toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

点描ポーランドの風景/トルン・マルボルク編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)

toxandoria2010-09-12



【プロローグ動画】Nocturne No. 1 in B Flat Minor, Op. 9-1 by: Peter Schmalfauss



【プロローグ画像】Introduction


トルン、マルボルクの位置図



・・・一枚目はhttp://www.tennisforum.com/showthread.php?t=382847、二枚目はhttp://www.virtualtourist.com/travel/Europe/Poland/Malbork-486072/Transportation-Malbork-BR-1.htmlより


トルンの遠景



・・・二枚ともにウイキメディアより


ヤン・マティコが描いたコペルニクス


・・・ウイキメディアより


1  トルンの概要


現代のトルン(Torun、独Thorn/ワルシャワの北西180km)は、ポーランド中北部ヴィスワ川のほとり(中流右岸)に位置する工業・商業都市だ。そしてクヤヴィ=ポモージェ県の県都(人口約20万人)で鉄道、道路、河港で結ばれた交通上の重要地点である。


ドイツ騎士修道会の東漸の拠点となったため13〜17世紀のドイツ風の建物が多く、市場を中心にゴシック様式の教会や城壁跡などがあり、コペルニクスの生誕地としても有名である。1997年に旧市街が世界遺産に登録され、近郊には日本の電気メーカー、シャープの工場がある。


考古学調査によれば、この周辺への定住開始はBC1100年まで遡り、7〜13世紀頃の中世時代にはヴィスワ川の浅瀬に古ポーランド人の入植が盛んに行われていた。しかし、ドイツ騎士団が1230-1231年に、そのポーランド人の入植地の辺りに城郭を築いた。


1233年12月28日にドイツ騎士団の事実上の創始者ヘルマン・フォン・ザルツァは、定住地の住民らとの間でトルンとクルムラント(詳細は『ドイツ騎士団の概要』で後述)に騎士団領と騎士団城を創設する契約書(クルム特権付与状/Kulmer Handfeste)に署名した。が、残念なことにそのオリジナルは1244年に焼失した。しかし、この付与状は、ラント法(Landrecht/漸く主観的権利と客観的規範を併せ持つようになった頃のドイツ領域法)の実在を示す最初の証として法制史上重要な意義がある。


その後、しばしば洪水に襲われたトルンは、1236年に現在の旧市街の場所に定住地を移し、1263年にはフランシスコ派の修道僧たちが街に入り、同じく1239年にはドミニク派が入ってきた。1264年には、その側に新市街が形成され始めた。


1280年になるとトルン(旧・新二つの市街)はハンザ同盟に加わり、やがてトルンは中世ヨーロッパにおける重要な貿易センターの一つ(北バルト海で産出された琥珀ワルシャワクラクフに輸送する交易都市、ポーランドで最大規模の都市の一つ)となった。


しかし、1410年の「タンネンベルクの戦い」(Schlacht bei Tannenberg/1410年7月15日、ポーランドリトアニア連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた)で勝利をおさめたポーランド(この戦いではドイツおよびポーランド系のトルン市民が騎士団へ抵抗した)は、更に勢力を拡大しロシアを除くヨーロッパで最大の版図をもつ強国となり最盛期を迎える(画像ヤン・マティコ『タンネンベルクの戦い』はウイキメディアより)。


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クラクフ・フロリアンスカ通りにあるヤン・マティコの家


http://www.muzeum.krakow.pl/About-the-museum.623.0.html?&L=1より


ヤン・マティコの自画像


・・・ウイキメディアより


<注記>ヤン・マティコ(Jan Matejko/1838-1893)


・・・クラクフに生まれたヤン・マティコは、1793年の第三次ポーランド分割で国家ポーランドが消滅し1918年に「第二共和国」として復活する迄の約120年間のほぼ半分に重なる苦難の時代を生きたポーランドの国民的画家で、クラクフのフロリアンスカ通りにある彼の生家は「マテイコ博物館」となっている(参照⇒http://www.culture.pl/en/culture/artykuly/in_mu_dom_matejki_krakow)


・・・「ポーランド分割」と呼ばれるマティコが生きた時代は、<ナポレオン戦争ナポレオン戦争後のウイーン会議(1814-15)による復古・統制〜特にロシア皇帝領の厳しい反動化〜対ロシア11月蜂起(1830年ワルシャワ士官学校下士官蜂起が発端)〜学校教育でのポーランド語禁止(特にロシア領、ドイツ領…クラクフ中心のオーストリア領では寛容政策が採られた)>という、まさに言語に絶する時代であった。


・・・ルーベンス、ヴェロネーゼ、ティントレットらの影響を受けたとされるマティコの絵の特徴は、そのスケールの大きさ、色彩の美しさ、そして迫真のリアリズム描写にあり、ポーランド人の多くは、マティコの作品である『タンネンベルクの戦い』、『(1791)5月3日憲法』などを通じてポーランド史の実像をイメージする。


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この時のポーランド王兼リトアニア大公ヴワディスワフ2世・ヤギェウォが率いるポーランドリトアニア連合軍は、主力部隊がポーランド人、リトアニア人、プロイセン系ドイツ人(プロイセン連合加盟諸都市の市民層)から構成されており、当時のトルンの主な支配層も他のバルト諸都市と同じくプロイセン連合に加盟したプロイセン系のドイツ人たちだった。そして、不十分な内容ではあったが、1411年に「第一次トルンの和約」が結ばれた。


1454年に「三十年戦争」(1618〜1648/チェコボヘミアベーメン)のプロテスタント反乱を契機に神聖ローマ帝国を舞台に展開された国際戦争)が始まると、トルンの市民ら(プロイセン系ドイツ人とポーランド人)はドイツ騎士団の城を徹底的に破壊したが、この時に新市街と旧市街が連結された。やがて、「第二次トルンの和約(1466)」でドイツ騎士団を含む全てのプロイセンが事実上ポーランド王国支配下に入った。


ポーランドスウェーデン戦争(北方戦争/1655-1661)」の結果、トルンを含むプロイセン地方は「プロイセン王国」(1701−1918/ホーエンツォレルン家が統治した王国で、現在のドイツ北部からポーランド西部にかけて領有し首都はベルリン)の領土となる。


その後、トルンを含むプロイセン地方は、「ナポレオン戦争」時代(1803 - 1815)に一時ナポレオンが創った「ワルシャワ公国」に編入されるが、ウィーン会議の決定(1815)で再び「プロイセン王国」の領土(1871‐1918はプロイセン王を皇帝に戴くドイツ帝国領)となり、第一次世界大戦後のベルサイユ条約 で漸くポーランド領に復帰(1919)した。


