toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

点描ポーランドの風景/グダンスク編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)(第二部)(1/2)

toxandoria2010-10-21



[プロローグ画像]聖マリア教会の尖塔から望むグダンスク市街の眺望
・・・この画像はウイキメディアより。


(プロローグ)15〜18世紀のグダンスク、16〜17世紀は「黄金時代」と呼ばれる
・・・(第一部、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101018)より部分転載


1440年、グダンスクはドイツ騎士団に対抗しポーランドリトアニア連合王国の庇護を求めるバルト諸都市連合である「プロイセン連合」の設立に参加してドイツ騎士団の利権排除を目指した。そして、遂にはポーランドリトアニア連合王国と同盟して「十三年戦争」(1454 - 1466)を起こした。その「十三年戦争」は1457年にポーランド側の勝利で終わり、ポーランド王カジミェシュ4世によってグダンスクはポーランドリトアニア連合王国自治都市の特権を与えられた。


その後のグダンスクは、ハンザ同盟諸都市との貿易に加えポーランド国内市場への参加も認められて以後、大いに繁栄し「グダンスクの黄金時代」を迎える。1466年にポーランドリトアニア連合王国ドイツ騎士団の間で成約した「第二次トルンの和約」と「ポーランド王領プロイセン(ドイツ語プロイセンポーランド語プルーシ、英語プロシア)」(既出の『プロイセン公領&プロイセン公国、領域図』を参照/グダンスクを含む薄ピンクの領域で、ほぼ西プロイセンに重なる)の確立でポーランドリトアニア連合王国ドイツ騎士団との戦争は完全に終結した。


これでグダンスクはドイツ騎士団の利権を完全に排除し、大幅な自治権を実質的に確立した。やがて、ポーランドリトアニア連合王国(1569年以降は同連合共和国)の直接庇護を受けたグダンスクは16世紀〜17世紀には、その貿易・文化の「黄金時代」を謳歌した。市民はドイツ人(バルト・ドイツ人)が比較的多かったが、ポーランド人、ユダヤ人、オランダ人、スコットランド人も多数居住していた(画像『17世紀、黄金時代のグダンスク』はウイキメディアより)


これら多民族の混住でグダンスクの街は繁栄を極めた。16世紀の宗教改革時代には多くの市民がルーテル派(主にドイツ系やポーランド系の中産階級)、カルヴァン派(主にオランダ系やスコットランド系の中産階級ポーランド人貴族)を受け入れたが、ここでカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。この傾向はポーランド全体と同じであり、これはポーランドが一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土であったからだと言えよう。


ところで、「ロシア・ポーランド戦争」(1654-1667)以降は、徐々にロシアによるポーランドへの圧力が高まっていた。例えば、1697年にウェッティン家(Wettin /ドイツ・ザクセン・テューリンゲン地方を支配した有力家系)のアウグスト2世(強力王)がポーランド国王に選ばれたのは、ロシアの支持があればこそであった。議場を取り囲むロシア軍の銃口ポーランド政治を左右することもあった。


こうして17世紀の後半以降になると、ロシアはポーランドを自らの一方的な影響力下に置くことになる。このため、グダンスクも1734年にはロシアに占領され、1793年には第2次ポーランド分割が行われ、グダンスクはポーランド王国から奪われて今度はプロイセン王国に併合され公式な名称を「ダンツィヒ」に変更された。


1807〜1815年にかけての「ナポレオン戦争」期間のグダンスクは、ナポレオンの政策で自治都市としての地位を取り戻した。しかし、「ナポレオン戦争」が終結すると、ダンツィヒ(グダンスク)は、再びプロイセン王国支配下におかれ西プロイセン(ポメレリア地方)の行政中心地とされた。そして、この時代のダンツィヒ(グダンスク)では住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人が中心)となっていた。


【画像】グダンスク、ヴェステルプラッテのロケーション


・・・http://oasis.halfmoon.jp/traveldia/eur06a/temp_photo.htmlより


・・・http://poland-blog.info/westerplatte/より


【参考動画】


Danzig 1936-Straßen Überblick- street scenes 第二次世界大戦へ突入する数年前のダンツィヒ(グダンスク)の市街風景


Danzig August 1939 ナチスの実効支配に席巻された開戦(9月1日)直前のダンツィヒ(グダンスク))


