toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

虚構モンスター化した「日本司法」軌道修正の要は「取調の可視化・推定無罪」の国民啓蒙(人間への気遣いを失った司法の革新)

toxandoria2010-10-11



【プロローグ画像】プラトンのプロフィール


・・・ラファエロアテナイの学堂』部分、この画像はウイキメディアより/モデルはレオナルド・ダ・ヴィンチとされる


・・・Leonardo da Vinci. Self-Portrait1512 Red chalk on paper. Biblioteka Reale, Turin, Italy』、画像はウイキメディアより


(プロローグ)


■公(国家)は宿命的に“多数派国民が悪でも善でも”常に善であるので多数派の方向を左右するのが第四権力たるメディアの役割


清水正義:ナチ犯罪処罰の論理構造 「公」の無答責・「私」の断罪、http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/essay1/essay1-4.htm』より部分転載


・・・前部分、略・・・


処罰される対象が「公」になり得ないのは、「公」が実体を持たない抽象的な存在であるからである。同時に、しかし、「私」が処罰対象になる場合にも限界がある。「私」は社会を構成する個人から成り、「公」による処罰対象となるが、しかし「公」は自らの存立基盤である「私」の大部分を処罰することはできない。「私」が「公」に対して自らを処罰する権能を与えるのは、そうすることによって「私」自体の存立を保持安定させるためであるが、「私」の大部分が処罰されるということはそれ自体自らの存立を否定しかねないからである。だから、処罰される「私」は常に少数者であり、大多数は処罰する「公」の権威に震えながら、外見上はその支持者、崇拝者として振る舞う。


・・・途中、略・・・


戦後ドイツにおいてナチ犯罪を個人犯罪視する背景には、「公」の意思の明白な表明としての司法機関によるナチ犯罪処罰がある。これがドイツにおける「過去の克服」の一つの特徴であり、これが日本で全く見られないことが、ドイツと日本の過去の克服の質的相違となって現れている。日本において「公」の意思としての戦争犯罪処罰がなされていないことは、「私」たる日本国民個々人の戦争犯罪違法意識の欠如に結果していると言っても過言ではない。



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●「法務省が証拠品フロッピーディスク(FD)の改ざん事件で10月10日午前に前田容疑者(元主任検事)を懲戒免職処分とし、同日の午後には証拠隠滅罪で、同容疑者を大阪地裁に起訴した」ことが発表された(参照⇒http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101011-00000032-jij-soci)。


●しかし、「第五検察審査会の小沢強制起訴議決そのものに重大な錯誤・欠陥・違法性があること」、「検察庁・裁判所の両司法組織に裏金問題があること」は一向に報道される気配はなく、ただ必死で揉み消そうとする空気が漂っているばかりだ。


●が、ズバリ言えば、未だに多数派とは言えぬネット・メディアと一部の週刊誌は別として、いわゆる“未だに多数派を自覚する”一般の新聞・テレビ等の記者クラブメディアなど、および“自分は未だに多数派の仲間だと自覚する”一般国民は、実は薄々と「司法・検察≒国家の犯罪」を感じつつも、それは外見上は“公に存在しないもの”と見なし無視し続けている。


●残念ながら、多数派の日本国民のこの様に卑怯な傾向をもたらす原因は、プロローグが指摘するとおり、『日本において公の意思としての戦争犯罪処罰がなされていないことは、私たる日本国民個々人の戦争犯罪違法意識の欠如に結果していると言っても過言ではない。』ということに尽きるであろう。


●それにしても、このように宿命的な<国家(公)>と<国民一人ひとり(個)>の基本的在り方に多大な影響を与える我が国の新聞・テレビ等の主要メディアから<真実を伝え、第四権力の立場で誤った国家(及び国民)を批判する>という強い使命感(意志)と責任感が、残念ながら掻き消えているのが日本の現実だ。