【画像】トルンの風景1


トルンのドイツ騎士団・城塞跡


・・・http://4travel.jp/traveler/joy555/album/10458779/より


コペルニクス大学(撮影、2010.7.18)



・・・ニコラウス・コペルニクス大学は、コペルニクスの生誕地・トルンに因み1945年に設立された北部ポーランドで最大規模の大学(11学部の総合大学、学生数・約4万人)で、1,368人の教師陣(教授ほか)を含め3,000人以上のスタッフを擁している(参照⇒http://www.umk.pl/en/)。


旧市庁舎前のコペルニクス(撮影、2010.7.18)



・・・コペルニクスの立像はトルンのこれ一つだけとされている。


コペルニクスの生家(撮影、2010.7.18)






聖ヤン(ヨハネ)教会


・・・http://fotogalerie.pl/fotka/2840721223763344s2,mwa66,Torun---Katedra-Sw.-Janow.htmより


・・・13世紀初めに創建されたトルンで最古のゴシック様式の教会で、コペルニクスがここで洗礼を受けた。


・・・アカデミズムの主流に反し地動説を唱えたニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus、/1473-1543)は、トルンの旧市街広場の一角にある家で誕生したが、父はポーランド人、母はドイツ人の裕福な商家であったとされる(画像はhttp://www.umk.pl/en/より)。


・・・当時の「ポーランドリトアニア同君連合王国」は、いわゆる国民国家ではなくポーランド王に従う多民族国家で、ポーランド人・リトアニア人・ドイツ人・チェコ人・スロバキア人・ユダヤ人・ウクライナ人・ベラルーシ人などが共存していたため、彼らの国家意識は現代人の国民国家意識とはかなり異なるものであり、それは強いて言うなら同盟連邦において一定の価値感を共有する市民意識であった。


・・・別に言えば、中〜近世におけるポーランドリトアニア国家(1386〜1569ポーランドリトアニア連合王国、1569〜1795ポーランド・リトアニア共和国)では、ポーランド語以外の言語を母語とする住民が6割、カトリック以外の信仰を持つ住民が5割を占める多民族・多言語・多宗教国家であった(現在はポーランド語が圧倒的多数派でカトリック教徒は9割を超える)。


・・・因みに、コペルニクスクラクフのヤギエウオ大学で学んだ頃の逸話として、母がドイツ人、父がポーランド人でトルン生まれのコペルニクスに対し周囲が“貴方は何処の国の人か?”と尋ねると、コペルニクスは“私は都市トルンの市民だ”と答えたとされる。


ヴィスワ川の風景(撮影、2010.7.18)




「トルンのバイオリン弾き」の銅像(撮影、2010.7.18)



・・・トルンには「ハーメルン(ドイツ)の笛吹き男」とまったく同じ話がバイオリン弾きの話として伝承されている。プロイセン地方でドイツ文化とポーランド文化が古プロイセン人らを介し同化・融合したことが想像される。



トルンの斜塔(撮影、2010.7.18)



コペルニクス大学の近くにある、プラネタリウム(撮影、2010.7.18)



同じく、刑務所(撮影、2010.7.18)



旧市庁舎(撮影、2010.7.18)





・・・14世紀に建てられた堂々たるゴシック建築の旧市庁舎で、塔の高さは40mある。現在、内部は博物館・音楽ホールなどに使われており、世界的なオペラ歌手(テナー)、彼の人生そのものと、その生きる姿勢が世界中の人々の共感を得るホセ・カレーラスの公演をPR中であった。


Jose Carreras - E Lucevan Le Stelle


Jose Carreras:Core N'gratto



精霊教会(撮影、2010.7.18)



・・・旧市庁舎の真向かいにある教会で個性的な尖塔が目立つ。


聖母マリア教会(1〜3枚目まで:撮影、2010.7.18)






・・・14世紀に建てられたゴシック様式の大きな建物・聖母マリア教会は旧市街広場の北西に位置している。が、その内部の祭壇は18世紀のバロック様式のものだ。(四枚目はhttp://www.ulicafotograficzna.pl/jp/foto/3264/より)。


【画像】トルンの風景2、ア・ラ・カルト(撮影、2010.7.18)

















2 マルボルクの概要


【画像】マルボルク城の遠景


・・・画像はウイキメディアより


マルボルク(Malbork、独Marienburg in Westpreussen)は、ポーランド北部・ポモージェ県にある(トルンから北へ約70km)人口約3.8万人の都市である。市内には中世ヨーロッパで最大級のゴシック城郭とされるマルボルク城(13世紀、ドイツ騎士団が本拠地として建設)が残っている。


マルボルクの市街は、ドイツ騎士団が1274年に建てたノガト川(ヴィスワ川支流)東岸の要塞(マルボルク城)の周囲に形成され、城郭と街の名は騎士団の守護者である聖母マリアに因んでマリーエンブルク(ポーランド語Malborg)と名付けられた


1466年の「第二次トルンの和約」後に、マルボルクはポーランド王領プロシアとなるが、1772年の「第一次ポーランド分割」ではプロイセン王国へ併合され、次いでマルボルクは1871年ドイツ帝国(1871-1918/プロイセン国王をドイツ皇帝に戴くドイツ連邦国家)領マリーエンブルクとなった。


第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、住民たちがドイツに残留するか新しいポーランド共和国に加わるかを1920年7月11日の国民投票で問われることとなり、その結果マリーエンブルクは東プロイセン・マリーエンヴェルダー州(ヴィスワ川が東西プロイセンの境界)に入った(画像はhttp://bit.ly/bSzVjxより)。


更に、第二次世界大戦の連合国側勝利とポツダム宣言(1945)によって、マリーエンブルクはポーランドへ復帰しマルボルクとなり、全てのドイツ系住民はポーランドの外へ追放された(この後のドイツ=ポーランド間の問題の経緯については、コチラを参照乞う⇒『ポーランドにおける少数派ドイツ人問題のその後=ドイツ・ポーランド間の歴史教科書対話に関するメモ』、http://www.polinfojp.com/kansai/pdrcznk.htm)。


ドイツ騎士団の概要


【画像】ドイツ騎士団創始者ヘルマン・フォン・ザルツァ像(マルボルク城内)


…ウイキメディアより


ドイツ騎士団(Teutonic Knights/武装騎士と修道士という相矛盾する二性格を併せもつ騎士修道会はヨーロッパ中世後期社会における混迷度の大きさの現れともいえる)のルーツは、1189年にリューベックブレーメン(ドイツ北部の港湾都市)の市民がスポンサーとなり、アッコン(イスラエル北部の都市)の近くで第三回十字軍兵士のために天幕張りの病院を創設したことにある。