…この貴重な動画を見ると、第二次世界大戦へ突入する直前のダンツィヒ(グダンスク)では、バルト・ドイツ人、ポーランド人らが共存しつつ、かなり文化的な市民生活を送っていたことが窺われる。しかし、その文化的な市民生活はナチスのファスケス(牙を剥いた政治権力)に急速に侵されつつあった。


(第一世界大戦後に自由都市ダンツィヒ市民が置かれた悲惨の実像)


(1)自由都市国家ダンツィヒの成立


1920年11月15日に、国際連盟監視下の「自由都市(国家)ダンツィヒ」が正式に発足した。その法制的支柱は、a「ヴェルサイユ条約」、b「ダンツィヒポーランド条約(パリ条約)」、c「ダンツィヒ憲法」の三つである。これらの条項の中からaとbについて要点を抽出すると以下のようになる。


ダンツィヒポーランド関税地域に組み入れ、港の中に自由貿易ゾーンを設定する。(a)
ダンツィヒドイツ国籍者は。法律上これを失い、自由都市ダンツィヒ国籍者となる。(a)
●条約の発効後2年間、当該地域の18歳以上のドイツ国籍者はドイツ国籍を選択する資格がある。ただ、この選択権の行使者は12カ月以内にドイツへ移住する。(a)
●公式言語はドイツ語であるが、併せてポーランド語を話す民族は立法・行政において、自由な民族的発展、とりわけ学校の授業、行政、司法においてポーランド語の使用が保証される。(b)


これらにより、表面的には当時の「ワイマール憲法」的な意味での「ダンツィヒ憲法の民主的精神」が実現されているかのようであったが、ダンツィヒ国籍を持たぬポーランド人にとっては、上の四つ目の条項以外は余り意味がないというのが現実であった。


(2)ダンツィヒの民族と宗派の構成


1923年の住民調査によると、366,730人の住民のうち95%がドイツ人(バルト・ドイツ人が多い)とされるが、実際は約10%がポーランド人であったと見なされている。もともと既に何代にもわたりダンツィヒに生きてきたポーランド人やカシューブ人(バルト系西スラヴ人の一派)、あるいは、事実上、彼らがドイツ人らと混血しているという現実もあるため、明快にドイツ人、あるいはポーランド人と規定することは困難であった。


このような実情にもかかわらず、自由都市国家ダンツィヒ市・ドイツ人側とポーランド人側の双方が夫々にダンツィヒの<ドイツ的性格>と<ポーランド的性格>を強く主張していた。そして、特に当時のダンツィヒ市長らがダンツィヒの「ドイツ的性格重視」とダンツィヒの「ポーランド化の危機」を主張する政治的立場であったことが、ポーランド人を始めとするマイノリティへの圧力となっていた。


(3)「ポーランド回廊」、「自由都市国家ダンツィヒ」からヒトラーへ至る歴史的背景
ポーランド回廊


・・・http://www2.bc.edu/~heineman/maps/1930smaps.htmlより


<注記>ポメラニア、ポメレリア



・・・一枚目の画像(地図)はウイキメディアより、二枚目はhttp://hiki.trpg.net/BlueRose/?KaliningradOblast+UFmaps#l0より


ダンツィヒ(グダンスク)には、それに歴史・文化的な重圧も加わっていた。つまり、中世以降の歴史を振り返れば、1466年の「第二次トルンの和約」のときにダンツィヒを含むポメレリア(西プロイセン)は「ポーランド王領プロイセン(同プロシア)」ヘと再編されポーランド王国の一部となリ、この状態は1772年の「第一次ポーランド分割」まで続いたのであった。


ところが、「第一次ポーランド分割(1772)」でポメレリアはプロイセン王国(北ドイツ)の一部となり、新たに形成されたポーランド王国西プロイセン州に属することになる。そして、「第一次世界大戦」後の「ヴェルサイユ条約(1919)」で、ダンツィヒを含むポメレリアの大部分(西プロイセン)は、当時の「ワイマール共和国(1919-33)」体制下のドイツから「ポーランド第二共和国」へ割譲された。