●その意味で、今の日本はナチス・ドイツ型または北朝鮮型あるいは中華人民共和国型のファシズム的空気に最接近しつつあると言えるだろう。


・・・・・以下は、下記記事◆の第四章を改題し、かつ加除・修正・補筆して転載するもの・・・・・


◆2010.10.09/市場原理型「司法改革」の呪縛で検察審査会の欠陥(分り易さを演ずる情報の非対称性の罠)に国民主権を売却した司法の病理、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101009


今や「小沢とカネの問題」の捜査プロセス上の一つの到達点である「東京第五検察審査会の小沢強制起訴議決」からハッキリ見えてきたことがある。それが、もはや小沢さんが好きだ嫌いだの次元を超えて、遍く我々一般日本人自身の人権侵害に直結する問題だということである。


それは、日本の司法が西欧中世の魔女裁判の如く文盲層多数派(今で言えば無関心層多数派)の意思を思うように操作・誘導するための実効権力の道具たる「虚構モンスター」と化したことを意味する。そして、その「虚構モンスター」と化した司法制度の補佐役がイメージ戦略と印象操作を得意とする日本のマスメディア(関係者メディア)だということになる。


報道の歪み(メディア・スクラム報道への過剰傾斜、談合&横並び的な情報取捨選択姿勢)は酷くなる一方だが、最早そこには「実効権力」の隷属機関に甘んじつつ頽廃したメディア犯罪の匂いすら漂っている。


以下▼によれば戦後60年を超える日本司法の歴史は事実上の退行史であったが、その度合が急に亢進したのは新自由主義で司法改革を加速させた第一次小泉内閣以降のことだ。


▼ドイツ・日本司法の比較論考、「日本司法の失われた50年」の成果こそが(検察庁大阪地検)特捜部崩壊の原因、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101002


下(1)の引用は【2001年10月14日・対日規制改革要望書/法制度および法律サービスのインフラ改革】の一部分である(参照→http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0025.html)。


(1)−1『 日本の経済回復と経済構造の再編を促進するには、日本が、国際ビジネスと国際投資に資する、また規制改革や構造改革を支援する法的環境を整備することが極めて重要である。日本の法制度は、商取引を促進し紛争を迅速に解決し、日本における国際的法律サービスの需要に応えられるものでなければならない。 こうした課題に対処するため、日本は、法制度が容易に利用でき、また迅速かつ効率的に機能するよう、抜本的な改革を行う必要がある。


(1)−2 米国政府は、日本がすでに多くの重要な法制度の改革に着手していることを認識している。司法制度改革審議会は、「司法制度改革審議会意見書‐21 世紀の日本を支える司法制度」と題する意見書の中で、司法制度の改善に向けて多くの重要な提言を行っている。日本政府にとって重要なことは、効果的な法律案を迅速に準備し成立させることで、こうした提言内容を実行するための断固たる措置を取ることである。米国政府は、日本政府が、この目的のために「司法制度改革本部」を設置し、司法制度の見直しを規制改革の優先課題の1つとして取り上げることで、そうしたプロセスを開始したことを認識する。 』


次に、同じく下(2)の引用は【2001年10月14日・米国の規制改革及び競争政策に関する日本国政府の要望事項(冒頭)】の一部分である。、これは、日本からアメリカへの要望という形になっており、外形的には日米相互の要望が対等でパラレルな補完関係にあるように見える。しかし、各項目を具に読めば分かることだが、明らかに宗主国アメリカから属国・日本への国家改造計画の押し付けに偏っていることが分かる。


(2)『 小泉総理とブッシュ大統領は、2001年6月30日のキャンプデービッドにおける日米首脳会談において、両国及び世界の持続可能な成長を促進することを目的として、「成長に関する日米経済パートナーシップ」の設立を発表し、その中で、「規制改革及び競争政策イニシアティブ」(「改革イニシアティブ」)の立ち上げに合意した。この改革イニシアティブは、97年以降4年間にわたり行われてきた「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアティブ」(「強化されたイニシアティブ」)の成功裡の終了を受け、重要な改革が行われつつある主要な分野及び分野横断的な問題に引き続き焦点をあてることを狙いとして新たに設置されたものである。』