この病院は後にヨハネ騎士団やテンプル騎士団に倣った騎士修道会の会則を作り、1199年にローマ教皇インノケンティウス3世の承認を得た。が、パレスティナキリスト教勢力の後退により聖地における軍事行動の可能性が消えたため、第4代の騎士修道会総長ヘルマン・フォン・ザルツァ(Herman von Salza)は王アンドラーシ2世からの招聘を受けてトランシルバニアのクマン族と戦うべくハンガリーへ移動した。


しかし、総長ヘルマン・フォン・ザルツァは、ハンガリーで独自の国家創設の姿勢をみせ神聖ローマ教皇とも通じる工作をしたためにハンガリー国王アンドラーシ2世と対立する派目となり、ハンガリーからの撤退を余儀なくされる。


が、折しも今度は、ポーランド・ピヤスト朝のマゾフシェ公コンラート1世から、ドイツとポーランド国境を流れるビスワ川の西岸(バルト海岸からやや南に入った地域)のクルムラント(歴史的故地/画像参照/Kulmerland、ポーランド語Chlumec)を原住民プロイセン人の侵入から守って欲しいと招聘を受けた(画像はウイキメディアより)。


総長ヘルマン・フォン・ザルツァは、ハンガリーでの経験から、あらかじめ手を打ち神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世から特許状(『リーミニの黄金印勅書』、1226)を得ており、クルムラントを神聖ローマ皇帝の権威の下に置く保障を取り付けていた。


別に言えば、これはドイツ騎士団が“野蛮な異教徒”(先住のプロイセン人)の土地を征服し領有(占有)する権利を神聖ローマ皇帝が保証したということであった。そして、ラント・マイスター(特定地域において総長代理的な最高指揮権を担う地方長官職)のヘルマン・バルク(Herman Balk)が指揮する騎士修道会軍はクルム,トルンなどに構築した城郭(城塞)を拠点にプロイセン人との戦闘を遂行し勝利を重ねた。


一方、総長ヘルマン・フォン・ザルツァはドイツを中心に宣伝活動を行ない、1233年にはプロイセンにおける都市および農村の一般土地所有者と上級土地所有者たる騎士修道会との間で彼ら相互のグローバルな視野に立つ経済的・法的関係を定めた「クルム特権付与状」(事実上のドイツ騎士団領創設の文書/既述)を交付し都市や農村へのドイツからの入植者を募り始めた。


このようにして、ドイツ騎士団は1283年までの50年以上の時間を効率的に使って征服地を拡げつつ原住民(先住のプロイセン人)には異教信仰を放棄させキリスト教への改宗を強要した。先住のプロイセン人は、このグローバルで圧倒的なドイツ騎士団の政治・軍事・経済的パワーの前で次第に血みどろの武力抵抗を諦めるようになり、彼らは主にドイツ人へ同化(プロイセン系ドイツ人化)する中で姿を消し去り、民族語であった古プロイセン語も殆ど消滅した(1466年のドイツ騎士団プロイセン領(黄土色の部分)の画像はウイキメディアより)。


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<注記>その後の古プロイセン語と古プロイセン人について


・・・15世紀にドイツ騎士団ポーランドリトアニア国王の封建家臣となり古プロイセン人の多くがドイツ人などに同化したあと、残った少数の古プロイセン人は再度の反乱を起こすがドイツ騎士団によって徹底鎮圧された。また、古プロイセン人がドイツ人、ポーランド人、リトアニア人に同化することにより古プロイセン語(ドイツ語、バルト語、スラブ語を繋ぐ言語と考えられる)は17世紀の終わりを迎える頃には完全に消滅し死語となった。


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マリエンブルク城(マルボルク城)は、この期間にドイツ騎士団バルト海沿岸地方征服の拠点として建設されたもので1274年に第一次建設が終わり、ドイツ騎士団は本拠地をここに置くことになった。


選挙で総長を選ぶドイツ騎士団は一種の神聖共和国であったともいえるが、その最盛期は14世紀で、西ヨーロッパへの穀物輸出と琥珀貿易の独占権で経済的豊かさを手中に収めつつハンザ同盟諸都市とはグローバルネットワークで強固に結び付いていた。


しかしながら、14世紀後半になると、バルト海沿岸の難攻不落の城塞・マリエンブルク城を本拠とする強圧的で残酷な支配、リトアニアでの残虐行為(人間狩りの娯楽ツアーを開催したり、リトアニア人奴隷の売買を行った)、ポーランド北部地方の専横領有(ポモージェ、ドブジェンなど)、マゾフシェ地方(ワルシャワを中心とする地域)への野心などを理由に、プロイセン諸都市や地方領主ら(ポーランド人よりプロイセン系ドイツ人が多かった)のドイツ騎士団への反感が高まった。


異教徒で野蛮人の国という名目でドイツ騎士団の残忍な侵略を受け続けていたリトアニアの君主ヨガイラは、1385年にポーランドを介して洗礼を受けキリスト教に改宗しポーランド女王ヤドヴィガと結婚した。また、敬愛するポーランド王ヴワディスワフ1世に因みリトアニア国王の名称をヴワディスワフ2世ヤギェウォ(ヤギェウォはヨガイラのポーランド語読み)とした(この同君連合はクレヴォの合同またはルブリン合同と呼ばれる/参照⇒http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a14_poland/poland.html)。


この<リトアニアキリスト教への改宗>という出来事により、バルト海南岸地域のキリスト教への改宗と教化が自らの重要な役割であり大義だと自認してきたドイツ騎士団は、その支えとすべき大きな存在理由を失ってしまった。そのようなグローバル環境の変化の中で、1410年にドイツ騎士団は、ポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ2世・ヤギェウォが率いるポーランドリトアニア連合軍に「タンネンベルクの戦い(1410)」で大敗を喫し、ヴィスワ川以西の西プロイセンを失った。


15世紀に入ると、ポーランドリトアニア連合王国の庇護を得た騎士団領内の各自治都市は一種の同盟を結ぶようになり、この互助的な当地域内における自治諸都市の同盟組織が「プロイセン連合」と呼ばれるものだ。やがて、東プロイセン(ヴィスワ側以東でケーニヒスベルク(現在はロシア飛び地内のカリーニングラード)を中心とする地域/かつて、ドイツ騎士団リトアニア侵攻をする時の前線基地となった所)もポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められたため騎士団総長はポーランドリトアニア連合国(国王)と封建関係を結ぶ臣下となり、これが事実上のドイツ騎士団の終焉であった。