そして、このときに、後に所謂「ポーランド回廊」と呼ばれる、ポーランドからバルト海への出口用の通路、つまり広大な内陸国ポーランドで唯一の海への出口としてのポーランド領ポメレリアが出現したのである。しかし、これこそが民族主義的ドイツ人にとって大きな屈辱的トラウマとなり、そのためポーランドヒトラーに「戦争の引き金」として利用される運命を背負った(ヒトラーポーランドダンツィヒポーランド回廊の返還要求を突き付けた)ということになる。ともかくも、そのポーランド領ポメレリアの北端に位置するダンツィヒ(グダンスク)は国際連盟監視下で「自由都市(国家)ダンツィヒ」となった。


(4)1930年代における「ダンツィヒポーランドの政治的・社会的争点」とルサンチマンの高まり


これまで見たとおりのことだが、歴史的な意味で既に何代にもわたり長くダンツィヒで生きてきたポーランド人やバルト・ドイツ人あるいはカシューブ人は「歴史的ダンツィヒ社会」に統合されており、ただポーランド人やドイツ人と定義するのは困難だという現実があった。そのうえ、新たにダンツィヒにやって来たポーランド系住民は、このように混迷するダンツィヒ社会の中でも更に孤立していた。そして、当然ながら同じことは“ドイツ系”と呼ばれる人々にも当て嵌まったのである(ドイツ人とバルト・ドイツ人の相違、あるいは両者の混血などの混沌の中で…)。


このような意味で、ダンツィヒにおける“民族アイデンティティの股裂き、三つ股裂き状態あるいは歴史の流れの中での民族アイデンティティの消滅”という混迷の中から生まれたノーベル文学賞受賞作品が第二次世界大戦後のドイツ文学における最も重要な作品の一つに数えられる、ギュンター・グラス(Guenter Grass/ 1927-  /父=バルト・ドイツ人、母=西スラブ系カシューブ人)の『ブリキの太鼓』(1959)であり、この作品は1979年にドイツのフォルカー・シュレンドルフ監督が映画化している。


【画像】映画『ブリキの太鼓
・・・この画像はhttp://soko-tama.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-38f7.htmlより


【参考動画】Die Blechtrommel The Tin Drum Trailer - Volker Schlöndorff



ダンツィヒにおける“民族意識の股裂き、三つ股裂き状態あるいは歴史の流れの中での民族アイデンティティの消滅”の中で育った経験による自らのアイデンティティ分裂の主観体験が色濃く影を落とす作品とされるが、その主人公オスカルの、超然たる部外者でありながらも不可解なほど知的な視点からは異端ともいえる豊かなマイナー・イメージが溢れ出ており、その存在感と、その重量感が我々を圧倒する(『ブリキの太鼓』の梗概と、優れた書評の事例を下に記しておくので参照乞う)。が、この豊かなマイナー・イメージが意味することについては、この後の章で、また別の角度から考えてみたい。


(梗概)世界文学案内Vol.14『ブリキの太鼓』グラス、http://blog.asahipress.com/sekaibungaku/2009/02/vo1-7119.html
(書評)松岡正剛の千夜千冊『ギュンター・グラス/ブリキノ太鼓』、http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0153.html


なお、これは些か戯画的な比較となるが、かつて「小泉劇場」下で羽振りを利かせた経済学者・竹中平蔵が『バカは何人寄ってもバカ(B層)だが新自由主義市場原理主義)下では大きなゼニ儲けに役立つ“従順で非常に良質なバカ”の大量生産ができるが故に、かくの如きバカ(B層)は日本の今後の発展に必須の人的資源であり非常に有用な人材だ』という類の御託宣をバラまきつつ米国型新自由主義市場原理主義)の“B層向け啓発プロパガンダ”に勤しんだことがある。


しかし、同じダブルバインド(orトリプルバインド)効果を狙った高度な知的暗喩であっても、その心根の悪辣さと言う点では、“ギュンター・グラスが創造した多様な毒の影(独特の豊かなマイナー・イメージ)に潜む深い人間愛”の対極にある<非常に筋の悪い守銭奴そのまんまの精神>という意味で、竹中平蔵の方が遥かに悪魔的で悪辣だと思われる。ただ、問題なのは大方の善良過ぎる日本国民が、その竹中平蔵一派(対米隷属派)や、あるいはその仲間の領袖格である小泉純一郎の悪辣さ、あこぎさに未だに気づいていないことで、その悪辣さを再び利用しようとする実効権力らの新たな動きが芽生えつつあることに我々は注目すべきだ。


