における若年層の比率が高く、このような傾向は日本や欧米先進諸国のそれとは大きく異なっている(出典:田中信世『ポーランド農業に見るEU加盟の影響』、http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/k_syokuryo/h17/pdf/h17_europe_07.pdf)。


因みに、国全体で見ても若者が非常に多いのがポーランドの特徴で人口の50%が35歳以下(35%が25歳以下、20%が15歳以下)となっており、これは他の欧米先進諸国やポーランド周辺諸国と著しい違いがある点だ。従って、今後のポーランドは、工夫次第ではあるが、高付加価値の農業先進国として発展する可能性が非常に高いといえる。また、ポーランドには、「比較的高い農村部を中心とする合計特殊出生率(農村部1.53、都市部1.30/2008)」という刮黙すべき現実もある(平均寿命=男72歳、女80歳/2010)。


ここで推測されるのは、共産主義政権時代あたりから続く<伝統的な自給自足的生活がもたらす地域&家内型労働集約作業>が、国民経済計算には現れない農村の外部経済化(実質的豊かさ)を定着させ、それが今でも、未だ日本の高々1/10程度のGDPしかない国ポーランド(人口は日本の約40%相当)の農村部における若年層就業の受け皿となっていることだ。しかし、このような傾向は新自由(市場原理)主義的なグローバルスタンダードの観点から観測すれば“低賃金で貧農レベルの“農奴前近代的生活”だということになる。


1989年以前の共産党政権下の農民の所得格差は一般労働者に対して67〜70%であった。しかし、当時の労働者が年100万ズローチの収入を得るのは不可能だったが、農業者にはそれができた。それは、当時の農民には所得税がなく土地税だけで、それは所得の5〜10%に相当し、その土地税の40%相当は面積割で農業サークル活動名目で還元される仕組みだったからだ(出典:小倉武一著作集・第十二巻『緑のヨーロッパ下』(農山漁村文化協会))。


一方、農村部の教育水準が“相対的に都会より低い”という現実は否めないものの、現代ポーランド全体の教育水準はヨーロッパでトップクラスであること、高校の外国語教育では英・独・仏・露・伊の中からの二ヶ国語選択制を採っている(ワルシャワ大学、ポズナンのアダム・ミツキエヴィッチ大学、クラクフのヤギェロン大学には日本語・日本研究の講座がある/参照⇒http://www.jpf.go.jp/j/japanese/dispatch/voice/touou/poland/2007/report01.html)こと、あるいは同じく高校における歴史・社会科等の教育重視など、これから本格化するポーランドのグローバル時代への備えは万端となりつつある。


これらのことから、ポーランド農業は、個人農家が多いという弱点を逆に積極的に生かすことを狙いつつ、ポーランドの土地に合った麦類の栽培(ライ麦生産量は世界第二位)を主軸に世界一の生産量を誇る生鮮イチゴ、フランスの消費量の9割以上を供給するエスカルゴ、あるいは各種ハーブ類など欧州向けオーガニック食材等に特化した農業生産の規模とシェアを拡大させており、これは「ポーランド農業の比較優位の柱」となりつつある。因みに、ポーランドのオーガニック農家数は「300件(1966)→13,500軒(2008)」へ増加している(情報源、http://www.unkar.org/read/gimpo.2ch.net/news5plus/1223551624)


また、EU加盟後のポーランドは、過剰な遺伝子操作の弊害、BSE問題、鳥インフルエンザなどへの反省から得られたEU(欧州連合)の「動物福祉」(参照、http://www.jfawi.org/)の考え方を採り入れており、それぞれの動物が種としてもつ固有の生理・習性・生態についての科学的根拠に基づく飼育方法を重視した畜産動物の生産に傾注しており、これも「ポーランドの比較優位産業の柱」となることが期待されている。


このように個性的な、そして比較優位的立場に立つ農業あるいは畜産業を積極的に模索し追求する「ポーランド農業の現状」からは、我が日本も大いに学ぶべき点があるはずだ。そして、これらのポーランドの先進的動向の根本には、特に政治・行政・学会・教育界らの指導層において、あの「連帯」にも引き継がれたとされるポーランド伝統の「シュラフタ民主主義の理念(=国民主権保全の意志)」が存在している(画像『17世紀のシュラフタ』はウイキメディアより)。