【画像】20世紀初頭に描かれたマルボルク城(マリエンブルク城)の遠景


…ウイキメディアより


【画像】マルボルク城の風景ア・ラ・カルト(撮影、2010.7.18)














・・・「グルンヴァルトの戦い」(ドイツ名タンネンベルクの戦い/1410年にドイツ騎士団に支配されていたグルンヴァルト村とステンバルク村の間の草原での決戦)でポーランドリトアニア連合王国の軍が決定的勝利を収め、敗走した騎士団員はドイツ騎士団の防衛の要であるマルボルク城(マリエンブルク城)に立て篭もった。


・・・ポーランドリトアニア連合軍はマルボルク城を包囲し兵糧攻めを開始したが、この攻城戦の決着はつかなかった。その後、「第一次トルンの和約(1411)」がポーランドリトアニア連合とドイツ騎士団の間で締結され、ドイツ騎士団領ポーランド王の支配下に入ったが、マルボルク城ドイツ騎士団の居城として認められた。


・・・1440年に近隣の都市、貴族、僧侶らがプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟してドイツ騎士団と対立し、ポーランド王国ドイツ騎士団は再び戦争状態に入り(1453)、結局、1457年にはマルボルク城ポーランド王に明け渡された。


・・・そして、ポーランド王国に抵抗したドイツ騎士団の残党は1460年までに、この地方から一掃された。1466年にはポーランド王国ドイツ騎士団に最終的な勝利を収め「第二次トルンの和約(1466)」によって、この地方一帯は全てポーランド王国の領土となった。


・・・第二次世界大戦の末期(1945年春)にマルボルク城は、そこに籠ったドイツ軍と攻勢を掛けるソ連軍との激しい戦闘で殆どが破壊された。戦争終結後に「ヤルタ協定(1945)」でマルボルクがある東プロイセン南部はドイツ領からポーランド領になった。その後マルボルク城ポーランド市民の手で修復されたが今のところ大聖堂は未修復で修復作業は続けられている。


4 「無資格・竹内行夫元外務次官が最高裁判事、冤罪・村木元厚労局長が無罪判決、悪徳・日本振興銀行が破綻」に透ける<官僚絶対主義国家・日本>の真相


(1)「ドイツ騎士団」後日譚=プロイセン国王をドイツ皇帝に戴くドイツ帝国(1871−1918)への道


1−1 ドイツ騎士団国家からプロイセン公国プロイセン王国へ、そしてドイツ(第二)帝国の誕生


1510年にドイツ騎士団の第37代総長に選ばれたホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は、マルティン・ルターと面会(1523年)し感銘を受けたため、配下の団員とともに騎士団を離れルター派に改宗した。


更に、アルブレヒトは対立するカトリックの騎士団員をプロイセンから追放し、ドイツ騎士団国家に代えて、1525年にホーエンツォレルン家が世襲する世俗の(血統が続く)領邦国家プロイセン公国(首都、ケーーニヒスベルグ)をポーランド王の宗主権下に創設し自らが初代プロイセン公(アルブレヒト/在位1525-1568)となった。なお、ホーエンツォレルン家のドイツ支配はドイツ革命(1918-19)で最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位してワイマール共和国が成立するまで間、約390年も続くことになる。


この時、ドイツ騎士団国家によるプロイセン支配は歴史的な役割を担う場面から完全に消え去った。しかし、プロイセン公国では、やがてアルブレヒトの血統が絶えたため、同族のブランデンブルク選帝侯が公位を相続し、プロイセン神聖ローマ帝国の域外であったことから、後に王号の使用が認められプロイセン王国(1701 -1918/首都、ベルリン/なお、ベルリンは1871〜はプロイセン帝国の首都)となる。


因みに、騎士団国家の消滅後もアルブレヒトに追い出されたドイツ騎士団はドイツ南部の封土(ヴュルテンベルク地方)を中心にカトリック教徒のドイツ人により支持されていたが、1809年には世俗的な領土をすべて失い、第一次世界大戦ハプスブルク家の後援も断たれた。しかし、騎士団は一種の慈善団体となり今も存続している(参照⇒http://www.deutscher-orden.de/)。


ともかくも、このような経緯でベルリンを首都とし、今のドイツ北部〜ポーランド西部にかけて領土とするドイツの名門貴族ホーエンツォレルン家(ブランデンブルク選帝侯)支配下の強国、プロイセン王国(Königreich Preussen)が誕生することになった。


1640年にフリードリヒ・ヴィルヘルムブランデンブルク選帝候国の君主(プロイセン公/1640‐1688)となり、「三十年戦争」後のウェストファリア条約(1648)で、ポメラニア(ポモージェ/北はスウェーデン勢力下のバルト海、東西をオーデル川とヴィスワ川に挟まれた地域)の継承に全力を注ぎプロイセン公国ポーランド支配から解放したが、スウェーデンに西ポモージェを奪われてしまった。そのためフリードリヒの課題は軍事力強化となる(画像はhttp://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/topics-05-8-24.htmlより)。


そして、フリードリヒ・ヴィルヘルムケーニヒスベルクで起こった暴動も鎮圧して住民に忠誠を誓わせ最終的なプロイセンの支配権を獲得し、この時点でプロイセン地方はポーランドスウェーデンの圧力から脱し、プロイセン公国は自立した。選帝侯としては神聖ローマ皇帝の臣下であったが、既にブランデンブルクプロイセンは北東ヨーロッパにおける地位を築いていた。


1862年オットー・フォン・ビスマルクプロイセン王国の首相になると、プロイセン王国オーストリア帝国と同盟し、デンマークシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(シュレースヴィヒ、ホルシュタイン両公国を巡るデンマークとの対立)を戦って勝利し、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒとホルシュタインの両公国をオーストリアとの共同管理下に置くことになる。


やがて、1866年の普墺戦争ではオーストリアを破り北ドイツ連邦を結成し(小ドイツ主義を採り)、オーストリアをゲルマン(ドイツ)人国家の枠組みから追放した。1870年には普仏戦争ナポレオン3世率いるフランスを破ってパリへ入り、1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世(Wilhelm I)がドイツ皇帝となり、ここに「ドイツ帝国」(Deutsches Kaiserreich/ドイツ第二帝国/ドイツ統一連邦国家)が成立した