<参考関連ツイッター情報>


hanachancause 2010.10.19 06:01
masaru_kaneko中国を敵国とし米国についていけば何とかなる、という発想に政権が逆戻り。TPPなどに簡単に乗れば、郵貯の資金運用をさせろとかBSEがらみで月例30ヶ月という安全基準を止めろとか、言ってくるんでしょう。米国が助けてくれるという小泉時代に逆戻り。米国は衰退しているので全く逆なんですが。


hanachancause 2010.10.19 06:01
実効権力正体の一端が顕現、懲りぬ日本は再び大政翼賛の時代へ? RT @leonardo1498: 【売国奴、隷属派大集合】小池百合子茂木敏充元、奥田碩民主党から仙谷由人玄葉光一郎:小泉勉強会5月にも旗揚げ 前原氏も参加、再編布石2008/04/14 47news @hanachancause


ところで、メジャーなドイツ系住民にせよマイナーなポーランド系住民にせよ、彼ら自由都市ダンツィヒ市民は、ドイツとポーランドという二つの主権国家の狭間で、政治・経済的な意味でも深刻なダブルバインドの苦境に嵌っていた。そのダンツィヒ市民の苦境の骨格を敢えて集約すれば、その一つは<民族アイディンティティ・ジレンマを抱えた市民共存の困難さ>、二つ目は<二つの主権国家であるドイツとポーランドの経済・貿易・関税政策の決定的な対立>ということであった。


この直前までのダンツィヒは、ドイツ(1772年・第1次ポーランド分割以降のプロイセン王国〜ワイマール共和国〜第三ドイツ帝国)に属する西プロイセンの中心都市として、歴史的にドイツから様々な経済的・文化的恩恵を受けてきていたため、急にドイツとの関係を絶たれることは市民生活にとって直接的な大打撃となったのである。


一方、当時で約3千万人の人口を抱えるポーランド潜在的な貿易港としての発展可能性に対するダンツィヒ市民の期待も大きかった。そして、現実的に“ドイツ・ポーランド両系統の血”を引くハイブリッド国民たるダンツィヒ市民が確実に共有し得たもの、結局、それは真に不幸なことであるが、遣り場のない怨念(ルサンチマン)の高まりだけであった。つまり、『ブリキの太鼓』の作者ギュンター・グラスが少年期を生きたのは、このように異常な社会の空気に満ちた自由都市(国家)ダンツィヒであったのだ。


やがて、このように遣り場のない異常な空気(ルサンチマン)の拡がりに乗じて、ドイツ側からダンツィヒへ着実に浸透してきたのが<ダンツィヒナチス化作戦>というヒトラーの魔の触手であった。1930年頃には既に「ダンツィヒ市参事会」(ダンツィヒ政府)にナチスが深く浸透しており(メディア・プロパガンダ選挙でナチス派の参事会員が既に多数派を占めており)、ポーランドダンツィヒで持っていた筈の多くの特権を有名無実化していた。更に、1939年6月にはドイツ系住民の保護を名目とするナチス傀儡の「ダンツィヒ防衛軍」が創設され、ドイツから「警察部隊」の派遣も決定された。それは1939年9月1日の「ヴェステルプラッテの戦い」(第二次世界大戦の端緒)の約3カ月前のことであった。


【参考動画】


SMS Schleswig-Holstein 1. Sep. 1939(ドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルスタインの攻撃)



Adolf Hitler visiting Gdynia (Gotenhafen) 1939…グディニャ(Gdynia)はグダニスク湾に面した港湾都市グダニスクから約12km。



German attack on Gdynia (Gotenhafen)



【参考画像】ダンツィヒ(グダンスク)港入口、ヴェステルプラッテ(Westerplatte)辺りの風景


ヴェステルプラッテ辺り(撮影、2010.7.18)


ヴェステルプラッテ・ポーランド守備隊の要塞跡に立つ記念碑(撮影、2010.7.18)


ポーランド回廊とダンツィヒ港の位置図(ウイキメディアより)


ヴェステルプラッテ半島(ポーランドへ譲渡された孤立地域)の模型図(ウイキメディアより)