その後、(1)の中の「司法制度改革本部」は、当時の小泉首相がリーダーシップを発揮した「経済財政諮問会議」などの影響を受けることとなる。つまり、“諸外国と比べて当時の日本の裁判は余りにも時間がかかりすぎ、こんな手法はビジネス界では殆んど通用しないということであり、それに追い打ちをかけたのが財界および新自由主義を信奉する「経済財政諮問会議」の経済学者、竹中平蔵本間正明八代尚宏らであった。


一方、法曹の仕事の基本は言うまでもなく「論理」を駆使することだが、そもそも「法曹の論理」は一般の「行政またはビジネスの論理」とは異なるものだ。つまり、法的思考の特徴は規範的・個別的・回顧的・固着的な論理だが、一般行政またはビジネスの思考は或る一定の目標・目的を達成する条件下の論理である。


そして、当然ながらビジネス一般では最も効率的な手段とプロセスを探求するというシミュレーション的論理を駆使することになる。そのビジネス・シミュレーション思考の特徴は、場合によっては、結果への到達に役立たぬデータ(ドキュメント・証拠)を取捨選択して別モデルを再構築することもあり、ということだ。


このような、いわばマキャべリスティックなビジネス型のプロセス思考が唯一の真理(真実)の同定を目的とする法曹の思考(論理)と根本的に乖離するのは当然のことだ。ところが、「司法制度改革審議会」(第二次小泉内閣下の司法制度改革推進計画(平成14年3月19日・閣議決定)に基づく)が内閣に設置された頃から司法の空気が変わった。


法曹界でも目的(又は結果/例えば国民への適切な司法サービスなど)へ効率的に到達するためにはビジネス型の論理が必要だという考え方になったのだ。つまり、それは日本司法でもアメリカのロー・スクールをモデルとする規制緩和型司法改革論が優勢になったということだ。そして、そのことが日本法曹界へ様々な悪影響を与えてしまったのではないかと考えられるのだ。


しかも、この関連動向の中には、非常に巧妙な形での<行政権(政治権力)の司法への介入ルート構築の問題>が潜入する可能性もあったと思われる。


<注記>司法制度改革審議会の詳細は以下▲を参照乞う。

▲司法制度改革審議会(平成1、3年7月26日をもって2年の設置期限が満了)、http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/index.html


翻れば、以上のような、ここ10年来の前提条件(米国からの外圧)の下でこそ、新自由主義市場原理主義)的な観点からの「司法改革」への取り組みが加速したのだ。つまり、「米国年次対日改革要望書」に基づき「元々はA型に近い日本の刑事裁判」を新自由主義と小さな政府に相応しいC型の刑事裁判へ急ぎ改変することが求められたのだ(A〜C型は法体系の三つの潮流を意味する、詳しくは下の<注記>を参照乞う)。


<注記>世界における法体系の流れ=“ローマ法継授”の二つの流れ(A=大陸法、B=卑俗法)&プラス・ワン:C=英米コモンロー


A型=大陸法の流れ


・・・正義・信義・信用の重視(淵源はアリストテレスプラトンの国家論/狭義のローマ市民法の伝統) → 12世紀ルネサンス(6世紀・ユスティニアヌスのローマ法大全から再発見/ボローニア大学) → 市民自治都市法(ユス・コムーネ)との融合(北イタリア経由) → オランダ典雅学派 → ドイツ法・フランス法 →啓蒙思想(理念型民主主義の熟成) →近代市民社会の発達を支援(=理念型憲法の授権規範的意義を重視)


B型=卑俗法の流れ(ビザンツ=バルカン型)


・・・網羅的現実の中から、とにかく一つの結果を効率的に選択する技術としての法、言い換えれば決議論的性格(カイズイスティッシュ/Caisuistish)の重視 → 卑俗法(Vulgarrecht/詭弁の道具)化したローマ法(6世紀・ユスティニアヌスのローマ法大全) →ビザンツからバルカン諸国へ伝播


C型(異種)=英米法におけるコモンロー・衡平法の流れ≒現代の米国でB型の流れへ接近(コモンロー伝統のリバタリアニズム化、強欲で成果主義的な “契約の束化&超訴訟”社会の出現)