1−2  17〜19世紀のドイツ法曹界プロイセン憲法の誕生、その日本への影響


17〜18世紀に入ると、「ローマ法の継授」(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070519)の流れとともにホッブス、J.ロックらの自然法思想、フランス・ルネサンス文化の余波、フランスのユグノーたちのドイツへの移住、オランダ独立戦争(1568-1609)の影響とオランダ典雅法律学(Elegante Jurisprudents/人文主義的な視野の広い法解釈学)、モンテスキューの法の精神(三権分立論)など、法解釈と学問についての多様な考え方がドイツへ流入する。


その結果、この時代のドイツ法学は「国家理念と法哲学の融合によって人間精神の中に国民主権についての深い理解と憲法の授権規範的性格を定着させるという意味での近代的法観念」を発見する寸前の段階にあった。そのため、この時代は人間的な近代へ向かおうとした「ドイツ法学の揺藍期」と見なされている。


しかし、19世紀に入ると、プロイセン王国の啓蒙専制君主の時代(フリードリヒ2世)から「ドイツ(第二)帝国」の初め頃(19世紀初頭/ヴィルヘルム1世、2世)にかけてのドイツでは、近代法形成のルーツとして「民族の精神」を仮説するフリードリヒ・リスト(歴史経済学派の先駆者)の「歴史法学」がドイツの法曹と法学界の傾向を支配するようになる。


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<注記>フリードリヒ2世・大王(プロイセン王、啓蒙専制君主/Friedrich 2/ 1712−1786)


その頃のプロイセンは、強力な土地貴族(ユンカー)が農民の賦役労働を使って大農場を経営するとともに、軍・官僚の上層部を彼らが独占していた。フリードリヒ2世は、封建的社会から近代的市民社会への脱皮を目論みつつ「重商主義と農民保護政策」および「軍と中央官僚制の改革」(司法改革)を強力に進め、ヴォルテールらの啓蒙思想に学び、自らを“国家の第一の下僕”と称す典型的な啓蒙専制君主(上から民主主義を下賜する国王)であった。


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ところで、この「歴史法学」の創始者たるF.K.サヴィニー(F.K.von Savigny/1779−1861)は、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の懇請を受け「立法改革相」(実質的な宰相)に就任し、彼が逝去した1861年にはその功績を記念する「サヴィニー財団」が創設され、ここからは今も続く法史学雑誌「Zeitschrift der  Savigny‐Stifnung f. Rechtsgeschichte」(参照⇒http://www.fachzeitungen.de/seite/p/titel/titelid/1008936214)が刊行されている。


たしかにサビニーの功績はこのように偉大なものであるが、サビニーの思想の根本には歴史を遡れば民族と法律が協働して法形成に参与した時代(慣習法の時代)がある”という基本があること、およびサビニーが歴史と法の関係について次のように両義的な言葉(国家の主権者は正統な国王かor一般国民か?)を残しているのを見逃すべきではない。・・・『法の素材は国民の全ての過去によって与えられており・・・途中略・・・それは国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される』


また、もう一つ忘れてならないのは、19世紀ドイツが“真の統一国家を急ぎ模索する中で過剰なナショナリズム(民族国家主義)が沸騰した時代でもあった”ということだ。無論、この背景には、フランス革命の余波(ナポレオン戦争)とイギリスの産業革命が刺激となり、近代的な統一国民国家を急いで実現しようとする焦りの如き意識がドイツ人の中に高まったということもある。


そのように純粋な「ドイツ民族精神」の高揚とは背反することなのだが、1789年の大革命によるフランスの国民国家成立に遅れをとった当時のドイツの人々が精神の拠り所としたのが、すでに遠い昔の「ウエストファリア条約(1648)」で消滅したはずの、多民族国家たる『中世ドイツ(第一)帝国』(神聖ローマ帝国)の「栄光」であった。


しかも、このように混沌たる状況の中でこそ、偉大なるプロイセン・ドイツの法学者・宰相サビニーは、「ゲルマン民族の純血と伝統精神への激しいまでの憧憬」と「神聖ローマ帝国の栄光に満ちた国制の復権」という二つの政治的原理をアウフヘーベン(Aufheben)することで、プロイセン・ドイツのナショナリズムに新たな熱気を吹き込む「新しい国家理念の創造」に成功したのだ。


そして、誤解を招かぬように言わねばならぬが、この時代のプロイセン社会の中には既に「ナチズムに親和するような空気」が微かながらも漂い始めていたのである。ただ、(ここで深く立ち入る余地はないのだが・・・)、「民族の歴史」や「民族の精神」そのものは悪でも何でもない当然の存在であり、それを<民族文化と歴史の総体>から切断して純粋培養しようとするような政治哲学、あるいはアカデミズムの立ち位置こそが問題と考えるべきなのだ。


ともかくも、このような空気の中で、やがて1850年(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニーのとき)に、王権に対する「授権規範性」が意図的に排除され、「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れと「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベンした「新しいプロイセンナショナリズムの熱気」(ナチズムへ向かう予兆のような空気)が仕込まれた、あの「プロイセン憲法」が制定されたのであった(1871から、ドイツ帝国の開始とともにプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝を兼ねることになる)。


この憲法の大きな特徴は次の3点(★)にあるが、やがて、この独特の「プロイセン憲法に潜むナチズムへ向かう予兆のような空気」が、当時のプロイセンを訪ねた伊藤博文らを介して「大日本帝国憲法」のなかに流れ込むことになる。因みに、下記の三項(★)の中で<国王(皇帝)>を<天皇>に読み替えれば、そのままで「大日本帝国憲法」の根本理念となることにも驚かされるはずだ。例えば<国王(皇帝)の大権>は<天皇の大権>と同義になる。


★国王(皇帝)の権力は神の恩寵によって授与されたもの(神権政治としての最高権力)と規定されている。


立法権は国王(皇帝)と両議院(衆議院貴族院)が共同でつくるものである。(見かけだけの立憲君主制


★しかし、行政権は国王(皇帝)のみにあり、国王(皇帝)は法案の拒否権を持つ。また、国王(皇帝)は緊急勅令を出すことができ、大臣を任免する大権を持つ。(国王(皇帝)の権力はすべての政治的権力の頂点にある)


ともかくも、1882年(明治15)に伊藤博文らは、「大日本帝国憲法」(1889年公布)起草の参考とすべく、憲法事情及び西欧各国の諸制度(軍制、法制、官僚制、機密事務を扱う官房など)の調査を目的に、ある意味で、このように異様な政治的空気が満ちた時代のプロイセン王国(その国王がプロイセン・ドイツ第二帝国の皇帝)を訪ねたのであった。