従って、今のポーランドには一握りの「シュラフタ層」や「連帯」からの意志を引き継ぐエリート層が“無知蒙昧な奴隷的貧農層”を誑かし、彼らバカな農民たちを体よく騙してきたという類のプロパガンダ(白けた衆愚的な空気)は殆ど流れていない。そして、そのための何よりの支えとなっているのが、これまで見たとおりの<解放・自由化&EU加盟後の伝統農業を基盤とするポーランド経済の好調な発展>という現実だ。そして、矢張り、もう一つの支えはポーランドが伝統的に「中立的な教育(特に歴史・社会科教育)」を最重視し、それを地道に継続してきたということだ。


<注記>シュラフタ民主主義の意義については、下記記事◆を参照乞う。


◆点描ポーランドの風景・クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100803


◆点描ポーランドの風景・クラクフ編(3)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100806


◆点描ポーランドの風景・クラクフ編(Appendix)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100811


◆点描ポーランドの風景・ヴロツワフ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100819


翻れば、ポーランド教育の伝統は18世紀後半に支配層身分であったシュラフタ(士族)の中で「ポーランド国民」の自覚と意志(シュラフタ民主主義と呼ばれる“ナショナリズム国民主権の融合”を図ろうとする意志)が芽生え、第一次ポーランド分割(1772)直後に「国民教育委員会」が創設され、<ポーランド語を教育言語とする学校改革>が行われたことに始まる。そして、その分割時代には各宗主国の目を眩ますため“地下活動”の形でポーランド語中心の教育が続けられた。


そして、このことが現代の民主国家ポーランド誕生の基盤的意味での布石となったのだ。また、この「民主主義とナショナリズムが融合した強固なポーランド人のシュラフタ民主主義的な伝統意志の形成」には、ポーランド国家づくりの主柱(国民主権地方分権、弱者救済)を支える必須条件として教育を最重視するように勧めた仏の啓蒙思想家J.J.ルソーの貢献も大きいと考えられるのだ(関連参照⇒下記◆)。


◆点描ポーランドの風景、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100724


[3] エピローグ=ポーランドシュラフタ民主主義からの連想


■菅vs小沢「民主党代表選挙」、どちらが日本の過去(歴史)と未来(ヴィジョンと発展可能性)を自分の言葉で語る(演繹的に説明する)ことができるか?


無論、これから本格的にグローバル市場原理が幅を利かす世界環境に巻き込まれようとするポーランドの未来は楽観視できるものばかりではあり得ない。そして、安全・有望な投資先としてのポーランドへの欧米の投資が加速する現況では、日本やEU先進諸国の例に漏れず、グローバル市場原理主義へ過剰に急傾斜する経済環境トレンドを放置すれば、必ずや大都市集中化と伝統農業(ポーランド農業の外部経済価値)の疲弊・消耗、農村部の過疎化、美しい自然景観の崩壊、IT・ソフト&金融経済化への傾斜、核家族化、格差拡大傾向などに伴い、約30年後にはポーランドと雖も必ずや深刻な少子高齢化社会になるという推計もある(http://www.rc11-sociology-of-aging.org/system/files/Poland.pdf)。


しかしながら、少なくとも、例えば大学の受験勉強を優先させつつ高校教育における「世界と日本の歴史(特に現代史)と社会科」を殆ど無視ないしは軽視する我が日本の如き愚かな中等教育の方針をポーランド政府は採っていない。


そのうえ、我が国では、今や司法・立法・行政を監視する第四(批判)権力であるべき新聞・テレビ・雑誌等のマスメディアが、不埒にも、率先して<実効(既得)権力グループ>と<内向的「ナショナリズム」勢力>をやみくもに結合させようとしているが、それは、いうまでもなく<新自由主義(ネオリベラリズム/市場原理主義)>と<極右(超保守)>の野合という、いわば国民主権(民主主義の根本)と国家の長期展望を見失った余りにも短絡的な米国流衆愚政治状況(関連参照⇒下記★)の模倣である。そして、かくの如き「現代日本衆愚政治」とポーランドは無縁であるのだが、このような視点からのポーランド情報を日本メディアは殆ど取り上げようともせず正しく報じてもいない。


オバマ大統領に批判的な保守系メディア・Foxテレビ主催のワシントン大集会(8/28)に数万人が「市場原理主義と小さな政府」への回帰を求めて集結、これとは別に「茶会」系の10万人集会が9/12に予定されている(情報源:2009.8.29・日経ネット記事)