刑事裁判の効率化から直接的経済効果が生まれる訳ではないが、新自由主義に沿った司法全体の効率化は日本を米型訴訟社会へ改変する条件整備になると考えられた。確かに、筋書型論理に基づく調書作成技術を徹底的に仕込まれたヤメ検が弁護士になれば、彼のビジネス型司法技術が新たな職場で大いに生かされることになる。


ところで、今や「第五検察審査会の小沢強制起訴議決」が非常にお粗末極まりない内容であることが明らかになった(主要メディアはその事実を報じようとしていないが・・・)。しかも、同審査会法(改正法)の内容と審査会の秘密主義(ブラックボックス)的な運営方法等について多くの欠陥が指摘され始めている特に危惧されるのは、この欠陥を抱えた検察審査会は、例えば政敵を社会的に葬るリンチ・システム(私刑システム)として機能する恐れすらあることが明らかとなっていることだ。


検察審査会を下級審と見なすか上級審とみなすか難しいところだが共和国憲法による「国民主権保護への配慮」から非常にきめ細かく複雑なフランスの制度が手本となるだろう。フランスの裁判制度、例えば重罪院の如く予審制度を導入したうえで検審会を完全公開するというような工夫も考えられる。無論、作為に傾斜した審査員選出方法も要改善だ。


いずれにせよ重大な種々の欠陥が明らかとなった以上は、この検察審査会制度の早急の見直しが必要だ。今や単なる小沢問題ではなく我われ自身の主権と命の問題なのだから。その意味で前例がなく法制不備もあるので、強制起訴を議決された小沢氏側が検審議決は違法として訴訟手続きを検討し始めたことは当然と考えるべきであろう。もし、これが許されぬなら今の検察審査会たるリンチシステムの牙は全ての日本国民へ向けられることとなり、それは明らかに違憲と見なすべきことだからだ。


更に敷衍すれば、第一次小泉政権以降この10年来の新自由主義的な観点で取組みが行われてきた「司法改革」の成果は完璧な失敗であったということだ。その悲惨な結果の筆頭が過剰となった法科大学院ロースクール)であるのは多言を要しない筈だが、あと数年経たなければ評価不能との論もあるが、それはどうだろうか?


一見では順調そうな裁判員制度にしても公判前整理、量刑判断などに関わる難題と矛盾等を抱えたままだ。その他の問題点を列挙すると・・・司法修習生の質的低下、過剰法曹人口(過剰弁護士問題)、規制緩和と司法による事後統制主義のバランス崩壊傾向、燻ぶり続ける共謀罪問題、そして実は違憲の疑義があり欠陥だらけだった検察審査会、お飾り的な適格検察審査会、不祥事のデパート化した検察庁改革、検察裏金問題、裁判所裏金問題、検察・ヤメ検癒着問題、検察高級OBの天下りetc・・・これらに加え司法関係者の低劣な不祥事などを暴き始めるときりがなくなることに改めて驚かされる。


ともかくも、10年来の日本司法への外圧として大きな影響を与えてきたのが、やはり、アメリカ政府発の持続的要望である「対日規制改革要望書」であった。その黒幕は米国型グローバル市場経済・金融環境であり、その新自由主義的な改革要望を学問的にフォローするアメリカンスクールの学者と財界人たちだ。加えて、日本隷米アカデミズムの数多のメンバー、同じく高級官僚たち、朝日新聞船橋洋一主筆(CIAエージェント)に代表される米国御用達のマスメディア(新聞・TV等)らである。


いうまでもなく司法は三権分立の要であるが、先に挙げた「世界における二つのローマ法継授(プラス・ワン)の流れ」を概観すれば理解できることがある。そもそも司法は地域的、地政学的な領域とほぼ重なるという意味で、例えば生活・文化慣習などの人間的諸現象とも深く浸透し合っているのだ。従って、如何にグローバル市場原理が蔓延るとしても、世界の司法が全く同じ米国型デファクトスタンダードの基板上で統一されることはあり得ないと思われる。