その頃は、丁度プロイセン王国を中心とする「プロイセン・ドイツ第二帝国」が成立してから10年ほど経過したばかりの時代で、初代皇帝ヴィルヘルム1世の治世であった。ドイツの統一は、ベルリンとウイーンの「三月革命」(1848/同年のフランス「二月革命」の影響)以来のドイツ市民層の悲願となっていた。しかし、「三月革命」と「プロイセン帝国憲法紛争」(1862-66/関連で下記<参考1:プロイセン憲法紛争>と<参考2:「プロイセン帝国憲法紛争」の「大日本帝国憲法」への影響>を参照乞う)の挫折によって、ドイツ統一のリーダーシップは、既に政治的な覇権を掌握したプロイセンの王権(プロイセン・ドイツ第二帝国・皇帝)へ移っていたのである。


<参考1>プロイセン憲法紛争


・・・「プロイセン憲法」が出来た後の1860年プロイセン政府(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニー)は、軍事力強化のため軍制(及び官僚制)改革案を議会へ提示した。


・・・が、下院で多数派の自由主義者が反対し、これが「政府」対「下院」の激しい対立を齎した。これは、議会の統制下に軍隊(及び官僚)を置くか否か(軍事予算の決定権についての議会と軍隊(及び官僚)の主導権争い)という問題が本質であった。


・・・この後、ユンカー出身のビスマルクが宰相に就任すると、この対立が一層激化したが、「プロイセン・オーストリア戦争」の勝利で軍備(及び官僚制)強化の成果が実証されたため、やがてビスマルクの与党・自由党指導力を掌握する。


<参考2>「プロイセン憲法紛争」の「大日本帝国憲法」への影響


・・・「プロイセン憲法」をめぐる、このような紛争の経緯が、憲法起草関連の調査・研究のために、遥々と遠い日本からプロイセンを訪ねた伊藤博文らに大きな影響を与えたことは間違いがない。


・・・つまり、「大日本帝国憲法」の下で、天皇大権を背に帯びた軍部(及び官僚制・官憲、機密事務を扱う官房)が暴走し始めたとき、もはや国会も政府も止めることができなかった(事実上、国会は軍事予算への統制能力を失った)。


・・・しかも、このことが日本の「太平洋戦争」突入への道を運命づけたことは明らかであり、それを実際に可能ならしめたもの(「大日本帝国憲法」の根本に位置するものの現実的な姿)は、他ならず「万世一系の神格天皇の非常大権」と「優秀な単一民族である大和民族の純粋な民族精神」及び「優秀な軍隊」と「優秀な官僚組織・官憲・官房」ということであった。しかも、このような「大日本帝国憲法」型の官僚組織の本性は、現代日本の官僚組織にも巧妙に引き継がれているのだ。


(2)プロイセン憲法流「神格天皇」摩下の認証官が実効支配する官僚下賜型「名ばかり民主国」ニッポン


民主党代表選の直前にたて続けに現れた「無資格・竹内行夫元外務次官が最高裁判事、冤罪・村木元厚労局長が無罪判決、悪徳・日本振興銀行が破綻」には、メディアがそれを指摘することは決してないのだが、ある共通した原因が隠れている。それはあの「日本国憲法の授権規範性と三権分立の原則を無視(憲法違反を犯)して《暴政の無数の子だね》を撒き散らした《小泉クーデター劇場》」のことだ。


しかも、《小泉クーデター劇場》が悪質だったのは、日本の政治体制が民主主義的な議員内閣制とは名ばかりの「外見的立憲君主制」であることを作為で悪用したという点にある。もっとも、ヒトラーナチス政権が誕生した時と同じく、善良であり過ぎた日本国民が《小泉クーデター劇場》に対して圧倒的な支持(コイズミ・さん、ステキ!の黄色い声援ほか)を与えてしまったことは周知のとおりだ。


そして、このように日本国民が“善良”であり過ぎることの具体的意味は、いやしくも成熟した民主主義国家の主権者たる国民であるならば当然のこととして持ちあわせるべき、以下の「四つの権力分立意識」を十分に理解すべきことを殆ど自覚せず、今もって《小泉クーデター劇場》の時と寸分も違わぬ低レベルな“他人任せ意識状態”のままだということだ。


A 権力集中によって権力が濫用され、結果的に国民の自由が侵されないように国家権力から国民の自由を守るという意味で自由主義的であることの重要性についての理解(これは、決して新自由主義的な意味での自由原理主義ではない!)


B 権力者どうしが、お互いの権力を抑制し合い小さくする方向に働くという意味での消極的であることの意義(場合によっては客観的で冷静な判断が求められること)についての理解


C 国家権力及びそれを行使する人間に対する不信任、つまり何事につけ先ず疑ってかかるという意味で常に懐疑的であるべきことについての理解


D どのような政治体制のもとでも当てはまる原理を確保するという意味で中立性の役割についての理解(ここから弱者への配慮のような観念が生まれる)


特に、政治家・高級官僚らに対する<評価の眼=チェック・ポイント>の中に、この「四つの権力分立意識」を持たぬことは致命的であり、それこそが日本国民の<親方日の丸>的な一種の呑気さと付和雷同性、あるいは底しれぬ無責任さやエゴイズム(=自分さえ良ければよいという意識)となって表れているようだ。


ところで、今ここで注目される四つのケースについて、一部のブロガー、ネット掲示板ツイッターなどでは話題になっているもののリアル社会やメディアでは殆ど無視されていると思われることに、例えば次のようなことがある。


●「無資格・竹内行夫元外務次官が最高裁判事 関連参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100908


・・・竹内行夫元外務次官が司法試験をパスした法曹資格を持つ裁判官でない行政官出身であることは、一定枠内で行政官等からの登用が許されている(裁判所法第41条)ことから問題にならない。無論、このような登用基準そのものについての疑念は残る。


・・・問題なのは、アメリカンスクール(アメリカ御用達人脈グループに属し、極めて政治的に動く人々の仲間)に属す竹内行夫元外務次官が小泉政権イラク戦争支持やイラク派兵を進めた張本人で、イラク戦争支持の日本政府へ抗議の意志表示をした天木直人・元レバノン大使をクビにした張本人(当時の上司にあたる人物)でもあるということだ。なお、竹内行夫氏は麻生内閣の指名で2008.10.21に最高裁判事に就任している。


・・・また、竹内行夫元外務次官の関わりは不明だが、「機密文書、溶かして固めてトイレットペーパーに外務省」というタイトルの記事が2009年7月11日の朝日新聞に掲載されたことがある。この記事の中には【60年の日米安保条約改定にともなう「核密約」関連文書の破棄を幹部が指示していた】という無視出来ない記述がある(参照⇒
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/e58f1e5ec14b335505a9652d849bb981)。