・・・ナチス・ドイツ軍の戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインは1939年9月1日(現地時間4時45分)に宣戦布告なしにポーランドのヴェステルプラッテ守備隊に砲撃を加え、これが第二次世界大戦の端緒となった「ナチス・ドイツポーランド侵入」の嚆矢である。


・・・建前上の国際連盟監視下の自由都市ダンツィヒ(メジャーなプロイセン系ドイツ人、つまりチュートン人がポーランド人・ユダヤ人らと共存する、建前上の自由都市国家)には既にナチスの細胞が深く浸透しており「ポーランド回廊」経由の兵站作業もままならぬ状態であった。


・・・しかし、ポーランド守備隊(一個中隊約200名)は軽火器と機関銃で善戦し、2600名を投入したドイツ軍(200〜300名が戦死)は大きな反撃で予想外の人的損害を受けた。


・・・が、最終的にヴェステルプラッテ守備隊は、多くの死傷者をだし、食料・水・武器・医薬品などの補給が枯渇し、9月7日に降伏した。


(5)1930年代における「ダンツィヒポーランドの政治的・社会的争点」が投げかける現代日本への警告


(副 題)


■もはや泥船化した菅民主党政権へ、「逆上民主主義」から冷静な歴史観に目覚めた「沈着民主主義」への発想転換の勧め(1/2)
・・・当(副題)の(2/2)は[(第二部)(2/2)のエピローグ]へ続く。


今の日本では、世界を被い尽すかに見える強欲な新自由主義とは全く異なる意味での暴力的な水源、つまり米国の代理人たる実効権力(既得権益グループ、現代日本のアンシャンレジーム)から湧出する「特異な暗黒の潮流」が連綿と脈打っている。しかも、よく観察すると、その実効権力側から湧出する「特異な暗黒の潮流」は近・現代の日本の歴史を貫きとおす形で日本の社会システムと日本人の精神構造の中へ、恰もナチスの触手の如く、広範に根深くドップリと浸透したものであることが分かる。


ところで、現代民主主義国家の本質を考えると、以下の二つの「AとBの矛盾した性質」が併存していることが理解できる。


[A]=民主主義国家における多数決原理には、それが或るグループの他のグループに対する支配の手段となり易いという現実が絶えずつき纏う(これは、例えば1930年代の自由都市(国家)ダンツィヒにおけるドイツ系あるいはポーランド系市民の場合のように、立場が変われば絶えず逆に作用する)。そして、この一方からの現実が過剰になると特定グループの利益だけが追求されることになり、国家・社会の構成バランスが崩壊する。


[B]=多数決原理に従う民主主義国家では、一定の理念に基づく社会秩序を確立して、その歴史的・民族的な意味での出自を問わず、全ての国民にとって公平な公共の福祉と安全を目指すという役割が常に求められている。


つまり、国民の一般意志(意識)が、これら二つの矛盾した性質(ベクトル)の並存がもたらす現実社会のマグマ(矛盾・葛藤・抗争の坩堝)の真の意味を自覚できなくなることが民主主義国家の重大な危機なのだ。 言い換えれば、それは国民一般における批判精神の不在という現象であり、本来であればそれを率先垂範すべきジャーナリズムの不在ということでもある。そして、そのような時にこそ国民一般は真の自由を失い、姿を現さぬ<実効権力>が陰で嘲り嗤うことになるのだ。そして、今の日本は正にこのような意味で非常に深刻な危機に嵌った懸念がある。


ところで、我々がフランス革命から学ぶべきは(これは一般の常識あるいは教科書的な理解に反することかもしれぬが・・・)、「フランス革命が民主主義を完成した」のではなく「フランス革命は民主主義を完成させるための未完のプロセス」であったということだ。つまり、今も一人ひとりの我々自身が、民主主義を完成させる道程に責任を負っているということになるのだ。


そして、国民一般の多くが、このような意味での冷静さを見失いルサンチマン(遣り場のない怨念)の激情に走ったとき必ず現れるのが、1930年代のダンツィヒで見られたような<一般国民(市民)層の精神環境の隙間>にサッと浸透する『メディア・プロパガンダで民主主義を偽装するナチス的なもの』ということになるのだ。別にいえば、ナチス的なものは我々一人ひとりの心の中に初めから存在しているということだ。それは、恰も永く眠りこけたポリオウイルスが何らかの刺激で目覚め、突如、帯状疱疹を引き起こす病理に相似している。