ともかくも、それは自国の「歴史」と「社会の実情についての冷静で客観的な知見」を寸時でも忘却することは直ちに<主権国家ポーランドの消滅>に繋がるという極めて多義的(混沌たる社会的現実は支配・被支配・自壊・自滅など多側面からの観測・検証が可能だということ)で危うい「歴史的現実」(ポーランド分割による、美しい景観を誇り豊かな一次・二次産業の発展可能性を秘めた自国消滅の経験、ドイツ・オーストリア・ロシアら近隣列強による領土と国民主権の奪取の歴史、ナチス・ドイツの侵攻・領土支配による計六ヶ所の絶滅収容所設置等の悲惨体験、あるいはソ連支配下共産党一党独裁政権なる暴政経験などの恐るべきリアリズム)を殆ど全てのポーランド国民が教育とメディア報道を通じて徹底的に理解しているからだ(画像はhttp://zachodniaobwodnica.pl/komornikiより)。


言い換えるなら、それは、いったん「国民主権」意識が、ある国の中で希薄化ないしは消え去る事態となってしまえば、悪意ある支配権力側が、ある特定の伝統国家という「民族の創造物」を消去することなどは、いとも容易いという恐るべき現実についての深い理解なのだ。そして、シュラフタ民主主義の伝統を引き継ぐポーランドのエリート層は、本格化する「グローバル市場原理主義」時代の世界を貪欲かつエンドレスに跋扈する、かくの如き悪しき世界の政治・経済・社会のダイナミズムから「国家ポーランド国民主権」を保守する役割が自分たちにこそあるという明快な自覚を持ち続けてきたのだ。


従って、ポーランドには、例えば我が国で増殖しつつある「アウシュビッツ否認論」の如き“反理性的な妄想型陰謀論”が付け込む隙はない。因みに、アンジェイ・ガルリツキ著、渡辺克義・他監訳『ポーランドの高校歴史教科書/現代史』(明石書店、2005年・刊)の「序文=なぜ歴史を学ぶのか」の中で、著者アンジェイ・ガルリツキ(歴史家、元ワルシャワ大学教授/Andrew Garlicki、http://pl.wikipedia.org/wiki/Andrzej_Garlicki)は次のように語っている。


・・・では、なぜ歴史を学ぶのか。歴史を知ったからといって日々の生活にいかほども役立たず、将来に向けて決断を下そうとする時にも参考とならないというのに。(それは)まず、歴史を意識することが国家・民族を意識する重要な要素であるからである。国家・民族意識を奪おうと狙った作戦が、いつもその国家・民族の歴史を教えることを禁じることから始まっているのは偶然ではない。まったく偽りの歴史が教えられることもあった。歴史を奪われた国家・民族は緩い集合体となり、統治が容易となる。したがって、都合の悪い事件や人物は完全に歴史から抹消され、代わりに他の事件や人物の取り込みが意図された。・・・(Andrew Garlickiの画像はウイキメディアより)


なお、このポーランドの高校歴史教科書は<現代史>だけで886ページ(翻訳版)という大著であること、およびその内容=「ポーランドナチス・ドイツの対立激化/戦争への準備(1939)」〜「スターリン主義への道」〜「解放・自由化・ヨーロッパ連合に向かって(2004)」の中で、太平洋戦争における米国の原爆使用(広島・長崎への投下)あるいは2001.9.11・N.Y.同時多発テロなどが客観的に詳しく記述されている。


目下、我が国では与党・民主党の代表選挙が9月14日(火)に行われようとしており、その結果は菅・総理大臣の継続か小沢・新総理大臣への交代かのいずれかをも決することになる。その意味で、これは昨秋の「自民党民主党への政権交代」に引き続き、戦後60年もの長期に及んだ「自民党政権の失政と悪業」の滓から芽吹いた数多の国難を抱える我が日本の「将来への新たな道筋(ヴィジョン)」を決定する非常に重要でエポックメイキングな出来事である。


しかしながら、この段に至ってなおNHKを始めとする主要マスメディアが“民主党は何故に今この日本が国難の時に<菅vs小沢>で民主党代表の席を、つまり「日本国首相の座」を争うのか一般国民に対する大義名分がハッキリしない」と厳しく批判していることには驚かされる。