●「冤罪・村木元厚労局長が無罪判決」 関連参照 → 『<郵便不正事件>村木元局長無罪判決 検察の構図、完全否定』http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100910-00000109-mai-soci


・・・特捜検察による冤罪シナリオによる特異な悪意ある演出という見方だけでなく、この問題には様々な政治的背景が透けてみえるので、そのような角度からの十分な追跡調査と検証が今後は更に必要と思われる。


・・・例えば、そもそも検察の狙いは村木元局長ではなく民主党の某国会議員がターゲットであり、小泉政権中枢に居た某黒幕とされる人物の暗躍がツイッター情報などで流れたこともある。


・・・また、この事件についての全てのメディアの報道姿勢には何か不自然で奇異なものがあり、図らずも<検察⇔メディアの癒着>が傍証されたようにも見える(参照、下記ツイッター情報)。


susau 2010.09.11 21:48:28RT @mitskan: 朝日新聞は自らの調査報道が村木局長の逮捕に結びついたと2010年版会社案内P5で自慢。 http://ow.ly/2CGWU なのに本日の社説では「村木氏無罪―特捜検察による冤罪だ」と主張。 http://ow.ly/2CGXW …あいた口がふさがらない。


sorons 2010.09.11 21:46:45
RT @IizukaKiyotaka: 村木元局長は会見の最後で報道の問題点も指摘した。「逮捕前後の乱暴な取材がつらかった。検察情報を書くなとは言わないがそれ以外何を書いてくださったか考えていただきたい」と述べた http://bit.ly/bDWVmH テレビなどマスコミの誹謗中傷を止めさせる告訴ができるといいのだが


●「悪徳・日本振興銀行が破綻」 関連参照 → 『振興銀破綻:債務超過1804億円 提携交渉望み絶たれ』、http://mainichi.jp/select/biz/news/20100911k0000m020107000c.html


・・・この「日本振興銀行が破綻」こそ、あの《小泉クーデター劇場》の「悪の巣窟」にストレートに繋がる問題だと思われる。なぜなら、既に解任・逮捕された日本振興銀行木村剛元会長は《小泉クーデター劇場》の旗振り役であった竹中平蔵と小泉元首相に直結する人物であるからだ。


・・・木村剛元会長は《小泉クーデター劇場》の新自由主義に沿った金融行政の指南役であることが自他ともに認識されていたため、当時の新聞・テレビから引っ張り凧の状態であった事実については、どれほど記憶力が希薄な向きでも脳裏の片隅にその残像が残っている筈だ。


・・・ともかくも、この極悪詐欺師を、《小泉クーデター劇場》の「ブレーン」に据え、日本の金融行政を捻じ曲げたのは竹中平蔵元金融・経済財政担当大臣その人であることを我々は決して忘れるべきではない。


・・・なお、《小泉クーデター劇場》と《日本振興銀行破綻》の奥に潜む闇の深さ、その不気味さについては下記◆を参照乞う。


◆小泉・竹中改革の“モデル”が破綻―― 「木村剛銀行」事件の底知れぬ闇、http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=277


◆「日本振興銀行事件 作家・高杉良が斬る」 “竹中平蔵木村剛の大罪”、 http://blogs.yahoo.co.jp/y2001317/41691890.html


◆小泉竹中氏は国民に日本振興銀行設立の説明責任を果たす義務があると思います、http://blogs.yahoo.co.jp/hattor123inakjima/26138927.html


(3)観念同時とポーランド伝統のシュラフタ民主主義についての連想


「観念同時」という余り聞き慣れぬ言葉がある。これをアバウトに説明してしまえば、それは高度に多次元的に抽象化された概念、あるいは多様で多次元な現実認識などについての綜合精神作用によるリアリズム観ということだ。例えば、この地球上には、時差を超えた状態で多くの人間が、いま現在、この瞬間にも“同時多発的”に生活していることを理解するということがある。


そんな当たり前のこと言うなといわれそうだが、コペルニクスの地動説が公認され、かつ広く理解され、それが地理上の発見と大航海時代の冒険家らによって十分検証される以前の時代の殆どの人々にとってみれば、時差を調整した共通時間は必ずしも当然視できることではなかった筈だ。つまり、ある程度の教育を受けて自らの思考習慣が身に付き、それに強い意欲が伴わなければ観念同時の精神環境を高めつつ持続させるのは容易ではないことなのだ。


つまり、「人種や宗教の違い、多様な社会階層、多様な経済活動、真善美の価値、共通善、絶対王政と王権神授説、暴政、クーデタ、革命、国民国家、国家主権、民主主義、国民主権三権分立、議会制民主主義、立憲君主制、公共、市民社会自由主義新自由主義、資本主義、市場原理主義、無政府資本主義、共産主義社会主義…」などを日常生活に関係あるリアリズムとして持続的に意識することは平易なことではないということだ。


ところで、慧眼にも19世紀ポーランド・ロマン派の詩人ユリウシュ・スウォヴァツキ(Juliusz Slowacki/参照→http://hektor.umcs.lublin.pl/~mikosmul/slowacki/)が「ヨーロッパの心臓」と名付けた(出典:沼野充義・監修『読んで旅する世界の歴史と文化、中欧』‐新潮社‐)ポーランド(首都ワルシャワ)は、ヨーロッパの中で最も複雑で熾烈な歴史(ドイツ・フランス・ハプスブルク(オーストリア)・プロイセンソビエト・現代ロシア・現代米国など複数の歴史的覇権国・宗主国との複雑な関係)を今も持ち続ける国だ。


現代のポーランド共和国(人口、約3800万人)の約97%(3700万人)はポーランド人(西スラブ人)の国であるが、歴史を紐解けば、それは幾度かの国境線の変更、周辺列強諸国との攻防など(列強諸国・多民族・多宗教間の鬩ぎ合い)の中での凡ゆる過酷で限界的な政治・戦争・殺戮・ジェノサイド・ホロコーストらの繰り返しという真に苛烈な歩みであった。また、この様に複雑極まりない歴史のプロセスで漸くカトリック教徒国としての体制が確立したのは第二次世界大戦終結してからである。


このように余りにも過酷な千年以上に及ぶ“歴史的意味での多民族国家ポーランド”が、そのプロセスで二回も国家消滅の経験を経ていることは周知のとおりだ。一回目は10世紀に勃興したポーランド(勃興期(10世紀)〜1384ポーランド王国、1385〜1569ポーランドリトアニア連合王国、1569〜1795ポーランド・リトアニア共和国)が1795年の第三次ポーランド分割で消滅し、二回目は独立を果たしたポーランド第二共和国(1918〜1939)がナチス・ドイツの侵攻で崩壊(残った東部地域もソビエト軍の侵攻で1941年までに消滅)した。