例えば、欧州での地域統合を目指すEU欧州連合)ではEU地域内でのEU全体と各地域の法的整合性を図るためにEU指令が存在する。それは方向性と目的を先ず求めつつも、その個別の方法までは定めないという法の形態である。つまり、EU加盟国内で適切な法令が採択されることに関しては加盟国に一定の方法的な裁量権を与えているという訳だ。


その指令の発想は、先ずEU全体での立場をオープンにして各国の個性的ルールを作るという意味でユニークであり、単なる下位のルールづくりとは別物だ。いわばEU全体の法の可視化(オープン化)を前提にして各国の個性を活かしつつ全体目的を達成させるという意味でもある。それは一方的にブラックボックスの中央に回収するフィード・バックと全く逆のフィード・フォワード的発想ともいえよう。そして、注目すべきはEUがこの指令でEU全体とEU各国の個性化を実現しつつ米国型グローバルスタンダードに加盟諸国が飲み込まれるのを防いでいることだ。


課題山積の日本の次なる再「司法改革」で最も重要なのは、全体の混乱を収拾するためのコア(核心となる人間的な基本型)を先ず押さえるという発想だ。それから、その基本となる<掛け替えのない個の人間を気遣う良き文化風土のコア>を司法全体へ及ぼすという方向への発想転換が必要だと思われる。無論、それにはEU指令のような発想で非常に困難な「権限=権限問題」(メタ次元ルールの矛盾解消方法の創出)をクリアする必要があるだろう。


ともかくも、米国型グローバルスタンダードに酷く侵され虚構モンスター化した日本司法の軌道修正を急ぐには、このように革新的(革命的)な視点が必須だ。もはや、この段に至り規制緩和と司法による事後統制主義のバランス崩壊傾向にブレーキを掛けるためと称し、これ以上の弥縫策の量産は無意味だ。それは、屋上屋を重ねるだけで効果は期待できぬだろう。逆に、それは更なる<司法のモンスター化>を招くことになるだろう。


基本は先ず人間を気遣う「取調べの可視化」を実現することだ。検事ら司法関係者に必須の素養は拷問・刑罰史や刑訴法の起訴便宜主義に関わる知識・技術よりも古典ギリシャ哲学等の広範な一般教養だ。そのうえで「調書主義の原則」への国民からの信用を回復すべきである。否、そうでなければ日本の一般国民と世界中の市民から本物の信用を獲得するのは不可能だ。当然ながら、その「オープン化(可視化)の原則」は検察審査会(法)にも取り入れるべきだ。


これらが実現できれば、検察、公判、裁判への信頼回復も、延いては「虚構のモンスター化」した日本司法全体への信頼回復も自ずと視野に入ることになるだろう。そのうえで中長期的には「最高裁判所違憲審査」のあり方をも根底(改憲論議に関わる部分)から再検討すべきであろう。


このような意味で、最も基本となる部分に関わる再「司法改革」が実行されなければ、そしてメディアと一般国民がその意義を軽視し続けるならば、日本の明るい未来は決してあり得ないだろう。少なくとも、日本司法の悲惨は、おぞましい<小泉純一郎による市場原理型改革劇場>が偽装的に仕込んだ“情報の非対称性の妖しい罠”に嵌った結果であることを想起すべきだ。


正しい歴史認識は<想起>に始まるのだ、さもなければ国民と日本の民主主義はいずれ小泉病で腐敗した司法と共倒れの運命を辿り、国民の基本的人権は永遠に蹂躙されるであろう。そして、一般の日本国民と日本のメディアが「推定無罪(Presumed Innocent)」の意味を欧米先進諸国並みに正しく理解できる日も永遠にやって来ることはない。それどころか、いまや菅政権下では「武器輸出三原則の見直し」が着実に潜行しており、日本の<平和民主主義>は、いつのまにか<軍事民主主義>(そして軍事司法国家)へ変質しつつあるのだ。


【エピローグ動画】 M. Koyama plays Chopin Revolutionary Etude (HQ Audio)