ポーランドの歴史を概観して印象付けられるのは、他国の歴史に例を見ることがないシュラフタという特定身分層に属する人々(その他の欧州諸国の貴族層と似ているが全くそれとは異なる)の役割が非常に大きいことだ。その詳細は、【第二部(2/2)のエピローグ】で書くことにするが、端的に言ってしまえば、現代のポーランドシュラフタとは、イギリス市民革命とフランス革命にすら数百年も先駆けて「民主主義の理想」を具体的に実現した歴史を誇りとするポーランドの特定層の人々のことだ。


彼らシュラフタの存在によって、より厳密に言えば「シュラフタ民主主義」の伝統のお陰でポーランドは「欧州列強(プロイセン・ドイツ、ロシア、オーストリア)のポーランド分割による国家消滅」と「共産党一党独裁社会主義体制から自由主義への体制転換」という歴史的にも稀な危機的エポックを乗り越えることができたのだ。


それは、彼らシュラフタが既述の民主主義の本質を支える「AとBの矛盾した性質」を同時観念的に理解・共有しており、社会指導層に属する者としての誇りを持ち続けているということだ。そのようなシュラフタ精神には、民族主義ナショナリズムがもたらす、狂おしくも激しい遣り場のないルサンチマンの炎をすら鎮静化させ得る冷静さが備わっている。だからこそ、条件次第ではポーランドシュラフタに匹敵する誇りと名誉を回復することも可能な筈の日本の指導層に連なる人々は、その深層に潜む冷静さの意味をジックリと再認識すべきである。


従って、“それが建前上であれ、いやしくも民主主義国である日本”において高偏差値エリート層を自負する<マスメディア>と<検察・裁判所の認証官天皇の直臣)を頂点とする主要官僚機構>が結託して「冷静な理性」と「スピノザ流の情念(熱)としての意志」を自ら放擲してきたため、今や、その司法・行政の悉くが荒みきってしまったこの日本の現実に対して、今こそ、我々が、大きな危機感を持ちつつも、より厳しい批判の声を浴びせるべき時なのだ。


そして、我々は、「検察特捜部の証拠改竄」と「自らの裏ガネ汚染を放置しつつ組織的冤罪システム化してしまった司法・検察」を更に厳しく監視・批判すべきであり、一連の不祥事と不可解な出来事を単なる<蜥蜴の尻尾切り>で終わらせようとする<実効権力絡みのメディア・プロパガンダの嘘>を決して見逃すべきではないのだ。


これは些か余談となるが、民主党への政権交代により漸く米国型の新自由主義や徹底した個人主義(ランディアン・カルト)を前提とする小泉・竹中流の「小さな政府論」が批判されるようになった昨今、これらの論争へ超然としていた立場のアカデミズムの中から、一時期(ナチス政権が成立した1933〜1945)ナチスの法理論を支えたことがあるカール・シュミット(Carl Schmitt/1888-1985/ドイツの公法学者)再考の動きが急に出始めたことに注視すべきである。


無論、「カール・シュミットナチスヒトラー」ではなく、たしかに彼の公法学者としての広範な学識のスケールとエソテリシズム(Esotericism)までもが視野に入る、その発想の豊饒さには余人に換え難い稀有のものが感じられる。しかし、彼の思考の根底にあるのが、昨今の先端的生命論とも調和し得るファスケス(政治権力論と生物多様性論の調和可能性にすら貢献し得る公理としての暴力と戦争の役割)の再評価であるという点について、慎重かつ十分に批判的な視点を持つべきだろう。


それは、“カール・シュミット”ファンを自称する人々の口から“現代の世界と日本に漂うやり切れない閉塞感を完璧に払拭できる非常に刺激的で爽快な思想だ!”という共通のコトバが聴こえて来るからだ。また、伝聞ではあるが、You-tubeでも視聴できる「ヒトラーの“意志の勝利”の演説」(下記、参考動画を参照乞う★)に大いに共鳴する人々がインテリ層や社会の指導層を中心に増えつつあるようだ。