また、18世紀後半に支配身分であったシュラフタ(士族)層の中で「ポーランド国民」の自覚と意志(シュラフタ民主主義と呼ばれる一種のナショナリズムの意志)が強化され、第一次ポーランド分割(1772)の直後に「国民教育委員会」が創設され、<ポーランド語を教育言語とする学校改革>が行われたことは、特に日本では余り知られていない。


ところが、このことこそが現代の民主国家ポーランド誕生の基盤的意味での布石となったのだ。また、このことには、ポーランド国家づくりの主柱(国民主権地方分権、弱者救済)を支える必須条件として教育を最重視するよう勧めた仏の啓蒙思想家J.J.ルソーの貢
献も大きいと考えられる(参照、下記◆)。


◆[机上の妄想] 点描ポーランドの風景、2010.7、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100724


一方、奇しくも民主党の代表選を目前とする、ある意味で不可解なほど絶妙のタイミングで<無資格・竹内行夫元外務次官が最高裁判事、冤罪・村木元厚労局長が無罪判決、悪徳・日本振興銀行が破綻>などの問題が相次ぎ噴出したことには、「日本国憲法の授権規範性と三権分立の原則を無視して《暴政の無数の子だね》を撒き散らした《小泉クーデター劇場》」と言う余りにも派手で“ケバくてキモい共通原因”の他に、言い換えれば、更にその奥底にシッカリと潜む魔物が居るということだ。


それこそが、遥か遠い昔の<13世紀、ドイツ騎士団による古プロイセン人とリトアニアポーランド人らへのジェノサイド行為に始まり、19世紀のプロイセン帝国憲法で集約・大成され、更に伊藤博文らの手による「大日本帝国憲法」(1889年公布)→「日本国憲法」への流れで伝播・偽装・注入された王権神授説型の官僚制(並びに軍制)>の伝統ということであり、その官僚制伝統(絶えず実効的出番に備えつつ日本の政治と国制の奥底にヒッソリと潜む魔物)の強かさは、恰も「多剤耐性菌」のDNAに似ているとも言えそうだ。


例えば、「日本国憲法の授権規範性と三権分立の原則を無視して《暴政の無数の子だね》を撒き散らした《小泉クーデター劇場》」に日本政治の実効権力たる中枢官僚機構(特に、財務省金融庁、司法・検察、外務省ほか)が、一般国民に知られぬよう密かに阿吽で協力した(例えば、検察と裁判所の裏金問題については、同じ実効権力側に身を置きつつ自らも機密費で汚染する新聞・TV等メディアは気付いていたが知らぬふりを決め込んだ)ことは、最早周知のとおりだ。


つまり、彼ら日本のエリート層に属する人々が国難に襲われるイザトいう時に真っ先に意識するのは国民主権ではなく、未だに“神格天皇”の存在だというのが、日本政治のDNAに潜む“プロイセン帝国憲法流の王権神授型国体遺伝子”であり、それを実効的・独占的にに差配するのが「認証官」を頂点とする官僚制度である、と言う訳だ。しかし、見方しだいではあるが、これは市民革命→民主国家建設のプロセスを踏まず、神格天皇からの<下賜型民主主義に甘んじてしまった日本エリート層>の文化的劣等意識の逆説的な現れと見なすこともできそうだ。


一方、このような<日本エリート層の文化的劣等感>の対極にあるのがポーランド伝統の「シュラフタ民主主義意識の伝統」(一種のノブレス・オブリージュ)だ。シュラフタは所謂「騎士(士族)階層」(彼らの中で領地・財力で傑出した立場がポーランド貴族)であるが、彼らには領地の大小、あるいはその有無の別を問わず対等(国王が召集するセイム議会における対等な1票の権利を持つ者)に扱われるという伝統があった。


現代民主主義と異なり、下層民は別としてもシュラフタ・貴族層の間では全く平等な意識が定着し、この状態(フランス革命に比べると、少なくとも実に200年以上も先行する)には、1918年のポーランド共和国独立まで約300年以上も続いた実績があり、これが「シュラフタ民主主義」と呼ばれる、他国に先駆けたポーランド独特の政治的伝統であった。しかも、この伝統は、1918年にシュラフタ身分制が廃止された後も精神文化としてポーランド社会のなかに残り続けている。


このように余りにも異質な「民主主義の形=シュラフタ民主主義」が我々一般の日本人にとって分かりにくいのは、ポーランドが現代民主主義国家を実現するまでの過程がイギリス・フランスに代表される「絶対王政啓蒙思想→市民革命→・・・」とは全く異質なものであることに原因がある。


しかし、<シュラフタ民主主義の歴史と、その現代的意義>については、もはや当記事のスペースがなくなったので稿を改めて書くことにするが、最もその特徴的な直近の現象を付記しておく。


それは、「社会主義体制崩壊→円卓会議→自由選挙実施→共産党独裁政権崩壊→非共産党政権誕生→急激自由化政策と財政改革(格差拡大)→中道左派へ回帰(社会的弱者への配慮)→中道政権へ回帰→EU加盟と現代民主主義確立→現在に続く欧州でトップクラスの経済成長を確保」のプロセスで機能したものこそが“現代的意味” で国民主権へ十分に配慮したシュラフタ民主主義の伝統であるということ、別に言えば、それは一部特権階層の民主主義であったシュラフタ民主主義そのものが観念同時レベルで今も進化しつつあるということだ(ポーランドの欧州でトップクラスの経済成長等については下記★を参照乞う)。


★点描ポーランドの風景/ポズナン編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100901


ここで観察されるのは、シュラフタ民主主義の伝統を誇るポーランド・エリート層の卓越した「観念同時」的な精神環境が現在も重要な役割を果たしているというポーランド政治の姿だ。それは<未だに下賜された民主主義を下々へ伝達する仕事に甘んじる現代日本における中央高級官僚に代表されるエリート層の政治文化的な意味での劣等意識の惨めさ>とは大違いである。


ともかくも、そのようなポーランドの政治・経済の現実が評価されたためか、一つの「プラトー状態」に到達したともいえる現在のEU欧州連合)自身が、その東欧における地政学的役割をも含めて今後のポーランドの発展に大きな期待をかけていることが指摘されている。


【エピローグ動画1】Lara Fabian - Pour que tu m'aimes encore (Live HQ)


【エピローグ動画2】Lara Fabian - La Difference (Live TV5)