メディアのプロパガンダで日々に激しく浮動する連続支持率調査の信憑性(ハロー効果の影響を受ける連続調査と大きな間隔で稀に行われる調査では統計学的な意味が異なる)などはともかくとして、いやしくも政党政治を基盤とする議院内閣制を採る我が国で与党代表を選ぶ選挙は日本の正統な民主主義を保守する重要なプロセスである。香具師(やし/テキ屋と同意)商法を常套とする<週刊誌やイエローペーパーあるいはテリー伊藤らの如き無責任・軽薄で陳腐化したテレビ・コメンテータ>ならまだしも、日本代表を自負する主要マスメディアのニュース・同解説等がこのザマでは情けない話だ。


ともかくも、我々が仮に“日本はポーランドに劣らず悲惨な歴史経験(例えば広島・長崎の原爆体験、米軍沖縄基地における屈辱的・凌辱的経験)を経た被害者的存在だ”、あるいは“世界に冠たる平和憲法を掲げているのだ”と強く誇りに思っているとしても、そもそも、そのような主張が日本国民だけでなく世界中の人々の心に広く響きわたり、より普遍的な倫理性を帯びた説得力を持つようにならなければ無意味なのだ。


つまり、我々日本人自身が<特定の強大な権力>に媚びることを絶えず善しとせず、自らの余りにも悲惨極まりない被害者的経験を踏まえつつも、それを全人類の主権保全のためにこそ活かすのだという強い意志の下で、まさにポーランドの「シュラフタ民主主義」の如き先駆性がある斬新なヴィジョンと強固な精神(エトス)のレベルまでそれを昇華させ、更にその内容を<自らの誠意ある言葉で真剣に語る>必要があるのだ。


ゆきあたりばったりに政局騒動とプロパガンダ衆愚政治への誘導)を煽るばかりで無責任極まりない現代日本マスゴミ好みの“利害関係(記者クラブと官房機密費など行政権力癒着型の恩恵を受けるマスゴミ自身の立場も含む)”と“特定権力(例えば事実上の宗主国である米国あるいは太平洋戦争以前の認証官制度の尾を引く中央官僚組織)”へ媚びるあまり自分自身の言葉を押し殺してしまうようなことでは、我々日本人の悲惨な歴史経験意識を人類普遍の価値にまで高め広く世界中の人々の心にそれを伝え共感を得るのは困難なのだ。


また、戦前型「認証官(天皇が認証する官僚)」の尾を引く中央官僚組織(司法・検察・宮内庁・財務・外務などを頂点とする)の根本には、対政治権力の授権規範たる憲法を遵守するどころか「一般国民の主権尊重ならぬ“主権者たる神格天皇”との距離の近さをのみ“ひたすら”競い合い切磋琢磨することに絶対価値を見定めるという超時代錯誤的官僚構造(神格天皇ヒエラルキー)による衆愚(民衆)への支配原理が潜伏していることを忘れるべきではない。


そして、このような一種の狂信化あるいは神憑り化した権力(歴史的に見れば神聖政治、王権神授説など)へ対抗可能なのは「シュラフタ民主主義」的な意味で演繹論理へ傾斜した良質の理念型精神(エトス)と帰納論理の効果的な協働によって生まれる<人間(国民主権)のために役立つ一種の合理性の精神>であり、それは良質の哲学が要素還元主義の「科学の限界」を補う柔構造で安全な人間的アーキテクチャになり得るのに喩えることが可能であろう。


従って、今回の民主党代表選の結果、これから新たに菅総理小沢総理のいずれが誕生するにせよ、21世紀のエポックメイキングともいうべき、この非常に重要な出来事を目撃することになったからには、マスゴミの無責任なプロパガンダに惑わされることなく、我々一般国民自身も、両者の内のいずれが<前進する民主主義国家・日本を統治する内閣総理大臣として、一般国民の主権を最重要視するとともに弱者層を含めた一般国民の中の少数意見を最大限に尊重するポーランドの「シュラフタ民主主義」的な意味での新たな普遍的なビジョンを自分自身の言葉で内外へ向かい正々堂々と語ることができるか>という唯一点をこそ凝視し、今後の民主党政権の政治を評価し、期待すべきなのである。


【エピローグ画像】Lara Fabian - Perdere l'Amore (English lyrics translation)