★【参考動画】Adolf Hitler - Closing Ceremony - Triumph of the Will



まさにカール・シュミットナチス・ドイツの御用学者としてヒトラー政権に協力していた、その最中に、国際連盟監視下の自由都市(国家)ダンツィヒ市民たちは悉く残虐な戦禍の下で途端の苦しみと恐怖の日々に耐え抜いており、かつ数多の貴い人命が失われた。やがて、第二次世界大戦で焦土と化したダンツィヒ市街の建造物は、ポーランドシュラフタの伝統意志を継ぐ意欲的な市民らの手によって往時の姿を取り戻し、中世ポーランドの雰囲気を醸す美しいダンツィヒの街並みが再現されたのである。


【画像】グダンスクの風景、ア・ラ・カルト(1/2)


終戦後1945年のグダンスク(撮影、2010.7.18)

・・・殆どの建物が壊滅状態に近かった。


黄金の門(撮影、2010.7.18)


・・・17世紀はじめにできた凱旋門で、上の廃墟状態のグダンスクの写真(1945)は、この「黄金の門」の内側に展示してある。


王の道、ロイヤル・ロード
…画像はhttp://www.metroguide.jp/poland_north/vol-1.htmlより。
・・・グダンスク中央駅から徒歩で約10分で中世貴族の館が立ち並ぶ旧市街に着く。かつては、ここで国王の凱旋パレードが行われたメインストリートの「ドゥーガ通り」(通称、ロイヤル・ロード)である。


ウプハーゲンの家(撮影、2010.7.18)

・・・ロココ様式のこの家は、かつてのグダンスク評議会議員ウプハーゲンの邸宅。今は18世紀当時の富裕層の邸宅の内部を見せる博物館となっている。


旧市庁舎(撮影、2010.7.18)

・・・14世紀に建てられた旧市庁舎はグダンスクの富と地位を顕示する建物であり、今ははグダンスク歴史博物館となっている。市庁舎の上の展望台からはグダンスクのパノラマが見渡せる。


ネプチューンの噴水(撮影、2010.7.18)

・・・17世紀に造られた海の守護神ネプチューンのブロンズ像は、旧市庁舎のすぐ側にあり、いつも観光客が集まる人気スポットとなっている。


アルトウール館(撮影、2010.7.18)

・・・白亜の美しいこの建物は同業者組合(ギルド)の本部として使われていた。インテリアとして飾られている絵画や模型、甲冑、そしてタイルには当時の権力者や家紋が描かれている。


緑の門(撮影、2010.7.18)

・・・この16世紀のオランダ・ルネサンス様式の建物は1階に4つのドーム状部分があるため「緑の門」と呼ばれる。グダンスクを訪れる各国の国王のための宿泊所となる予定であったが遣われたのは1回だけとされる。今は国立博物館の別館だが、かつては自主管理労組「連帯」の指導者で大統領にもなったワレサ氏の事務所が所在したことでも知られる。


聖マリア教会(撮影、2010.7.18)

[]…二枚目の画像はウイキメディアより。
・・・レンガ造りのゴシック様式建築としては欧州最大の教会といわれる聖マリア教会は13〜14世紀頃に約150年かけて建造されたとされている。その内部には、アウグスブルク出身のミハウ・シュヴァルツ作の祭壇、石造りのピエタ(嘆きの聖母像)、荘厳な音色のバロック様式のパイプオルガンなどが保管されている。 塔の400段の階段を上るとグダンスクの眺望を楽しむことができる。


中世のクレーン
・・・この画像はhttp://www.metroguide.jp/poland_north/vol-1.htmlより。
・・・ポーランド語で鶴を意味するジュラフと呼ばれる中世の木造クレーン。貿易船への荷物の積おろし、船のマストを立てる作業などで使われていた。


ドイツ人医師クルムスの家
この画像はhttp://4travel.jp/traveler/shinesuni/album/10101136/より。
・・・ドイツ人医師、Johann Adam Kulmus(1689-1745)が杉田玄白の翻訳で名高い『解体新書』の原本をこの家で書いた。グダンスクがプロイセンドイツ・ダンツィヒ時代のことである。杉田玄白は、そのオランダ語訳された版を更に日本語へ翻訳して『解体新書』となった。


ある琥珀専門店(撮影、2010.7.18)


【エピローグ動画】Sarah Brightman - Time To Say Goodbye